[38144]ゆうさん
学校で学ぶことのうち、社会生活を送るために「必須」である事柄ってそんなに多くはないと思うんです。
そうですよね、よくよく考えたら社会に限らず、学校での教科のほとんどがそういう側面を持っています。ただ、「本人次第」に甘えると、結局何もそれ以上しなくたっていいじゃないかで終わってしまい、そこから何かが膨らんでいくということがなくなってしまいます。たぶん、昨今叫ばれている各教科における「学力低下」も、根底にこのあたりの事情が絡んできそうに思えますが…。
私は、高校時代に地理科からは冷遇されていました。1年次は政治経済、2年次は世界史、3年次は日本史必修で地理選択がようやくできたという状況でした。3年になるまでは地理専属教員がゼロだったことがもろに響いた格好で、3年次に地理を履修する機会がなければ独学で受験に望まざるを得なくなるところでした。逆にこの極端な冷遇ぶりが、地理学科への向学意欲をかき立てたのかもしれませんが。
地理が身近になるには、やっぱり小さい頃からの興味が重要だと考えます。私などは親の田舎である秋田へ車で帰省する際(当時は盛岡ICから延々下道を通り、仙岩峠~角館~協和を経て秋田入りしたものです)、「馬車軌道」があった小岩井農場が楽しみで、まだかまだかと騒ぐ自分を今はここだと親が地図で指し示して、あとこのくらいなんだ…こんなことから地図・地理への接触が始まったように記憶しています。親が大の飛行機好きで、羽田空港に車で行く際にも何度も引っ付いて、それこそ車載の道路地図を親が道が不案内だから見せろというまで、自分で見ながら首都高速を走った思い出もあります。だから、たぶん幼稚園の頃から「三宅坂」が読めて周りを驚かせたのだろうなと(笑)。母親は山登りの経験がありましたが、たぶん両親共にまさか自分がこんな地理ヲタになるとは当時は思っていなかったでしょうね。そんなことを考えると、小さい子供が見ても楽しい地図の存在がもっとあっていいのかもしれません。私のように既存の道路地図を見て楽しめる子供の方がむしろ奇特なわけでして(大汗)、初めて地図に接する子供にも触れやすいものって意外に日本には少ないように思います。手前味噌というか宣伝になってしまいますけど、この春に我が社が協力して、子どものための地図絵本が刊行されます。学力低下を危惧する世論から、この本がどんな評価をされるのかちょっと気になったりもします。
もっとも、現在の地理教育にも問題点はいくつもあります。文理に極端に分化した研究が増えたことは以前に少し書きましたが、言葉は悪いですけど「バカの一つ覚え」的な教育方針が相変わらずいっこうに改まらない部分もあります。その最たるものが「地形図学習」でしょうね。もちろん、地形図が地理学にとってきわめて重要なのは否定しません。けど、「そういうものだ」と教える手法がどうもよろしくない。例えば、地図記号を覚えさせるとか図式を頭に入れさせる、なんていうのは受験には必要であっても、地理学を修めるにあたってはほとんど必要のない知識です。だって、地形図の脇には絶対凡例があるわけで、分からないときはそれを参照すればよろしい。地形図から学ぶことは、記号や図式だけではなくもっといろんなことが読み解けるはずなのに、そこにまで学習が至っているとは思えない…。
こんな実話があります。ある地図制作の依頼を受けて、北が少し右へ傾いた図取りを作って提出したことがあります。クライアントが要求してきた記載内容が、最大縮尺でなるべく大きく見えるようにと方位を振る、これはごく普通の感覚だと思っていたら、クライアントから正方位(上が北)にしてくれとの要望が…。なるべく見やすく、大きく表示できるようにと主張したって聞き入れてくれません。「上が北じゃないとマズイでしょう…」その一点張りです。かくして、注記は引き出しせざるを得ない不細工な図になってしまったのでした。
こんなこともあります。同業他社からやはり制作依頼を受けたところ、記号が地形図と違うようだがという信じられない問い合わせが。地図記号なんてその図に対して決めればいいのであって、地形図の記号が絶対ではないはず、ましてや、相手は地図会社であるというのにこの有様です。
この2例がすべて地形図教育がもたらした弊害だとは言い切れないかもしれません。もっと他にいろんな事情があったかもしれない…けれど、どうも学校で教わった地形図の概念・記憶があまりにも強すぎて、このような(私からすれば)硬直化した発想が生まれている、そんな気がしてなりません。もしそうだとすれば、愚の骨頂と言わざるを得ないですね。教育改革と言葉で言うのは簡単ですが、個々の事例を見ていくとその道のりは決して平坦ではないようです。