埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代
[36047] (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代
[36081]
(3)は「杤木縣」などの話
[36083]になって (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合
[36111]。
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。
その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。
1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。
県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。
この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。
戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。
実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話
[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。
河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。
1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。
[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした
[13099]。
戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動
[4049]があります。
もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです
[4111]。
それでも残った飛地があり、この落書き帳で
話題を提供しています。