[68716] オーナー グリグリ さん
練馬区大泉町にある飛び地について、この飛び地の面白さや他の飛び地と比べての特徴などを聞かれています。
「飛び地」の定義も、その魅力も、人によりまちまちなようですが、私が第一に挙げたいのは「もの珍しさ」です。
最初に、
第1次兵庫県の県域 をご覧ください。
赤(緑と重なった茶色を含む)の区域が慶応4年(明治元年・1868)5月に兵庫津周辺の幕府領などを管地として設置された最初の兵庫県域です。そして緑の区域は、廃藩置県の少し前、明治4年4月の兵庫県域。
飛び地がいっぱいあります…というより県域そのものが飛び地で構成されていると言ってよいくらいです。
この図を見れば、県や市町村の領域に関する現代の常識は、いわゆる府藩県三治体制の明治初期には通用しなかったことがわかります。
3府72県にまとまった現在に近い領域を持つようになるのは、廃藩置県と第一次府県統合を経た明治4年11月でした。
飛び地が珍しい存在になり、本体と飛び地との関係が生まれたのは、これ以後ということになります。
現代の様子を確認すると、
「自治体の飛び地」コレクション に見るように、都道府県境をまたがる飛び地は極めて少数です。
お題として示された
東京都練馬区西大泉町の飛び地 は、この少数例の中に入っているというだけでなく、更に大都市の住宅地、つまりそれを身近な土地であると感じる人々が多い点を併せ持つことに特徴があると思います。
せっかくの機会なので、都道府県境をまたがる飛び地が、どのようなものかを概観します。
北山川の瀞峡。現在は吉野熊野国立公園内の観光地にもなっていますが、右岸の和歌山県東牟婁郡北山村は、「全体が飛び地の村」として現在は他に類がなく、48km2もの面積もその有名度も 飛び地の世界では別格の存在です。
産出する杉の良材を輸送する筏師は新宮の木材業者との関係が深く、江戸時代から紀伊国でした。
明治になって北山川左岸が三重県になった時、右岸は地続きの奈良県に編入されそうになりましたが、住民の願いにより、和歌山県の飛び地として新宮との関係を維持することができました。このことは、
[57904] 役チャン さんの役場訪問記にも記されていました。
更に過去ログを遡ると、2003年に行なわれた意向確認調査でも、住民の新宮への志向が明確に現れており
[9717]、一旦は
合併協議会 に参加しました。
しかし、2004年7月には合併協議会から離脱し「飛び地の村」を続けることになりました。
人口538人の小さな村が合併しない理由は、合併すると救急車が80分かかるようになるため(役場の患者搬送車なら40分)とか
[44075]eiji_t さん。
北山村 特産の柑橘類「じゃばら」には、アレルギー抑制効果のある成分が多く含まれるという学会発表があり、インターネット通販を中心に、花粉症でお悩みの方に人気とか。北山村応援団員募集中。
北山村の下流、和歌山県本体との間にあった玉置口村も同様な飛び地の村でしたが、昭和合併で熊野川町の一部になりました。
瀞八丁でも知られる和歌山県の飛び地2件は、観光地としてだけでなく飛び地としても有名なだけに意外性は不足。
この落書き帳での盛り上がりも、2003年に北山村で行なわれた合併先意向調査が、三重県への越県合併を拒否した時だけでした。
しかしここは「飛び地」の魅力を語るには欠かせない存在であり、第一の事例として取り上げました。