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[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。
[96907] 2018年 10月 4日(木)15:52:20hmt さん
上五島連島
[96903] 白桃さん
新上五島町の残りの有人島である頭ケ島、桐ノ小島、日ノ島も中通島と橋で繋がっているようです。

ご指摘の通り、4年前に[86425]で書いた<上五島連島>には見落しがありました。

この機会に、架橋により連なる8島と、主島である中通島との架橋関係を まとめて記載しておきます。

中通島 面積168.31km2, 2015年国勢調査人口 18113人 北端の津和崎鼻に至る長い半島があり、南北約39km。
頭ケ島 1.86km2, 15人 五島列島最東端の島の山頂に標高80mの上五島空港。世界遺産。頭ケ島大橋[82809]
桐ノ小島 0.04km2, 8人 中通島南部 桐古里郷の西側。ごく短い橋
上中島 無人 中通島と若松島を結ぶ県道46号 中通島との間の短い橋の名称不明[82809]
若松島 31.13km2, 1402人 中通島と若松島を結ぶ県道46号の若松大橋[82809]
漁生浦島 0.65km2, 30人 若松島の北西部 漁生浦橋[82809]
有福島 2.97km2, 112人 若松島北西にある架橋3島中最大の島 堤防道路疑惑[82877]
日ノ島【地図は日島】 1.39km2, 38人 堤防道路[82877]

参考:中通島から離島への行き方案内
[96903] 2018年 10月 3日(水)18:32:23【2】hmt さん
突然の航路休止に驚く中通島
日経2018/10/3
五島列島と長崎市や長崎県佐世保市などを結ぶ旅客船を運航する五島産業汽船(長崎県新上五島町)が全4航路を休廃止したことが2日、明らかになった。年間19万人前後の乗客が利用していたもようで、日常の足として使っていた五島市や新上五島町の住民の生活に影響を与えそうだ。

私が五島列島に関する記事を書き始めたのは、14年前の[26554]であり、その記事で最初に問題にしたのが、範囲の異なる2つの「五島列島」でした。
自然地名としての五島列島は、私より前に地球人さんの記事[17147]に記されているように 「下五島+上五島+宇久小値賀 という構図があり」、「北は、宇久島から南は、福江島まで連なる列島です。」

ところが、「行政上の五島列島」は長崎県五島支庁管内【注】に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なります。
【注】この文を[26554]で記した5年後に、下五島【五島市】と上五島【新上五島町】、つまり遡れば南松浦郡であった区域を管轄していた長崎県五島支庁は廃止されました[71553]

宇久氏から改名した五島氏が福江島に本拠を移す前の発祥の地である宇久島【2006年佐世保市】と、その南の小値賀島とは 1878年以来北松浦郡です。小値賀島は江戸時代から平戸藩領で五島氏の領域外。
このような歴史的経緯もあり、宇久島と小値賀島【野崎島などの付属島を含む】は、「行政上の五島列島」には含まれず、「平戸諸島」に含まれています。離島振興対策実施地域一覧

前置きが長くなってしまいましたが、本題は上五島の主島であり、北端に位置している中通島です。
五島市のある福江島と長崎とを結ぶ航路は、長崎市の九州商船が運行しているので、大丈夫だろうと思います。

中通島は、4年前の[86425]で示したように【前回国勢調査では】人口2万人を越える大きな島でした。
【追記】
2015年国勢調査人口は 18113人に減少。橋で結ばれている若松島1402+漁生浦島30+有福島112を加えた「上五島連島」の人口も 19657人で、2万人に届かず。やはり、離島の人口は減っていますね。【追記終】

離島の公共交通として航路の重要性は言うまでもないことですが、船会社が突然の休止宣言。
新上五島町の役場も急に知らされたようで、会社都合による一方的な通知に、困惑しているようです。

【追記】
海上運送法第15条を見ると、航路の休止・廃止は30日(指定区間は6月)前までの届け出が必要なようです。
資金繰りの悪化など経営破綻の兆候の一部は、それより前から顕れていたのかもしれません。
情報が溢れているように思われる社会の中で、突然の航路休止騒ぎ。
もう少し早く情報を得て、必要な対策をとることはできなかったのでしょうか?

とりあえず、困った事態が発生し、2万人もの住民がいる離島だけに 影響が心配 という事件の御報告まで。
[96479] 2018年 9月 14日(金)18:40:25hmt さん
「失火の火元?」から
思いがけず、一連の記事の発端になってしまった「失火の火元?」hmtです。
再度のお詫びと併せて、記事[96463]の作成過程において ミスを発生させた「ごく個人的な事情」につき、少々釈明させていただきます。

気象庁報道発表第3報 厚真町で震度7を観測
第4報 「平成30年北海道胆振東部地震」と命名

記事[96463]の投稿動機:北海道の中で 有名とは言い難い「胆振」という地名の周知度を高めたかった という程度。
それに関連して、1960-2016年に定められた31の地震現象のリストを「列挙したつもり」でした。

ところが、PC操作ミスで 1件が脱落していました。指摘されて気付き、早速 お詫びを入れました。

しかし 火種が消えておらず、他の方に火の粉が降りかかる状況に、オロオロするばかり。
幸い、良識ある皆さんの発言により、大火にならず 鎮火の形勢となり、有り難いことです。
火元としては ホッとすると共に、私のミスから騒ぎを起したこと、改めて皆様にお詫びします。

今更ながらの言い訳ですが、「平成7年兵庫県南部地震」が消えた操作ミス の原因を推測しておきます。
6月に発症した脳梗塞[96343]の後遺症と思われる 指先の痺れ。投薬・リハビリ中ですが、未回復状態。
それでも せっせと落書き帳に投稿中。プレビューによる確認の大切さを実感しています。
[96468] 2018年 9月 9日(日)19:30:56hmt さん
Re:お伝えすべきこと
[96466] ニジェガロージェッツ さん
何かひとつ,お忘れではないですか?

ごめんなさい。
[96467] 2018年 9月 9日(日)18:55:44hmt さん
気象庁の震度観測点
北海道胆振東部地震を機会に、これまで気象観測地点ほどには話題になっていなかった 震度観測点に注目しました。

気象庁が発表する地震情報は、全国を188地域に区分した 地域名 を用いて発表されているそうです。
広い北海道は緊急地震速報が 道央(地域数9)道南(10)道北(8)道東(11)の 38地域。
その他は凡そ4~2地域よりなる府県予報区ですが、奈良県だけは全県が1地域です。
島嶼のある都県では、下記のように多数の地域が設定されています。
東京都は23区など3地域の他に 伊豆諸島(5)と小笠原(1)で9地域。長崎県は6地域。
鹿児島県は6地域と奄美群島(2)で8地域。
沖縄県が3地域と大東島・宮古島・八重山(3)で8地域。

これら 188地域に設けられた気象庁の震度観測点は 670で、全国で約1300ヶ所(約17km間隔)という アメダスの約半分の密度です。

しかし、全国には その他に、地方公共団体の 2913、防災科学技術研究所の 789と、多数の地震計が存在するようです。大学等の研究機関にも地震計があるでしょう。

[96463]では民間報道を引用して「厚真町鹿沼で震度7を観測」を伝えました。
しかし その後の調査で、2018/9/7 16時00分の報道発表・「平成30年北海道胆振東部地震」について(第6報)を知りました。
関係データ、地図、逆断層型の発震機構(速報)を含めて詳しい内容が記されていたので、改めて この pdf発表 をリンクしておきます。

震度7が観測された観測点「厚真町字鹿沼(あつまちょうしかぬま)」のデータ
地域名称:胆振地方中東部 震度観測点の所在地:勇払郡厚真町字鹿沼200-2
緯度経度:北緯42度37.4分、東経141度55.2分 地図   観測開始:2012/10/2

参考までに、胆振地方中東部で最古の観測点は、室蘭の旧気象台(大正12年6月)でした。
現存する震度観測点は、室蘭、苫小牧、登別、白老町、厚真町の5地点です。
また胆振地方西部には、現在のところ伊達市に1地点存在するだけですが、2000年頃に何ヶ所かあったのは、有珠山噴火に対応した臨時の観測点であろうと推察します。


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