都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

町と村の違い

トップ > hmtマガジン > 町と村の違い
記事数=22件/更新日:2020年4月16日

「市町村」と3つ並べますが、明治21年の法律で初めて登場した「市」は、やはり特別の存在でした。
従って、現在でこそ「市街地」要件を満たさない怪しげな「市」が乱立していますが、本来は 「市と町の違い」 は明確でした。
明治21年(1888)の「市制町村制理由」には次のようにあり、町村は市よりも下の階級で、参事会もありません。
府県 郡市 町村 を以て三階級の自治体と為さんとす

これに比べて、ずっと以前から存在した 「町と村の違い」 はずっと不明確です。
明治9年(1876)に内務省地理寮が地籍編製事業の一環として作成した「地所名称区別細目」では、
村ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ字ヲ轄シ農民ノ部落ヲナスモノナリ
町ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ商民ノ市街ヲナスモノナリ。字ヲ轄スルコト村ニ同ジ
と一応区別していましたが、明治21年(1888)の「市制町村制理由」になると、
宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。
と、町と村の多少の違いは無視して、町村制という同じ制度を適用しようという姿勢になっています。

だから、特別な思い入れのある方は別として、町村制施行時からの町なのか、村の過去を持つ町[63999]であるかの区別を気にすることは稀であると思われます。

本質的には同じ とはいうものの、現行制度でも 町と村との2種類は厳然として存在し、町になるためには県条例で定める町としての要件を具えなければなりません(地方自治法第8条第2項)。
ところが、宮城県の条例によると、3つの町が合併すると町になれず、村になってしまういう不思議が発覚して話題になりました[4861]
結局のところ、宮城県条例 に附則の特例が設けられて 加美町 として発足することができました。

一方、36年ぶりという「村」の新設で話題になったは南阿蘇村[40041]の場合は、合併後の自治体を町とするか村にするかにつき住民アンケートが行なわれ、57%もの希望を集めた「村」になりました。変遷情報

でも、地方自治法55年目にして、町の段階を経ずに市になった村[64165]が初めて登場したという事実は、実益がなくても「町」という名が欲しかった村が多かったことを示しています。
絶滅危惧種になって、やっと「村」のブランド力が見直されたのですね。

現行法の基礎的地方公共団体の種類は、市と特別区を別とすれば、「町」と「村」の2種類だけですが、郡区町村一覧の例言には、
宿 駅 里 郷 荘 組 通 小路 新田 出作 受所 島 浦 浜 等と称する類は其名に拘らず其実に従ふ
と示されており、旧高旧領取調帳[57484]には、上記と重複するもの以外に、奥・方・上・北・組・郷・郷総(惣)分・興野・越右・古新田・下・宿・庄・新・添作・外新田・中・西・東・開・分・分郷・本・本郷・南・元・除地・里・割があります。

【追加】2020/4/16
2016年11月、グリグリさんの「大町は村?」という記事[91951]を発端に、[91965]を経て[91971]種別名 に至る一連の記事がありました。
大町・谷村と同様に 語幹部が漢字1字である自治体名 に関して、「もとの地名」を論じた最初の記事は[34776]の「中村」でしたが、[91969]に引用してあるので 省略し、この特集の末尾には 2016年の9本の記事を 追加しました。

★推奨します★(元祖いいね) グリグリ

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[63737]2008年2月14日
播磨坂
[63912]2008年3月3日
oki
[63999]2008年3月13日
白桃
[584]2001年12月18日
Issie
[3513]2002年10月3日
まがみ
[3545]2002年10月4日
黒髪
[4861]2002年11月13日
蘭丸
[64164]2008年3月30日
hmt
[40041]2005年4月19日
グリグリ
[51315]2006年5月13日
矢作川太郎
[64165]2008年3月30日
hmt
[7786]2003年1月17日
Issie
[7922]2003年1月19日
Issie
[91951]2016年11月14日
グリグリ
[91956]2016年11月16日
hmt
[91958]2016年11月17日
白桃
[91959]2016年11月18日
hmt
[91962]2016年11月19日
白桃
[91965]2016年11月19日
グリグリ
[91969]2016年11月20日
hmt
[91970]2016年11月20日
にまん
[91971]2016年11月21日
グリグリ

[63737] 2008年 2月 14日(木)23:30:52播磨坂[伊那谷] さん
戦前の地方自治体についての質問
はじめまして。地理好きの端くれの学生です。
市町村の成り立ちを調べている内にいくつか疑問点が出てきたのですが、どうにも解決出来なかったので質問させてください。

おそらく郡区町村編成法で成立したと思われるのですが、「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?ちなみに、後の町村制施工時には合併によって消滅しています。

郡区町村編成法、町村制、それぞれの当時の町、村の違いは何なのでしょうか?大方は人口で説明出来そうなのですが一部そうも言えない所があると思うのですが・・・。やはり、市街地の規模や地域での中核性を有するか否かなどで判断していたのでしょうか?

よろしくお願いします。
[63912] 2008年 3月 3日(月)02:04:30oki さん
町と村 その他
[63737] 伊那谷 さん
[63862] 88 さん

いずれにせよ、結果としても(法律である)(旧)町村制では町と村の別は人口では区別していなかったようです。法律M44施行の(新)町村制でも同様に規定は見つかりません。内務省令や内務省告示などに何らかの規定があるのだとは推測しますが詳細は不明です。

ご存じだと思いますが、M21(1888)法律第1号市制町村制には、「市制町村制理由」という付属文書があり、その中に町村(および市)に対する明治政府の認識を示した部分があります。町と村の関係について、もっとも肝要な部分を示すと次のようになります(新漢字に直し、濁点、句読点を補ってあります)。

「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ、本邦現今ノ状況ヲ察シ旧来ノ慣習ニ依リテ之ヲ考フルニ、都会輻輳ノ地ヲ除クノ外、宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。」

持って回ったくだくだしい表現ですが、要するに、町と村は「人民生計ノ情態」を異にするものの、「都会輻輳ノ地」と対比した場合町村間の相違は小さく、「施政ノ大体」では異同が認められないので、町村制という同一の制度を適用する(一方、都会輻輳ノ地である市には市制という別の制度を適用する)、ということです。
当時の政府は、市と町村とは別の存在と認識していたが、取り立てて町と村を区別する必要性を認めていなかったようです。
ただ町と村は「人民生計ノ情態」が異なるわけで、具体的にはどう違うのでしょう。「現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書によると、町と村は次のように定義されています。

一 郡ト称スルモノハ国中ノ区分ニシテ村町ヲ轄スルモノナリ
一 村ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ字ヲ轄シ農民ノ部落ヲナスモノナリ
一 町ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ商民ノ市街ヲナスモノナリ。字ヲ轄スルコト村ニ同ジ
一 字ト称スルモノハ村町中ノ区分ニシテ数十百筆ノ地ヲ轄スルモノナリ

町は人家の密集した市街地で商業活動の盛んなところ、対して村は農村地域、というのが「人民生計ノ情態」の具体的な有様ということで、ごく常識的な考え方でしょう。
一方、町村制はその第3条で、「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」と規定しています。従来の区域を存する以上、名称もそのままにするのが当然でしょうから、結局のところ、町村制施行時までに「商民ノ市街ヲナ」して町であったところはそのまま町であり、村であった自治体は村の名称を継続した、ということになります。
実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
この場合、町と村の別を人口で区別するという発想は基本的になかった、と考えられます。

以上ではあまりに当たり前すぎて詰まらないので、町村制施行直後の町と村の人口を示すデータをご呈示しておきます。府県毎の町と村の平均人口と、人口が最小の町と人口最大の村との一覧です。資料出所は以前ご紹介した明治24年の徴発物件一覧表で、明治22年の町村制施行から2年後ですが、大きくは変わってないはずです(資料の制約から九州北部の4県分が欠損しています。鹿児島県も少しおかしいようですが、そのままにしてあります。北海道と沖縄は含んでいません)。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村の差
青森縣922552856165三戸郡三戸町4045上北郡野邊地村7001-2956
岩手縣4364202597205氣仙郡盛町1728膽澤郡金ヶ崎村5177-3449
宮城縣6551302808325岩瀬郡鏡石町2758桃生郡深谷村9379-6621
秋田縣6511142665213雄勝郡岩崎町1536北秋田郡阿仁銅山村8641-7105
山形縣8056112906210飽海郡松嶺町2711西村山郡谷地村8843-6132
福島縣6070112560145磐城郡四倉町2776行方郡小高村4391-1615
茨城縣4355442574351那珂郡大宮町1614西葛飾郡五霞村7019-5405
栃木縣7572233623128安蘇郡堀米町2447足利郡北郷村8781-6334
群馬縣5312373165168西群馬郡伊香保町1051山田郡韮川村9374-8323
埼玉縣4823362696324北埼玉郡騎西町2325榛澤郡藤澤村5056-2731
千葉縣5502453054295香取郡滑川町2106海上郡高神村6781-4675
東京府76519283796南葛飾郡新宿町1324荏原郡大森村9767-8443
神奈川縣7320183079205鎌倉郡藤澤大富町1742久良岐郡戸太村10519-8777
新潟縣5285471896736刈羽郡椎谷町1069北蒲原郡新發田本村7327-6258
富山縣5482302128237砺波郡福岡町1772砺波郡平村5466-3694
石川縣5489142275259珠洲郡飯田町2139江沼郡大聖寺村9692-7553
福井縣832793034157今立郡鯖江町2958今立郡上池田村8035-5077
山梨縣2248142南巨摩郡増保村10206
長野縣8824152762369小縣郡長久保新町1060諏訪郡上諏訪村9034-7974
岐阜縣4687242383151可児郡兼山町1291大野郡大名田村8002-6711
静岡縣6128272998272引佐郡金指町1086有渡郡長田村10353-9267
愛知縣6222231943576知多郡高横須賀町1321碧海郡北大濱村5767-4446
三重縣7963182456309度會郡大湊町2118答志郡磯部村5407-3289
滋賀縣1291563210189神崎郡八日市町3823有渡郡豐田村6913-3090
京都府5496152008264船井郡園部町2219宇治郡山科村7052-4833
大阪府5311112542297茨田郡守口町1370西成郡難波村26405-25035
兵庫縣6818292818506有馬郡湯山町1824多可郡中村6796-4972
奈良縣6468123038137宇陀郡松山町1936吉野郡十津川村10419-8483
和歌山縣882022469227西牟婁郡田邊町7199有田郡湯淺村11455-4256
鳥取縣165929邑美郡富桑村3513
島根縣4304111926319周吉郡西郷東町664迩摩郡明治村4967-4303
岡山縣702932260446東南條郡津山東町3617小田郡笠岡村8591-4974
広島縣6371142984357豐田郡御手洗町1590安藝郡仁保島村15060-13470
山口縣1143643952192玖珂郡柳井津町4139都濃郡徳山村12113-7974
徳島縣1285424402137美馬郡脇町7177勝浦郡小松島村12617-5440
香川縣1093853325176多度郡多度津町6699豐田郡大野原村8958-2259
愛媛縣5159122947284温泉郡道後湯之町1267西宇和郡伊方村6735-5468
高知縣285322793194長岡郡後免町835香美郡槙山村6859-6024
熊本縣3855252842300阿蘇郡高森町1722葦北郡水俣村12725-11003
宮崎縣55605410895南那珂郡油津町2514西諸縣郡小林村10796-8282
鹿児島縣974027谿山郡谷山村25060
全国計6001668266910214周吉郡西郷東町664西成郡難波村26405-25741

ご覧のように、平均人口で比べれば村より町の方がよほど大きくなっていますが、個々の町村で見ると、すべての府県で、人口最小の町より人口最大の村の方が多数の人口を抱えています。人口最小町については、それなりの歴史と拠点性を有し、人口はさほど多くないにしても、この時点で町であっておかしくないところが多いと思います。この状況では、単純に人口基準で町村を区分することができなかったのも無理はないでしょう。

------------------------------------------------------------------
なお、ついでなので、「市制町村制理由」に則って、町村と明確に区別された市についての明治政府の考え方を、次にご紹介しておきます。
・「都会輻輳の地」は、町村と「人情風俗を異にし、経済上自ずから差別がある」ために別に市制を適用する。
・市は基本的に区を継承するものであるが、市制によって明確に郡から分離するとともに、従来区内の町(旧城下内の町)が独立した自治体であったのを改めて、市を最下級の自治体とする(これによって、旧城下内の町が市の内部的な区分=字に戻った、と言えます)。
・市制の施行対象は、3府のほか、人口25,000人以上の市街地とする(従来の区以外も市制の対象にするということです)。
・「区」を改めて「市」とするのは、3府では区が存続するため、これとの混同を避けるためである。

どのような基準で市制の適用対象が決定されたかが窺えてなかなか面白い記述だと思います。実際、明治24年時点の市のうち人口最小の姫路市で24,608人ですから、人口規定はかなり厳密に適用されたようです。

------------------------------------------------------------------
もう一つ、以下の件について。
「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?
これが一体何なのかは、[63862] 88さんの説明でお分かりかと思います。明治政府は、従来区々としていた自治体の区域名称を町、村に統一しようとし、新田、宿、浦、分、組、郷、島、浜、山、寺、谷、刈、等々を名乗っていたところの多くがそれに従いましたが、郡区町村編制法の時点では旧来の名称に留まったものも少なくなかったようです。
明治24年の段階でも、新潟縣岩船郡粟島浦、神奈川県北多摩郡府中駅、同南多摩郡日野宿が、町村に名称変更していません。明治30年までには変えたようですが。
[63999] 2008年 3月 13日(木)00:09:52【1】白桃 さん
♪貴方に抱かれて私は「町」になる(町制年次の疑問)
香川県の場合
(1890年人口は内務省告示、1898年は内閣統計局)
1890年人口---1898年人口
坂出町10,360---坂出町12,286
丸亀町18,488---丸亀町24,977
琴平町6,838---琴平町6,834
多度津町6,718---多度津町7,979
観音寺町12,799---観音寺町12,728
---
三本松村3,448---三本松町3,474
津田村6,115---津田町6,283
志度村6,951---志度町7,206
土庄村5,141---土庄町5,500
百相村4,510---仏生山町4,369
宇多津村5,334---宇多津町5,846
姫之江村5,221---豊浜町5,283

坂出、丸亀、琴平、多度津、観音寺は香川県に市町村制度が実施された1890年に町になった、「村を知らない町」で、三本松以下は、1898年2月11日に一斉に町となった「村の過去を持つ町」です。
ここで、1番目の疑問
三本松はじめ7つの町はなぜ、1898年に町に成れたのか?
8年経過して、少しは町っぽくなったのでしょうか? 人口の推移からは、人が集まり繁華になったとはとても思えません。8年たったので、香川県がなんとなく町を増やしたかったのか、三本松などが運動をおこし県に働きかけたのかな???そんな理由なら、いっそ市町村制実施と同時に「町」にしても良かったのでは???志度なんかは多度津と比べても人口的にはなんら遜色はないですよね。
でもやっぱし、「多度津、琴平と比べて志度、三本松はちょっと格下かなぁ」という感じはぬぐえません。だから、香川県の場合はなんとなく納得がいくのです。

納得がいかないのが岡山県

1889年の市町村制実施と同時に町となったのは、高梁、津山、津山東のわずか3つ。高梁より断然、人口が多かった倉敷、笠岡の町制施行は遅れること2年。さらに5年後の1896年に牛窓、西大寺、下津井、茶屋(江島村)、早島、妹尾、矢掛、井原、総社、足守、新見、勝山、久世、倉敷(林野)が町制を施行しています。いちいち人口は記しませんが、牛窓、久世、矢掛などは最初から町でも良かったのではないか、と感じております。

明治の市町村制実施時に、小さくても城下町は無条件で町以上になっているような、ま、そんなこともないでしょうけれど・・・
[584] 2001年 12月 18日(火)23:13:37Issie さん
Re:市町村
> ...町村はあまり決まりないみたいですね...。(笑)

決まりがないわけではありません。
「町」になる要件については各都道府県が条例で規定しています。
下のページを参照してみてください。
http://member.nifty.ne.jp/jiti/

全部の都道府県や市町村がWEB上で条例や規則(例規集)を公開しているわけではないのですが,ここで公開されているものを見ても都道府県ごとに人口に関する規定に違いがあることがわかります。
少ない県では「4千人」,多いところでは「1万人」というのが相場かな。

でもその人口に達したら(人口以外にも必須の条件があります)自動的に「町」や「市」になるわけではありません。
それを決めるのはまず第一に当該町村だから,あえて「町」や「市」にはならない,という選択をすることもあります。
反対に,いったん「町」や「市」になってしまえば,要件が満たされなくなったからといってもとの「村」や「町」に戻るということもありません。
“なっちゃったもの勝ち”です。
だから,北海道や筑豊の炭鉱町のように昔は5万人くらいもあった人口が激減して1万人を割ってしまっても「市」のままであることもあるのです。

だから,「市」「町」「村」の区別にこだわるなんて...
[3513] 2002年 10月 3日(木)11:14:13まがみ さん
変更情報について
> でるでるさん

2005年3月31日の合体を予定している熊本県阿蘇郡白水村・久木野村・長陽村について、
これは「変更種別」が空欄になっていますが、新市町村の名称等(予定)は
「○○町」となっています。

ちなみに、一応熊本県条例を挙げておきますと、
1.人口5000以上
2.中心地域にある戸数が5割以上
3.商工業などに従事する者とその世帯員が5割以上
4.商工業などに従事する者とその世帯員が最近5年間で増加傾向
5.病院、診療所、劇場、映画館等が設けられていること
が、町となるべき普通地方公共団体の要件となっています。


# それにしても、劇場、映画館等が「設けられて」いないとダメなんですかね…?
[3545] 2002年 10月 4日(金)11:59:39黒髪 さん
町となる要件
[3516]雑魚さん
>>病院、診療所、劇場、映画館等が設けられていること
>これだけメディアが多様化している時世にあって、映画館などを判断基準の一つとする
>必然性とは何でしょうね。郡部での常設映画館は全国的にも余り多くないと思いますが

市となる要件には、地方自治法で「都市的施設」の要件を都道府県条例で定めるようになっています。(町となる要件は「都道府県条例で定める」となっているだけで、「都市的施設」の事にはふれていません。しかし、市となる要件を緩和したものが町となる要件である場合が多いので、ついでに条例で定めているのでしょう)

さて、「都市的施設」とは何かというと
・官公署
・教育施設   高校など
・文化施設   図書館、博物館など
・娯楽施設   映画館、劇場など
・公衆衛生施設 上下水道、し尿処理場など
・交通施設   バス、電車など
・医療施設   病院、診療所など

「病院、診療所、劇場、映画館等が設けられていること」
となっている場合は、医療施設か娯楽施設のいずれかがあればいいということになります。
(両方必要な場合は、項番が分かれます。)

[3509]でるでるさん
>黒髪さんのご指摘の通り、「神石郡四町村合併協議会」では確かに合併後の形態が、町制か村制かは未定ですね。それどころか、現在の広島県条例のままでは、4町を廃して新たな自治体を設置する「新設合併」の場合は、町制施行の要件を満たせず村制になってしまいます。

どの要件を満たさないのかわかりませんが、条例の附則に書かれている通り、2005年3月31日までに合併すれば、町の区域を含む合併については要件を満たさなくてもよいことになっています。

私が言いたかったのは、神石郡四町村が敢えて「村」とするかもしれないということです。
特産品(農作物)などを売る場合、「町」より「村」の方がイメージがいいというのを聞いたことがあります。町と村に権限の違いがなければ、それでもいいかなぁと。
[4861] 2002年 11月 13日(水)21:42:55蘭丸 さん
町+町+町=村?
 宮城県加美郡の4町合併が、さきに色麻町の離脱によって破談となりました。今後は、残る3町のみで合併を進めるとのことです。4町は合併後市への移行を目指していましたが、この離脱によって合併特例法の人口要件3万人を満たさなくなったため市への移行は果たせなくなりました。

 さて、残る3町による合併となったため、合併後は市ではなく町になるかと思いきや、なんと、このままでは村になってしまうということです。 この3町で、 もちろん人口は町となるべき要件を満たすのですが、 問題は連檐戸数(宮城県条例では「中心の連戸区域内に在る戸数」)で、3町併せた場合の割合が、宮城県条例で定められた「五割以上」に届かなくなるそうです。
 宮城県市町村課によると、3町のうちで中心的存在となる中新田町で6割前後、他の2町を併せると、総戸数が増えるため、5割を切ってしまうのだそうです。

 市の成立要件をギリギリまで緩和し、なんとか合併の気運を盛り上げようとした政府の特例措置が、とんでもない事態を引き起こしたことになります。

 もっとも、町と村の間に実質的な差異はないわけで、「なんということはない」と受け止めればそれで済む話でしょうが、やはり、ご当地では、一様に困惑の色が広がっているとのことです。「市になってジャスコできてほしかったのに...」「市になれないのなら合併する必要なんてない」と、小・中学生にいたるまで青息吐息だそうです。(小学校高学年では、4町合併について勉強しているところだったとのこと)
 やはり、「町」から「村」になることへの心理的な抵抗は大きいようです。合併協議会の事務局は「町と村で事務的に違いはない」と言っているようですが。

 このような事態を回避するため、県は対応を検討し、合併特例法期限内は、町を含む合併で誕生する自治体は、県条例で定められた町の要件を問わず町とする、という条例の附則案を15日からの県議会に提出することにしたといいます。

 このニュースを知って、私が感じたことは、「そもそも市とはなに?」「町とは?」「村とは?」ということでした。明治時代から続くこの区別は、果たして今日的意義を持っているのだろうか、単に政府の合併誘導策の手段となってはいないだろうか、と思えてなりません。

[宮城県条例による町となるための要件]
 ・人口5,000人以上
 ・連檐戸数5割以上
 ・非農業的産業従事世帯人口5割以上
 ・非農業的産業従事世帯人口が過去5年間増加傾向
 ・病院、診療所、劇場、映画館等の施設があること
[64164] 2008年 3月 30日(日)14:54:07hmt さん
村から町になるには
中心市街地に関連して「市となるべき要件」について触れたので[64148]、ついでに「町となるべき要件」につき記しておきます。

この件は、落書き帳の初期の頃から話題になっています。昔の記事

「町となるべき要件」を、昭和23年3月23日埼玉県条例第14号 で示します。
町となるべき普通公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。但し…(新設合併の例外)
1 人口(官報で公示された最近の…人口、以下同じ)五千以上を有すること。
2 当該普通公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が全戸数の五割以上であること。
3 商工業その他の都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の五割以上であること。
4 官署又は県の公署が設けられていること。
5 商工業その他都市的業態又は都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が逐次増加の傾向にあること。
6 病院又は診療所が設けられていること。
7 当該普通地方公共団体の総合的かつ計画的な行政の運営を図るため定められた基本構想において、将来の都市的発展が見込まれていること。

制定当初と比較すると、7項が付加された他に、文言の修正が見られます。
連たん区域内→市街地を形成している区域内、非農村的業態→都市的業態
また、当初の6項は“病院、診療所、劇場、映画館等の施設”となっていました。

# それにしても、劇場、映画館等が「設けられて」いないとダメなんですかね…? [3513]
という時代背景を受けた修正でしょう。[2985]参照
過去記事を見ると、熊本県[3513]まがみさん、宮城県[4861]蘭丸さんの条例があり、埼玉県条例の4項、7項を欠く他は実質的に同じです。

人口要件・連たん戸数要件・業態要件・都市的業態従事者の逐次増加・医療施設など「市」の場合と共通の項目がありますが、全体の項目数は少なく、量的要件も「市」の場合よりも緩和されています。
人口要件は「5000人以上」の都道府県が最も多いが、3000人以上(富山県など)から1万5000人以上の 栃木県 までと幅があります。
# 例えば1994年に町になった上都賀郡西方村の人口は7000人以下と思われるが、なぜ町になれた?

この「町となるべき要件」が問題になった興味ある(?)事例を、[4861] 蘭丸さん が紹介しています。町+町+町=村?
宮城県加美郡の3町合併。中新田町の連たん戸数割合は6割前後でしたが、合併で総戸数が増えると、宮城県条例で定められた「5割以上」に達しないというのです。

結果的には 宮城県条例 に附則の特例が設けられ、目出度く 加美町 が発足しました。
[40041] 2005年 4月 19日(火)00:51:34オーナー グリグリ
南阿蘇村の前の村の新設は?
[39017] 2005 年 3 月 27 日 (日) 22:06:56 hmt さん
1968年6月26日 小笠原諸島返還に伴なう東京都小笠原村の新設まで遡るのでしょうか。
[39762] 2005 年 4 月 13 日 (水) 19:30:36 花笠カセ鳥 さん
その結果、新設合併に限ると、1961年4月1日の熊本県坂本村と判明しました。
以下、1960/9/1の群馬県子持村、1960/4/1の長野県南信濃村、1960/1/20の新潟県岩室村となります。
[39769] 2005 年 4 月 13 日 (水) 21:10:09 両毛人 さん
合併による村の新設
hmtさん、花笠カセ鳥さん、村の新設情報をありがとうございます。しかし、小笠原の返還にまで溯るとは思ってもいませんでした。ということは、南阿蘇村の新設は画期的だったんですね。そう言えば、新井市の妙高市への改称といい何年ぶりという事象が続いています。面白いのでまとめてみます。

エポック最近の件一つ前の件何年ぶり
村の新設2005.2.13南阿蘇村1968.6.26小笠原村36年7ヶ月ぶり
市の改称2005.4.1妙高市1960.8.1むつ市44年8ヶ月ぶり市制施行日改称を除く
市から区2005.4.1岩槻区1963.2.15守山区42年1ヶ月ぶり

上記以外のエポックとして、複数市の同時編入があります。
すなわち、2005.3.21の新津市・白根市・豊栄市の新潟市への同時編入です。これは史上初です。
[51315] 2006年 5月 13日(土)16:54:51矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より その2
拙稿[51312]
に関連してですが、町と村のイメージの違いについて述べたいと思います。

どちらも日本の自治体の区分で郡の下部に位置するものですが、率直に言うと町(大きい、都市に近い、商業が主な産業)で村(小さい、都市から遠い、農・漁・林業が主な産業)であると言うイメージが一般的にあると思います。では実態としてはどうだったのでしょう?

現在、制度の面から言えば、
町となるためには、当該都道府県の条例で定める「町」としての要件を具備する必要がある
村の法的な要件は特段定めはない。
以上Wikipediaの該当ページには書いてあります。過去に宮城県の加美町が合併して成立する際に、条例によって村になる所だったと聞いています。結局、条例の改正によって事無きを得ましたが。また熊本県の南阿蘇村では(南阿蘇)のイメージを変えない為に、敢えて「南阿蘇町」にならなかったとも聞きました。このように条例の解釈と町村の意図によって「町」と「村」が決まってくるようです。では歴史的にはどうだったのでしょう。

明治時代の初期には町と言うのは、純粋に市街地を指す言葉でした。(この落書き帳でも何度も言及されています。)また村はそれ以外の農・漁村を指していました。(一部の例外的な市街地を含む)それが郡区町村編制法・市制・町村制といわゆる明治の大合併により大規模な市街地は全体を総括して「市」となり、一部の市街化された村が「町」となりました。(中規模な市街地が「町」を総括して全体を「町」とした所もある。)この時点では現在のイメージとほぼ合致すると同時に町・村の違いは市街地・周辺部と言うことになってもまだまだ流動的なものがありました。(愛知県幡豆郡一色町、横須賀町の例がある。)

大正から昭和初期にかけては、順次市街化された「村」が「町」となり町が増加しました。小規模な合併もあり、町から切り離されて合併して成立した周辺部の村(極端に言うと愛知県愛西市のような感じ)も町に編入されました。

昭和の大合併では、小規模な「町」を核として「市」がいくつも誕生しました。町村部でも「村」がいくつも合併してできた従来よりは大きい「町」「村」ができました。その結果町:村の比率が1950年当時において約1:4だったのが、1960年には約2:1に逆転してしまいました。

その後、1960年から2000年にかけて500ほどの村が人口増加などによって町制していきました。ただし、その間は概ね町・村の全体数はあまり変わりませんでした。

そして平成の大合併を終えた今では町:村の比率は約4:1で推移しています。昔では考えられないような所さえ「市」になっていることは言うまでもありません。

このように町村部は激しく変化を繰り返していました。いや、これからも劇的な変化を余儀なくされるでしょう。そんな中で「町」「村」のイメージはあまり変わらないのは日本人の「ふるさと」へのイメージがあまり変わらないのと共通しているように思います。

*思いっきり硬い文章になってしまいました、すいません(汗)
 タイトルは本文の内容と関係してるようで、していません(笑)
[64165] 2008年 3月 30日(日)15:04:37hmt さん
町にならずに市になった村
前回[64164] のタイトルに用いた「町から村になるには」の裏には、「村」よりも「町」の方が上位にあるという社会通念があるようです。最近でこそ、希少価値の生じてきた「村」という名称を大事にしようという風潮も一般化し、滝沢村 のように有名になった村もあります。

2002年4月1日に沖縄県島尻郡豊見城村が豊見城市になりました。
地方自治法の上では、「村」から「町」になっても権限の拡大はないが、「市」ともなれば話が違うというわけです。
この豊見城が、60年以上に及ぶ地方自治法の歴史の中で、町を経由せずに「村から市」への処分が行なわれた唯一の例であるということは、実質的な価値がなくても「町」という名が欲しかった村が如何に多かったかということを実証しています。

町にならずに市になった村は過去にもありましたが、佐世保・宇部・岡谷・芦屋は「市制」という法律だった戦前のこと。沖縄県の4市は米軍統治下の時代。アーカイブズ参照。

例により、お古い話になりますが…
“郡区町村編制法、町村制、それぞれの当時の町、村の違いは何なのでしょうか?”という質問がありました [63737] 伊那谷さん。
[63912] oki さんの記事がその回答と思われるので、その一部を再録します。

要するに、町と村は「人民生計ノ情態」を異にするものの、「都会輻輳ノ地」と対比した場合町村間の相違は小さく、「施政ノ大体」では異同が認められないので、町村制という同一の制度を適用する(一方、都会輻輳ノ地である市には市制という別の制度を適用する)、ということです。

今日でこそ基礎的地方公共団体の種類は市と特別区以外には「町と村」しかありませんが、郡区町村編制法時代には、もっといろいろな名が町村レベルに存在しました。
明治13年の郡区町村一覧[62815] 例言 には、
宿 駅 里 郷 荘 組 通 小路 新田 出作 受所 島 浦 浜 等と称する類は其名に拘らず其実に従ふ
と記されています(文字間の空白を適宜挿入しました)。興野(こうや)[7786] など、他にも例があるのでしょう。

町村制の時代(明治22年)になっても、甲州街道の宿場だった「与瀬村」にわざわざ「与瀬駅」が作られ、大正2年に「与瀬町」に改められるまで続きました。関連記事
# 中央線の八王子起点ルート[61108]が決定した明治26年よりも前のことですから、「駅」は鉄道由来でなく宿場由来です。

時代は戻りますが、表を見ていると「○○村の内△△町」というような表記にも出会います。
例えば明治8年共武政表[62939]では東京府豊島郡「柏木村の内成子町」とあります。現在の西新宿。青梅街道沿いに市街地ができているが、その「成子町」は「柏木村」の一部なのでしょう。

同様の例は 明治19年1月現在の 地方行政区画便覧 に見ることもできます。
三重県安濃郡「塔世村の内茶屋町」や「下部田村の内餘慶町」というように「村の内に町」があります。

この下部田村と塔世村は、三重県の県庁所在地として記されている村ですが、この他にも、栃木県河内郡塙田村、滋賀県滋賀郡別所村、岐阜県厚見郡今泉村、岩手県南岩手郡盛岡仁王村、青森県東津軽郡大野村、山口県吉敷郡上宇野令村、宮崎県宮崎郡上別府村と、多数の「県庁所在地たる村」が存在します。

これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。

これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。
[7786] 2003年 1月 17日(金)00:29:49Issie さん
Re:旧神奈川県の「駅」と「宿」
[7783] 白桃 さん
>すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です

これは当時の神奈川県に限らず,全国の宿場町に広くあった呼称ですね。もちろん,逆に「○○村」という呼称の宿場町も多数あったはずです。
簡単に言えば,江戸時代以来の従来の呼称がそのまま使用されていただけのことです。
「郡区町村編制法」の以下の条文(第2条)を根拠にしているのですね。

郡町村ノ区域名称ハ総(すべ)テ旧ニ依ル

だから,漁村の中には「○○浦」というものも多数あったし,「××新田」という呼称の行政区画も一般的ですね。「××新田村」というのも少なくないのですが。新田集落に関して,新潟県の蒲原平野では「△△興野(こうや)」という形式の呼称も多数見られます。
このようにさまざまな呼称が行われていたものが,1889年の「町村制」施行とそのための“明治の大合併”を通じて「町」か「村」に統一されたのです。

>「町」に準じた扱いにしておりますが

便宜上,「町」か「村」かで統一しようとする場合,そのようにしていることが多いようですね。一方で「新田」などは「村」扱いとする。
けれども,1889年の町村制施行の際には「村」となった「駅」や「宿」も多数あるようですね。また,在郷の市場集落で「○○町」と呼ばれていたものが周辺の集落と合併して「○○町村」という,つまりは「村」になる,ということも珍しくなかったようです。

(念のために付け加えておくと,1889年の「市制」施行までは「市」という行政単位は日本には存在しませんでした。郡区町村編制法下の「区」が,市制下の「市」とイコールなのですね。そして,1878年の郡区町村編制法以前には「区」という行政単位もまた存在しませんでした。江戸時代,時代劇に出てくるような「江戸市中引き回し」なんていう表現が見られたりしますが,当時,「江戸市」などという行政区画はもちろん存在しません。そもそも英語の City に対応するものとしての「市」なる呼称,どこから湧き出したものなんだろう。)

>明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、
>鹿屋をはじめ他は全部村でした。

これは,どの段階でしょう。
市制・町村制施行以前の郡区町村編制法によるものなのか。「明治の大合併」を経た町村制の下でのことなのか。どちらかによって,話は相当違ってくる気がしますが。
いずれにせよ,このあたりの事情について私はよく知りません。
ただ,「西南戦争云々」というのには一応距離をとっておきたく思います。府県名を定めるに当たって,戊辰戦争で「朝敵」となった地域の呼称が「懲罰として」奪われた,という“伝説”を大変疑問に思うのと同様に。
[7922] 2003年 1月 19日(日)20:27:20【1】Issie さん
宿・駅
[7820] 白桃 さん
日野、箱根、與瀬、吉野、府中は、1889年の市制町村制施行以降も、「町」でも「村」でもなく、依然として「駅」あるいは「宿」というようになっていたという点、それが旧神奈川県に集中していたのはどうしてなんだろう、ということだったのです。

あっ,そうでしたか。これはこちらも早とちりですねぇ。
とすると,私もよくわかりません。
1つ考えたのは,従来の行政単位(宿・駅)がそのまま町村制に移行したので,名称もそのまま継承されたんじゃないか,ということ。
ところが,それは北多摩郡の「府中駅」だけですねえ。足柄下郡の「箱根駅」も単独で町村制に移行しているのですが,それ以前の郡区町村編制法下では「箱根村」という名称であったようです。
南多摩郡の「日野宿」は,従来の「日野宿」に隣接する粟須村・西長沼村の一部を合併したもの。津久井郡の「与瀬駅」は「与瀬村」と「吉野村」の一部,「吉野駅」は「吉野村」の大部分に「与瀬村」「小淵村」「沢井村」のそれぞれ一部が合併したもの。
となると,ますますよくわからない。
1つだけはっきりしているのは,「府中駅」「日野宿」がそれぞれ「町」になったのがともに1893(明治26)年6月19日で,これは“三多摩”が東京府に編入された同年4月1日直後,ということ。神奈川県から東京府へ移管されたことが大きな契機だったんでしょうねえ。
「箱根駅」は1892(明治25)年10月31日,甲州街道沿いの「与瀬駅」「吉野駅」はそれぞれ1913(大正2)年4月1日に「町」に移行しています。

ところで離島の場合は,“完全な自治体として”町村制を施行するには至らないとして「村」になるのが遅れた地域があります。
たとえば東京府(東京都)の伊豆諸島。大島と八丈島の各村が「町村制」(島嶼町村制)下の「村」となったのは1908(明治41)年4月1日,利島・新島(式根島を含む)・神津島・三宅島・御蔵島は1923(大正12)年10月1日,青ヶ島および小笠原の父島・母島・硫黄島はようやく1940(昭和15)年4月1日。逆に言えば,ほかの島には「町村制」は施行されなかった。
同じく,得撫(ウルップ)島以北の中・北千島にも結局「町村制」は施行されていません。南樺太でさえ自治体としての町村が編成されているのですけどね。
(細かく言うと,沖縄県・離島・北海道・南樺太で施行された地方制度は,それぞれ本土の制度とは若干違っていて,根拠法令も違います。)
[91951] 2016年 11月 14日(月)20:39:04オーナー グリグリ
大町は村?
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
1889年(明治22年)
4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
Wiki以外のページ(個人の市町村の変遷を記載したページ)でも同様の記載がありました(情報ソースは同じかもしれませんが)。日本加除出版の全訂全国市町村名変遷総覧などにはそのような記録はありません。この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。過去記事を探しても関連する議論はないようです。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91958] 2016年 11月 17日(木)14:17:50白桃 さん
2016年10月1日現在推計人口、他
2016年10月1日現在推計人口について(半ばオーナーへの事務連絡)
速報値か確報値基準かは別にして、本日までのところ1都1府40県から10月1日現在の推計人口が公表されています。
公表されていないのは、
まず北海道、ここは毎度のことなので当研究所で自主作成済み。
栃木県は11月中旬予定、岐阜県は24日までには…、広島県は11月下旬予定。
問題は大阪府。問い合わせたところ、2010年11月からの推計人口を補正しなければならないこともあり、(余裕をみて)来年1月までには…というお話。「それでは、十番勝負に間に合わない、困ります。」っては言わなかったけれど、心の中は向津具半島。で結局、府下各市区町村のホームページ、広報誌に掲載されていた住民基本台帳人口等のデータをもとに(某町には電話確認)、半日かけて「世界一早い大阪府の10月1日現在推計人口」を作成してしまいました。なお、推計人口の算出に当たっては、検算しながら間違いのないように行っていますので、ご安心いただいてよいのですが、なにせ、府からの発表ではありませんので、そこのところご了承ください。
予定通り、今月中にはお送りできると思います。

さて、
[91956]hmt さん
上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
これについて、「異論」と言えば格好良いのですが、hmtマガジンにある
特別な思い入れのある方は別として、町村制施行時からの町なのか、村の過去を持つ町[63999]であるかの区別を気にすることは稀であると思われます。
「別」にされた張本人(笑)から、無駄なジャブを繰り出したい …と思ったのですが、まだ、頭の中が十分整理されておらず、躊躇しています。
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、
そもそも、明治の市制町村制度においては、どのような手続でもって、誰が(というかドコが)当該地を市あるいは町村と決定したのか、さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか、
をお教えいただけば幸いです。
[91959] 2016年 11月 18日(金)19:18:20【2】hmt さん
市制町村制施行当時の自治体名称
[91958] 白桃さん
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、

最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか

白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
1889年2月2日付の 明治22年内務省告示第1号で,最初に「市制」が施行される 36市が指定されました。
これに遅れて 佐賀・岐阜・甲府・鳥取の4市が指定されているので、この制度で「最初の市制施行地」と決められた地は 合計40 になります。
その結果、市制施行地を除く3府42県【北海道・沖縄県・島嶼など法律・市制町村制の対象外とされた地域を除外】は、自動的に「町村制施行地」になりました。

内務省の中で「どのように」決めたのか? 
ずっと後ですが、[86139]むっくんさん の記事に、S18.4.17 内務省発地第三六號「市制施行詮議内規」という資料が登場しています。
その前身というか これに類する内規は、おそらく明治時代から 存在したものと推察しますが、情報公開が不十分な時代ですから、調査するのは困難と思います。

Q2 さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか

マガジン 町と村の違いの冒頭に記したことの繰り返しになりますが、「町と村の違い」 はずっと不明確です。

「市制町村制理由」に記録されている当時の考え方の要点は、[63912] okiさんの記事に引用されています。
この記事は、町村制第3条の規定「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」の存在も指摘しています。
町と村とは、「従来の区域に応じて、その名称も継続された」と考えるのが自然なようです。

実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合【注】もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
【注】
合併に伴う例ですが、近くの埼玉県入間郡大井町他3ヶ村→大井村[78812]を挙げておきます。

okiさんの記事に示されている 大阪府西成郡難波村 明治24年の人口 26405人。これは、姫路市の 24608人より多い。
「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ」という建前論や人口の多寡には目もくれていません。

「町村制」という同一制度の中なのだから、実体は町場化していた難波村についても、旧名称の継続で良いではないか。
このような安易な区別が使われた実例のように思われます。
[91962] 2016年 11月 19日(土)05:23:07白桃 さん
Re:市制町村制施行当時の自治体名称
[91959]hmt さん
最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。
有難うございました。大変恐縮しています。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか
白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
最初の40市と、それ以外の地を「町村」としたのは内務省で、前橋から以降について「市」として承認したのも内務省であるというのは間違いないと考えるのですが、「町村」の名称や境域を定め、以降の「町制」施行に係る権限を持っていたのは「府県」ではないかと考えているのですが、間違っていますかね?
そもそも、内務省は市制町村制の骨子を考えるだけで手一杯だったので、「町村」に関しては、その権限を「下」に任せた、と言うのが私の推測です。「町村制において、『町』と『村』の法制上の区別はない」ということは私も理解しているつもりなのですが、このとき、なぜ「町村制」という語句にしたのか、その意図がわかりません。いっそのこと「市」以外の区域を「郷」(「市⇒四→五⇒郷)として「市制郷制」とでもすれば、簡単で誤解も生じなかったと思うのですが。
あくまでも私の推測ですが、内務省の考えが府県レベルまで十分伝わらなかったため、各府県において町村名を決定するにあたり、それまでの慣習や実務担当者の主観によって「町」と「村」の区別が意識されたのでは…。つまり、制度上の区別はないが、「町」と「村」の間に「差別」があると地元の一般大衆には感じられていた。ですから、制度上は同格であるにもかかわらず、地域によっては村から町になることが強く望まれ、「町制」が施行されたのではないでしょうか。
ところで、[91956]にて
「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
とありますが、当時「町制施行」という言葉が公文書において使用されていたのでしょうか?

だいぶ長くなり、夜も明けそうなので話を飛躍させていただきますが、少なくとも私にとって「生まれながらの町」と「後発の町」を区別することはそれなりに意味があると思います。もちろん、「生まれながらの町」が0の鹿児島県と40の茨城県を同一視することもできません。
[91965] 2016年 11月 19日(土)19:36:11オーナー グリグリ
市区町村名とは?
白桃さんとhmtさんの町村制の議論を興味深く読ませていただいています。短い読み・長い読みの市区町村を編集していて同じような疑問というかテーマを意識しています。つまり、表題にあるように市区町村の読みには「し・く・まち・ちょう・むら・そん」なども含めるべきかどうかというテーマです。

短い読み・長い読みの市区町村の一番最後に「新田」と称する長い読みを参考データとして掲載しています。「町・村」で終わらない町村の読みをどう捉えるかということです。町村と同じように「しんでん」は除外すべきなのでしょうが、必ずしもそうあっさり切り捨てるのもしっくり来ません。長野県北佐久郡にあった五郎兵衛新田村(ごろべえしんでん・むら)のように村が付いていればすっきりするのですが、[91962]で白桃さんが推測していらっしゃるように、地方によって町・村の捉え方に温度差があったように思います。

[91951]で提起した「大町は村?」についても同じような状況を考えると、町村制施行からわずか9日後に町制施行という手続きが行われたというのは、何か違和感を感じます。[91956] hmt さん、遅くなりましたが、詳しい調査をありがとうございました。大変参考になりました。[91951]で書いたWiki以外のページのサイト管理者に情報源を質問してみようと思っています。それにしてもこの方、多趣味で面白いコンテンツが沢山あります。市町村の変遷は全都道府県が揃っていませんが、見易く分かりやすい変遷情報になっています。

話を元に戻しますが、市区町村名に「し・く・まち・ちょう・むら・そん」も含めるかどうかについては、現在の制度下においては省いて考える方がすっきりしますが、明治の町村制施行後の様々な町村名の推移を考えると、必ずしもそうとは言えないと悩んでしまいます。市区町村ではありませんが、北海道の「道」の扱いなども同じです。以下、細かい説明は省きますが、悩ましい例です。

大町 → 大町市(名称が「おお」から「おおまち」に変わったとは言い難い)
谷村 → 谷村町(同上)※都留市
野村 → 野村町(同上)※西予市
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)
椿郷西分村(同上)
北海道(「ほっかい」とは誰も言わない)
[91969] 2016年 11月 20日(日)17:47:27【2】hmt さん
Re:市区町村名とは?
[91965]グリグリさん
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)

私はこの村名を「椿郷/東/分村」と解しました。形式的には「椿郷/東分/村」と解釈する余地もあったのかもしれませんが、分村の「分と村の間を分ける」のは不自然であると考えました。

そして、「分村」という部分も「町村名」を構成する必須要素ですから、これを省くわけにはゆきません。
残された道は、町村名が「椿郷東分村」であると考えるしかありません。

「まち」と「ちょう」で「かな表記」の字数が変ってしまいますが、「市町村名」は あくまでも「漢字かな混じりを基本とする日本語の正書法」によるべきであると思います。

「かな表記」はあくまでも便宜上のものであり、「かな表記の字数」に囚われるのは本末転倒です。
「短い読み・長い読みの市区町村」を考える場合、長短を決める基準を「かな」字数でなく、「日本語の音数」【促音・拗音は1、長音は2と数える】に改めてもよいわけです。

長野県北安曇郡にあった自治体「大町」について説明すると、「おおまち」と発音する自治体名の中に、既に町であることを示す部分が含まれているので、屋上屋を架す「大町町」とする必要がなかっただけです。

1954年の「新設合併」に際しては、当然のことながら「新しい自治体名」を定めることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「大町」という「地名」を語幹に残し、しかも市になったことを示す語尾を加えた「大町市」を「自治体名」を選んだのは、ごく自然なことと思われます。

山梨県南都留郡谷村の場合。明治22年山梨県令第40号には 「本年7月1日より県下甲府に市制を其他の町村に町村制を施行す」と記されています。西山梨郡の甲府には郡区町村編制法時代からの「町」が多数存在したのですが、甲府以外の地域には町が存在せず、町村制施行地域は245村になりました。南都留郡谷村も当然のように 町村制の「谷村」になりました。その際の分合・改称はなく、従って 明治22年山梨県令第41号の記載事項もありません。

その後、北巨摩郡河原部村→韮崎町(M25)、東山梨郡勝沼村→勝沼町(M29)に続いて谷村も3番目の町になることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「地名」の「谷村」を残し、更に町になったことを示す語尾を付した「谷村町」が「自治体名」として選ばれました。

参考までに、大町・谷村と同様に 語幹部が漢字1字である自治体名 に関して、「もとの地名」を論じた過去記事を示しておきます。

[34770] hmt
【神奈川県中井町は】中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。
[34776] Issieさん
どのような基準にのっとって解釈するかはそれぞれ,だと思うのですが,私は「中村」で1つの地名とみなとしてよいと考えています。「六日町」を「六日」と「町」に,「荒川」を「荒」と「川」に分解できないことはないけれど,それでは地名としては意味がないのと同じように。(中略)
地名としては,「中+村」と分解することはできず,「中村」という一塊の名前なのだと考えます。
[91970] 2016年 11月 20日(日)23:11:10にまん さん
○分
[91965] オーナー グリグリさん
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)
椿郷西分村(同上)

個人的には「西分」「東分」は一体という感じがします。
同様の名称は山口県内にいくつかあってて、現在でも大字として残っているところだと、
上小川西分、上小川東分(萩市旧田万川町)
阿東生雲東分(山口市旧阿東町)
大嶺町東分、大嶺町西分、大嶺町北分、大嶺町奥分(美祢市)
といったところでしょうか。

手許にある山口県地名明細書(M8年の「山口県大小区村名書」を底本として、S47年に編集された本)では、これらは、
椿郷西分、椿郷東分
上小川村西分、上小川村東分
生雲村東分、(生雲村西分)
大嶺村東分、大嶺村西分、大嶺村北分、大嶺村奥分
という表記(郷や村の後に○分)となっています。

生雲には「生雲中村」が存在しますが、その他には「本村」を示すような名称の村はありませんので、これら山口県内の「○分」地名は、「本村」「分村」の関係というよりは、大きな村の「西半分」「東半分」といった意味合いが強いと思われます。
[91971] 2016年 11月 21日(月)21:14:55【1】オーナー グリグリ
種別名
[91970] にまんさん
個人的には「西分」「東分」は一体という感じがします。
同様の名称は山口県内にいくつかあってて、現在でも大字として残っているところだと、
上小川西分、上小川東分(萩市旧田万川町)
阿東生雲東分(山口市旧阿東町)
大嶺町東分、大嶺町西分、大嶺町北分、大嶺町奥分(美祢市)
といったところでしょうか。
これは貴重な情報です。ありがとうございます。
手許にある山口県地名明細書(M8年の「山口県大小区村名書」を底本として、S47年に編集された本)では、これらは、
椿郷西分、椿郷東分
上小川村西分、上小川村東分
生雲村東分、(生雲村西分)
大嶺村東分、大嶺村西分、大嶺村北分、大嶺村奥分
という表記(郷や村の後に○分)となっています。
なるほど、元々は郷の後に○分だけで、村は後から付けたという訳ですか。つまり、「分村」よりも「○分」の方が成り立ちとしてより強い関係にあるということですね。他の事例も含めて考えると「○分」は枝番号のようなものと考えると分かり易いです。いずれにせよ成り立ちがよく分かってとても面白いです。ちなみに、椿郷も含めて上記の地名については、山口県の市制町村制施行時の時点ではすべて「□□○分村」になっています。例えば、大嶺村上小川村など。どこかの時点で種別名(注1)の付け直しが行われたのでしょうか。

注1)町村単位名を表す適切な言葉はないでしょうか?

ところで、椿郷西分村と椿郷東分村だけは「郷」を残したまま「村」を後ろに付けたため、種別名が重なる結果になりました。五郎兵衛新田村、粟島浦村、大町市、大村市なども種別名が成り立ちにおいて重なった例になります(もっとも、種別名自体に明確な線引きがあるとも言い切れませんが)。この例で思い出したのが、父島にあった、扇村袋沢村です。扇村と袋沢村が合体してできた村なので、椿郷○分村と同様に種別名が離れて重なっている特異な例です。通常なら、扇袋沢村にすることも考えられるのですが、地区名の呼び名として「扇」よりも「扇村」の呼称の方が定着していたからと推測します。

[91965]で言いたかったのは、町村名の読みを考える際に、そういう個別の事情を無視して「町・村」の種別名の部分を一律に切り離してよいものだろうかと言うことでした。[91969]のhmtさんの記事中にも引用されていますが、[34776]でIssieさんが「どのような基準にのっとって解釈するかはそれぞれ」と言われている通りであり、その地区における呼び名は、一般的には種別名が含まれる場合もあれば含まれない場合もあり、今回の事例のように種別名を含めて呼ばないと訳が分からなくなる特異な例もあるわけです。そのような状況でも、短い読み・長い読みの市区町村のカウント数の表示においては、できるだけ納得性を高く表現したいと考えています。

対象が現時点だけであれば、種別名を除いてカウントすることでほぼ問題はありませんが(ただし、都道府県を対象とすると北海道が悩ましい。下記注2参照)、明治の市制町村制まで遡ると「新田」を参考データとして提示するなどの工夫が必要になってきます。短い市区町村名・長い市区町村名についても、現在は市以外は過去例を対象としていませんが、過去にさかのぼる際には工夫が必要になってきます。

注2)北海道が悩ましい例。
・市区町村雑学:都道府県名の苗字分析
・データベース検索サンプル:一番長い読みの都道府県はどこでしょう?

追記:扇村袋沢村は合成地名コレクションに収蔵されていませんね。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

パソコン表示スマホ表示