最近も町制施行時期に関して、大阪府三島郡味舌町が話題になりました。
[55106]白桃さん
[55110]88さん
[55113]たもっちさん
[55115]矢作川太郎さん
私が町制施行の時期に3通りの説がある町のあることに気づいたのは去年でした。
茨城県多賀郡河原子町(昭和14年他の2村と合併し、昭和30年まで多賀郡多賀町の大字。現在ほぼ日立市河原子町あたり(出入りあり))
(1)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子町になる
・『茨城県町村沿革誌』細谷益見、明治30(1891)年、復刻版崙書房、昭和51(1976)年
・『市町村治績録』日本自治協会、昭和4(1929)年
・『茨城県市町村合併史』茨城県、昭和33(1958)年
・『茨城県市町村総覧1958年版』茨城県、昭和33(1958)年
・『全国市町村名変遷総覧』日本加除出版、1979年
・『茨城県史料 近代政治社会編4』茨城県、1990年
・『新修日立市史;下巻』日立市、1996年
郷土史資料のほとんどがこの説で、これによると近代(市町村制施行以後)の河原子村は存在しない事になります。
(2)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子村となり、明治24年町制施行により河原子町になる
・『角川地名大辞典 8茨城県』角川書店、1991年
・『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1993年
・『消えた市町村名辞典』廣済堂、2000年
・ISSIEさん市町村の変遷
多賀郡
・行政区画変遷一覧表
茨城県多賀郡 自治体成立時
角川版では近代の河原子村が存在する事になり、1項を設けて説明しています。他の資料は角川版に倣ったと思われます。
(3)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子村となり、昭和14年他2村と合併し多賀町となるまで続く
・『茨城県史 市町村編1』茨城県、1972年の「市町村分合表 日立市」
・『日本歴史地名大系 8茨城県の地名』平凡社、1982年
これでは河原子町が存在しなかった事になります。『茨城県史 市町村編1』は「表」の中のだけ表記で、他の県編纂の資料とも矛盾。単純な誤りか?平凡社版はこれに倣った?
どれが正しいのでしょうか?「誤りの連鎖」の可能性があり、多数決でというわけには…
原資料に当たるのが一番だと思われます。それが出来なければ限りなく原資料に近い資料に当たるのが次善の策だと思います。
その可能性が高いのが(1)の『茨城県資料 近代政治社会編4』です。「傍訓茨城縣官令全報;第53号」と「傍訓茨城縣官令全報;第54号」(共に明治22年)を写したものです。
これとて写し誤りの可能性が完全には否定できません。そこで明治時代の「県報」のマイクロフィルムを所蔵している茨城県立歴史館に出掛けてきました。
そこでマイクロフィルムを複写し製本した「傍訓茨城縣官令全報」を閲覧し必要部分をコピーする事ができました。
「傍訓茨城縣官令全報;第53号」の「茨城縣令甲第12号」に「左表の通り明治22年3月31日に施行す」とあり
「傍訓茨城縣官令全報;第54号」にある「左表」に「河原子町」とありました。
『茨城県史料 近代政治社会編4』に書いてある通りでした。
(1)の「明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子町になる」
を信じます。これで「県報」に誤りがあればお手上げです。
角川版も平凡社版も郷土の歴史地理の権威が監修に当たっています。それでも全部に目が行き届くとは限らないという、教訓を得ました。