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府藩県三治制下に東北地方に設置された県の内、諸藩の民政取締の下で称された県名を正式のものとみなすべきなのかどうなのか、皆さんの意見を聞きたく、以下まとめました。
自分はもともと、府藩県の設置・改名・廃止日時等が参考書や資料によって大分異なるので、『職務進退録』、『太政官日誌』、『法令全書』、『太政類典』、『地方沿革略譜』、『明治史要』、『府藩県廃置分合一覧』等の資料に従って日時の違いをまとめようと考えました。作業を進めていく内に、これらの資料に載っていない県がwikipediaに載っていることに気付きました。
それは、胆沢県の前身の栗原県と、登米県の前身の涌谷県です。これらの県は宮武外骨『府藩県制史』(1941年)、『日本近現代史辞典』(1978年,時野谷勝編集「府藩県対象表」)、松尾正人『廃藩置県』(1986年)、京大日本史辞典編纂会『新編日本史辞典』(1990年)、『岩波日本史辞典』(1999年)、勝田政治『廃藩置県』(2000年)、松尾正人『廃藩置県の研究』(2001年)にも掲載されていません。
これらの項目を書いた人に尋ねたところ、これらの県名は『角川日本地名大辞典』に書かれており、
宮城県広報課の作成した「県の行政区画の変遷」にも記載されているとの返事を頂きました。実際に『角川日本地名大辞典』を読むと、確かに栗原県、涌谷県の記述があります。それぞれ
『一迫町史』(1976年)、
『涌谷町史』下巻(1968年)に記載されているとのこと。この内『涌谷町史』の方に目を通したところ、以下のような記述が見つかりました。
伊達安芸領のみならず、遠田郡内に知行高を有していた仙台藩の家中および士凡・百姓・町人・寺社領まで土地は残らず没収され、土浦藩取締地となった。三月末、土浦藩士奥田図書は権知県事として属官二十余名とともに涌谷要害屋敷に入り、涌谷県役所を設けた。
涌谷県江出張土浦相模守家中(「佐々木龍治留」―筆者蔵)
一、権知県事 奥田 図書
一、権判事 渡部 整作
一、同 寺町 鼎
一、調役 野崎孫太郎
一、〃 金田 甫
一、〃 藤井 央
外、書記調役補四名、筆生二名、捕亡十一名
註「榕園日録」によると、附属の小者まで総員二十四名が、二年三月二十九日・三十日の両日にわたって涌谷町に着いた。
明治二年八月十八日、涌谷県に栗原県の一部を併せ新しく登米県が置かれた。県庁所在地は涌谷で、旧館を本庁とした。
『栗原郡誌』(1918年)の方では栗原県・涌谷県は完全に無視されていますが、
『宮城縣史本篇3(近代史)』(1964年)によると明治2年旧暦3月28日に、土浦藩、宇都宮藩の各取締所に涌谷県、栗原県が設置された状況が、「仙台領より宮城県に至る行政区割の推移」という表にまとまっていました。涌谷県は明治2年旧暦8月7日に登米県(「18日合轄トアリ」)、栗原県は明治2年旧暦8月12日に胆沢県となっています。
それぞれの県設置についての詳しい説明は書いてありませんが、以下の説明が載っておりました。
諸藩私有地が没収され、新政府直轄地として管理されるゆおになった新政治体制による県治が施行され、取締りの諸藩から権知県事・同判事以下の県管が現地に派遣された。この期間は短いが、制度上の変革にはのちの郡県制の端緒となったものもある。
直轄期は、取締り発令日の元年十二月二十三日から、藩県改置の日二年八月十八日までということであるが、実際には事務引渡しの関係から、取締りの各藩吏員は翌二年の春になって任地につき、同年秋から三年初めにかけて設置された藩県に土地を交付し、引渡しを完了して解任となる状態もあった。東北各地で直轄地の取締りを命ぜられた諸藩主は全部では十五にも達しているが、これらに対する共通の沙汰書によれば、戦乱ののちとて人民が甚だ苦しんでいるので、民政に通じている家来を選んで派遣し、新政にもとづき人民を撫育するよう、かつ新県を建てる場所の検見を命じている。
かくて諸藩ではその管轄地を県と称し、「奥羽取締規則」に従って政治を行ったが、その主なるものは、租税の収納・金礼・撫恤・月給・小吏の月給その他であった。
ここでようやくキーワードである「奥羽取締規則」なるものに出会いました。
『法令全書』通番明治元年太政官布告第1129に、明治元年旧暦12月23日の「諸藩取締奥羽各県当分御規則」が載っております。
其方儀今般奥羽御領之内民政取締被 仰付候就テハ兵乱之餘人民愁苦之情状追々被 聞食深ク被為痛聖念候ニ付、兼テ民政相心得候家来精撰之上彼地出張申付 朝廷之御政体ニ基キ人民撫育ニ厚ク心ヲ用ヒ 御一新之 御趣意遺洽ク貫徹致シ候様可取計旨、御沙汰候事
但出張地所之儀ハ府縣掛ヘ可伺出事
別紙
今般家来之者奥羽出張之上ハ新縣御取建ノ場所ヘ検分ヲ遂ケ見込可申出候様可致事
その後、廃藩置県関係の書物を読み漁ったところ、ようやく
千田稔、松尾正人『明治維新研究序説: 維新政権の直轄地』の「東北地方民政取締諸藩」という表に、三戸県(0次)、伊沢県(胆沢県ではない)、花巻県、盛岡県(0次)、栗原県、涌谷県、桑折県などの聞きなれない県名が、民政取締期間に存在していたことになっておりました。
以下情報をまとめます(黒羽藩、松本藩に関しては、民政取締期間を原表より修正、【表が見にくいので分割】)
民政取締藩 | 旧領主 | 国名 | 郡名 | 権知県事 |
弘前藩 | 盛岡藩 | 陸奥 | 北・三戸・二戸 |
黒羽藩 | 盛岡藩 | 陸奥 | 北・三戸・二戸 | 村上一挙 |
沼田藩 | 盛岡藩 | 陸奥 | 東磐井 |
前橋藩 | 盛岡・仙台・一関藩 | 陸中 | 胆沢・東磐井・西磐井 | 久永真里 |
松本藩 | 盛岡・仙台藩 | 陸中 | 紫波・稗貫・和賀・上閉伊・江刺・気仙 | 西郷庄右衛門 |
松代藩 | 盛岡藩 | 陸中 | 岩手・鹿角・九戸・紫波・稗貫・上閉伊・下閉伊 | 小幡内膳 |
宇都宮藩 | 仙台藩 | 陸前 | 栗原 | 大羽楯之進 |
高崎藩 | 仙台藩 | 陸前 | 牡鹿・桃生・本吉 | 大野千楯 |
土浦藩 | 仙台藩 | 陸前 | 登米・遠田・志田 | 奥田図書 |
中村藩 | 棚倉・二本松・磐城平・福島・関宿・会津藩・幕府 | 磐城・岩代 | 岩瀬・信夫・安達・安積・磐前・伊達 | 志賀三左衛門 |
笠間藩 | 棚倉・二本松・磐城平・福島藩・幕府 | 磐城・岩代 | 岩瀬・信夫・安達・安積・磐前・伊達 | 加茂卓見 |
三春藩 | 棚倉・磐城平・泉湯長谷藩 | 磐城 | 磐城・猶葉・菊多 |
守山藩 | 棚倉藩 | 磐城・岩代 | 白河・石川・岩瀬 | 三浦多門 |
館林藩 | 会津藩・幕府領 | 岩代 | 大沼・河沼・耶麻・安積・会津・南会津・蒲原 | 本多黒兵衛 |
新庄藩 | 会津藩・幕府領 | 岩代 | 大沼・河沼・耶麻・安積・会津・南会津・蒲原 | 竹村直紀 |
久保田藩 | 庄内・米沢・天童上山・羽後亀田・羽後松山藩 | 羽前・羽後 | 田川・置賜・村山・飽海・由利・仙北・河北 | 佐竹大和・和田掃部之助 |
新発田藩 | 庄内・米沢・天童上山・羽後亀田藩 | 羽前・羽後 | 田川・置賜・村山・飽海・由利・仙北・河北 | 溝口半兵衛 |
民政取締藩 | 民政取締期間 | 備考 |
弘前藩 | 元年12月7日~2年2月8日 | 旧盛岡藩領民の津軽氏排斥運動により2年2月8日に黒羽藩と交替 |
黒羽藩 | 2年2月8日~2年8月7日 | 2年2月8日に弘前藩民政取締地を継承、三戸県を称す、2年4月26日事務引き継ぎ、7ヶ条の「県治要領」を布告 |
沼田藩 | 元年12月23日~2年2月30日 | 2年2月30日に前橋藩と交替 |
前橋藩 | 2年2月30日~2年8月18日 | 2年2月30日沼田藩民政取締地を継承、伊沢県を称す、2年3月東磐井郡は旧磐城平藩の転封地となる、4月に19ヶ条の「心得書」を布告 |
松本藩 | 元年12月7日~2年8月18日 | 花巻県と称す、2年3月に「町村役人心得条目」の布達、遠野出張所開設、2年7月22日和賀紫波稗貫郡は盛岡藩復帰 |
松代藩 | 元年12月7日~2年8月7日 | 盛岡県と称す、2年5月3日県役所開庁、「心得条目」訴訟箱の設置、2年7月22日和賀紫波稗貫郡は盛岡藩復帰 |
宇都宮藩 | 元年12月23日~2年8月7日 | 2年3月22日に栗原県を称す、2年8月県下に村明細帳の提出を指示 |
高崎藩 | 元年12月7日~2年7月20日 | 2年7月20日に桃生県を置く、8月13日石巻県になる |
土浦藩 | 元年12月7日~2年8月7日 | 2年3月22日に涌谷県を称す、2年3月28日土浦藩知事涌谷着 |
中村藩 | 元年12月7日~2年7月20日 | 桑折県を称す(磐城平民政局支配に代わる)、2年2月11日に県治の指針を示した「布達」を発行 |
笠間藩 | 元年12月7日~2年7月20日 |
三春藩 | 元年12月7日~2年8月7日 |
守山藩 | 元年12月7日~2年8月7日 | 2年4月金礼貸与の実施(須賀川生産方に金礼1,000両を貸与) |
館林藩 | 元年12月7日~2年5月4日 | 郷村高帳の引き継ぎのみ、若松民政局支配が行われる |
新庄藩 | 元年12月23日~2年5月4日 | 郷村高帳の引き継ぎのみ、若松民政局支配が行われる、2年6月岩代国巡察使により解任される |
久保田藩 | 元年12月7日~2年7月20日 | 2年2月22日弁官へ官員派遣延期願を出願、酒田民政局の支配が行われる、同藩は郷村高帳の引き継ぎのみ |
新発田藩 | 元年12月7日~2年7月20日 | 郷村高帳の引き継ぎのみ、酒田民政局の支配が行われる |
「大日本維新史料稿本」明治元年12月16日・2年1月9日の項,「各県公文録」、『岩手県史』<第6巻・近代編1>、その他より作成
【原表での民政取締期間は、黒羽藩:2年2月18日~2年2月8日(開始、終了共に明らかに間違い)、松本藩:元年2月30日~2年8月18日(開始が明らかに間違い)。前橋藩、松本藩の民政民政取締期間(~2年8月18日)は、それぞれ8月12日(胆沢県置県の日)、8月7日(江刺県置県の日)の間違いという気もしましたが、『宮城縣史』が「直轄期は、取締り発令日の元年十二月二十三日から、藩県改置の日二年八月十八日まで」、登米県に関して「18日合轄トアリ」と書いているので、そのままにしました。各藩の民政取締地とその後の府藩県三治制下の県との関係は以下の通りです。
弘前藩取締地→黒羽藩取締地(三戸県→北奥県?)→九戸県→八戸県→三戸県→斗南藩・江刺県に編入
沼田藩取締地→前橋藩取締地(伊沢県)→胆沢県
松本藩取締地(花巻県)→江刺県・西部は盛岡藩(→盛岡県)
松代藩取締地(盛岡県)→江刺県・西部は盛岡藩(→盛岡県)
宇都宮藩取締地(栗原県)→胆沢県・一部登米県
高崎藩取締地→桃生県→石巻県→登米県に編入
土浦藩取締地(涌谷県)→登米県
中村藩取締地(桑折県)→福島藩・一部若松県
笠間藩取締地→福島藩
三春藩取締地→白河県
守山藩取締地→白河県
館林藩取締地→若松県
新庄藩取締地→若松県
久保田藩取締地→酒田県→山形県
新発田藩取締地→酒田県→山形県
登米県に関する
宮城県の行政区画の変遷
の図は、多分日付等が若干間違っています。】
伊沢県、花巻県、盛岡県、栗原県、涌谷県に関しては、実は hmtさんが、
[76252][75939][75924][75516]で触れられています。hmtさんが書かれた北奥県については、自分の方では確認できていません。岩手県の状況については、
岩手県立博物館たよりNo.101「岩手県の誕生」(2004年,pdfファイル)の方にもまとまっています。桑折県については過去に誰も触れていないようです。
そこで皆さんに聞きたいのですが、一般的な廃藩置県関連の書籍や明治政府の公式の文書では全く取り上げられていない、これらの諸藩の民政取締の下で称された県名(伊沢県、花巻県、栗原県、涌谷県、桑折県、三戸県、盛岡県、北奥県;この内三戸県と盛岡県は、別の時期に県名として復活している、北奥県に関しては『岩手県史』の記述をまだ確認していない)というのは、正式なものとみなすべきでしょうか?
【引用文など一部訂正、備考を別表に、題名に他三県名を追加】