[60790] 2007 年 8 月 25 日 (土) 23:11:55 ニジェガロージェッツさん
「丁目」とは元来、距離を示す単位?
私の場合は、地元のかつての駿府の町名の付け方からして、それは自明のことだと思っていました。
したがって、現在の住居表示制度による「○丁目」は、本来の○丁目の意味から大きくはずれ、
(施行当初の住居表示実施要領では、ひとつの町(○○町○丁目)の大きさは、面積はもちろん標準世帯数まで明示され、一般市民が住所を頼りに家を捜しあてる容易さよりも、あきらかに行政当局による管理のしやすさを優先した区分だと思われる。)
「A町一丁目、A町二丁目・・・・」というより「第一A町、第二A町・・・・」とでもすべきだとさえ思っていました。
駿府にかぎらず、江戸時代の人為的に町割れされた城下町の多くは、「字」のようなブロック単位の町ではなく、欧米の都市の住所表示方のごとく、通りに町名がつけられ、丁目は文字どおり一丁ごとだったのではないでしょうか?
駿府を例にとると、駿府城の南西面に碁盤の目状につくられた町は、正確に一丁四方(約110メートル四方)の街区でした。
駿府は96カ町と言われているのですが、
町名の付け方は、通りの辻から辻までの通り沿い両側一丁ごとに、「○○町○丁目」又は「○○町(丁目なしの町で、以下仮に「単独町」とします。)」と付けられていました。
(丁目の起点は、城と平行な通りは城から見て右手から、直角な通りは城に近い方から一丁目、二丁目・・・、したがって現在の静岡駅から言うと遠い方から一丁目となる。)
したがって、例えば、三丁目といえば一丁目の角から、「三丁め」までの距離(約220m~330mの間)で、現在の住居表示制度より、よほど分かりやすいものでした。
(駿府の「○丁目」は「町」の下位区分ではなく、96カ町というのは丁目の付く町も1町と数え、「単独町」と「○○町○丁目」は同等に町年寄を選出し、駿府の行政に参加していた。)
この町名の付け方は、戦前まで残されていたのですが、1940(S15)年の静岡大火で中心部のほとんどが焼失したあとの道路の新設や拡幅に伴い、残念ながら、行政上の管理しやすさを優先させたためか、かなり大幅に町名が整理・統合されてしまいました。(町名変更の施行は1945年)
(昔の町名や、その付し方を残す方法もあったと思われますが、当時の困難な社会情勢では町名の保存などに関心をいだく人もほとんどなかったのでしょう。)
すなわち
1 丁目の多い町は、一、二丁目に統合再編
(例:呉服町や両替町など「一~六丁目」を「一丁目、二丁目」に再編。現在でも「呉六商店街」などの呼称にその片鱗を見ることができます。)
2 2~3丁の町は、単独町と統合のうえ丁目を削除
(例:七間町一~三丁目、札の辻町ほかを統合して「七間町」とする。)
3 道路が大幅に拡幅された「下石町(しもごくちょう)一~三丁目」などは、他の単独町と統合のうえ、ブロック式の常磐町一~三丁目を新設
(この時代においては、町名の付け方についても中央政府の意向が強く反映されていると思われますが(今でも?)、この町名の新設の仕方は、現在の住居表示制度につながる町名・町割り区分の考え方の芽生えが見られるように感じます。)
それでも、いまのところ住居表示の実施をまぬがれている中心市街地では、呉服町・上石町(かみごくちょう)・七間町など、通り沿いに町名を付ける(したがって町境は背割り)という基本はある程度残っています。
この地域が住居表示の実施で、それこそ「中央○丁目」などとブロック式のあじけない町名に変えられないことを願っています。
また、○丁目が一丁ごとの区分となっている例は、ほとんどの町名が変えられてしまっている東京の銀座(江戸時代の町名は「新両替町」)などでも、その名残を見ることができます。
かつて銀座は中央通り沿いの4丁だったのですが、現在の一丁目から四丁目(中央通りの裏側の町々をのみ込んではいますが)の丁目境は、一丁ごとのほぼ昔のままです。
以前の私の投稿と重複する部分もあり、また「丁目」の話題から少々脱線気味になってしまいました。(請御容赦)