いよいよ本日,平成17年2月28日をもって新・佐野市が誕生しました。と,同時に安蘇郡はその長い歴史を閉じました。かつて上都賀郡の山間部を含んで
足尾にまで広がっていた郡が消えたのです。
そもそも,今回の合併の中心となった佐野市は,昭和18年に3町3村の合併で成立したものです(3町→佐野町・犬伏町・堀米町:3村→植野村・旗川村・界村)。このときも,合併の中心町であった,佐野町から名前を採っています。
では,この佐野町の「佐野」は一体どこから来た名前なのでしょうか。「角川日本地名大辞典:栃木県版」によれば,「佐野庄に由来」するとのことです。「佐野」という行政組織名は,荘園の名称がそもそもの由来だったのです(「佐野の庄」の範囲は,昨日までの佐野市と安蘇郡を併せたものにほぼ等しく,もうちょっと東にずれたイメージです.)。
そう,「行政組織名」と書きました。実は現在(過去にも),佐野という地名は佐野市には存在しないのです。だからもし,新・佐野市が「安蘇市」を名乗ったとしたら,替わりに「佐野」が消滅するところだったんですネ(
[29539],
[35529])。
発端の「佐野町」は,明治9年に小屋町と天明町が合併して成立したものです。したがって,ソレまでの佐野庄という大きな範囲をあらわす「佐野」という名前がこのとき,現在の佐野駅周辺(旧佐野町)のごく狭い範囲をあらわすモノに変質したことになります。
一説には
佐野コレクションにも書きましたように,佐野とは「狭い野,狭野」からの転化といいますが,それにしては「佐野」は狭くないですねぇ。あるいは足利の方から東をみたとき,北から屏風のように南下する三毳山に渡良瀬川が行く手を遮られるようにも見えますから,それで「狭い」という印象を受けたのでしょうか(
佐野界隈)。でも,何度もそういう視点で渡良瀬川流域を彷徨ってみましたが,やっぱり違うんですよねぇ,だって,それにしてはあまりにも開放的すぎるんですよ。わたくしには全く「狭まった」感触は感じられません。確かに佐野市は三方に山を控えておりますが,あまり迫ってきてないのですよ。もっと高いか近いかしてくれないと,相当圧迫感を持って迫ってくれないと,「狭い」って感じではありませんよ。
つまり,イメージしている佐野の場所が違うんだと思います。ズバリ,わたくしの想像する(元々の)佐野とは「田沼」なのです。
佐野から秋山川や旗川を遡ってゆくと,程なく
田沼町に至ります。田沼町で旗川は流路を2つに分け,彦間川は北西の飛駒の沢へと,野上川は野上の沢へと吸い込まれていきます(下流から記述してるので変な感じ)。秋山川はそのまま葛生町へ,源流の秋山へと北上してゆきます。
このように,田沼のあたりではぐっと東西の山並が狭まって来るんです。まさに「狭い所に開けた野(佐野)」なんです。あるいはかつて,この一帯こそが,「佐野庄」の中心地なのではなかったか(先の角川辞典によれば「(佐野とは)かつては田沼町一帯を含んで呼んでいた」という表現)。
戦前の地図をみると,秋山川の流路は,佐野の中心地を過ぎたところから今と大きく異なって極端に東に屈曲し,越名沼に流入しています。かなり河道が不安定だったような感じです。そんなことから想像しますに,千年ほど前には,旧・佐野市の南半分・西半分は秋山川などの氾濫源だったのでしょうね,当然。なのでそういうところよりは,もうちょっと上流,田沼町界隈の方が自然災害に対して強かったはずです。まずはそういうところから栄えてゆくはず???すなわち,最初の「佐野庄の中心は田沼」と考えられはしないでしょうか(しかも,唐沢山に居城を定めた佐野氏のお墓は実は田沼町にあるそうです.人に聞くところによると,かつての唐沢山の正面口は田沼町側だそうで,なるほど,だからこそお墓が田沼にあるのかも.)。
ただ,やがて東山道や例幣使街道の宿場として「佐野」が栄えるようになると,佐野庄の中心地が田沼から「佐野」に移り,やがて佐野といえば「佐野」を中心とする一帯を指すようになったのでしょう・・・・・・(あぁ,ややこしや)
と,以上わたくしの勝手な妄想でした。「佐野が狭く思えない」ことからだいぶ飛躍してしまいました。でも,もしそうであるならば,今回の新・佐野市は,数百年の時を越えて,ようやく本来の「佐野」に戻ってきたんだ,とは言えますまいか。