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[36047] 2004年 12月 25日(土)13:48:18hmt さん
埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事
133年前1871年12月25日、関東地方各県(の前身)が発足しました。
この年、明治4年7月の廃藩置県で生まれた飛地だらけの3府302県を、おおむね郡単位にまとめて、3府72県の新しい行政区画を作る作業は、10月28日の群馬県から始まり、約1ヶ月かけて全国に及びました。
このうち、関東地方の分が11月14日に布告されています。約1年後の1873年から採用された新暦にあてはめると冒頭の日付になりますが、埼玉県の「県民の日」は旧暦表示の11月14日になっています[21976]

この太政官布告により、関八州プラス伊豆の9ヶ国に 東京府・足柄県・神奈川県・入間県・埼玉県・木更津県・印旛県・新治県・茨城県・栃木県・宇都宮県が設置されました。
一足先に発足した(第1次)群馬県を加えた1府11県が、現在の県につながる行政区画として成立したわけです。

さて、「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)という本を見ていたら、p.14にこの太政官布告などの写真(部分)が出ていました。
そこで、布告文を読みながら、埼玉県の生まれた頃(1871~1876年)の関東地方を振り返ってみました。

なお、関東地方の県域や県名に触れた過去記事は、Issieさんの[1644][18896][19025][24127]、両毛人さんの[16764]、hmt[20917]などがあります。[10577]には統合分割の歴史が県の順番に影響を及ぼした事例が示されています。

太政官日誌明治四年第九十三號(1871年)
〇辛未十一月十四日
御布告書寫
今般関八州群馬縣ヲ除クノ外并ニ伊豆國従来ノ府縣被廃更ニ左之通府縣被置候事
〇埼玉縣(注:サイタマと振り仮名。古墳群のサキタマと読み方が違うためでしょう。) 縣廳 岩槻
武蔵國 埼玉郡 葛飾郡ノ内 足立郡ノ内

この県を構成する3郡のうち、葛飾郡は印旛県を主体として3府県にまたがる大きな郡のほんの一部にすぎず、南隅の足立郡も東京府とまたがる地域であり、当時の県の中心地域は埼玉郡でした。この時点では「埼玉縣」の名称も、「県廳岩槻」も妥当です。

発足当初の県庁組織は、庶務・聴訟(裁判も県の仕事でした)・租税・出納の4課で、定員は50人程度というから、人口(43万人)1万人あたり 1.2人となります。現在、埼玉県知事の事務を補助する一般職員の定数は8016人となっていますから、人口1万人あたり 11.4人。約10倍になっています。

なお、岩槻には県庁舎として適当な建物がなかったので、旧浦和県庁舎を仮に使いました。
1876年には荒川西側の旧入間県の領域を併合するなど、埼玉県の中心地域が移動したこともあり、埼玉県発足から19年も経過した後の1890/9/23、足立郡の浦和がそのまま正式の県庁所在地になってしまいました[22470][20917]

当時の埼玉県は、およそ現在の埼玉県の東部3分の1で、荒川の西側は入間県でした。入間県の西部は秩父の山地で、面積では勝るものの、人口(41万人)や石高(約40万石)では埼玉県と同程度の県でした。

〇入間縣(注:振り仮名なし) 縣庁 川越
 武蔵國 横見郡 入間郡 秩父郡 男衾郡* 大里郡* 榛澤郡* 賀美郡# 幡羅郡* 比企郡 新座郡 那賀郡# 児玉郡# 高麗郡 多摩郡ノ内

1896年の郡制により大里郡*や児玉郡#に統合されて消滅した北部の小さな郡の名が見えます。(横見郡は比企郡に、高麗郡は入間郡に統合)。
[36081] 2004年 12月 26日(日)18:55:07hmt さん
埼玉県の生まれた頃(2)―試行錯誤の県組替えパズル
関東地方の県の改廃に関する太政官布告[36047]の続きです。
明治6年に群馬県令の長州人・河瀬秀治が現埼玉県西部の入間県令を兼任し、両県は統合されて熊谷県になりました。
同じ時に、宇都宮県は栃木県に統合され、印旛県と木更津県とが統合して、千葉県になりました。こうして、明治4年(1871)の第1次府県統合で関東地方に生まれた1府11県は、3県減少して1府8県になりました。

太政官日誌明治六年第九十號 六月十五日(1873年)
〇各通 入間縣・群馬縣
其縣被廢熊谷縣被置候條地所物成等同縣ヘ引渡可申事
〇熊谷縣
今般其縣被置候條武蔵國大里郡熊谷驛ヘ廳ヲ設ケ舊入間群馬両縣地所物成等請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事
〇杤木縣
今般宇都宮縣被廢其縣ヘ管轄被仰付候條地所物成等同縣ヨリ請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事
〇各通 印旛縣・木更津縣
其縣被廢千葉縣被置候條地所物成等同縣ヘ引渡可申事
〇千葉縣
今般其縣被置候條下総國千葉郡千葉町ヘ廳ヲ設ケ舊印旛木更津両縣地所物成等請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事

ここで千葉県が誕生しましたが、利根川より北の下総国(結城・古河・取手など)を含む一方、利根川より南でも 佐原・銚子などは新治県というわけで、現在よりも細長い千葉県でした。千葉県もこの誕生日が「県民の日」になっているとのこと[28605]
千葉県と、新治県を併せた茨城県とが領地を交換し、利根川が県境という現在の形になったのは、2年後の1875年です。
[36111] 2004年 12月 27日(月)18:52:03hmt さん
埼玉県の生まれた頃(4)―土地人民同縣ヨリ可受取
本題の関東地方の県の改廃に関する太政官布告に戻ります。
1971年の第1次府県統合による関東地方1府11県[36081]から、1973年には入間県・宇都宮県・木更津県が消えて1府8県へ[36081]、更に1975年に新治県は千葉・茨城両県に分割され1府7県へ。

1876年になると 2度にわたる全国的な第2次府県統合で3府35県になります。
関東地方では、先ず足柄県が 神奈川・静岡両県に分割されて 消滅しました(4/18)。
現在と同じ数の 1府6県となったのは この時だし、江川代官所から韮山県へと 関東と深い関係を持ってきた伊豆と 別れ別れになってしまったのも この時でした。

北関東では次の布告による3県の組換えがあり、埼玉県・群馬県・栃木県が “ほぼ” 現在の形になります。
この後、関東地方の県境で大きな変化があるのは、1893年の 神奈川県から東京府への 三多摩移管[33700]だけです。

太政官日誌明治九年第六十五號(1876年)
〇八月二十一日(第百拾弐號布告)
筑摩縣始左ノ通廢合并管轄替被仰付候條是旨布告候事
一 筑摩縣ヲ廢シ飛騨國ヲ岐阜縣ヘ合シ信濃國ノ内ヲ長野縣ヘ合併(注:関東とは無関係)
一 熊谷縣管轄武蔵國ノ内ヲ埼玉縣ヘ合シ橡木縣管轄上野國山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷縣ヘ合シ熊谷縣廳ヲ上野國高崎ヘ移シ群馬縣ト改稱

武蔵(旧入間県)を埼玉県に渡し、橡木県[36083]から上州3郡を得て、結局上野国全域になった熊谷県は、新しい県庁予定地の名に由来する「高崎県」となるはずでしたが、“差し支え”あるとの理由で、高崎・前橋をともに含む郡の名を採用して(第2次)「群馬県」に改称しました。翌月には県庁所在地が前橋になっているので、これが理由だったのでしょう。
なお、栃木県庁が栃木から宇都宮に移ったのは 8年後の1884年でした。

最後に、旧入間県を受取ることになった埼玉県に対する文書。

埼玉縣
熊谷縣管轄武蔵國ノ分其縣ヘ管轄被仰付候條土地人民同縣ヨリ可受取此旨相達候事
明治九年八月二十一日 右大臣 岩倉具視

[36081]の布告が、 「“地所物成(ものなり=生産物、年貢)等”を請取るべく」と財産権的な表現だったのに対して、今度のように 「“土地人民”を受取るべく」と書かれると、人民としては「ギクッ」とします。
1872(壬申)年施行の戸籍法や 1873年布告の徴兵令により、支配対象が「石高」に象徴される「生産物」から、「生産手段」たる 「人民」そのものに変化してきたことを示しているのでしょうか。
版籍奉還の “版籍” も、まさに“土地人民”と同じ意味だったのですが、使い慣れた4字熟語になると、鈍感になってしまいます。
[36159] 2004年 12月 28日(火)23:02:23【1】hmt さん
埼玉県の生まれた後―県域変更あれこれ
埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代[36047]   (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代[36081]
(3)は「杤木縣」などの話[36083]になって  (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合[36111]
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。

その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。

1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。

県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。

この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。

戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。

実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。

河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。

1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした[13099]

戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動[4049]があります。

もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです[4111]
それでも残った飛地があり、この落書き帳で話題を提供しています。
[37980] 2005年 2月 21日(月)19:45:50hmt さん
越境がらみの分村合併
大作 市町村変遷パラパラ地図・埼玉県版の作成にあたり、むじながいりさんが最も苦労されたのは、地図上で範囲がつかめない「一部編入」だったとのことです。

分村しなければならない事情に注目して、フォローしてみました。

やはり、最初に挙げたいのは、有名な埼玉県入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村越県合併です。その経緯については、[4049]TNさんの記事に尽されていると思いますが、なぜ分村に至ったかの視点で、少しだけ補足しておきます。

もしも、元狭山村と瑞穂町の間に県境がなかったら、この合併は、分村など伴なわずに、村の申請通りにすんなり実行されたことでしょう。埼玉県が領土を失うのに反対しているうちに、村内の一部に合併反対運動が起こり、結局、二本木の一部を埼玉県に残す分村の形で決着したようです。

埼玉県側の記述によると、次のような書き方になっていますが、合併を推進した側の記録には、当然ニュアンスが異なるものがあるでしょう。
しかし、村内の一部の住民の間に自覚が逐次たかまるにつれ、この合併に反対する動きが抬頭し、その運動が次第に活発となって、賛否の対立も時とともに激しさを加えた。

歴史を遡ると、1891年に、埼玉県新座郡新倉村の一部が分村して、榑橋(くれはし)村と共に越境合併し、東京府北豊島郡大泉村を作っています。この頃は県境の壁が低かったのでしょう。
分村とは無関係の事例すが、舎人町(1875年)や保谷村(1907年)も県境を越えています。[36159]

それが近年になると、唯一の成功例である元狭山村を除いて、埼玉県からの脱出は不成功に終っています。
曰く、北葛飾郡東和村(現 三郷市、埼玉県南東端)、北足立郡片山村(現 新座市、埼玉県南端)、児玉郡渡瀬村(現 神川町)。

その児玉郡渡瀬村。これは1949年に若泉村を分村して、阿久原村と共に誕生した村です。たまたま 戦時合併の解体による町村分離[37842]と同じ時期ですが、少し違います。

ここは、埼玉県の中でもちょっと変った地域で、神流川沿岸の盆地になっています。盆地の中心は神流川対岸の群馬県多野郡鬼石町。

若泉村は、1889年の明治合併で、鬼石の対岸下流の渡瀬と上流の阿久原とが合併してできた村ですから60年間も若泉村として同居していました。しかし、山は神流川沿岸まで迫り、昔は両地区を結ぶ道路もないという状態でした。埼玉県若泉村の役場は、交通の中心になる群馬県鬼石町に置かれていたそうです。
こんな離れ離れの地域は、戦後の六三制に伴なう中学校建設問題に端を発して紛糾を重ね、遂に分村に至ったとのことです。

昭和合併の1954年、渡瀬村は鬼石町中心の大同合併を主張しましたが、上流の阿久原村・矢納村が大同合併に同調しなかった(→合併して神泉村)ので、単独で鬼石に合併申し入れ。しかし、前記のように県境の障壁は高く、越境合併の試みは不成功に終りました。
合併から取り残された渡瀬村は、その後不本意ながら神泉村に合併を申し入れたが、若泉村当時からの感情的しこりが残り役場位置で対立。結局、下流の神川村に編入してもらうことになりました。
[62334] 2007年 11月 1日(木)19:19:31hmt さん
東京府豊島郡大泉村
[62333]で「練馬区大泉学園町」に言及したついでに、その前身の「東京府豊島郡大泉村」が学校に関係して成立したことを少々記しておきます。

この村は、明治の町村制施行(1889)から2年後に、埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村が、同郡新倉村長久保[4111]と共に、白子川の南岸、東京府に属する豊島郡石神井村上土支田[36159]と越境合併[37980]して成立したものですが、その理由は小学校の統合による経費節減だそうです。

ねりま区報
そのころ、上土支田には…豊西小学校が、榑橋村には…榑橋小学校があった。当時の学校費は村費全体の5割ないし8割にも当たっていた。両校の距離は1kmもない。もし両村が合併すれば、小学校は一つですみ、村の経費は大幅に節約できる、と考えた。

このような理由で越境合併が OK になるとは、府県境の壁が大きく立ちはだかる現在の市町村合併との違いに驚くばかりです。

なお、榑橋村は以前は小榑(こぐれ)村と橋戸村でしたが、1889年の町村制施行にあたり、例の「参互折衷」[37482]により命名されました。
現在の町名では、前者は大泉学園町・西大泉・南大泉、後者は大泉町(住居表示実施前は北大泉町)。
# 余計なことですが、「前者・後者」という表現を読んで「クスリ」ときた方は、過去ログをご存知の方です。
1891年の合併相手である(旧)上土支田村は 白子川右岸、大泉学園駅周辺の東大泉。

越境合併でできた「大泉」という村名の由来は、それ以前は府県境だった白子川の水源になっている 湧き水 だったのですね。

# 西大泉(1~6丁目)の他に、「西大泉町」[4113] TN さん があります。落書き帳の有名地名の一つ。参考
[68760] 2009年 3月 4日(水)22:57:18hmt さん
「飛び地」の魅力 (2)西大泉付近・昔の府県境
[68741] Issie さん
「西大泉町」を含めたこのあたり(練馬区西大泉)一帯は1891(明治24)年に 東京府北豊島郡 の 上土支田村 と合併して 同郡大泉村 となるまでは「埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村」でした。…つまり…「都道府県をまたぐ飛び地」であったわけではない。

説明していただいたように、現在「練馬区西大泉町」になっている地が、「府県境をまたぐ飛び地」になったのは、町村制施行(明治22年)の2年後のことでした。
白子川右岸の東京府上土支田村と、左岸の埼玉県榑橋村とが、小学校を統合して経費を節約するために合併して 大泉村 [62334] になったことにより、ごく小さな領域が、北に移動した府県境の埼玉県側に取り残されてしまったのでした。

大泉村ができる前、明治22年(1889)当時の府県境を確認しておくと、荒川から白子川を遡り、水源 の「大きな泉」から更に南西・富士見池の西へと進みます。埼玉県側が新座郡保谷村になり青梅街道を越えた先で、千川上水に出ます。ここは神奈川県北多摩郡武蔵野村との3府県境界点(東京府は北豊島郡石神井村)になります。現在の西東京市・武蔵野市・練馬区の境界点。

ここから先は埼玉・神奈川県境になりますが、保谷村と武蔵野村・田無村との境界に沿って少し西に行った後で約10kmも北上します。
つまり、埼玉県新座郡は、東京府北豊島郡(現・練馬区)と神奈川県北多摩郡(田無・久留米・清瀬)との間に半島状に食い込んでおり、話題の主の飛び地は、その「新座半島」の真ん中あたりにあったわけです。

[4111] ken さん
今は亡き保谷市の部分に、埼玉県がぐいっと入り込んでいたら、やはり変ですよね。
[4113] TN さん
私は、以前その地図を見たことがあります。(浦和の公文書館だったか?)
とにかく、その凄さといったら大変なものです。
なにしろ、3本の棒が西側にピョン、ピョン、ピョンとでているのですから。

「新座半島」の概略の姿としては、神奈川県の中に食い込んでいる「町田半島」を想像してください。
「3本の棒」とは、“約10km北上”と記した「半島」西側の線から岬状に突起した埼玉県の領域です。半島の付け根に近い野火止用水沿いの「棒」は現存。保谷村に属した半島先端(千川上水沿い)と、半島の中間(現在のひばりが丘団地)の「棒」は、保谷村の所属がが明治40年(1907)北多摩郡(明治26年から東京府)になったために消滅しました。

TN さん言及の地図と思われる 明治二十二年四月改正「埼玉県菅内全図」[37601] を見ると、野火止用水沿いの「棒」の北の神奈川県内(清瀬村)に、埼玉県の「飛び地」(話題の発端の西大泉より大きい)があります。八王子道(志木街道)沿いの中清戸の集落と思われます。更に中間の「棒」の先端にも2つの「飛び地」。
後者はもちろん、前者も現在は東京都になっており、“そうした複雑な領土を整理する”([68738] 太白 さん)作業も行なわれたことを裏付けています。
[75152] 2010年 5月 21日(金)15:53:56hmt さん
現在の東京特別区の最高地点付近 昔は東京府・神奈川県・埼玉県の境界だった
[75142] N-H さん
練馬区と西東京市との境界線が青梅街道と交差する少し手前の練馬区内に標高58mの標高点の表示があります。

私は、武蔵野段丘の等高線図 を念頭に、23区の範囲を重ね合わせて最高地点を予測していました。
23区の中で最も西にあるのが練馬区。北部は低いので、練馬区南部に23区最高地点があるという結論には納得です。
それにしても、58mとは予想以上の高さ。

かつて、この近くは東京・神奈川・埼玉3府県境[68760]で、明治26年(1893)の三多摩移管[33700]よりも前には「東京府」の最高地点でした。
…と書いてから、そうでないことに気がつきました。

伊豆小笠原諸島が東京府でした。
最も有名なのは伊豆大島の三原山ですが、八丈富士はもっと高いのではないかと思い、日本の主な山岳標高 で調べたら、最高は なんと南硫黄島 916mでした。
この 「海のピラミッド」は、今年になってから記事[74102]でも触れており、2007年には自分で“海上に突き出た800~900mの険しい山”[56164]と書いていたのですが、すっかり忘れていました。
孀婦岩 でさえ、99mあるのでした。

武蔵野村のある神奈川県北多摩郡は、1893年に東京府になりました。明治40年(1907)には、埼玉県北足立郡保谷村も東京府北多摩郡に編入され、この地域は完全に東京府の内部に取り込まれました。

この付近が 武蔵野台地の中でも 尾根筋にあたる高所であることは、玉川上水と、それから派生する 千川上水とが 作られていることでも裏付けられます。昔の3府県境よりも少し西の、標高60mを超えた玉川上水沿いに、東京市水道局の境浄水場が完成したのは大正震災の翌年(1924)でした。
時代的にも地理的にも、淀橋浄水場[36207][58728]と東村山浄水場[58751]との間に位置しています。

実はこの付近は非常になじみのあるところで

戦争が近づいた 1938年になると、武蔵野町の板橋区・保谷村境界点(昔の3府県境、現在の武蔵野市・練馬区・西東京市境界点)南側に、軍用機のエンジンを作る 中島飛行機武蔵製作所 ができました。
戦時中はもちろん空襲の目標になりましたが、その跡地に、電気通信研究所(当時は電気通信省)ができたのは、戦後の 1950年のこと。

戦後の国電路線図に、三鷹-武蔵野競技場前間の中央線支線があったことを覚えています。
# この駅は、東京競馬場前と同じく「かな」で13字。当時は最長の駅名でした。
中島飛行機の工場引き込み線を利用した路線でしょう。時刻表を見ると、“競技開催日運転”とあります。乗車経験はなし。
[79541] 2011年 10月 20日(木)16:29:32hmt さん
県境の変更 (3)戦前の県境変更事例 新設合併・境界変更
[79538]のタイトルは「戦前の県境変更事例」でしたが、特別法による明治の事例が殆んどであり、市町村合併や市町村間の境界変更を事由とするものは対象外になっていました。
今回のシリーズの発端となった[79523] 88 さんのリストは、まさにこの種の県境変更に関するものですが、情報元の官報情報検索サービスの制約上、利用できるのは 戦後の事例に限られます。

町村廃置分合や境界変更に関する戦前の記録探索は、全国を対象に実行するとなると、県報へのアクセスなどでの困難があると思われます。
そこで、完全は期し難いことを承知の上で、既に変遷情報に記録されているものの中から、県境変更事例に該当すると思われるデータを拾ってみました。(手法は、県別リスト内で Ctrl+F 県)
明治32年の利根川北岸 金江津村などもヒットしますが、既に[47106]で検索された特別法によるこれらのものを除くと、戦前の事例として3件が残りました。

最初の2件は、東京周辺部ということもあり、割合有名な県境変更地です。
しかし、3件目の伊賀袋クラスになると、未発見の県境変更地が まだまだ多数あるのではないかと思われます。

明治24年(1891) 東京府北豊島郡大泉村となった新設合併
[62334]で引用した『ねりま区報』に記されているように、東京府北豊島郡石神井村上土支田と埼玉県新座郡榑橋村との学校統合による経費節減が目的とのことです。新座郡新倉村長久保も参加しています。
榑橋村は、保谷村ほどではないにしても、埼玉県としては南端に近く、東京府の側にやや突き出た位置にあります。
合併後の大泉村が「東京府所属」になることを選んだのは、自然の成り行きと思われます。

その保谷村も明治40年(1907)には東京府に所属変更。こちらは合併を伴わないので、特別法でした[47106]

2番目は大正15年(1926) 埼玉県北足立郡横曽根村であった浮間を 東京府北豊島郡岩淵町に境界変更
浮間は、かつて大きく南に蛇行していた流路を短絡した結果、荒川の南岸になった場所です[36159]

変遷情報に最近記録されたのが、昭和5年(1930) 茨城県から埼玉県に境界変更された伊賀袋 です。
利根川と同時に行なわれた渡良瀬川改修により、茨城県から見れば対岸飛び地になっていたので、これを解消。
私は 2010年オフ会記録資料作成過程において明治の輯製図を現代の地勢図と見比べて、流路と県境とが変更されていることを偶然に発見しました[76950]。その後で落書き帳を「伊賀袋」で検索してみると、 2003年の記事 で既に県境変更(但し 1932年と記載)に言及されていました。落書き帳恐るべし。

余談ですが、会津オフ会で利用する方が多いと思われる東武日光線。利根川を渡った直後に、この伊賀袋を通過します。
旧河道跡も残っているので車窓必見スポット?
1929年の開業から1年3ヶ月間だけは、茨城県の対岸飛び地だった![11207]
[65713] 2008年 7月 9日(水)15:59:30hmt さん
内間木から岩渕にかけての荒川の流路と行政境界線
[65707] ryo さん
笹目橋より西側の怪しさは只者ではありません。(このあたりは和光市の境界線も怪しすぎる…)

笹目橋の西側、つまり彩湖の南端部で 和光市が戸田市に突出している境界線付近 を、古い地形図で確認してみました。

明治42年測量図では、上流側の内間木村から荒川の蛇行が続いています。対岸の美谷本村(合成地名コレ集録済み)にある「曲本」なんて地名も、曲流からきているのでしょう。
新河岸川との合流点を過ぎた後にある、ご指摘の和光市(当時は新倉村)が戸田市(美谷本村・笹目村)側(北)に突出する境界線も、もちろん蛇行した荒川の流路です。

その先、白子川を合わせて東京府と埼玉県の境界になると蛇行はおさまり、少し東流した後、船渡で南に突出、更に浮間で大きく南に突出するというのが、改修前の荒川の流路です。
浮間は、[65477]で言及した浮間ヶ原の所在地で、岩淵町の赤羽(鉄道駅ができてからはこの地名が有名)に隣接しています。

江戸時代の西遷工事[38111][39453]によって入間川の流路に押し込められた荒川。
「荒ぶる川」が旧入間川流路で納まっていたはずもなく、江戸時代にもたびたび洪水に見舞われました。
そして、近代になると明治43年(1910)の大水害を契機として、新たな大改修工事が行なわれました。

下流部の対策の柱は岩渕で分水する荒川放水路[35860]
そして、中流部において水を抑える手段としては、連続堤防や横堤によって1~2kmもの川幅に洪水滞留させる構想です。
中流部の末端に位置するこの付近も、蛇行していた流れを直流に変え、広い河川敷を確保する対策が取られました。

# “広い河川敷”といえば、国土交通省認定 「川幅日本一」 地点も荒川にあり、その川幅は 2532mとのことです。航空写真

内間木・岩渕間の荒川流路に話を戻します。
昭和31年応修の地形図になっても、直流化された荒川に沿って、かつての蛇行の痕跡をたくさん認めることができます。
右岸の内間木村は戦時合併[37842]で志紀町になりましたが(皇紀2604年の2月11日紀元節)、この際に荒川左岸の地は一足先に発足した美笹村に編入され、行政境界線は荒川の新流路と一致することになりました。昭和合併を経た昭和31年地形図では朝霞町。

一方、その前年(1943)に同じく戦時合併によって右岸・大和町(現・和光市)と左岸・美笹村(現・戸田市)とが発足した時には、このような調整が行なわれず、境界は旧河道のまま残りました。
昭和43年の地形図になると、旧河道の跡はほとんど消え、“怪しすぎる”境界線だけが目立つことになりました。

ここよりも下流側で荒川の直流化によって南岸に取り残された2つの埼玉県突出部も後に東京に編入されました。[36159]
埼玉県北足立郡横曽根村(現・川口市)のうち浮間が、東京府北豊島郡岩淵町(現・北区)に編入されたのは 1926年。
その上流側の埼玉県戸田町船渡が、東京都板橋区に編入されたのは 戦後の1950年。
戸田葬祭場や戸田変電所の名称に、かつてこの地が戸田町であった歴史を留めています。

笹目橋より西側の埼玉県と東京都の境界。
これは基本的には白子川(矢川)の流路でしょう。この川に流入先は、荒川改修の結果、並行する独立流路が設けられた新河岸川に変わっています。小さな川ですが、白子川も直流化の結果、現在の流路と都県境とは不一致になっています。
神奈川県と東京都の境界にあるその名も「境川」よりも短距離ですが、たびたび言及されている境川と類似した情況にあるようです。

この白子川を遡ると、その水源は「大泉」という地名の由来になった湧き水です。
現在は完全に練馬区内になっている大泉地区ですが、元々は左岸の埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村と右岸の東京府豊島郡石神井村上土支田とに別れていました。学校統合による経費節減を狙った越県合併であったことを[62334]で記しました。
流路変更とは無関係ですが、ここでも府県境の変更が行なわれていました。
[54252] 2006年 9月 29日(金)23:33:47hmt さん
埼玉・群馬県境変更へ
[52705] KMKZ さん 群馬県太田市南前小屋地区、深谷市へ編入求め両市議会に請願提出
[53313] いっちゃん さん  国盗り物語

新聞記事(読売2006/9/29)によると、埼玉県深谷市と群馬県太田市とのそれぞれの市議会は、9月28日に、群馬県太田市南前小屋地区から出されていた深谷市への編入合併を求める請願を全会一致で採択したそうです。

大正年間の利根川改修工事で集落が分断され、利根川南側になってしまった南前小屋地区(20ha)には、36世帯147人が住んでいるそうですが、小中学校への通学を含めた生活圏は、当然のことながら、完全に深谷市側になっています。
今回の請願採択で県境変更への道が開けたことは確かですが、両市の間や県、国との間の県境変更手続きに要する時間があり、実現は2~3年後の見通しとのこと。

河川改修から80~90年という年月を要したのは、どのような事情があったのでしょうか。
そして、ようやく方向性が決まっても、行政手続に更に2~3年とは。
明治時代の「小さな政府」は、大規模な変革を、もっと素早く実現させたのに。

少し下流の熊谷市妻沼小島地区(利根川北岸)の場合では、住民の足並みの乱れと熊谷市の消極的態度とがあいまって、太田市への編入運動は、実現性が薄いようです。

埼玉県の県境変更については、[36159]で概略を記しました。
その中に記した戦後の事例は、船渡(1950)と元狭山村(1958)だけでしたが、1961年の 北足立郡大和町(現・和光市)と東京都練馬区との間の境界変更 が最も新しい事例のようです。
と言っても、50年近く前のことになりますね。県境変更を阻むいろいろな思惑の存在が推察されます。
[79438] 2011年 10月 8日(土)17:10:00【1】hmt さん
県境変更に伴うデータ
hmtマガジンの 利根川と国境・県境との関係 は、まだここまで行き着いていないのですが、埼玉県深谷市と群馬県太田市との境界が 2010年3月1日に変更されています。

利根川改修で生まれた南前小屋地区の対岸飛び地の是正については、2006年の請願提出から昨年春の実施まで、落書き帳記事 でフォローされていますが、関係する両市のサイトからもリンクしておきます。
深谷市住所表示一覧表 【深谷市前小屋と深谷市二ツ小屋】
平成22年3月1日から、群馬県太田市前小屋町および二ツ小屋町が深谷市に編入されました。
広報おおた2010/2/20
3月1日から南前小屋地区は埼玉県深谷市に【深谷市高島地区の一部が太田市大舘町に】なります
市議会上程議案 の末尾に位置図があります。ぼやけていますが 中央が新上武大橋で、右下側(下流右岸)が 38世帯 141人の住む南前小屋地区で、群馬県から埼玉県になりました。
地図の左側(新上武大橋より上流左岸)は無人のゴルフ場の一部などで、埼玉県から群馬県になりました。

昨年のオフ会参加の道すがら、[76893] Hiro_as_Filler さんが訪問。
たまたま通り道にあった「前小屋入口」の看板に誘われ深谷市前小屋にふらりと入りこむ

本題その1
市区町村変遷情報に、本件の「境界変更」を入力するのが適当ではないでしょうか。>でるでる さん

本題その2
都道府県の基本データ、市区町村の基本データへの影響があるはずです。>オーナー グリグリさん
面積については、都道府県市区町村全体が、まだ 2009年面積調のデータのままなのですね。
これが 2010年面積調 の値に更新されれば、2010年の県境変更に伴う変化も、自動的に取り入れられていたわけですが。
市の変遷については、変遷情報に連動するものと思っています。

以前から子供の通学先も深谷市であった南前小屋地区では 住民の意向が一致しており、県境変更の壁を乗り越えることができました。

少し下流の利根川左岸・熊谷市妻沼小島地区の住民は、太田市編入を求めて陳情書を出しています。
しかし、妻沼小島地区は南前小屋地区よりも大きな集落で、学校もあり、土地改良事業[54536]もからんでいるようなので、問題はより複雑です。
妻沼町時代の 2004年に太田市編入署名を集めた時は、賛成113戸、反対10戸、無回答40戸だったとか。
合併後の熊谷市も消極的態度。

全12世帯中、1世帯の反対があることで編入手続きは当面見合わせとなった栃木市下宮地区の事例[79417]に照らしても、妻沼小島地区の群馬県編入への道は遠いように思われます。


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