都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

区制度の変遷

トップ > hmtマガジン > 区制度の変遷
記事数=25件/更新日:2020年2月28日

「区」に関する特集の第1号です。
市町村に関する特集と同じグループに入れますが、テーマ名は親サイトで使われている「市区町村」でなく、あえて「市町村と区」にしています。

その理由の一つは、人々が集まって作られた「市町村」と、統治者側の管理区分に由来する「区」という素性の違いを示したかったこと。
もう一つは、「市区町村」と「区市町村」という2つの言葉が示す「区」の多様性に対応するため。

このように、「市町村」と一線を画した「区」は、明治4年制定の戸籍法で生まれました。
しかし、今回の特集では戸籍制度や大区・小区には立ち入らず、現代の特別区・行政区に連なる
郡区町村編制法以降の「区」だけを対象としました。

「区」の根拠となる法律ごとに、A1〜A2(郡区町村編制法など)、B1〜B3(明治21年市制町村制)、C1〜C2(沖縄県と北海道の区制)、D1〜D6(明治44年市制と東京都制)、E1〜E6(地方自治法)、F1〜F3(合併特例法など)の記号をつけて、制度の概略を説明しました。
この記号の多さからも、市町村とは違う「区」の多様性を窺うことができると思います。

この特集は、[74292]グリグリさんの新企画 「市の変遷」に触発されて書いた 1+15回シリーズ を元にしたもので、その後 シリーズ 17回までを追加しました。
2011年6月に、市町村雑学 の東京市の記載をきっかけに、1947年の地方自治法施行直後から始まった特別区の自治権拡充運動とその挫折を主題とする4回シリーズの記事を書いたので、これも追加しました。

2020/2/28追加   [99231]北海道庁官制の区 [99187]東京都制〜特別区関係【蛇足で大阪の特別区にも言及】

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[74320]2010年3月10日
hmt
[74334]2010年3月13日
hmt
[74335]2010年3月13日
hmt
[74354]2010年3月14日
hmt
[74376]2010年3月18日
hmt
[99231]2020年2月28日
hmt
[74736]2010年4月6日
hmt
[74867]2010年4月11日
hmt
[74793]2010年4月9日
hmt
[74935]2010年4月14日
hmt
[99187]2020年2月18日
hmt
[74956]2010年4月16日
hmt
[74958]2010年4月16日
hmt
[75012]2010年4月22日
hmt
[75018]2010年4月24日
hmt
[75025]2010年4月25日
hmt
[75410]2010年6月27日
hmt
[75424]2010年6月29日
hmt
[75425]2010年6月29日
hmt
[75709]2010年7月28日
hmt
[76149]2010年9月4日
hmt
[78493]2011年6月6日
hmt
[78506]2011年6月7日
hmt
[78523]2011年6月9日
hmt
[78524]2011年6月10日
hmt

[74320] 2010年 3月 10日(水)22:29:18【2】hmt さん
♪「むらさき」匂いし 武蔵の野辺に 日本の文化の 花 咲き乱れ
3月10日と言えば 105年前(明治38年)の 奉天大会戦[59385]と、65年前(昭和20年)の 東京大空襲です。
米軍機が東京付近に現れたのは 1945年3月9日の夜でしたが、警戒警報も解除されて ほっとした市民の上に 房総沖から再び飛来した 325機のB29爆撃機が 38万発の焼夷弾・爆弾の雨を降らせたのは 日付が変って3月10日になった直後でした。

この大空襲の際には 既に東京都 35区になっていたのですが、その2年前には「東京市」でした。
市の変遷 に集録された「東京市」を見て、10年間ほど「東京市民」であった者として、ひさしぶりに「東京市歌」を思い出しました。
タイトルは 1926年に作られたこの歌の冒頭です。

[74303] オーナー グリグリ さん
市に関わる以下の変更種別についても情報を追加しました。
勅令市(勅令指定都市)、省令市(省令指定都市)、政令市、中核市、特例市、区設置

東京市 1889.5.1 区設置 麹町区, 神田区, 日本橋区 ……

麹町区以下は、「郡区町村編制法」によって設けられた「東京府15区」が、「市制町村制」によって設けられた「東京市」と共存していたものであり、東京市に“設置”された「区」ではありません。

便宜上“共存”と書きましたが、実質的には 明治22年3月23日に制定された いわゆる「三市特例法」(市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件)により「東京市」は有名無実の存在であり、実質的な行政機能は「東京府15区」にありました。

このあたりの事情は、[53890] 「六大都市制度」の生い立ち(1)六大都市前史に記してありますので、ご参照ください。

1898年10月1日 三市特例法廃止

この日付こそが、「自治体としての東京市」の実質的な誕生日であり、「東京市の変遷」に記録されるべき日です。
東京の「都民の日」10月1日はこれに因んでいます [33692]

三市特例法廃止の際にも “従来ノ区” は存続し[10997]、まさに「市と区の共存状態」になりました。
だから、[7772] Issie さんの記事にあるように、
「区」が元々独立した行政単位であったので市制施行後も「市」と「区」の権限をめぐって,両者には微妙な関係がありました。

この三大都市と「区」との関係に 決着をつけたものが、明治44年(1911)の法律全文改正です。
「市の中に設置された区」であることは、「町村制」とは別の法律になった「市制」 の第6条 “勅令ヲ以テ指定スル市ノ区ハ之ヲ法人トス”や第80条【区長は市有給吏員で市長が任免】で明確に示されました。

だから、「東京市の変遷」の中で、「区設置」は、この勅令指定都市の段階で記すのが法律的には適切なように思われます。
しかし、東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)[33692]に見られるように、“微妙な関係”[7772]ではあったものの、三市特例法廃止の明治31年以後は、実質的には「東京市の15区」と認識されていたようでもあります。

そこで、改めて明治31年の三市特例法廃止時点を調べてみると、この法律廃止で失なわれた「三大都市の区の存在根拠」を含めて、旧「市制」第3条の改正が行なわれていました。明治31年法律第20号
第3条に左の1項を追加す
東京市京都市大阪市に於ては従来の区を存す 其区は財産及び営造物に関する事務其他法律命令に依り区に属する事務を処理するものとす

なるほど。三市特例法廃止後の区の存在根拠は 引き続き“従来の区”という表現ですが、後段に記された 区の処理する事務 は限定されており、その内容は 明治44年「市制」第6条後段 を先取りしています。
また、第72条への追加もあり、“区長は市長…の指揮命令を受け…”区内に関する市の事務を管掌することになり、市に対する区の従属性は明らかです。
つまり、この時点で「実質的には市の中に区が設置された」状態が実現したと理解できます。

「東京市の変遷」の中に記載すべき「15区設置の日付」について、それが 1895.5.1(名目上の東京市発足)でないことは明らかですが、実質を重視して 1898.10.1(三市特例法廃止)とするのか、法律に明記された 1911.10.1(市制の全面改正)とするのか、グリグリさんの判断にお任せしたいと思います。

以上 東京市について記しましたが、京都市・大阪市についても、同じことが言えます。
[74334] 2010年 3月 13日(土)19:43:13hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (1)第一世代の区
新企画「市の変遷」デビューを機に、「区」(特にその明治時代の変遷)に目が向きました [74320]
既に多くの方の書き込みがありますが、根拠となる法令を軸に、「区の変遷」を整理してみます。

「区の変遷」は、1889年に始まる「市の変遷」よりも11年前に遡ります。
明治11年太政官布告第17号 郡区町村編制法 に基づいて「第一世代の区」が生まれました。
第1条 地方を画して 府県の下 郡区町村とす
第2条 郡町村の区域名称は 総て旧に依る
第4条 三府五港其他 人口輻湊の地は 別に一区となし 其の広濶なる者は 区分して数区となす

“別に一区となし”の意味は、「郡町村の区域外」という意味ではなく、旧に依り全国をカバーする郡町村という区分 とは別の次元で、商業活動の盛んな地域に限り 「区」を設ける という趣旨のようです。いわば「経済特区」。

これれを裏付ける資料:明治11年7月22日太政官達 郡区町村編制府県会地方税両規則 施行順序

少し長いですが、その第3項は「区」を設けた趣旨をよく説明しているので、全文を引用しておきます。
--------------------------------------
三 郡村制置の外都府港市の地人民輻湊貿易繁昌の所は郡村と其利益情態を異にするを以て一般の郡制と概行すへからす 故に郡に拘らす別に区となし市政を以て治むるを要すへしと雖も其郡を変更して更に某区を置くにあらす 即ち某郡にして其中に某区あるあり 又某区某々の郡に跨るある等地理上に於いては総て旧に依らしむべし 又市井一円を以て一区として統治すべきあり 或は其広闊にして統治に難きを以て分て数区となすある等各地の便に従ふべし 其分て数区とするもの或は第一区第二区と称し或は某区(其地方固有の名称を用ゆるが如し)と称する等其便に従ふ 要するに制度に拘はり便宜を妨けさる様心得へし
--------------------------------------

東京府における具体例: 明治11年11月2日東京府布達甲第55号
本年府庁甲第49号布達区郡編成の儀は 行政上区郡の区域相立候儀にて 地理上に於ては区の域内といえども 従前の通郡界相存じ候儀と心得へし 且区の域内に係る南北豊島郡の儀は江戸川神田川を以て其経境界に相定候条此旨布達候事

東京府15区の名称は、ここに出てきた甲第49号布達【同じリンク文書の359コマ】に登場します。
--------------------------------------
本年太政官第17号公布に依り従前の大小区劃を廃し区郡名称区域別冊の通相定候条此旨布達候事
(別冊)
麹町区 旧郭内、神田区 旧郭内 外神田、日本橋区 旧郭内、京橋区 旧郭内、芝区 三田 白金 桜田 高輪、麻布区 飯倉、赤坂区 青山 渋谷、四谷区、牛込区 市谷、小石川区 小日向 関口 高田 雑司ヶ谷 巣鴨、本郷区 湯島 駒込 根津、下谷区 谷中、浅草区、本所区 中ノ郷 小梅 柳島 亀戸、深川区
【これに続いて次の要領で町名を記載】
麹町区 代官町 明治12年4月甲第43号を以て東代官町西代官町を合併し代官町と改称す
--------------------------------------

「地理的には郡と重複するが、行政的には郡部と区別された特別地域」である「区」。
その具体的な指定に関する全国的な資料は、明治13年5月5日の 太政官第22号布告別冊 で見ることができます[62795]
明治11年7月第17号布告郡区編制法に依り 従前の一郡を分割し 或は新に郡名を設け 又は区【傍点】を設置するもの 別冊の通に候条 此旨布告候事
(別冊)(「 」中の文字は朱筆)【区名にはすべて傍点】
府県:東京、国:武蔵、郡区:「豊島の内」麹町区 神田区 日本橋区 (中略11区) 深川区
【以下、区の部分の抜き書き】
京都府山城国 「愛宕葛野の内」上京区 下京区 「紀伊の内」伏見区
大坂府摂津国 「四成【ママ】の内」東区 南区 西区 北区
神奈川県武蔵国 「久良岐」横浜区、兵庫県摂津国 「八部の内」神戸区、長崎県肥前国 「彼杵の内」長崎区、新潟県越後国 「蒲原の内」新潟区、堺県和泉国 「大島【ママ】の内」堺区、愛知県尾張国 「愛知の内」名古屋区、宮城県陸前国 「宮城の内」仙台区、石川県加賀国 「河北石川の内」金沢区、岡山県備前国 「御野上道の内」岡山区、広島県安芸国 「安芸沼田の内」広嶋区、山口県長門国 「豊浦の内」赤間関区、和歌山県紀伊国 「名草海部の内」和歌山区、福岡県筑前国 「早良那珂の内」福岡区、熊本県肥後国 「飽田託摩の内」熊本区
[74335] 2010年 3月 13日(土)19:57:34【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (2)三大都市の「区」は市域内に移行
今回から、明治21年法律第1号「市制・町村制」 の時代の「区」です。

[62662]88さん の記事にあるように、上記の法律(旧・市制町村制)は 大部分の府県について 翌1889年に施行されました。
また、かなり多くの府県では 1891年から1898年にかけて 明治23年法律第36号「郡制」が逐次施行されました。

これにより、「郡区町村編制法」で設けられた「区」と「町村」の多くの地域は、新制度に取って変わられることになりました。
事実「郡制」施行の地では、これに抵触する郡区町村編制法を廃止するという規定もあります[62732]
しかし これは郡部の話で、大都市においては、郡区町村編制法で設けられた“従来の区”が、意外にしぶとく生き残っていたのでした。

それを端的に示しているのが、いわゆる三市特例法 こと 市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件(明治22年法律第12号)です。
第1条 東京市京都市大阪市に於ては 市長及び助役を置かず 市長の職務は府知事之を行ひ 助役の職務は書記官之を行ふ
第4条 東京市京都市大阪市に於ては 従来の区を存し 毎区に区長1名及書記を置き 有給吏員と為し…

三大都市において行政機関として機能していたのは、有名無実の存在である(第1条)「市」ではなく、“従来の区”なのでした。

実は 前回の記事で紹介した 明治11年東京府布達第49号による 15区の名称区域 は、“明治30年12月現行”という「東京府布令類編纂」に掲載されたものであり、東京市発足後のこの時代でさえも、「15区」を説明するにあたり 明治11年の布達に 大きな修正をする必要がない と考えられていたことがわかります。

市制町村制の施行対象は、明治22年東京府令第26号【上記文書429コマ】では、
当府管下 東京 に市制を、荏原郡外5郡 町村 に町村制を施行す
と、一体的な市街地“東京”の領域が意識されており、“15区”とも“1400町”とも記されていません。
この市街地“東京”を領域として、地理的存在の「東京市」が誕生。但し、行政的には骨抜きの存在。

実際には、例えば「従来の芝区」だけでなく、荏原郡白金村の大部分も「新しい芝区」に編入されました。
[64891]は、市制施行の際に郡部から編入された区域を次の通り列挙しています。
荏原郡白金村(編入先:芝区)の他に、南豊島郡から下渋谷村(麻布区)・原宿村(麻布区と赤坂区)・千駄ヶ谷村(四谷区)・牛込早稲田村(牛込区)。北豊島郡からも小石川・雑司ヶ谷・巣鴨・高田の各村(小石川区)、東の方で下駒込・日暮里・谷中・千束その他の各村が本郷・下谷・浅草の3区に編入。
南葛飾郡に属していた須崎・押上・亀戸・大島などの村々は本所・深川の両区に編入。(以上 新旧対照市町村一覧 18~21コマ)

このように、三市特例法では“従来の区”としか書いてなかったものの、東京市発足の 1889.5.1 には、白金・原宿・早稲田などお馴染みの地域が、地理的存在ながら「東京市」の領域内になったのでした。1920年の内藤新宿町編入以上の大きな変化ですから、これを無視するわけにはゆきません。

「東京市の変遷」において、“区設置”となっている 1889.5.1の変更種別欄は、“区移行、編入等”とでも記したらどうでしょうか?
“区移行”の意味は、「区」は 行政的には東京府直轄体制 であることに変化はないものの、地理的には 市域内【東京市の領域内】に移行した という意味です。
“編入等”は、同時に 郡部町村の編入 などがあったことを示します。
[74354] 2010年 3月 14日(日)23:09:05【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (3)旧・市制 第60条による 3種類の「区」
始めに記号の説明。今回、「市制の下での区」に説明上の記号B1~B3を付すにあたり、「市の前身である区」にもAで始まる記号を付けることにしました。

[74334]では 郡区町村編制法により設けられた「第一世代の区」(A1)について、そして[74335]では、明治21年の法律(旧・市制)が施行された時代になってからも 三大都市に居座っていた“従来の区”について記しました。後者は、本質的にはA1の遺物ですが、別の特例法で残されているので、A2と呼ぶことにします。

(旧)市制に基づく 本来の「区」は、第60条第1項に規定されています。【明治33年改正後[63761][72207]
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得
区長及其代理者ハ名誉職トス
但東京京都大阪【及人口二十万以上ノ市】ニ於テハ区長ヲ有給吏員ト為スコトヲ得

便宜上3文に分けて記しましたが、これによって3種類の「区」を区別することができます。
B1 三大都市(東京京都大阪)の区【第60条第1項第3文】
B2 人口二十万以上ノ市の区【1900年改正後の第60条第1項第3文】
B3 一般の市【第60条第1項第1文“凡(およそ)”で、市一般に適用、第2文により区長は名誉職】

三大都市については、1889年以来の9年半は、三市特例法で残された“従来の区”(A2)が続いていました。
特例法廃止に伴なう 1898年改正の市制第3条にも まだ“従来の区”という言葉が残っていますが[74320]、3条後段、72条など他の規定も設けられ、区が市域内に移行するにあたり 郡部から一部の町村も編入されるなど、区の中身は様変わりしています[74335]

要するに、三市特例法廃止の 1898.10.1に至り、“凡そ市は(中略)之を数区に分ち 毎区区長…を置くことを得”という第60条第1項の規定通りに、「三大都市の中に区が設置された」(B1)ものと認められます。

この見方は、この時に出された 東京市、京都市、大阪市の区についての勅令 にも矛盾するものでないと思います。

人口二十万以上ノ市の区(B2)に関しては、2003年に [10991] Issie さんの記事がありました。
1900年に「市制」が改正されて人口20万以上の「市」には,市域を分割して「区」を設置し,市の職員(吏員)である「区長」を置くことができるようになりました。

2008年になって、今度は 勅令第98号として話題に登場しました。
[63657] むっくん さん
区制の項目に東京市京都市大阪市を除く外人口二十万以上の市の区に関する件(M33.3.31勅令第98号)第2条を付け加えた方がさらに充実すると私は考えます。

これに対するレス[63761] 88 さんで、勅令を発した元の 明治33年の市制60条改正も再発掘され、この一連の法律・勅令により区が設置された「二十万市」(B2)は、名古屋市の4区設置(1908)が 最初で最後であったことも示されました。
2年前のこの記事によると、ちょうど区制 100周年 ということで、さまざまな記念行事があったようです。
その後、[72201][72207]にも 88さんのレビューがあります。

一般の市の区(B3)というものが、制度上存在する可能性がある段階に留まらず、現実に存在していたことは、[72214] むっくん さんによる金沢市や仙台市の実例で知り、驚きました。

この他にも一般市の区(B3)の存在可能性はありますが、その実態は不明。変遷情報でも無視されています。
金沢市街統計表(M27.8.11)の吏員の欄に記載された「区長 7人」[72215]は、“区長…ハ名誉職トス”という法律と矛盾しないのか?

ついでに、(旧)町村制第64条 にも類似の規定がありました。
「町村の区」が存在していた可能性もあります。
[74376] 2010年 3月 18日(木)16:00:15【3】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (4)沖縄県区制 と 北海道区制
市の変遷 がデビューした機会に、これと深い関係を持つ「区制度の変遷」に関する情報を整理しています。

明治初期、最初は戸籍編成のために設けられた「区」は、やがて土地人民に関する事件一切を取扱う行政機構になりました。
区に大小を付けるところも多く、明治5年大蔵省布達第164号で大区小区制が原則になりました[58214]

[37785]
【島崎藤村誕生の地は】正確に書けば「筑摩県第八大区五小区馬籠村」でしょうが、…
[62550] [62613]
明治初年の地図を眺めてみると、明治8年 「東京四大区小区分絵図」の11小区の西側(第八大区四小区)に「朱引外」の字
【漱石の】父・夏目小兵衛は明治5年には第四大区の御用掛(明治6年12月区長)になっています。

しかし、この大区小区は 「市の変遷」に登場する区とは あまりにもかけ離れた存在 であるので、当面無視し、「市」の直接の前身と考えられる郡区町村編制法の 36区から このシリーズを始めました[74334]

実は [74334]で書き落していたのですが、明治11年の郡区町村編制法は、北海道では一足遅れて明治12年に施行され(おそらく明治12年7月23日 開拓使乙第4号布達[62816] 未確認、北海道には 2区(札幌区・函館区)が誕生して、郡区町村編制法の区(A1)は合計38区になったはずです。
但し、京都府伏見区は明治14年早々に 廃止

1889年施行の市制によって、37区のうち 14区はそれぞれ単独で「市」になりました。、三大都市にあった 21区は特例法により“従来の区”として存続しましたが、市域内に移行したので「A2」として区別しました[74335]。市制の対象外とされた北海道の札幌区・函館区だけが「A1」のまま。
1898年三市特例法廃止により三大都市の区は市制60条により市の中に設置された区になり(B1)、1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」である名古屋に4区が設置されました(B2)。[74354]

このように、市制に基づく区の制度は 1889年に一応はできていたものの、実際に発足したのは 1898年でした。
そして、この間に地域を限定して別の種別の区が発足していました。

それは、明治29年(1896)4月1日に施行された勅令第19号 沖縄県区制 です(C1)。
第1条 此の勅令は沖縄県に於て区と為す地に行ふものとす
第96条 此の勅令を施行する場合に於て初めて区と為す地は那覇首里の各区域とす

この区のために 全部で98条という 膨大な条文が作られていますが、その内容を見ると、議決機関(区会)はあるものの、県知事の強い監督下に置かれ、自治機能は弱かったようです。同日施行の勅令14号【261コマ】にあるように、那覇区長は島尻郡長が、首里区長は中頭郡長がそれぞれ兼任しており、本当に郡とは別なの?という感じです。
ここで、郡の名が出てきましたが、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山の5郡も、同日施行の勅令第13号【260コマ】によるもので、沖縄県では「区」はもちろん、「郡」も史上初登場でした[64956]

地域限定による新種の区は、北海道にもでき(C2)、上記郡区町村編制法の区(A1)と置き換わることになりました。
明治30年(1897)5月29日公布の 北海道区制(明治30年勅令第158号) がそれです。

この北海道区制も、府県に施行された市制に比べて自治が制限されていたようです。助役は 明治32年改正 で導入されたものの、参事会は設けられず。

施行日は、一旦 拓殖務省令 で同年10月1日と定られたものの延期され、明治32年勅令第378号による助役制導入などの修正を経て、明治32年(1899)10月1日に 施行されることになりました。同年の内務省令第44号

[71731]では“ 議会を備えた自治制度への第一歩ということで準備期間が必要だったのでしょう。”と書きましたが、いろいろと複雑な事情があったものと推測します。ついでに言うと、北海道一級町村制も先の拓殖務省令の明治31年1月1日施行から 2年以上延期されています[63738]

このような波乱はありましたが、明治32年(1899)10月1日に実現した「北海道区制」は、自治体への第一歩でした。
最初の北海道区制施行地は 明治32年内務省令第46号 により、札幌区・函館区・小樽区が指定されました。

この勅令の公布から施行に至る2年間には、北海道特有の制度である (3代目)「支庁」制度 ができ、すぐに(1897/11/5から)施行されています。
支庁制度施行時点の北海道では、郡区町村編制法による札幌区・函館区が存続しており、この2区は郡と同列に支庁の管轄区域に入りました。というか、函館支庁の管轄区域=函館区(A1)でした。

北海道区制で指定された明治32年(1899)10月1日の函館区(C2)は、従来の函館区(A1)に加えて亀田郡亀田村の内がその区域に加わったということだけでなく、区が支庁の管轄区域外になったという違いがあります。

本来のテーマの「区」から離れますが、支庁制度改正勅令 が示すように、管轄区域の消滅により従来の函館支庁はなくなり、亀田支庁は支庁位置を七飯村から管轄区域外の函館区に移し、(新)函館支庁に改称 しました。

地域限定の区は、その後も北海道(C2)では旭川(1914)、室蘭(1918)、釧路(1920)と増殖した後、1922年に6区がすべて市制の市になりました。
沖縄県の区(C1)は 明治41年改正[64956]の前後共に 2区(那覇・首里)のままで、1921年に市制を迎えました。

沖縄県区制・北海道区制関連で、昔の記事を紹介。
市制施行日と市の誕生日は、アーカイブズ第3号 のURLが示すように この落書き帳の古典的な話題です。
グリグリさんの[40621]が決定版になり、その後[43070]で市名誕生日が追加されています。

…ということで今更なのですが調べ直してみたら、落書き帳の草創期に M.K.さんの発言があり、那覇市が 41番目、札幌・函館・小樽3市が 52番目を獲得している 置市時期順 が提示されていました。

[140][154] M.K. さん
全国市長会館が発行する『日本都市年鑑』(中略)では、札幌市や那覇市について、「北海道区制」「沖縄区制」に基づいて区となった日を「置市」の日と扱っていたようですが……
手持ちのデータを若干修正したのですけれど、ついでにそれをウェブページにもしてみました。【URL修正↑】

[159] Issie さん
視点を変えればこういう配列も「あり」だと思いますよ。
それぞれの「市」にとってみれば,こちらの日付の方が重要かもしれませんね。
[99231] 2020年 2月 28日(金)14:51:01【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても 中身は区区(4.1)1897年 北海道庁官制施行に伴い設置された 札幌区と函館区
[99228] MI さん
1897(明治30)年11月5日は札幌区とともに函館区も設置され

[99223]でリンクしていただいた 19支庁表 を素直に読めば、
「北海道支庁の名称:北海道函館支庁」と その「管轄区域:函館区」とが定められています。

両者は 事実上同一の地域を指していますが、概念としては別個に存在しますから、[99227] hmt の
丸ごと函館支庁になった函館区は「自然消滅」し
は誤解であり、集計表から無視された原因ではなかったわけです。

本記事の冒頭でリンクしたように、北海道庁官制施行に伴い 郡区町村編制法を根拠とする 札幌区・函館区に変えて 同名の2区が設置され、「+2區」になりました。
当然のことながら、対象外の旧制度に関わる「-2區」は計上されません。

カウントから除外された原因は不明ながら、ありがちなミスと思われます。
むしろ当方が犯した「誤った深読み」をお詫びしたいところです。

【1】タイトル修正
【2】hmtマガジン収録に伴う分類【あまり使う機会はないかもしれませんが】「C pre2」にしました。[99232]
[74736] 2010年 4月 6日(火)16:49:55hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5)明治44年「市制」による区
だいぶ間が開いてしまいましたが、区制度の変遷 を続けます。

市の変遷 の出発点は明治22年。
これより前から存在していた「区」は、明治11年郡区町村編制法にもとづく 37「区」(A1)でした。

明治22年以降に府県に施行された市制町村制の下では、4種類の「区」がありました。
A2 三府の 21区は 最初は特例法により“従来の区”として三市域内に移行し[74335]、1898年まで存続
B1 1898年の三市特例法廃止により、上記のA2は東京・京都・大阪市の中に設置された区になる[74354]
B2 1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」の名古屋に4区を設置[74354]
B3 金沢・仙台など一般市の区 区長は名誉職 多数の存在可能性はあるものの、その実態は不明

市制町村制が施行されなかった北海道と沖縄県では、同じ時代に別の制度を根拠とする3種類の「区」がありました。
A1 北海道では、1879年に郡区町村編制法で設置された 札幌区・函館区 が 1899年まで存続
C1 1896年の沖縄県区制[74376] 市よりも制限されているが、自治体への前段階 那覇・首里の2区
C2 1897年公布、1899年施行の 北海道区制[74376]も同様 札幌・函館はA1からC2へ 他に小樽など合計6区設置

区の制度においても大きな変化のあった明治30年頃は、従来からの行政区画「郡」に自治体的な役割も兼ねさせる「郡制」を施行するための準備として、郡の再編が行なわれるなど、地方制度に動きがあった時代です。
府県制と郡制とは、共に 明治23年の旧法 から 明治32年の改正法 に更新されました。施行日一覧 [62662] 88 さん

この法改正に裏付けされた「府県の性格」の変化。首長はまだ官選でしたが、国の出先機関の行政機構から脱皮して、直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具え、「自治体」の性格が強くなりました。
このような地方自治の進展は、自治体としては先輩格の「市町村」にも影響を与えたはずです。

府県制・郡制の改正よりも遅れますが、明治21年の法律「市制町村制」は 全面改正されて、明治44年「市制」と明治44年「町村制」と2つの法律になりました。

明治44年「市制」(法律第68号) で設けられた 3種類の「区」 D1~D3を挙げておきます。

D1 勅令指定都市の区
勅令指定都市とは、“市制第6条の市の区”のことです。市制第6条には次のとおり記されており、その後段は 三市特例法廃止後の(旧)市制改正【明治31年法律第20号[74320]】により追加された 第3条第2項の後段と同じです。
勅令を以て指定する市の区は之を法人とす 其の財産及営造物に関する事務其他法令に依り区に属する事務を処理す

具体的に 東京市・京都市・大阪市 を指定した 明治44年勅令第239号 は、[72201] 88 さん にリンクされています。

この明治44年「市制」によって、三大都市の区は名実共に“従来の区”という言葉【上記改正旧法第3条第2項の前段】から開放されました。
実質的には後段により 市に所属する限定的な機関 になっていた B1[74354] を引き継いだものと言えます。

D2 省令指定都市の区
省令指定都市とは、市制第82条第3項 の規定により、内務大臣が指定することができる“区長を有給吏員と為すべき市”のことであり、勅令指定都市の区の規定が準用されます。具体的には 旧・市制の時代に既に人口二十万以上ノ市として4区(B2)を設置していた名古屋が、明治44年内務省令第14号 で指定され、その後昭和2年内務省令第32号による横浜市、昭和6年内務省令第14号による神戸市と続いています。[56763][72201]

D3 一般の市の区 
市制第82条第1項、第2項は、旧・市制第60条(第1項1~2文[74354])とほぼ同様に、“処務便宜の為”区を画し“名誉職”の区長及其の代理者を置くとしています。
つまり、[72214] むっくん さんにより金沢市や仙台市の実例が紹介された旧制度の一般の市の区(B3)に対応。

今のところ市についての実例を調べていませんが、たまたま手近にあった資料には 村の「区」 があり、一般の市町村における 同様な区の存在を示す資料 はいくらでもありそうです。
参考:町村制
第68条 町村は処務便宜の為区を画し区長及其の代理者1人を置くことを得
   区長及其の代理者は名誉職とす…
第78条 町村長は郡長の許可を得て其の事務の一部を助役又は区長に分掌せしむることを得…

明治44年5月8日 埼玉県入間郡大井村会議事録(大井町史 資料編III-1, 248頁)
本村に区を設置するの件  本件は異議なく設置することに決議す
そして、大井・苗間・亀久保・鶴ヶ岡の4大字が4区になりました。

隣接する福岡村でも、大正7年3月4日「役場移転に関する区長会議」がありました。上福岡市史資料編3巻453
[74867] 2010年 4月 11日(日)23:51:27hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張
先走って[74793] 東京都制による35区を先に書いてしまいましたが、その前に明治44年「市制」に基づく「区」[74736] が設けられた「六大都市」における「区域」の拡張について記すべきでした。そこで、枝番で処理します。

文政元年(1818)に幕府評定所で確定した江戸の範囲は老中決済を経て、「別紙絵図 朱引 ノ内ヲ御府内ト相心得」として公表されました。朱引は、町奉行支配境墨筋よりも拡張されており、主要部が墨筋の外だった新宿も朱引内になりました。墨筋突出の目黒は例外。

江戸に在勤していた諸藩の武士が明治になって引き上げると、東京は一時的に衰退しました。
荒れた武家地を桑畑や茶畑にして産業振興を図ろうとしたのが明治2年8月の「桑茶政策」参考pdf資料 です。朱引の範囲も、この時にかなり縮小されました[14798]

郡区町村編制法では、この明治の朱引線を目安として、朱引内に東京府直属の15区[74334]を、朱引外に6郡を設置しました。
明治22年に、形式的にせよ東京市が発足した際に、白金・早稲田など区域拡張があり A2の 15区になりました[74335]

勅令指定都市時代の東京市は、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入
新宿追分の京王線ターミナルも市内になったわけで、その後「四谷新宿」と改名したのも、区の名を誇りに思ったからでしょう。

このような区域の修正はあったものの、東京市の区域は概ね江戸の朱引内由来の15区のままであり、日本の産業構造の変化に伴う全国的な都市化の進行に合った行政区域になっていませんでした。

これに対して、大阪市では 1925年に区域の大拡張が行われ、京都市も 1931年に伏見市など隣接部を編入。
名古屋・横浜・神戸の3市も(省令指定より前を含めて)隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
その詳細は 変遷情報 で見ることもできますが、市の変遷にも抽出されています。

さて、市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

1918年に五大都市に準用された東京市区改正条例(翌年 都市計画法制定)が「六大都市」の起源であることは[53893]で記しました。
この「都市計画区域」になっていたのは、東京市及び隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域であり、東京以外の五大都市の周辺町村編入範囲も、それぞれの都市計画区域が基準になっていました。

現実に都市化したが財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。
これを救済するために東京市への編入が計画されますが、これは旧市域住民の負担増につながるという反対論がありました。

実は大都市を有する府県においては、府県財政を市部と郡部に分け、市部・郡部・市郡連帯の3方法により経費を支弁するという「三部経済制度」なるものが存在していたのですが(明治32年3月改正府県制付則第140条2項)、この制度は社会の実情に合わなくなっており、廃止の動きがありました。

ここで、東京市域拡張と三部経済制度廃止を同時に行うという案が出ます。
市域拡張による旧市域の負担増は、三部経済制度廃止のみを行う場合と大差なく、新市域が発展することによる税収増加等の利益は旧市域も享受できるという考えで理解が得られ、隣接5郡の一括編入 が 1932年10月1日に実現しました。

こうして実現した「大東京」には 20区が新設され、従来の 15区と合わせて 35区になりました。
続いて 1936年には 北多摩郡の2村も世田谷区に編入

子供の頃、それまで別の沿線と認識していた京王線の千歳烏山と小田急の千歳船橋とが、昔の村の名を共有していることを「発見」して興味をそそられた記憶があります。
[74793] 2010年 4月 9日(金)21:39:17【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (6)東京都制による35区
[74736] では、明治44年に全部改正された法律「市制」により、3種類の区の制度が設けられたことを記しました。
D1・ D2はよく知られた六大都市(東京市・京都市・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)の区ですが、市制第82条第1項に基づく D3「一般の市の区」は殆んど知られていません。

調査の結果、D3の根拠条文は、戦後の 昭和21年法律改正 により削除されていました。20コマ
第82条第1項乃至第3項を次のやうに改める。
内務大臣の指定する市は市会の議決を経て処務便宜の為区を画し区長を置くべし
区長は市吏員とし市長之を任免す

明治44年「市制」の施行期間は、同年(1911)から地方自治法施行の昭和22年(1947)までの36年間でした。
区制度の変遷という観点からすると、B1~B3を引き継いだ最初の段階が D1~D3[74736]で、(実態は不明だが)D3「一般の市の区」の制度も大部分の期間は存続していたのでした。

時代は大正デモクラシーから戦時体制へと移り、1943年に「区制度」の分野でも目に見える大きな変化が ありました。

それは、言うまでもなく、従来の東京市35区(D1)が東京都35区(D4)になった 「東京都制」 です。

第140条(35コマ)
区は法人とす 官の監督を承け其の財産及営造物に関する事務並に都条例の定むる所に依り区に属する事務を処理す
区の区域及名称は従来の東京市の区の区域及名称に依る

第1項の条文は、明治44年「市制」第6条の条文[74736]をほぼ踏襲しているように見えますが、“官の監督を承け”という官治主義的な字句が入っています。
区の法人格(140条)、区会(144条)、区長(152条)など、見かけは大きな変化はなさそうですが、官庁的な性格の強くなった「東京都」の区(D4)になったことに伴い、1898年10月1日以来自治体として活動してきた「東京市」の区(D1)であった時代に比べて、区の実質的な権限は縮小したものと思われます。

私の通っていた東京市愛日国民学校[22003]【誤記訂正[53601]】の所在地は、東京市牛込区から東京都牛込区に変りました。
これに伴う新しい学校名は 東京都愛日国民学校 であり、特別区の名前を冠する現在の 新宿区立愛日小学校 とは明らかな違いを見せています。
なお、愛日小学校の歴史 の 1941年の欄には 国民学校への名称変更 が書いてありますが、この段階で頭に付いていたのは、もちろん「東京市」でした。

1943年7月1日 東京都35区(D4)発足 の時点で存在した他の「区」は、勅令指定都市である京都市の7区と大阪市の22区が D1、省令指定都市である名古屋市の10区、横浜市の7区、神戸市の8区が D2でした。パラレルワールドの神戸市[74381]も、湊西区と兵庫区が共存しているだけの違いで9区。
[74935] 2010年 4月 14日(水)13:36:58【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (7)敗戦直後の大都市改革
このシリーズ区制度の変遷 も、明治・大正・昭和前期を経て、いよいよ戦後になります。

第二次大戦は、「区」が設けられていた六大都市に、大きな変化をもたらしました。
戦時中に都政が施行された東京[74320]と、大阪・名古屋・横浜[65179]・神戸[43161]は大空襲により大きな被害を受けました。
戦争による都市機能の壊滅により、区部の人口は激減し、税収も減って都や市の財政力は低下しました。

しかし、戦争がもたらしたものは、破壊と荒廃だけではありません。
既存の都市が失われたことは、戦災復興を兼ねた都市の再生にとっては絶好の機会でもありました。

2本の100m道路に象徴される 名古屋戦災復興都市計画 は、その代表的な成果でした。名古屋市技監としてこの計画の中心となった田淵寿郎は、1966年に名古屋市の名誉市民第一号に選ばれました。
結果的には空襲を免れた京都でさえも、強制疎開[48995][49021]による防火帯から、御池通などの広い道路ができています。

ところが、戦災復興のチャンスを本格的に生かすことができなかったのが東京です。

1923年の大震災後に行われた帝都復興事業は、内務大臣後藤新平による30億円(国家予算の2倍)規模の大方針で企画されましたが、結局は6億円に縮小。
それでも昭和通りや隅田川の橋を含む復興事業は1930年に完成し、今の東京でも重要なインフラになっています。

敗戦後の1945年に内閣直轄の戦災復興院が発足し、全国115都市を戦災都市に指定しました。
前記の名古屋復興事業もこれを受けて具体化し、技術者の田淵が招かれたのでした。

では東京はどうだったのか。戦前に名古屋都市計画の基盤をつくった石川栄耀が、既に東京都建設局長として在職していました。彼は2万haの区画整理、延長500kmの幹線街路整備、3000haの緑地計画という大規模な計画を作成しました。

しかし、急激な人口増加・財政難は石川プランの実現を許しませんでした。東京復興事業
かつての帝都復興事業以上に厳しい見直し・縮小を余儀なくされ、実際に行われた区画整理は 1652haに留まりました。


そして地方制度の面でも、戦前や戦時中の体制を改革する動きが、戦後に始まりました。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて、1946年9月27日に地方制度改革4法(昭和21年法律第26~29号)が公布されました。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。改正法27コマ、30コマ

付言すれば、この改正により、それまで官選であった東京都長官も公選になりました。
前記4法改正中の府県制改正で府県知事が公選になったのと同様です。
当選したのは官選都長官だった安井誠一郎。食糧難とインフレの時代で、「安いお米をせいいっぱい」という投票もあったとか。

都民の住宅の確保こそが最優先課題であるとの考えから、確信犯的行為として、上記 石川栄耀の大復興計画を握りつぶした都知事こそが、この人物でした。地方自治を掲げた戦後体制による民選知事が、内閣の機関である戦災復興院の意向をはねつけて、国と都の共同体制による復興事業を拒否した形ですが、後世から見ると、果してこれでよかったのか?

さて、上記昭和21年改正に続いて、東京都の区の整理統合問題が具体化しました。
昭和21年(1946)12月には、戦災復興と区の自治権拡張を目指して人口10万乃至30万を基準として整理統合する方針が出され、翌1947年3月15日に22区制発足(D6)。

これは、地方自治法施行の直前とも言える時期ですから、当然、特別区制度を見据えた措置でしょう。
地方自治法施行後の1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離して、現在に続く23区が出揃いました。

都区のあり方議事録 の9/10コマによると、「都と区の制度的変遷に関する調査研究」という冊子が存在するようです。その要旨は、2つのpdf資料 特別区の区域の沿革について昭和22年の区域再編 とに紹介されています。

今回の記事を作るにあたっては、この資料を利用しました。
[99187] 2020年 2月 18日(火)16:58:23hmt さん
東京都制の「特別な区」 と 地方自治法の「特別区」
[99173] グリグリさん 「全国の市区町村数の推移」リリース!
項目の並びの並びは次のようにしました。 市、区/特別区、町、村、市区町村(計)、…政令区
市と同格の区は単に「区」とし、政令指定都市以前の市の区は「行政区」の表記としました。

最初に、hmtマガジン「区制度の変遷」の まえがき から引用します。
「区」の根拠となる法律ごとに、A1~A2(郡区町村編制法など)、B1~B3(明治21年市制町村制)、C1~C2(沖縄県と北海道の区制)、D1~D6(明治44年市制と東京都制)、E1~E6(地方自治法)、F1~F3(合併特例法など)の記号をつけて、制度の概略を説明しました。
この記号の多さからも、市町村とは違う「区」の多様性を窺うことができると思います。

今回のリストは 1889年 法律「市制」の施行以降であり、郡区町村編制法時代の区【市の前身:上記区分のA[74334]】は対象外です。
リストの最初に登場する区は法律「市制」による「行政区」であり、京都2, 大阪4の翌月には東京15区が加わり、三大都市の21行政区(B1)時代がしばらく続きました[74335]

「市と同格の区」は 沖縄県と北海道の区制ですが、1896年出現後 1922年には「市」になり消滅。

さて、今回のリストでは 1943/7/1【法律「東京都制」の施行日】に 35特別区が出現 とあります。
この35区は、東京市が廃止された結果「東京都に直属する区」になったという意味では 確かに「特別な区」です。

しかし、その根拠となった東京都制第140条[74793]には「特別区」という名称は使われておらず、行政区の地位を引き継いだまま、東京市35区(D1)から東京都35区(D4)に移行しただけでした。

参考 [99155] hmt
「東京都制」時代は、府県制時代の東京市も 地方自治法の特別区も存在しなかった空白期です。
長期系列データに倣って(当時の東京都区域【35区>22区】を)仮に1市と扱い【要注釈】、「市町村数」を集計すればよいのではないかと思います。

1945年 終戦。Occupied Japan時代到来。地方制度についても敗戦直後の大都市改革[74935]が開始。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて公布(1946/9/97)された地方制度改革4法です。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。

実質的には、この戦後変化(D5)こそ「特別区」の前身と評価することもでき、この状態で 22区への統合(D6, 1947/3/15)もなされたのですが、形式的には行政区のままとして扱うしかないでしょう。

今回のリストに戻ると、1947/5/3 地方自治法施行日【法律・東京都制の廃止日】こそ 22特別区の発足日です。
[75012] hmt 制定当初の地方自治法による区
E1 特別区【特別地方公共団体】(83コマ)
第281条  都の区は、これを特別区という。【第2項省略】
第283条  政令で特別の定めをするものを除く外、第二編中 市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
特別区には、原則として市に関する規定が適用され、区長も1946年の35区(D5)、1947年の22区(D6)[74935]に引き続き公選でした。1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離し 23区になりました。

今回のリストについて言えば、23区になった後の特別区には統計上の数値変化がないものの、その中身は大きく変化しています。1952年の地方自治法改正による「都の内部的な部分団体」との位置付けを最低として、2000年施行の基礎自治体入りまでの回復を、過去記事の引用で綴っておきます。

[75018] 特別区の中身が変った 1952年
完全に市と同格とは言えない点があるものの、基礎自治体にかなり近い存在になっていた特別区ですが、発足後5年で逆コースをたどることになります。
当時、地方分権に対する逆風が吹いた理由は、特別区が強力な基礎自治体として存在すると、戦災復興など、大都市東京の経営に支障があると考えられたからでしょうか。(中略)1952年に基礎自治体の地位を失った特別区を、「E4」と記号で区別しておきます。

[75410] ようやく基礎自治体になったが、まだ「特別」区
1952(昭和27)年改正は、大都市地域 東京23区の統一性・一体性を確保しようとしたものでしたが、その 10年後の 1962年に人口1千万になった東京都は、「市」としての事務の重圧で 行財政が麻痺し、大都市問題(Tokyo Problem)が激化しました。

このような環境の変化により、その後は、特別区に権限を委譲する方向に向かい、1998年の法改正により、ようやく「基礎的な地方公共団体」になりました。【施行は2000/4/1】
「基礎的な地方公共団体」になったので、新しい記号「E6」を付けましょう。
1878年 東京府15区(A1)>1889年 東京市発足・その領域内に移行(A2)>1898年 三市特例法廃止で事実上東京市15区(B1)>1911年 勅令指定都市・東京市15区(明治44年市制)(D1)>1932年 市域拡張・東京市35区(D1のまま)>1943年 東京都35区(D4)>1946年 市に準じる35区(D5)>1947年3月 統合により22区(D6)>1947年5月 地方自治法による特別区22区(E1)>1947年8月 23区(E1のまま)>1952年 特別区は東京都の内部団体となる(E4)>2000年 基礎自治体の23特別区(E6)

蛇足
「特別区」には地方自治法で規定されている東京都の区部の他に、2012年に成立した「大都市地域における特別区の設置に関する法律」(平成24法律80号)が施行されています。
大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う2015年の住民投票は否決[87810]
その後も、「全国の市区町村数の推移」に登場するに至っていないことは、ご承知の通りです。
[74956] 2010年 4月 16日(金)15:41:08hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (8)金沢市の「連区」
日本国憲法・地方自治法の時代(1947/5/3~)に入る前に、旧制度、つまり「市制」時代の「区」につき、少し補足しておきます。

明治21年法律第1号「市制」の第60条第1項には次の規定がありました。[74354]ではB3という記号を付けました。
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得

この条文に基づけば、“どんな市でも、原則として「区」を設けることができたのですね。これは知らなかった。”[72205] と書いたところ、[72214] むっくんさん により 金沢市と仙台市の例 を示していただきました。
金沢市は、旧・市制施行直後の明治22年に13区、明治26~27年に7区が存在したとのこと。

ところで、金沢に「校下」という言葉があることは、この落書き帳の記事[39941][40038][65596]で知ったのですが、校下と町会 という論文に、金沢市の「連区」に関係する次の記載がありました。少し長いですが pdf資料の6コマ から引用しておきます。
-----------------
校下という言葉は 1925(大正14)年ごろから使われているという。この前年から近接町村第一次合併(野村、弓取村を合併)があったため、それまで使用されていた連区制が廃止されている。明治以降、金沢の行政単位として採用されていた連区制では、1区あたり平均 80町、人口2~3万人からなる 7区(通称7連区)がつくられており、この連区は、行政が行うべき道路整備、衛生、消防、土木工事といった活動を行うとともに、地域内住民の相互扶助、連帯の基盤となり、1918年の米騒動のときには民衆組織の中核的集団としての役割を果たすなど、明治、大正期における金沢市民の日常生活に欠かせない組織であった。
-----------------
文献として、橋本哲哉:近代石川県地域の研究【金沢大学経済学部研究叢書 1986】p.172が引用されています。

この文献では「連区」という言葉が使われていますが、金沢の7連区は、明らかに [72214]で紹介された旧・市制第60条第1項の区(B3)に由来し、明治44年市制第82条第1項の区(D3)へと引き継がれたものであると判断されます。

上記論文の 7コマには金沢市7連区の人口と町数(1919)が示されています。大正8年金沢市統計書 の現住戸口表には“旧第一連区”などと記されているので、連区はそれ以前に廃止されたのかもしれません。

いずれにせよ、旧制度の時代の金沢市には、B3やD3に分類される区が 大正時代まで存在し、学区としてだけでなく、広範囲な市民生活に関与する組織として機能していたようです。

市域の拡大に伴って公式には廃止され、「校下」に移行したとされる金沢市7連区。現在の使用例 もありました。

本題の「市制」時代の「区」から外れますが、「連区」という言葉が出てきた機会に、現代の「連区」を調べてみました。

現在、「連区」が一番使われているのは愛知県のようであり[65607] [65621]、一宮市HP内を検索したら、多数ヒットしました。
市長が 地域組織のあらまし を説明しています(広報一宮2005年7月pdf)。

旧一宮市は、16の連区に分かれ、525の町内会から連区長を選出。16連区のうち6つは市の中心部で、葉栗以下の10連区は1940年以降に合併した町村。旧尾西市は6地区、旧木曽川町は10区となっています。
呼び名は違いますが、それぞれほぼ小学校区をカバーする地域組織があったようです。

現在は 木曽川地域の議事録に、連区の各組織と市との関係 があり、旧木曽川町の区域も連区になっていると思われます。
[74958] 2010年 4月 16日(金)18:37:59【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (9)姫路市の区
「市制」の区【六大都市以外】を続けます。明治・大正時代の金沢市の7連区から、時代と場所がガラリと変ります。

1944年編集の米軍地図 飾磨・広畑・網干 は、[58792]牛山牛太郎さんが紹介してくれたものです。

戦時中の日本では「防諜」(スパイ対策)[28850] を理由として地形図の「戦時改描」をしていたものですが、敵が作っていた この詳細な地形図を見せられると、日本側の小細工で作られた「ウソの地図」など、何の役にも立たなかったことがよくわかります。

1941年に開通していた山陽電気鉄道網干線こそ抜けていますが、図の中央部には“1941年の概略配置”という注記を添えた 最新の広畑製鉄所 が描かれており、重要な目標物も敵に筒抜けでした。

姫路市周辺のこの地図を持ち出したのは、敗戦の次の年 1946年3月1日に、姫路市を含む2市3町3村が合併 した時に、6区が登場したからです。

この合併は、戦時中に姫路市長に就任した原惣兵衛が、戦後の日本に対する絶対的な権力を握っていた占領軍を利用して実現したもので、軍政官の名から「ラモート合併」と通称されます。[21922] またーり さん

それはさておき、ここで何故「区」が登場し、しかも五大都市のように市の全域ではなく、市の一部だけに設けられたのか? その理由が謎です。姫路市の「区」とは何か?

合併前の飾磨市、広畑町(飾磨郡)、網干町、大津村、勝原村、余部村(以上揖保郡)の区域が それぞれ1区になり、合計6区ができたのですが、姫路市と合併したのは 7町村。1つ足りません。
そうです、飾磨郡白浜町だった区域は、何故か白浜区になっていないのですね。

合併前の姫路市の区域は、1889年の市制施行以来 周辺の村を何度か編入して形成されたものですが、そこにも 区は設定されず、ラモート合併後に何度も行われた編入区域にも区は作られていません。

でも、ラモート合併当時の法律(明治44年市制)の市制第82条第1項には、
第六条の市【勅令指定都市】を除き 其の他の市は 処務便宜の為 区を画し 区長及び其の代理者1人を置くことを得
と書いてありました。だから、合併した旧市町村を「区」にすること自体は、合法的なのでしょう[72205]

区の根拠法が存在しても、わざわざ前例のない「区」を作ったのは何か理由があると思います。
こここら先は推測になりますが、「区」を作った理由を2つ考えてみました。

その1、合併相手、特に飾磨市への配慮。
飾磨市ができたのは1940年2月11日です。同じ兵庫県内の洲本市[49122][74036]と同日ですね。
せっかく「市」になったのに、6年後に姫路市の一部になって消えてしまうのは気の毒。
そこで、編入でなく対等合併の形にして、「飾磨市」だった旧市域を「飾磨区」にしてその名を残す。
町村だけなら市ほどの配慮を必要としなかったかもしれませんが、合併後5年の「広畑」など町村名も区として残す。

そうそう、「広畑」は、広村と八幡村とからの合成地名でしょう。>yamadaさん
【訂正】この件は間違い。[74965] 播磨坂 さんご指摘のように、合成でなく先祖返りでした[74977]

その2は、合併した市町村にそれぞれ独自の財産があり、その権利を保全する目的で「区」を設置したという考えです。
歴史のある港町の飾磨・網干、大規模製鉄所ができた広畑町などにも、町固有の財産があったかもしれません。

地方自治法には特別地方公共団体として財産区の制度があります。1946年には法律的には財産区の制度が施行されていなかったとしても、関係者は、当然財産区の考え方に影響されたはずです。近く実現する予定の財産区を先取りする。

こんな予想を抱いて姫路市例規集を覗いてみたら、いくつかの財産区がありましたが、6区の名は発見できず。
財産区であった可能性は小さいようです。

さて、上記「一般市の区」(D3)に関する規定は、昭和21年法律第28号(10月5日施行)で削除され[74793]、姫路市の6区は約7ヶ月で、「市制第82条第1項に基づく区」として存在する根拠を失いました。

では、どうするか。“「○○区○○」で一つの地名”という理屈にしたのですね。
旧市街地にある姫路市「新在家」との同名回避ならば、姫路市「網干区新在家」を姫路市「網干町新在家」に改めればOKとも思われますが、一度手に入れた「区」を手放したくなかったのでしょう。

姫路の雑学>姫路市の「区」でも、地方自治法以前の合併の名残、○○区というラベル付きで「一つの地名」、区役所なしの3点が強調されています。
姫路市には、…「区」が付く地名があります。これらの「区」は、東京都の特別区や政令指定都市の区とは違うものです。
姫路市の「区」は地方自治法が施行される以前の1946年3月に姫路市と…2市3町3村が合併したときの名残です。したがって、…○○区○○で一つの地名となります。
このような経緯から、…区役所などはありません。
[75012] 2010年 4月 22日(木)22:28:16hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (10)制定当初の地方自治法による区
「市の変遷」デビューを機に書き始めた 区制度の変遷 も、いよいよ地方自治法の時代になります。

昭和20年(1945)に戦争が終わり、9月2日に降伏文書が調印されて、日本は連合国(Allied Powers)の占領下になりました。

“大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という第1条で始まる大日本帝国憲法の地方制度は、中央集権的なシステムであり、地方自治に関する規定は存在しませんでした。

日本側当初の明治憲法部分修正案には 地方自治の規定がありませんでしたが、GHQ(連合国総司令部)は、権限と責任を地方にも分与すべく、都道府県および市町村に一定の範囲内で地方自治を認める規定を設けるべきであるとして、住民による直接選挙などを含む草案を出してきました。

これにより日本政府3月2日案に第8章 地方自治 が設けられ、GHQ草案になかった総則的規定も加えられました。
第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

地方自治の分野では、「地方公共団体」という言葉の使用や、住民による憲章(charter)制定→自治体による条例制定(94条)などの変更があったわけです。
このような過程でまとめられた「帝国憲法改正案」は、1946年10月までに 帝国議会で審議・可決 され、天皇の裁可を経て「日本国憲法」として公布されたのは、11月3日の明治節でした。

半年後の1947年(昭和22年)5月3日に「日本国憲法」施行。
そして、地方自治法も同日に施行され、従来の明治44年市制・明治44年町村制・昭和18年東京都制・明治32年道府県制(昭和21年まで府県制)は廃止されました。

このようにして施行された 地方自治法により、現在の「区」ができました。
…と、1行で片付けることができるわけがありませんね。
なにしろ、約63年前のこと。1889年(明治21年市制町村制の施行)から1947年までの58年よりも長期間を経た法律です。

制定当初の地方自治法 に規定された「区」は3種類です。

E1 特別区【特別地方公共団体】(83コマ)
第281条  都の区は、これを特別区という。【第2項省略】
第283条  政令で特別の定めをするものを除く外、第二編中市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
特別区には、原則として市に関する規定が適用され、区長も1946年の35区(D5)、1947年の22区(D6)[74935]に引き続き公選でした。1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離し23区になりました。

E2 特別市【特別地方公共団体】の行政区(81コマ)
1946年の地方制度改革4法[74935]審議に際して、五大都市に速やかに特別市制を実施する旨の附帯決議がなされました。
その趣旨に沿って、地方自治法制定にあたっては、特別地方公共団体である特別市[369]の制度が盛り込まれました。

特別市(79コマ)は、人口50万以上の市につき法律で指定されることになっており、都道府県の区域外にあり、一部を除いて都道府県に関する規定が適用されます。
特別市には法人格を有しない「区」が設置され、区長は公選、区議会は置かれないとされました[53841]
第270条第1項 特別市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて行政区を設け、その事務所を置くものとする。

しかし、五大都市のある府県からの反対があり、法律による特別市の指定はすぐには実現しませんでした。
シャウプ勧告に基き設置された地方行政調査委員会議による第二次勧告(1951)になると、特別市制を必要とする主な理由である二重監督・二重行政の弊害が事務の再配分により除去されるとして、再考を求めています。
結局は指定困難な状況のまま、1956(昭和31)年に特別市制度は廃止されたので、 E2の行政区も実現せずに終りました。

E3 五大都市の区(50コマ)
第155条第2項 政令で指定する市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて区を設け、区の事務所を置くものとする。
第3項 法律又は政令で特別の定をするものを除く外、行政区に関する規定は、前項の区にこれを準用する。

対象となる【初代】政令指定都市に関しては、[74207]で書いたように、五大都市が指定されています。政令
E2とほぼ同じである区の設置に関する条文や、第3項の準用規定から、特別市の行政区と同様に、旧制度[74736]のD1・ D2とは性格が少し変ったと思われますが、1922年制定の「五大都市行政監督ニ関スル法律」(1943年までは六大都市…)[53841] は存続しました。
[75018] 2010年 4月 24日(土)22:46:39hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (11)特別区の中身が変った 1952年
“…中身は区区”というタイトルで連載していますが、「区の中身」とは なんでしょうか?
法人格の有無といった視点もありますが、それよりも重要なのは、「区」が 住民にとって「身近な政府」であるのか、それとも特別区は 東京都という巨大な組織に従属する「出先機関」であるのか というような、実質的な機能でしょう。

住民にとっての「身近な政府」は、「基礎自治体」と呼ばれます。
もっとも、地方自治法の中には「自治体」という用語が使われていません。例えば第2条第3項では、「基礎的な地方公共団体」という言い方がされています。これは、憲法第92条で使われた「地方公共団体」という用語[75012]に従ったものでしょう。
# 旧警察法による「自治体警察」のように、別の法律では「自治体」の使用例があります。

三市特例法廃止以後、六大都市の中に設けられた「区」[74354][74736]は、「市」の下で限定的な事務を取り扱う性格が強かったと考えられます。自治体的な性格が皆無だったわけではないと思いますが、基礎自治体とは言えないでしょう。戦時体制下の東京都35区[74793]も、もちろん都の出先でした。

これを一変させたのは日本を占領した連合国軍です。当時は「進駐軍」という呼び方が普通でした。
「お濠端」の威光が「永田町」をしのいだ時代、1946年9月には、さっそく東京都制が改正され、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる35区」(D5)に変身しました[74935]
法律の文言には現れていませんが、実質的にはこれが「基礎自治体たる区」の初登場でしょう。

「身近な政府」に変身した35区は、22区(D6)への統合を経て、1947年に地方自治法の23特別区(E1)になりました[75012]

東京都に市としての性格を認める規定【地方自治法附則第2条但し書きにより東京都制第191条の規定がなお有効】が存在し、完全に市と同格とは言えない点があるものの、基礎自治体にかなり近い存在になっていた特別区ですが、発足後5年で逆コースをたどることになります。

当時、地方分権に対する逆風が吹いた理由は、特別区が強力な基礎自治体として存在すると、戦災復興など、大都市東京の経営に支障があると考えられたからでしょうか。
pdf資料「都区制度の改革」平成17年中間のとりまとめ報告 の 4/16 に次の記載があります。
【地方自治法】施行後わずか5年を経た 昭和27年の地方自治法改正では、都を「特別区の存する区域を基礎として成立する基礎的地方公共団体である」とし、特別区を都の内部的な部分団体と位置付けた。

地方自治法の昭和27年改正 を調べてみたところ、直接に上記のような表現の条文を見出すことはできませんでした。
しかし、特別区に関する規定は確かに改められていました(44コマ)。
新たに設けられた第281条第4項では、第2項【特別区の事務を10項目限定列挙】を除く外、特別区の存する区域においては、市が処理すべき事務は、“都がこれを処理する”となっていました。
更に、第281条の2によって、“特別区の区長は、…特別区の議会が都知事の同意を得てこれを選任する”ことになり、1946年の区長公選制も廃止されました。

このように、1952年に基礎自治体の地位を失った特別区を、「E4」と記号で区別しておきます。

もっとも、1000万都市の東京都は「市」の事務による重圧に音を上げ、その後は、特別区に権限を委譲する方向になります。
すなわち、昭和39年(1964)改正で1952年の10項目は21項目になり、課税権の法定化、都区協議会の設置など特別区の巻き返しがあります。
そして、昭和49年(1974)改正では、区の法的性格は従前どおりながら、区長公選制も復活。人事権、事務配分原則の転換など「市並み」の自治権付与が「一つの試み」(資料 12コマ)として実現しました。
[75025] 2010年 4月 25日(日)16:42:45hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (12)政令指定都市誕生 1956年
「区」と言えば、東京の23特別区を除けば、「政令指定都市の区」というのが常識ですが、ようやく出番です。

昭和31年(1956)9月1日に施行された 地方自治法改正。この時に、「第11章 大都市に関する特例」が新設されました。
第252条の19(18コマ)
(第1項)政令で指定する人口五十万以上の市(以下「指定都市」という。)※は、次に掲げる事務のうち都道府県※が法律又はこれに基づく政令の定めるところにより処理※することとされているものの全部又は一部で政令で定めるものを、政令で定めるところにより、処理※することができる。(1号から16号までを列挙)
第252条の20(20コマ)。
(第1項)指定都市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けて区を設け、区の事務所又は必要があると認めるときはその出張所を置くものとする。
(第2項)区の事務所又はその出張所の位置、名称及び所管区域は、条例でこれを定めなければならない。
(第3項)区の事務所又はその出張所の長は、事務吏員を以ってこれに充てる。
※部分(削除)、区長資格者の表現など少し変更された点はありますが、条文自体は、概ね現在に受け継がれています。

“法律で指定される”はずだった1947年特別市[75012]が、現実には日の目を見ることができなかったのに対して、1956年の「指定都市」は、大阪市・名古屋市・京都市・横浜市・神戸市が 政令 で指定されました。改正法と同日に施行。

この昭和31年地方自治法改正によって、政令指定都市の区(E5)が出現しました。
第三編第一章特別市(21コマ)と第155条第2項(【初代】政令指定都市)(6コマ)の制度は廃止され、従って[75012]で記した特別市の区(E2)と五大都市の区(E3)も消滅。
新しい法律の整備により存在意義を失った五大都市行政監督に関する法律([75012]の末尾)も、もちろん廃止(71コマ)。

新制度による区(E5)の名称は、条例で定めること上記法律の通りですが、もちろん五大都市の場合は、それ以前からの区(E3)を引継ぎました。
以前に「保土ケ谷区」[70564]で話題にした横浜市の場合、条例制定は1959年となっていますから、少し後のこと。

それから半世紀余り。最も大きく変わったのは、5つから19になった指定都市の数と、それに伴う区の数です。

政令指定都市については、この落書き帳の読者に改めて説明する必要はないでしょうが、要点を一つだけ。
[56824] hmt  指定都市
1956年に生まれた政令指定都市は、…大都市における効率的な行政を意図したものですから、行政権限の拡大が最大のポイントになります。

第252条の19第1項に列挙された各号がそれですが、その後の法改正による改変があり、現在は枝番付きの15号まで(19項目)。
それよりも重要なのは、地方自治法以外の法律により委譲された権限があることです。なじみ深い制度を2つばかり。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律 第58条第1項
 原則として都道府県教育委員会に属する県費負担教職員の任免権が、指定都市の教育委員会になる。
道路法 第17条第1項
 原則として都道府県に属する指定区間外の国道の管理を、指定市の区域内では指定市が行う。

こういうのを全部拾い出すと、[11805] seahawk さんの表になるのでしょうが、とても頭の中に入りません。

“政令指定都市”という呼び方について。
この通称が一般的ですが、政令のタイトルに使われていた“地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市”が正式なのでしょう。地方自治法では、第12章や第1節の表題には“大都市”を使い、条文中では“政令で指定する人口五十万以上の市(以下「指定都市」という。)”と定義しています。
地方教育行政の組織及び運営に関する法律では“指定都市”、道路法では“指定市”という言葉を使っていました。

「政令指定都市の区」から外れますが、[75018]で言及した「基礎的な地方公共団体」という言い方は、この1956年の地方自治法改正で登場したようです。2コマの左から2行目。現在の第2条第3項の文言(当時は第4項冒頭)です。

余談:本日の東京新聞サンデー版・大図解シリーズは、日本の大都市制度 でした。
[75410] 2010年 6月 27日(日)11:12:13【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区 (13)ようやく基礎自治体になったが、まだ「特別」区
htmマガジン にまとめたい 特集は いろいろありますが、とりあえず 「都道府県」と 「市町村と区」を中心に進めています。
その中で、まだデビューしていないのが「区」です。

グリグリさんが立ち上げた 新メニュー 「市の変遷」[74292] に刺激されて始めた 連載 区制度の変遷 が、4月に 途切れていたので再開します。

東京の「区」の制度は、占領下の 1946(昭和21)年から、日本が独立を回復した1952(昭和27)年の間に大きく変りました。

1946年東京都制改正で「市に準じる区」(D5) 公選区長。区条例・区規則制定、課税、起債の権利。[74935]
1947年地方自治法制定による「特別区」(E1) 東京都制末期に実現した基礎自治体的な性格を承継。[75012]
1952年地方自治法改正により“東京都の内部団体”になった特別区(E4) 区長公選廃止。区の事務は制限列挙し法定化。[75018]

1952(昭和27)年改正は、大都市地域 東京23区の統一性・一体性を確保しようとしたものでしたが、その 10年後の 1962年に人口1千万になった東京都は、「市」としての事務の重圧で 行財政が麻痺し、大都市問題(Tokyo Problem)が激化しました。

このような環境の変化により、その後は、特別区に権限を委譲する方向に向かいました。
1964(昭和39)年改正で、1952年に制限列挙された区の事務10項目は21項目になり、課税権の法定化、都区協議会の設置がありました。
1974(昭和49)年改正では、区の法的性格は従前どおりながら、区長公選制も復活。人事権、事務配分原則の転換など一応「市並み」に近い自治権が実現しました。

23特別区の性格を 「基礎的な地方公共団体」 と明確に法定化することについては、既に 1990(平成2)年の 第22次地方制度調査会答申 で方向づけられていましたが、清掃事業移管問題での紆余曲折があり、法改正は 1998(平成10)年になって ようやく実現しました。

1947年発足当時の 特別区(E1)は、GHQにより与えられた 基礎自治体的な性格(1946年のD5) を承継していましたが、まだ 基礎自治体 という言葉自体がなかった時代であり、88 さん のコメント[55583] にあるように、
「基礎的な地方公共団体」となったのは、平成10年(1998年)の地方自治法改正(施行は平成12年(2000年)4月1日)以降
ということになります。

「基礎的な地方公共団体」になったので、新しい記号「E6」を付けましょう。
1878年 東京府15区(A1)>1889年 東京市発足・その領域内に移行(A2)>1898年 三市特例法廃止で事実上東京市15区(B1)>1911年 勅令指定都市・東京市15区(明治44年市制)(D1)>1932年 市域拡張・東京市35区(D1のまま)>1943年 東京都35区(D4)>1946年 市に準じる35区(D5)>1947年3月 統合により22区(D6)>1947年5月 地方自治法による特別区22区(E1)>1947年8月 23区(E1のまま)>1952年 特別区は東京都の内部団体となる(E4)>2000年 基礎自治体の23特別区(E6)


2000年4月の施行から 「平成12年改革」 と呼ばれているこの制度は、東京都の区について、戦後に行なわれた一連の制度改革の到達点でしょうか。それとも新たな改革への出発点になるのでしょうか。

23区は「基礎的な地方公共団体」ではあるが「普通地方公共団体」ではない。このあたり、まだ「特別」区です。
大都市地域行政の一体性・統一性確保のためとして、事務処理と税の賦課徴収に特例が設けられています。
例えば一般には市町村が行う事務である上下水道・消防などは都の仕事で、都区財政調整制度が存続しているなど、23区は、まだ完全な自治体ではありません。

新たな改革への模索としては、「都の区」の制度を廃止し、人口・面積・財源などの異なる基礎自治体が、自立性を維持しながら対等に協力して相互補完する 「基礎自治体連合」構想 が、2007年12月に提案されています。第二次特別区制度調査会報告 概要版pdf

大東京市の残像を払拭した普通地方公共団体「東京○○市」の連合体による新しい自治モデルは実現するのでしょうか。
[75424] 2010年 6月 29日(火)11:22:38hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (14)「市町村」と「区」
一口に「市区町村」と呼びますが、どうも「市町村」と「区」とは少し素性が違うようです。

人々が集まって住み始めれば「村」ができます。多くの人が集まるのに便利な拠点には、「町」(丁)が形成されて交易が行なわれます。
市場の立つ大規模な町、又は町の集まりに 「市」という名 が付いたのはずっと新しい時代でしょうが、「市町村」は人々が集う暮らしの中から生まれたもので、まさに「自治体」又はその前身であったと思われます。

これに対して、「区」は、統治者の側から生まれた 「管理用の区画」 であると思われます。
「版籍奉還」という言葉が示すように、統治の対象は 土地(版図)と人民(戸籍)と であり、検地帳や人別帳により、その状態を把握することは 統治の基本 でした。
武家政権から 奉還された版籍 を管理するために、明治政府が 最初に行った重要な仕事に、戸籍の整備がありました。明治5年(1872)の 壬申戸籍 がこれですが、その前年に制定された 戸籍法pdf[58214] の第三則に「区」が登場します。

凡そ区画を定むる譬は 一府一郡を分て何区或は何十区とし 其一区を定むるは 四五丁もしくは七八村を組合すへし

最初は戸籍用だった区は、大区小区制として 行政用区画 に広く使われますが、改革を強行した 大久保利通 が暗殺された直後には、長年使われてきた階層が復活した 郡区町村編制法(1878) になります。
全国をカバーするのは「区」でなく 「郡-町村」 に戻りましたが、第4条では「三府五港其他人口輻湊の地」に限って、別次元の経済特区としての36区(A1)ができ、今回連載の 第1回[74334]は ここから始めました。

連載の 第12回[75025] になって、現在に続く 政令指定都市の行政区 が登場しました(1956年9月1日)。
「地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令」という長い名の政令により指定されたのは、戦前の六大都市から 都になった東京を除いた5市で、区(E5)の数は合計61でした。
大阪市22区 名古屋市12区 京都市9区 横浜市10区 神戸市8区

# その前9年間には、忘れられた「初代政令指定都市」[74207]の区(E3)[75012]がありました。
戦前に遡れば勅令指定都市や省令指定都市の区(D1、D2)[74736]がありました。

1956年の発足当時 5市61区 だった 政令指定都市とその区 は、2010年4月の相模原市3区を加え、合計19市、170区を数えています。
# データベース検索で政令指定都市の区を集めることはできますが、「市名」を表示させることができないのですね。

冒頭に戻り、「区」を「市町村」とを併称する場合、「市区町村」という言い方がよく使われます。
政令指定都市の内部機関にすぎない行政区を、基礎的自治体である町村よりも上位に置くのは、筋違いのようでもあります。
しかし、さほど不自然を感じさせずにこれが使われているのは、「町」が自治体だけでなく「町丁字」の町と二重の意味も持ち、「区」よりも小規模な「町」の存在に慣れているせいでしょうか。

しかし、東京の23特別区ともなると、これはまさに「特別の区」であります。
その多くは市を上回る規模の自治体で、「区市町村」 と呼ばれています。

地方自治法の中では、
普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
のように、多数の箇所で「市町村」を使っていますが、「区市町村」も「市区町村」も出てきません。
戸籍法も同様です。[75279]末尾のコメント行。

明らかに性格の異なる「特別区」と「政令指定都市の行政区」とを、同じ「区」に省略して「市町村」に加えた包括的表記で使うのは、どっちにせよ無理があるのでしょう。
…というわけで、htmマガジン のテーマは、「市区町村」も「区市町村」も避けて、「市町村と区」にしました。

特別区制度はいろいろと議論のあるところで、[75410]の末尾には「東京○○市」となって連合体を作るモデルを紹介しました。
「市になろう」という特別市からの声は前からあり、落書き帳アーカイブズに 千代田区世田谷区 にからむ記事が集められています。
現実問題としての評価はともかく、妙案奇手が飛び出したりして、なかなか楽しめる記事があります。
[75425] 2010年 6月 29日(火)17:41:39【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (15)住所に使われる「新種の区」
姫路市飾磨区、広畑区、網干区…。
政令指定都市の行政区でなく、もちろん特別区でもないのに、住所に使われている姫路市の6区は奇妙な存在でした。
姫路市の「区」とは何か? の最後に紹介されている姫路市HPへのリンクは切れていますが、 姫路の雑学 と思われます。
市の公式見解によると、「姫路市飾磨区…」などの「区」は独立の存在ではなく、「地名の一部」です。
…○○区○○で一つの地名となります。

現在の位置付けはその通りとしても、戦後間もないラモート合併[21922]の当初からそうであったとは限りません。当時存在した市制第82条第1項に基づく区であった可能性があります[74958]

宇部市にあった「区」とは何か? も話題になり、[8885]は9区の名を挙げています。現在は正式の住所から消えたものの、日常生活では使用中[18901]とか。

「区」のつく住所表記については、僅か50日間[2536]ですが、北九州市に姫路市と同様の事例がありました。
[20976] ゆう さん
5市合併前--- ○○市【△△町】
5市合併後--- 北九州市【○○区△△町】
政令指定後--- 北九州市○○区【△△町】

ゆう さん が引用した[20959]には、“現在では下記の行政実例に抵触”とありますが、元の記事が削除されているため、行政指導の詳細は不明です。(当時は)東京都と政令指定都市以外の「区」は、公式の住所表記には使えなかったということでしょうか。

さて現在は…
2005年に、住所に使われる「新種の区」が登場して、状況が変りました。

ニジェガロージェッツさんによる 「区」コレクション の冒頭には、「合併に際し、旧市町村を区としたもの」という項目があります。
この中には1946年の姫路市6区も含まれていますが、その他の 13市町44区 すべては、2005~2006年の合併又は編入による地域自治区又は合併特例区であり、これがタイトルにも書いた「新種の区」です。

住所に使われる「新種の区」が、具体的な名と共に落書き帳の記事に現れたのは[33723]の上越市でしたが、2006年1月になると、現在のコレクション 44区の大部分 37区がまとめて紹介されています。

[48751] 今川焼 さん
東京特別区と政令指定都市は別にして、合併に当たって「区」を設ける市や町がこのところいくつか誕生しているようです。姫路市の区については以前から話題になっていますが、最近誕生した「区」は、合併前の町村の名を残すという意味合いがあるのでしょう。
どれくらいの導入例があるのか調べてみました。【10市町、37区】

専門家でないので合併用語に戸惑いますが、市町村合併資料集 の中にある地域自治区等の設置状況一覧(2007/10/1現在) の11-14コマに掲載されたリストによると、3種類の「区」があります。

合併特例区(F1) 6市町、16特例区【北海道せたな町の3つの合併特例区が○○区を名乗る[48758]
旧合併特例法に基く地域自治区(F2) 38市町、104自治区【内、12市町、41自治区が○○区を名乗る】
地方自治法に基く地域自治区(F3) 17市町、123自治区【香取市は○○区を名乗るが、住所には使わず】

上記のリストと、「区」コレクションのリストとの対比でもわかるように、住所に「区」が付くのは、地域自治区・合併特例区のすべてではありません。

さて、住居表示に関しては 地域自治区の名称を冠する規定([41724] 百折不撓 さん)がありますが、合併関連の地名における住居表示の実施地域は少なく、実務上の影響が大きいのは、[48804]で suikotei さんが紹介された 2004/10/19総務省自治行政局長通知 により改正された「住民基本台帳事務処理要領」でしょう。
その結果、国(総務省)の通知に従うならば、各市町村は住居表示未実施区域であっても、住民票の住所に「合併特例法による地域自治区」(F2)と「合併特例区」(F1)の名称を記載することになりました。

もっとも、地域自治区や合併特例区の名称に「区」を使わなければならない決まりは無いので
神奈川県津久井郡津久井町(つくいまち)が相模原市への編入に際して設置した地域自治区の名称は「津久井町」(つくいちょう)でした。
この4月に緑区になるまで「相模原市津久井町青山」という住所だったのは、こういう仕組みでした。

ところが、新潟県中頸城郡柿崎町の上越市への編入により できた地域自治区の名称は「柿崎区」。
だから柿崎区総合事務所の場合は 上越市柿崎区柿崎6405番地と、自動的に「区」のついた住所になります[33723]

地域自治区の名称が「○○区」であっても、これが住所に使われるとは限りません。
それは、前記総務省通知の対象が 合併特例法関連 であり、地方自治法に基く一般制度としての地域自治区(F3)に及んでいないからです。従って、香取市の4地域自治区(設置状況一覧11コマ)の一つである小見川区事務所は 香取市羽根川38で、所在地に「小見川区」が入っていません。
横手市横手区については、「横手市横手区横手町」になる煩雑を避けて、F2でなくF3にしたとか[48804]

合併特例法については アーカイブズ がありますが、地域自治区とその住所表記に及ぼす影響に関する記事をまとめてみました。併せて、地域自治区の事務所などに関する記事も集録しました。地域自治区

おまけ
[1346] Issie さん
長野県の生坂村に「区」という行政単位があります。

これは、地方自治法等に定められた行政区(E5)・特別区(E6)・地域自治区等(F1~F3)とは別であり、[74958]で少し触れた財産区とも違う「区」です。従来からの慣習として存在するのでしょうね。宇部市の同類かもしれません。
長野県東筑摩郡生坂村の 広報いくさか
2/14には、10区の村政懇談会が記され、小立野区、下生野区、大日向区…などの名があります。住所には使われていません。

これで、同じ名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち)であり、誤解されやすい「区」の態様と変遷を綴る シリーズ を終ります。
[75709] 2010年 7月 28日(水)13:19:01【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (16)上越市の地域自治区
[75705] ひぃ さん  直江津市・・・?

今朝の出発地は? 「直江津」です。
「直江津の市街地」を意味する回答だったのでしょうが、これを「直江津市」と省略すると、自治体名の誤記かと思われてしまいます。注意した方がよさそうですね。ましてや、プロの報道機関ですから。

元々、出発地を表す言葉として、「直江津」は必要かつ十分な情報を伝えており、「市」など付ける必要はありません。
1971年に直江津市が高田市と合併して上越市になったのは、現代の行政の都合であり、そのことが、長い歴史を持つ港町固有の地名「直江津」を左右するものではありません。

行政手続やそれに関連した記事ならば「上越市」を使うのが適切でしょう。しかし、今回のバス追突事故の出発地を、わざわざ「上越市直江津」と報じる意味はないと思います。旅行先の佐渡島を「佐渡市」と記さないのと同じことです。

時事ニュースを題材にして こんな議論を展開したのは、日頃から、道路標識の「大宮」「浦和」が「さいたま」にされてしまったことに憤りを感じている[42974]からなのですが、せっかく 直江津が登場した機会に、「直江津の市街地」にできた行政地名の「直江津区」について記しておきます。

でも、住所にも使われていない「上越市直江津区」の存在は、地元以外には殆んど知られていないでしょう。
実は、私もこの記事を書くために 上越市地域自治区の区域 を確認するまで、「直江津区」など 15区が、昨年10月に設置されたことを知りませんでした。

新潟県上越市は 2005年の 13町村編入 に際して、旧町村それぞれを単位に 地域自治区 を設定しました。
その際には、1971年に合併した 旧市域(高田市・直江津市の区域)には 地域自治区が設定されませんでした。[75425]を書いた時には 地域自治区設定の動きが多少は気になっていました。でも、未確認のまま。

今回確認した資料によると、2005年設置の13区(旧町村)は住所に区名が入るが、2009年設置の15区(旧市域)は住所に区名が入らないのですね。

何か不統一な感じですが、15区は合併特例法対象外の旧市域だから、住所に「直江津区」を付けるわけにゆかないのでしょう。
[20976]で引用されている行政実例に抵触?
つまり、香取市小見川区や横手市横手区と同類で、[75425]の「F3」に該当する区であると理解しています。

ニジェガロージェッツさんによる 「区」コレクション についても、せっかく 15区もあるのに、基準の(1)(2)(3)いずれにも該当しないようです。残念。
[76149] 2010年 9月 4日(土)15:05:20hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (17)住所表記に使われる区・使えない区
[76134] ペーロケ さん
(沖縄県)東村高江では区内に水を送るポンプが停止…区民らは…仮設タンクから生活用水を確保…区長は…
[76137] まかいの さん
自治会、町内会を「○○区」と呼ぶ…小さい頃からなんの違和感もなく普通に使用していました。
[76138] 右左府 さん
山梨県増穂町(当時)を訪れた時、町内各所に設置された…倉庫に「大椚区」「天神中条区」などの区名が…
[76141] オーナー グリグリ さん
富山市の通学区案内…には、大泉1区南部を始め、数多くの区表記があります。
「大泉幼稚園:富山市大泉1区東部1466」…住所表示の中の区はまだまだ奥が深いようです。

昔の記事から補足
[1346] Issie さん
長野県の生坂村に「区」という行政単位があります。
長野県では集落ごとの住民自治単位を「区」と呼んでいる自治体が多いようです。
[18901] まるちゃん さん
宇部旧市内(宇部村)は西区,東区に分け,さらに後の合併された村は,そのまま,藤山区,厚南区,東岐波区....などとつけられていました.
現在は…正式の住所からは区としての表現はなくなったと思います.でも…日常生活ではいまだに使われています.

区制度の変遷 では、主として大都市において公式の行政区画として使われる「区」について記しました。
主流からちょっと外れた存在として、明治・大正を主とする金沢市の「連区」[74956]についても紹介し、現代でも「連区」が使われているのは 愛知県であると言及しました。

ラモート合併の際に誕生した姫路市の区[74958]は、現在でも住所に使われていますが、例えば「網干区新在家」という町名の一部としての使用に限られ、「網干区」という名の行政単位は存在しないようです。

「区」コレクション の分類(2)には、住所として用いられ地図上で確認できる「区」が挙げられています。
上記[76141] グリグリ さんの発言でも、住所表示に触れていたので、大泉幼稚園の“大泉1区東部”を求めて、富山市の町名一覧 を調べました。

地区別町名一覧 の4コマ 堀川地区を見ると、通称町名の中には“大泉1区南部”など「区」の付く町名が多数ありますが、「区」が使われた公式町名はありません。

住所の表示方法について には、“通称町名を使う場合は公式町名の後にカッコ書きで併記してください”とあり、富山市からは日陰者扱いになっています。

富山市町名一覧50音順も含め、富山県HP内の大泉幼稚園の所在地“大泉1区東部”は、通称町名としてさえ確認できず。

結局のところ、現存する「区」に関して、私が現在理解するところをまとめると、次のようになります。

住所表記に使用される「区」は、公式には4種類。

東京都の特別区:[75410]の E6。2000/4/1から「基礎的な地方公共団体」。
政令指定都市が条例で定める行政区:[75025]の E5。現在 19市・170区
合併特例区:[75425]の F1。北海道せたな町に3区[48758]
合併特例法による地域自治区:38市町、104自治区の内、12市町、41自治区が○○区を名乗る。

上越市の「区」の内、安塚区・柿崎区…など 13区は、上記住所に使われる地域自治区の例ですが、直江津区など旧市域に昨年設置された 15区は、住所表記に使用されません[75709]。ややこしい。

今回話題なったのは、もちろん住所表記に使用されない「区」です。但し、
姫路市方式 = 町名の一部に「区」という字が使われているだけ
この論理でいけば、住所表示に「区」を使うことは事実上可能でしょう。富山市の幼稚園の住所も、たまたま(通称)町名の一部に「区」という字が使われているだけと理解することができます。

長野県・沖縄県・静岡県・山梨県の各事例で紹介された地域自治組織。
愛知県の連区も含めて、存在自体はある程度公式のものであろうと推測します。
しかし、呼び名としての「区」は、上記4種類ほどの地位を獲得しておらず、(その実体は不明ながら)行政指導によって住所に使えないのでしょう。
[78493] 2011年 6月 6日(月)16:18:29【1】hmt さん
大田区の 「市」になる運動(1)1949年 区議会で議決
[78472] オーナー グリグリ さん に修正していただいた部分の確認がてら、市町村雑学・東京市ってあったの? を再読していたら、下記の文が目にとまりました。
昭和24年(1949年)4月に大田区議会では、特別区制をやめて独立した市になることを議決したほどです(実現はしませんでしたが)。

そこで、「特別区」と「市」との関係についての 落書き帳記事を 振り返ってみました。

私は、区制度の変遷 の中の (14)「市町村」と「区」 と題する記事で、 「市」と「区」の素性の違いを記したことがあります。
つまり「市」は 人々が集う中から生まれた「自治体」であり、「区」は統治者の側から生まれた 「管理用の区画」 であるという認識です。

都区制度改革の新たな模索として、特別区を完全な自治体とする「東京○○市」連合体モデルがあることは、少し触れました[75410]

[75424]の末尾には、「市」になりたいという意思を表明した千代田区[348]や、“区長は政令指定都市を目指す、と言ってる” 世田谷区[3747]についてのアーカイブズにも触れました。
しかし、正直なところ、これらは「言ってみただけ」で、一過性の話題であったという感じがします。

ずっと前の 1949年頃に、かなり本格的に“「市」になる運動”を展開したのが、市町村雑学で言及された 大田区です。
しかし、落書き帳発足以前のことでもあり、グリグリさんが 初期の記事[230] [348]で 簡単に触れている程度です。

前置きが長くなりましたが、地方自治法施行当初の時代に行なわれた大田区の運動は、都区制度を考える上で、重要なステップであったと思われます。
「区」制度の変遷について、多くの記事を書いてきた私ですが、この大田区独立運動は、これまでの言及から抜け落ちていました。雑学によって今回気が付いたので、資料を再発掘してみることにしました。

順序として、最初に大田区HP内を検索してみましたが、60年以上前の区議会議決など収録されていません。

板橋区地方自治制度研究会の資料の 2/7コマや、板橋区が目指す自治制度改革資料編 7/18コマ により 当時の動きを追うと、特別区の自治権拡大運動とその挫折は、次のような経過をとっていました。

昭和24年(1949)
 7月 大田区、「市」になる運動
 9月21日 大田区、独立市制施行の建議を区議会で議決(満場一致)
 10月18日 大田区議会「大田市制施行促進本部」設置
 12月 「地方行政調査委員会議(神戸正雄議長)」設置
昭和25年(1950)
 5月 「地方行政調査委員会議」第一次勧告
 9月3日 大田区議会、市制施行運動終結
昭和26年(1951)
 (5月3日 リッジウェイ声明、)
 6月5日 東京都「事務再配分に伴う東京都制改革案」
 9月21日 「区民自治擁護23区連合大会」開催
 9月22日 「地方行政調査委員会議」第二次勧告
昭和27年(1952)
 3月20日 区長任命制採用の閣議決定
 9月1日 改正地方自治法施行(区長公選制廃止)

これにより、月の違いはあるものの、1949年に 大田区議会による議決があったことの 裏付けは取れました。
第7国会参議院地方行政委員会(昭和24年12月6日)における代田朝義大田区長の説明。
大田区におきましては尚一歩を進めまして、独立市制を実現したいということで、今区議会がその建議を決議いたしまして、その方向にやはり運動を続けているのでありますが、独立市制ということは、むしろ私は完全自治区ということであろうと思うのであります。
…安井都長官が当時各区を行脚いたしまして、そうして公約をいたしており…

市制施行運動が短期間で終った裏には、「神戸(かんべ)委員会」【基礎は地方分権】の動きだけでなく、占領政策の転換(リッジウェイ声明)に乗じて中央集権復活を図った国の方針もありそうです。
この点について、もう少し資料を集めます。
[78506] 2011年 6月 7日(火)15:46:05hmt さん
大田区の 「市」になる運動(2)都区間紛争と「神戸委員会」
市区町村雑学・東京市ってあったの?
なお、昭和22年(1947年)5月に新憲法施行に基づく地方自治法が施行され、東京23区は特別地方公共団体として法人格が与えられましたが、東京都の権限が大きく、とても市町村と同じレベルとはいえないものでした。このため区の不満は高く、昭和24年(1949年)9月21日に大田区議会では、特別区制をやめて独立した市になることを議決したほどです(実現はしませんでしたが)。

このくだりの後半部を元に [78493]を書きました。今回は、前半部について補足説明から始めます。

[74935] で記したように、敗戦の翌年(1946)には 地方制度改革4法の1つとして、中央集権的であった東京都制が改正され、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身し、1947年3月に22区に統合されました。

そして、その年(1947)の5月3日には、「地方自治」を定めた日本国憲法と、地方自治法とが施行されました。
ところが、この地方自治法は、1946年の東京都制改革の時に考えられたような形になっておらず、結果的に 東京都も相変わらず 市の立場がそのまま継続できる仕組みになっていました。

このような事情で、都と区の間には事務権限を巡る争いが生まれ、地方自治法施行13日後の 1947/5/16 には、区側から「自治権拡充に関する具申書」が出されました。特別区制度・戦後改革資料 の 9/21コマ
以下多用するこの資料を、作成者の名から「特別区協議会資料」と呼ぶことにします。

シリーズのタイトルに使った“大田区の「市」になる運動”は、「特別区協議会資料」の10コマに記されているような 事務権限等を巡る「都区の確執」に起因するものであると、理解することができます。
そして、この資料に記された経緯を経て、都区間の紛争は、国の「地方行政調査委員会議」に持ち込まれることになりました。

さて、明治維新により中央集権の近代国家を作った日本は、戦後の新憲法に「地方自治」を盛り込みました。
しかし、東京都の問題でもわかるように、国と地方との事務配分は一新されていません。
占領下の 1949年に来日した シャウプ使節団は、その改善を勧告しました。

シャウプ勧告を受けて内閣が設けたのが「地方行政調査委員会議」です。議長の 神戸(かんべ)正雄(京都大学教授、京都市長を経験)の名を取り、「神戸委員会」とも呼ばれます。

神戸委員会の第一次勧告(1950年5月、文献 の 11/18コマ)は、シャウプ勧告を整理・具体化し、行政責任明確化、能率、地方公共団体特に市町村優先の3原則を示し、これに基づく財政改革の方向を示しました。

「市」になる運動を進めていた大田区が、1950年9月になってこれを終結したのは、この第一次勧告を積極的に受け止め、大田区のままでも「完全自治区」[78493] になれる と判断したからでしょうか。

しかし、1950年6月25日に開始していた朝鮮戦争と連動した政治的環境は、この判断のようには進みませんでした。

1951年4月、トルーマンによる マッカーサー解任劇。当時の私は 高校生。「天皇陛下よりも偉い絶対権力者」だと思っていたマッカーサー元帥が、簡単にクビにされてしまったというニュースに 仰天したものです。
泥沼化していた朝鮮戦争の休戦を探る大統領と、軍事的観点から強行策を主張する総司令官との対立が、文民統制という切り札によって決着したのでした。

総司令官の後任になったリッジウェイは、戦後体制に備えて、ポツダム政令・関連法規の修正権限を日本政府に委譲する声明を出しました。日本国憲法の4周年記念日である 1951年5月3日のことです。

これを受けて、吉田首相の私的諮問機関として設置されたのが「政令諮問委員会」ですが、これが「逆コース」と呼ばれた政策転換の始まりで、特別区の自治権拡大も逆風にさらされるようになりました。
[78523] 2011年 6月 9日(木)12:19:23hmt さん
大田区の 「市」になる運動(3)神戸委員会での全面対決、東京都との争いに敗れた特別区
地方自治法施行直後から、特別区による自治権拡充の要望が東京都に出されていましたが、保健衛生事務、道路清掃事務のように、現実には、むしろ都の事務権限が拡大する法改正もありました。
1949年 大田区議会が議決した 独立市制への運動[78493]は、事務権限やその財源を巡る「都区の確執」の一環でした。

その後、国会議員などの中立委員による裁定が試みられ、その第2回裁定の翌日(1950/9/3)には、大田区の独立市制運動に幕が引かれました。【神戸委員会第一次勧告と関連させた推測[78506]は取消します。】

しかし、都区の確執はこれで解決したわけではありません。シャウプ税制改正で増収になる 特別区民税収入が 都に吸い上げられる 納付金制度は 23特別区にとり不満であり、都区間の紛争は、内閣が設けた「地方行政調査委員会議」に持ち込まれたのでした。

この「神戸委員会」【前回[78506]の副題にしたのは早すぎました】における両者の意見は、特別区協議会資料 の 11/21コマに要約されています。

【特別区の意見】《S25.12.23要請書抜粋》
1 名称「特別区」を「首都市(仮称)」と改める。
2 一般市と同様にその自主自律性を確立。
これだけならば、大田区の「市」になる運動のリメイク版かと思われますが、注目すべきは、その次です。
3 23首都市の区域は、都の区域外とすること。
4 23首都市は、その連合体(事務組合)を組織し、大都市事務・連絡調整・府県の事務を執行すること。

3項は、当時の地方自治法 第265条第1項(79/92コマ)“特別市は、都道府県の区域外とする。”という規定に対応しており、「首都市」は、基礎的自治体でありながら、連合体を作って県の機能も持つ という構想でした。

特別区の意見は、いわば東京都を「多摩県」化するものであり、大阪府・神奈川県などの五大都市所在県が、法律を必要とした 特別市 指定 に対して猛反対したのと同様に、東京都による真正面からの反対を招きました。

【都の提出意見抜粋】
区部を分けて行政区とし、都知事の権限に属する事務を分掌。区長は任命制。

つまり、五大都市の区([75012]の E3)と同じ扱いの 「特別でない区」にしようということです。

真っ向から対立した両者に対する軍配は、事実上、東京都側に挙がりました。
第二次神戸勧告の要旨は、特別区協議会資料の 12/21コマ に記されています。そのキーワードは、制限自治区です。

第12回国会 衆議院地方行政委員会
地方行政調査委員会議 議長 神戸政府委員の 趣旨説明
現在の東京都すなわち二十三区と三多摩とを合せた特殊な地方団体の形を維持することを、まず前提といたした次第であります。
制限された自治区として、あるいは完全なる自治団体に準ずるものとして認めようということになつたわけで、決して単に五大都市のごとく行政区とはしなかつたのであります。
事務の配分の上におきましては、(中略)ただ都知事がかつてに当てがうのでなく、法律でもつて法定化して…
都の仕事であつても、都の仕事の一定の部分は区に委任するという道を開きました。
[78524] 2011年 6月 10日(金)12:27:02hmt さん
大田区の 「市」になる運動(4)その後の 東京都特別区
1947年の地方自治法施行直後から始まった特別区の自治権拡充運動は、1949年 大田区の独立市制運動[78493]を経て、神戸委員会に持ち込まれ、そこで相反する両者の主張が審議されました。
1951年8月に発表された勧告案の骨子が、特別区協議会資料 の 11/21コマ末尾に示されています。

勧告案によると、特別区は単純な行政区でこそないものの、東京都の下部機構である「制限自治区」として基礎的自治体の地位を失うことになります。特別区側は、直ちに区民自治擁護活動を始めましたが、結局は 大都市行政運営の一体性を阻害しない配慮から、神戸第二次勧告(特別区協議会資料 12コマ)が出されました。

勧告では憲法違反の疑いありとして言及しなかった区長任命制はついては、勧告を受けた都から強い意見が提出されています。
都区間に紛争の絶えない最大原因は区議会の存在よりも むしろ現行区長公選制にあるものと確信する。
勧告が区長公選制廃止について何等言及するところがないのは誠に遺憾

区側は要望書で懇請(13/21コマ)
特別区の存する区域を二十三に分割、解体せんと主張するものではありません。
特別区の謙虚にしてしかも控目なこの要請…特別区の性格を戦時都制に復元…憲法上五百万区民に与えられた既得の自治権を剥奪せんとするもの

しかし、結局のところ、地方自治法昭和27年改正により、特別区は自らの区長を選ぶ権利さえ奪われました(14コマ)。
hmtマガジン 区制度の変遷 では、1952年に中身が変った特別区に、「E4」の記号を付けています[75018]

東京都特別区がその後にたどった経過概要は、[75410]に ひと通り記載済ですが、特別区協議会資料のコマ数と共に、列挙記しておきます。

区長任命制は、1951年の神戸勧告(第二次)に対して都が強く主張し、翌年の法改正で実現させたものでしたが、10年後の1962年になると、都知事の附属機関である都制調査会が、次のように答申しています(15コマ)
現行の区長選任の方法(任命制)は、政治的妥協の結果で、望ましくない

同じ1962年には政府の地方制度調査会も、都行政の行き詰まり打開のため特別区への事務移譲を盛り込んだ第8次答申(16コマ)。これにより、昭和39年(1964)地方自治法改正(17コマ)。
地方制度調査会第15次答申(18コマ)を経て、昭和49年地方自治法改正で区長公選制も復活(19コマ)。

平成2年の第22次答申(20コマ)から8年もたった平成10年(1998)になって、ようやく23特別区の性格は 「基礎的な地方公共団体」 と明確に法定化され、「E6」になりました(21コマ)。
[75410]
2000年4月の施行から 「平成12年改革」 と呼ばれているこの制度は、東京都の区について、戦後に行なわれた一連の制度改革の到達点でしょうか。それとも新たな改革への出発点になるのでしょうか。

新たな改革への模索として、「都の区」の制度廃止と「基礎自治体連合」の構想 という資料もあります。
pdf文書の 14/26コマから、その一部を引用しておきます。
-----------------------------------
○  「都の区」の制度廃止後の東京大都市地域の基礎自治体は、「東京○○市」として実現する。「東京○○市」は東京都から分離・独立した存在として、地域における行政を自主的かつ総合的に担うものとする。
○ …特別区間には、行政需要や財源の極端な偏在が現存している。これらを踏まえ、実現可能な新たな基礎自治体間の関係を構想する必要がある。
○ この基礎自治体横断的な関係は、基礎自治体の新しい「対等・協力」の形であり、法的根拠を有する「基礎自治体連合」として設計する。
-----------------------------------

これこそ、大田区の 「市」になる運動 や、1950年の「首都市連合」構想の時代から、特別区が抱き続けてきた悲願の 新しい姿なのかもしれません。

参考までに、鳩山由紀夫 の発言。
地方分権はシャウプ勧告以来、戦後政治が置き忘れた宿題であり、新たな憲法改正の過程で、一気に抜本的改革を断行すべきである。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内


都道府県市区町村
都道府県や地図に関する地理の総合マガジン

パソコン表示スマホ表示