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右左府さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[66458]2008年8月28日
右左府
[65935]2008年8月5日
右左府
[65662]2008年7月2日
右左府
[65431]2008年6月7日
右左府
[65060]2008年5月10日
右左府

[66458] 2008年 8月 28日(木)18:53:37右左府 さん
十和田湖と大潟村長
十和田湖付近の秋田・青森県境確定見込みのニュースがありましたが、同じようなニュースって以前にも何度か出ていたんですよね。その度に気づいたら議論は白紙に戻り……の繰り返しでした。今回も大丈夫なのかな、とちょっと心配です。
とりあえず、明日29日に小坂町長・十和田市長・両県知事の4者による話し合いの場が設けられ、そこで最終決定ということになるようです。

女性首長の話題が出ていますが、それに関して。
秋田県では大潟村長の黒瀬喜多氏がが県内唯一の女性首長でしたが、つい数日前の村長選挙で落選してしまいました。これで秋田県の首長はまたオジサンだらけです。
実は先日私もたまたま女性首長の一覧を作る作業をしていたんですが、がっくんさんの調査結果と比べると私のは見落としがあるわあるわ……。特に町村長はオジサンたちの独壇場という思い込みがあったので、清内路村などは意外でしたね。
数は「意外と多くなったな」とも、「二千近くも自治体があってこれだけか」とも感じられました。
[65935] 2008年 8月 5日(火)18:00:04【1】右左府 さん
塚の字の点の有無が話題になってますね。

記憶が曖昧なのですが、確か以前公式HPかどこかで、宝塚市と貝塚市に関しては「ひげ塚」をロゴなどに使用していたのを見た記憶があるんです。(記憶がかなりおぼろげなので、あまり信用しないで下さい……。)それで、「宝塚って点のある塚だったんだ」などと驚いたのを覚えています。


現在はどちらも公式HPでは一見「ひげ塚」は見当たりませんが、刊行物などを探してみたらありました。

宝塚市勢要覧2006」このPDF版では、すべての「塚」が「ひげ塚」になっています。HTML版も、画像処理されている文字は「塚」とともに「ひげ塚」が混在しています。
また、「広報たからづか」でもほとんどが「ひげ塚」です。裏表紙の編集発行者欄にある「宝塚市役所」やその住所「宝塚市東洋町…」の文字も「ひげ塚」で表記されています。

貝塚市の方も、「貝塚市第4次総合計画」には一貫して「ひげ塚」が使用されています。

他の「塚」を含む自治体もささっと各種刊行物を確認しましたが、こちらは点の無い「塚」しか見当たりませんでした。
[65662] 2008年 7月 2日(水)18:25:47右左府 さん
お悔やみ欄など
新聞やお悔やみ欄などの話題、興味深く読んでおりました。私の地元の話も提供……と思ったら、やたらと長文に(汗)。興味のない方はさらっと流してください……。


私の実家で購読しているのは、秋田県内エリアの「秋田魁新報」と、能代山本エリアの「北羽新報」の2紙です。実際のところは分かりませんが、およそ能代山本地域ではこれがスタンダードな購読スタイルだと私は思っていました。

秋田魁新報は、県内・国内・世界いずれのニュースもバランスよく取り扱っています。ニュース以外のページもかなり充実しており、全国紙をとらずともこれで充分事足りるでしょう。逆に全国紙だと県内ニュースが不足し不便かも。
ちなみにこれは朝刊+夕刊セット。
一方北羽新法は専ら能代山本および旧岩崎村のニュースに特化しており、国内・国際ニュースは基本的に扱わず、県内ニュースも少しだけ。(でも皇太子妃出産の時のニュースは一面のセカンド記事になっていたような……。)ページ数は少なく、夕刊もなし。

[65450] EMM さん
折込広告
基本的に折り込み広告は大部分が秋田魁新報に入り、北羽新報にはたま~に数枚入っている程度ですね。
それで、その「たま~に数枚入っている」広告、はっきりと思い出せないのですが、言われてみると不動産関係だったような気がします。他の広告に比べ作りが劣るような不動産の広告をたまに見た記憶はあるんですよね。記憶が曖昧で断言はできないのですが……。


お悔やみ欄の話。

上記の両誌ともにお悔やみ欄があります。どちらも掲載は無料。
魁新報の方では、亡くなった方の氏名、享年、死亡日時、葬儀会場・日時、喪主が書かれています。
北羽新報は3面に結婚・出産・救急医療輪番病院・香典返し・翌日のごみ出し案内・行事予定……などがずらっと書かれたコーナーがあり、その中にお悔やみ欄もあります。内容は亡くなった方の氏名、住所(基本的に大字まで)、享年、死亡日。
また、魁新報のお悔やみ欄の末尾には「市町村への届出」という名の別枠があり、おそらく掲載を申し込まなかった人の訃報を扱っていると思われます。こちらは確か亡くなった方の氏名・享年だけだったはず。

掲載のシステムなのですが、魁新報が遺族からの申込形式だという以外、よく分かりません。
一昨年私の家にも不幸があり、その際に北羽新報には掲載されました。喪主であった父に尋ねたところ、「掲載の可否を尋ねる電話が来て、OKした。」との事。電話の主が新聞社か市役所か、そこは記憶が曖昧……。

そして死亡広告、両誌ともに掲載されていますが、魁新報は通常お偉いさんのみ。一方北羽新報は一般の方のものも多いです。
内容は、葬儀を知らせる挨拶文に続き、喪主を初めとする遺族の名前がズラリ。
遺族の名前はどこまで書くかは様々。喪主・配偶者・兄弟・喪主配偶者・子あたりまでは必須です。孫は単に「孫一同」と書かれるのみ、「孫代表」として一人だけ書かれる、孫全員の名前を連ねる、のいずれか。
これらと一緒に、葬儀が済んだことを知らせる挨拶も広告として載せられます。

前述の我が家の不幸の際、葬儀でお坊さんが仰っていたんですが、能代山本のあたりは全国で見ても死亡広告が非常に多いとか。「義理参列」を招き好ましくない、と嘆いていました。実際のところは分かりませんが、北羽新報のような新聞の存在が死亡広告を出しやすくしているんでしょうか。

[65399] k-ace さん
市の広報の「お悔やみ欄」
市町村巡りで入手した各地の広報を見てみると、このお悔やみ欄や、結婚・出生欄のあるものが幾つかありました。私の知る限りでは、秋田県三種町、八峰町、それと合併前の琴丘町・山本町の広報にこの欄が設けられています。私の住む能代市にはこれがないため、初めて見た時は非常に新鮮に感じました。
これって人口の少ない町村でしか見られないかと思っていたのですが、加西市ほどの人口規模の所でも見られるとは意外です。
[65431] 2008年 6月 7日(土)18:08:42右左府 さん
谷保村の件
レスが遅れてしまいましたが……。

[65096] 紅葉橋律乃介 さん
[65108] 88 さん

非常に丁寧なご回答・ご解説、ありがとうございます。

まったく同時に、「谷保→国立」と、「村→町」が行われた。
との88さんの見解に、私も納得できました。

「改称」は本来は「谷保村→国立村」や「谷保町→国立町」でなく、「谷保→国立」です。「改称」の対象となるのは、正確には「町」「村」を除いた部分です。
一方、「村を町とする処分」の本来の趣旨は、「谷保村を谷保町とする」や「国立村を国立町とする」ではなく、「従前の村を町とする」です。「谷保町」という名称の町を規定する趣旨ではありません。
この点で合点がいきました。てっきり、「谷保村→国立村」との表記の条例と「谷保村→谷保町」と表記された総理府告示では内容に齟齬が生じ、その結果どちらか一方が機能しなくなるのか?などと、あれこれ考えていたのですが、そういう事ではないのですね。

このような改称と町制・市制を同時に行う事例では、例示された常陸大宮市などのようにその“順序がはっきりしている”ものにしか触れたことがなかったので、この国立町のケースでは混乱してしまいました。


ちなみに、谷保村議会での町制と改称それぞれの議案議決順ですが、一応「町制施行について」と題された議案が改称条例より先に議決されています。
ただ、議事録で該当箇所を読むと、この町制議案に対する議員らの発言が「町名は『国立』でいいか」という議論にほぼ終始しており、町制施行自体に関する発言はほぼ皆無でした。(どうもこの町名問題で村内では一悶着あったようで。)
[65060] 2008年 5月 10日(土)23:41:12右左府 さん
北多摩郡谷保村→国立町
>88さん

「市区町村変遷履歴情報 都道府県別一覧【東京都】」#141に
1951.04.01 町制/改称  北多摩郡 国立町  北多摩郡 谷保村
とありますが、これと矛盾する内容の資料をいくつか発見しました。
ここでは「町制/改称」、すなわち「谷保村→谷保町→国立町」となっているのですが、改称が先行した「谷保村→国立村→国立町」という手続きであった可能性をにおわせるものです。


まず、『法令全書』に掲載された総理府告示では
◎総理府告示第四百四十九号
   村を町とする処分
 地方自治法第八条第三項の規定により、昭和二十六年四月一日から、東京都北多摩郡谷保村を谷保町とする旨、東京都知事から届け出があった。
 なお、同日から同町はその名称を国立町と変更した。
 昭和二十六年十二月二十八日
    内閣総理大臣 吉田  茂
となっており、「町制→改称」と読み取れます。

また、『国立町例規集』(国立町役場文書課編、1962年4月)にて確認した東京都告示では、
  ○国立町の設置(昭和二十六年三月二十八日 東京都告示第三百号)
 地方自治法第八条第三項の規定に基いて、昭和二十六年四月一日から北多摩郡谷保村を町とし、及び同法第三条第三項の規定により、その名称を国立とする。
と、一応は「町制→改称」の順番であるように読み取れます。

また、『東京都議会史 第二巻下』(東京都議会議会局法制部編、1956年10月)をあたってみると、昭和26年の第2回定例会の議案が掲載されており、そこに
第七十一号議案
   北多摩郡谷保村を町とすることについて
右の議案を提出する。
   昭和二十六年三月七日
     北多摩郡谷保村を町とすることについて
地方自治法第八条の規定に基き、昭和二十六年四月一日から北多摩郡谷保村を町とする。
とあります。この議案は委員会による審査を経て原案通り可決されたと記されています。ここでもまず町制が先行していたと読み取れます。


と、ここまではいいのですが……。

この都議会史には附録として「東京都議会付議事件表」という、都議会に提出された議案の一覧表が掲載されているのですが、そこには
第二回定例会 原案可決 第七十一号 北多摩郡谷保村を国立村とすることについて
(一部体裁・字句を変更。)
とあり、上に引用した本編の記述とは異なります。

市の出版物ではどうだろうかと確認したところ、『くにたちの歴史』(くにたちの歴史編さん専門委員会編、1995年2月)には、
昭和二十六(一九五一)年三月の谷保村議会で、いったん「国立村」と改名しました。ついで四月一日の都知事の認可による町制施行にあたって、「国立町」となりました。正式名称のうえでは、ここから現在のくにたちの歴史がはじまったのです。
とあり、明らかに「改称→町制」とする記述です。

極めつけが『国立市史 下巻』(国立市史編さん委員会編、1990年5月)で、以下のような記述がありました。
(略)……佐藤康胤村長は、昭和二十六年三月二日に「名称変更条例制定について」を議題とする村議会を開き、全員一致の賛成を得た。そのときの条例案とは、次のようであった。

  名称変更に関する条例案
 地方自治法第三条第三項の規定により谷保村の名称を左のとおり変更し、昭和二十六年四月一日から施行する
  国立村

都知事に申請するときは「国立村」であったが、都知事の許可が下り、四月一日から実施するときには「国立町」を名乗ったことが、この資料から知れよう。これは、今回の調査で初めてわかった事実である。
この条例は原案通り可決されてますので、その後何も手が加えられてないのであれば、町条例と総理府告示とに齟齬があるという事に。

実際に運用された条例の文を例規集などで確認できれば確実なのですが、国立町例規集には上記の都告示しか掲載されておらず、現在の国立市例規集にはこれに関する例規が一切収録されていません。


私としては以下の二通りの推測をしたのですが、
(1) 上記の名称変更に関する条例は「村」の部分を「町」とする改正が行われた。都議会史附録や市史は単なる誤り。
(2) そもそもこの時期は同日の「町制・改称」などの手続きの順番は重視されず、そのため条例と総理府告示などで内容がちぐはぐに。
う~ん、どうなんでしょうか……。


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