[64213]hmtさん
「町村」そのものには総称が付いていないが、“呼び方としては総て総称を冠する”という解釈でよろしいでしょうか?
総称の扱いについて語るには、少なくても明治初期の大区小区制の時代にまで遡る必要があると考えます。
例えば総称のある大津では、
内務省布達甲第4号(M8.2.8)では、
「滋賀県近江国滋賀郡第三区大津町之内 米屋町,塩屋町→白玉町」
という書き方になっています。
この時代、正式に総称があるのはあくまでもある程度の大きさの町のみであり、農村部にも存在していた『○○郷』や『△△荘』『××庄』といった総称は内務省としては無視していたようで見つけることが出来ません。
その後、郡区町村編制法が施行されます。「郡区町村一覧」を見ますと、大津のように一町とならなかったところでは総称“大津”が小さく記されていることが分かります。これが原則です。
ところが尼ヶ崎のように合併して一町となってしまっているところでは従来のような総称“尼ヶ崎”は当然付いていません。また、神戸のように区制が施行された地域では町名に総称は付きません。
「郡区町村一覧」における総称の記載方針はその後の「地方行政区画便覧」においても基本的には踏襲されたのでしょう。
「郡区町村一覧」で総称が記載されているところと、「地方行政区画便覧」で総称が記載されているところは一部の例外を除き、大部分は重なるようです。
さて、ここからが本論です。
ここで考えたいのが鳥取です。総称“鳥取”を構成する各町においては、
郡区町村一覧を見ますと、総称“鳥取”の文字が小さく記されています。
地方行政区画便覧においても同様に総称“鳥取”の文字が小さく記されています。
しかしながら、市制町村制施行時には、鳥取を構成する各町には総称“鳥取”が記されていません。(
[62287]拙稿参照)
これは何を意味するのでしょうか。鳥取の事例が指し示すものは、「郡区町村編制法が施行されたときの公式な町名には総称が付かない」ことであると私は推察します。さらには鳥取に限らず、全国総ての町名には公式な総称が付かない原則であるということが実情であったと考えることは出来ないでしょうか。
このように考えると、公式な町名には総称が付かないことが支障をきたしたために、例えば兵庫県では
戌第73号告示(M17.6.19)で、姫路など総称のあるところでは総称をつけた町名を初めて公式な町名とした、と考えることが出来ます。
そしてこの告示があったことで、市制町村制施行時の廃置分合根拠の
兵庫県令第24号(M22.2.22)で市制町村制前の町村名に姫路や西宮などの総称を見出せるようになりました。
[64201]拙稿で記した各県の布達・告示を、上述のように、「布達・告示の時に初めて総称までが公式な町村名となった」と私は解釈しているのですがいかがでしょうか。
この考えに基づくならば、盛岡や以前の岩槻(
[62856][62867])の事例は総称に対する布達・告示がなかったとするならば説明できますし、岐阜の事例においては総称に対する布達・告示があったとするならば説明することが出来ます。実際はどうだったのかは分かりませんが。
#本稿での兵庫の総称としては『明治前期全国村名小字調査書第三巻(著:内務省地理局編纂物刊、出版:ゆまに書房、昭和61年)』を参考としました。同書によると、明治7年当時に兵庫県の町名に付いていた総称としては、神戸, 兵庫, 西宮, 尼ヶ崎, 三木, 高砂, 姫路, 豊岡, 柏原, 出石郷がありました。
#『明治前期全国村名小字調査書』の詳細については
[54378]に書いていますので、ここでは省略します。
滋賀県庁所在地の滋賀郡「別所村」の右肩には「大津」の総称を意味する「同」が付いているのに、第一表では「大津別所村」と表記されていません。
正式には別所村ですので、第一表で「大津別所村」ではなく「別所村」と表記されていることについては何の問題もありません。問題は滋賀郡「別所村」の右肩に「大津」の総称を意味する「同」が付いていることです。
本当のところはよく分かりません。ただ仮説を2つばかり挙げることが出来ます。
「仮説1:滋賀県の県庁の位置と何らかの関係があるのではないかということ」
まず廃藩置県の前に幕府直轄地であった大津は、大津裁判所を経て明治元年閏4月に大津県となります。この後、大津県の管轄地域ではない、別所村にある園城寺の
円満院に県庁が移ります。その後廃藩置県及び県の廃置分合を経て明治5年に現在の滋賀県が成立します。円満院は明治21年に現在地(当時は東浦村)に新たに県庁舎が建設されるまで、県庁舎として使わます。(参考:
滋賀県HP県庁舎の歴史)
ここでは単に、本来大津にあるべき県庁舎が単に一時的に園城寺の円満院に移っているだけ、でありそのことを示すために本来は総称がつかないはずの別所村に“大津”との総称が付いている、と考えられないでしょうか。苦しい説明ですが。。。
「仮説2:園城寺(寺門)と比叡山延暦寺(山門)との歴史より」
園城寺(寺門)は常に比叡山延暦寺(山門)と対立してきた歴史もあり、延暦寺の所在地は比叡山&坂本に、園城寺の所在地は大津にあるとおそらく当時の人々(少なくても近隣府県の人々)は認識していたことでしょう。その人々の認識も相まって、園城寺のある別所村は大津別所村と書かれ、別所村と大津の間にあって、大津と一体化しつつあった神出村も大津神出村と書かれている、と解釈することができます。仮説1と比較すると無理はあまりありません。
しかしながら、私の総称に対する考えと整合性があるようにするためには、『大津別所村と大津神出村の2村だけは公式な町村名に含まれない単なる総称であり、他の大津各町の右肩にある「大津」は公式な町名に入っている』という状況を作らなければなりませんが、当然ながらありえません。この仮説はhmtさんの
「町村」そのものには総称が付いていないが、“呼び方としては総て総称を冠する”という解釈
とのみ親和性があることとなります。