[92048]菊人形さん
そんな雄冬が増毛町と浜益村(当時)に跨っていたことを初めて知りました。
[92050]グリグリさん
これはかなり大物でしたね。
「大物」が何を指しているのか よく理解できなかったのですが、私が最も感動したこと。
それは30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していることでした。
そこで、全く知らない土地なのですが、少し調べた結果を綴り、北の町への想いを寄せることにします。
手元にある昭和47年のJTB時刻表には載っていませんが、昭和58年頃の時刻表では航路で繋がった雄冬が載っていたように記憶もあるのですが…。
【以下追記修正あり】
[92043]k-aceさん引用の
「こちら」【見落し、便宜的に 呉服屋 と呼ぶ】掲載の1978年時刻表地図にも雄冬はありませんでした。
ところが手元の『時刻表』1982年9月号には、増毛-雄冬間の 雄冬海運の定期船が掲載されていました。増毛発9:00, 雄冬発13:30の一往復。1時間15分、1000円の航路です。
呉服屋掲載の雄冬航路は、臨時便も掲載された北海道時刻表でした。
WEBを探してみたら、乗船体験の回想録がいくつかありました。
呉服屋の乗船時期は不明ですが 1980年代初頭と推測されます。菊人形さんの
[91960]「30年以上前」と比較的近く、当時の雄冬の状況をよく伝えているものと考え、下記のように紹介しました。
「石炭ストーブ」と「金たらい」が備えられた「黒光り四畳半」の船室。
外海に出るとひどい揺れ方。これはすべての乗船記に共通。
それでも当時の雄冬には 80戸、200人ほどが居て「雄冬小・中学校」も健在であった。
「増毛町立雄冬へき地出張診療所」の写真。公共機関は概ね増毛町が設置したもののようです。
道路の整備により陸の孤島状態から抜け出したが雄冬の住民は激減。2013年時点で37戸、70人。小学校も2002年で閉校。増毛中心部から20分になった現在雄冬地区に小学生はいない。呉服屋はこのように伝えています。
その他の乗船記録で比較的詳しいのが
雑貨屋。
これは札幌からのバスで訪れているので、1984/5/15の雄冬岬トンネル再開通の後、雄冬定期航路最終運行(1992/4/30)より前という条件から、1984-1991年の間の初秋と推定できます。
この期間の雄冬-増毛間は、定期船と増毛山道【冬季閉鎖があったが1992/10/22通年開通】の両方で通行可能でした。
1979年の雄冬
S55/3/21の乗船券
更に前の時代
寄港地の多かった頃の雄冬航路
廃止前に毎年のように乗船
国道231号雄冬区間の概略史
浜益-増毛間は、難工事による莫大な工事費ゆえに「ダイヤモンド道路」といわれるそうです。参考までに「黄金道路」と呼ばれるのは、国道336号のえりも町~広尾町間。
出典
【追記終】
地理院地図を見ると、神社・仏閣・郵便局なども増毛町。主要な産業施設である雄冬漁港も増毛町。
ところが、
#15スケールで見ると、北端のオフユ川は増毛町、南端の雄冬岬は石狩市浜益区と分かれています。東方の雄冬山は境界線上。
増毛町の所属する留萌振興局と石狩市の所属する石狩振興局との境界線。
地理院地図で これを辿ると、雄冬の市街地を南端近くで分断し、「とど島」に及んでいます。
人口では圧倒的に増毛町雄冬が多数でしょうが、面積では 山地を考慮すると 石狩市浜益区雄冬の方が優位か。
[92048]菊人形さん
境界線は人間が決めたもので、何らか理由があって一部が浜益村になったのでしょうが、
とど島を通る境界線。この地の主要産業に関係する「漁業権」こそが、その理由を説明していたと思います。
雄冬漁港で水揚げされる魚は 新しい国道を通って札幌都市圏に供給されていると思います。
しかし、水揚げされた魚には「住所札」が付けられてはいないでしょう。
一方、住民の生活面は全面的に増毛町に依存していました。新聞・郵便物・米・野菜・雑貨などあらゆる物資が定期船で持ち込まれ、帰り船では魚を入れた木箱が増毛の市場に運ばれていました。
国道の開通により交通と物流の事情は大きく変りました。しかし、「遠い石狩よりも 近い増毛」への親近感は、そう簡単には変わらないでしょう。
ゴミ収集など、石狩市の行うべき住民サービスが気になりますが、増毛町に委託しているのではないかと推察。
名目上は市町村境どころか振興局境界を越える地名なのですが、行政実務上はもっと融通を利かせた扱いが行なわれ、効率化が図られているものと期待します。
道路がなかった「陸の孤島」時代の雄冬を物語る挿話。
電話回線は 雄冬を最後に北海道の自動化が完了していましたが(1878年)、敷設には海底ケーブルを使ったとか。