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[68989] 2009年 3月 23日(月)15:23:49hmt さん
「飛び地」の魅力 (7)大規模飛び地を作る飛び地合併
小規模飛び地ができた原因の代表として「出作」について記しました[68879]
農地の類例ですが、こちらは面積としては大きな、山林に由来する飛び地(南箕輪村)についても触れました。

実は、簡単な区域図により南箕輪村飛び地を見た時、すぐに頭に浮かんだのは、このような広い飛び地が生まれた原因になったのは、昔の「飛び地合併」ではなかったのか?ということでした。
しかし、調べてみたら、南箕輪村は明治22年の町村制施行時もそれ以後も合併がなく、120年間 純血主義を守る市町村 だったのでした。そもそも山の中の飛び地には、合併の対象になりそうな集落さえも存在しません。

南箕輪村の過去ログを見ると、純血についての記事はなかったものの、2004年に合併話ガあったのですね。
ここの飛び地が、その面積において、本体に匹敵する大きさであることは、[40246] 太白 さん の記事がありました。
面白かったのは、(もちろん本体の側にですが)南箕輪村に「日本の最高学府」が存在すること。[8346] Issie さん

南箕輪村の例(外れでしたが)が示すように、大規模飛び地を語る上で欠かせないのが「飛び地合併」です。

平成の大合併でも、いくつかの飛び地合併が行なわれ、短期間で消滅したものもあれば、現存しているものもあります。平成の合併には、過去にできていた飛び地の解消という作用もありました。
既に落書き帳の話題になったものも多々ありますが、主な飛び地合併を概観してみましょう。

まだ未完成のようですが、K2 飛地合併の一覧 には、この80年間に行なわれた42件の飛び地合併がリストアップされています。昭和戦前2件(現存1件)、昭和合併を中心とする戦後が23件(現存6件)、平成合併が17件(現存13件)でした。

本体と飛び地とが相互に入り組んだ複雑さという点で特筆に値するのは、2005年3月に実施された津軽半島の飛び地合併でした。
その前年の [29356] でるでる さん の発言
青森県の「五所川原市・金木町・市浦村」「中里町・小泊村」も、結構スゴイことになっております。
から、更にもう1件が加わっており、合併後の市町名でいうと、五所川原市 (飛び地になったのは、十三湖に面した市浦村)、外ヶ浜町 (龍飛崎のある三厩村)、中泊町 (日本海の漁村・小泊村)の3組です。M.K.さんの青森県図

次に、スケールの大きさという面から概観します。これも、町村の単位が既に大きくなっている平成の飛び地合併が主力になります。
面積が大きいのはさすがに北海道で、日高町飛び地(内陸の旧・日高町)が 564 km2、次いで 釧路市 (音別町) 401 km2、伊達市 (大滝村) 274 km2 と ベスト3を独占。

本州で現存する飛び地は、桐生市 (新里村・黒保根村) 137 km2 と 大垣市 (上石津町) 123 km2 が大きな所で、前者は本体とほぼ同面積、後者は本体よりも大きな飛び地です。2006年からの1年間だけで消えた 相模原市 (津久井町・相模湖町) 154 km2は更に大きく、これも本体 90 km2よりも大きな飛び地でした。
この津久井・相模湖飛び地は、人口(約39000人)でも最大級の飛び地だったと思います。

平成合併よりも前に存在した大きな飛び地というと、昭和30年に山口県都濃郡南陽町 (→新南陽市)の飛び地になった佐波郡和田村(41.09 km2)です。
戦時合併徳山市 から 分立[25065]した 富田町福川町 とが合併して 昭和28年に生まれていた 南陽町 本体側の面積は 17.44km2(2町面積1935年の合計)でしたが、臨海部の大規模な 工業地帯 造成により拡大しています。それでも飛び地は、新南陽市面積(2002年 64.26km2)の 64%を占めていました。
新南陽市本体と和田飛び地とを隔てていた徳山市とは 2003年に合併し、周南市が成立した結果、飛び地も解消しました。

飛び地と本体との距離も、北海道の日高町と釧路市の場合は、それぞれ 20km を超えています。参考までに、これらの合併よりも前の記事[24206]で、太白さんは、京都府久御山町飛び地を“日本で一番本体から離れた飛地(?)”と呼んでいました。
[69006] 2009年 3月 24日(火)17:27:08【1】hmt さん
「飛び地」の魅力 (8)海続きの飛び地合併(桜島・須賀利・浦崎)
[68993] オーナー グリグリ さん 落書き帳アーカイブズ障害の原因判明

迅速な対応をしていただき、ありがとうございました。これにて [68989]でリンクした アーカイブズ“純血主義…”も復活。

[68997] Issie さん
南箕輪村の成立は「筑摩県」時代の 1875(明治8)年2月18日。
筑摩県は長野県に分割編入される前に中南信地域で近世以来の町村の整理を行っているのですね。
[69002] むっくん さん
この時期、筑摩県全域で大々的に合併が行われています。その嚆矢となったのは、…安曇村の成立…でした。明治7年9月のことです。

これも筑摩県だった木曽の読書村について、合併した與川・三留野・柿其3村の頭音からの合成であることを書きましたが、過去記事 [28294] を確認したら、明治7年を明治4年と誤記していたことに気が付きました。

主テーマとは関係はありませんが、この機会に訂正します。

飛び地に戻ります。
このシリーズ の冒頭で、私が「飛び地」の魅力として第一に挙げたのは「もの珍しさ」でした。

本来は地続きで一体になっていると思われる区域が離れ離れになっている希少性。
それを地図上で直感的に訴えているものは、その位置関係 トポロジーpdf であり、珍しい飛び地を生じた原因を理解させるものは、その土地の持つ歴史的ないきさつです。

海との位置関係に着目すると、地続きであるが隣接していない2つの陸地は、双方が内陸、内陸と沿海、双方が沿海の3種類に分類できます。
少なくと片方が内陸であれば、飛び地であることについての疑問はないのですが、(双方共に)沿海型の飛び地は、海上交通により直結しているという疑いを抱かれており、準飛び地などという呼び方をされる場合もあります。

確かに、鹿児島市の桜島地区は、フェリーにより本体と直結しているというのが、人文地理的な見方でしょう。
元々、桜島という名のとおり鹿児島湾内の「島」であり、「島」のままだったら飛び地とは別の扱いであり、たとえ鹿児島市と合併しても飛び地になることはなかったのでした。

ところが、大正噴火で流れ出した溶岩によって1914年に対岸の大隅半島、ひいては鹿児島市のある九州本土と、他の市町村を介して地続きになっているので、トポロジー的には飛び地と認定するのが適切ということになってしまいました。

桜島地区に、現実に鹿児島市の領域ができたのは、戦後、1950年に行なわれた鹿児島県東桜島村の 鹿児島市 への編入合併でした。この際の合併呼びかけに対して、鹿児島市から遠い側にある東桜島村(噴火の影響が大きく、財政も苦しい)は合併を歓迎したが、西桜島村(観光客が来る)は合併に反対したと伝えられています。

東桜島村は、鹿児島市から西桜島村(1973年から桜島町)を隔てているから「飛び地」であったようにも見えますが、そうではなく、大正溶岩で地続きの九州本土の一部であるからこそ、「飛び地」なのですね。
だから、平成になって桜島町も 鹿児島市 に編入され、(フェリー経由)鹿児島市内だけを通って本体と東桜島とが結ばれても飛び地解消にはならず、逆に西桜島までが「拡大した飛び地」になったのでした。

昭和大合併の時に、尾鷲市 誕生に参加した三重県北牟婁郡須賀利村。1982年の県道開通までは、尾鷲からの巡航船が唯一の交通手段という陸の孤島でした。海の熊野古道
これも本当の「島」でなく、「陸の孤島」だから「飛び地」なのですね。
この沿海型飛び地の落書き帳への登場は、十番勝負の想定解の一つという形でした。共通項は、“他の自治体により海岸線を分断されている市”で、その一類型としての分離型(すなわち飛び地)9市に含まれていました[61174]

少し遅れて、尾道市 に編入されたのが、広島県沼隈郡浦崎村です。
十番勝負出題よりも前に、過去ログ [7832][19039]がありました。
これは沼隈半島の西に突き出た岬の先端で、一見すると須賀利同じような形の飛び地に見えます。
浦崎は、陸続きの福山市松永にも道が通じているので「陸の孤島」ではありませんが、生活の実体から、「海続き」である尾道への合併を選択したのでしょう。
[69019] 2009年 3月 25日(水)21:57:47hmt さん
「飛び地」の魅力 (9)まだ沿海飛び地 不思議な海岸もある
飛び地合併の実例として、[68989]では、三つ巴の津軽半島・平成と昭和の大規模飛び地を示しました。
続く[69006]では、飛び地を陸型と沿海型とに分け、沿海型のうち海続きの関係を優先した飛び地合併になった3件を示しました。

面積第2位の釧路市音別や、津軽半島の外ヶ浜町三厩の飛び地(いずれも[68989])も、トポロジー的には鹿児島市桜島・尾鷲市須賀利・尾道市浦崎と同じ沿海型です。

オーナー グリグリさん [67224]
私には、釧路市と、尾鷲市、尾道市、鹿児島市(桜島)などのケースを区別するのが気持ち悪い
という発言は、このことを指していると思われますが、人文地理的には少々情況が異なります。
釧路市飛び地と本体とを結びつけているのは、白糠町を通る陸上交通が主体であり、海続きの隣接関係はありません。
前記海続きのグループ3例に比べて、他の市町村経由の交通に頼るこちらの方が、飛び地度?は高いのかもしれません。

同類に入れてよさそうなのが、奄美市 の笠利飛び地です。
ペーロケ さんが 名瀬市を「日本のパナマ」[24153] として挙げた後 笠利町との飛び地合併があり、龍郷町の領域で分断されている現在の奄美市の姿は、運河地帯の米国租借地により南北に分断されていた 1999年までのパナマ共和国の姿に、ますます似てきました。

オーナー グリグリさんは、十番勝負解説[61174] の中で、“奄美市 一体型”と記しています。
旧・名瀬市部分だけでも一体型として該当するのですが、笠利の存在を考慮すれば分離型でもあります。

奄美市笠利は奄美空港の所在地でもあります。笠利と名瀬との間は国道58号で結ばれ、役チャンさんの 訪問記[58906] にあるようにバスが通じています。漁港はあるが、名瀬港との間の定期船はないでしょう。沿海飛び地ですが、龍郷町経由で行き来する飛び地であり、海続きの隣接関係はないと思われます。

「沿海」という言葉に、特別な意味が込められているように思われる飛び地は、広島市安芸区矢野地区です。

広島県安芸郡矢野町が 広島市 に編入されたのは 1975年でした。
坂町の沿革 の“昭和59年1月 海田湾埋立工事完成 <北新地と命名>”という記載を参照すると、1975年(昭和50年)当時は、瀬野川が広島湾に注ぐあたりの海域(海田湾)には、まだ埋立地が出現していなかったと思われます。
編入された矢野町は、呉線矢野駅の北西に数百mの海岸線を持ち、広島市の沿海飛び地になったと推定されます。

現在の地図 に示された境界線は、これまた不思議な形です。
海田湾には安芸郡坂町北新地と広島県安芸区矢野新町、そして一部は安芸郡海田町に属する埋立地ができています。海田大橋取付道路の北に沿って、100×800m程度の大きさの細長い沿岸地が、広島市安芸区矢野新町2丁目として記されています。

[4119] 夜鳴き寿司屋 さん は、この飛び地に注目し、
おそらく以前の公有海域の区割りどうりに町割りを決めた為だとおもいます。
と記していました。なお、当時のYahoo!地図やMapionでは南区月見町になっていたようですが、安芸区矢野新町2丁目の間違い([4121] ゆう さん)だったようで、現在は修正されています。

私が想像するに、1km弱という長さは埋立前に存在した矢野町の海岸とほぼ同じであり、その沿岸権(そんなものがあるかどうか知りませんが)を引継いで、北西の埋立地の海岸に移動したような印象を受けます。

私が矢野地区をここに記したのは、合併当時の海岸を引き継いだ広島市の沿海型飛び地であると見たからなのですが、[4119] にリンクされた海田大橋入口交差点付近のYahoo!地図を見ると、境界線が少し食い違っています。
厳密に言えば、矢野地区の本体は内陸飛び地になっており、別にごく小さな沿海型飛び地があるのかもしれません。

佐世保市 小佐々[67233]も、判定がいささか微妙な沿海飛び地合併です。
佐世保市本体と旧・小佐々町とは、北松浦郡佐々町小浦免で隔てられていると思われます。
しかし、小浦免と小佐々の間は海なんでしょうか?
地図には 佐々浦 と書いてあり、佐々川の延長のような細長い水面にポインタを置いても地名が出ないことは「海」であることを支持しているようです。
境界線が書き入れてある点に注目すれば、普通の海と違う内水面のようでもあり、もしも、南に突き出した佐々町境界線の先で、佐世保市本体と小佐々とが内水面で隣接しているのであれば、飛び地でなくなるかもしれません。

佐々町[69017] の佐世保市への合併が実現すれば、この飛び地は消滅します。
[69023] 2009年 3月 26日(木)14:01:25【1】hmt さん
「飛び地」の魅力 (10)過去帳入りした沿海飛び地
飛び地合併で生れた沿海型飛び地のうち、現存するものは、海続きの桜島・須賀利・浦崎 [69006]と 前回(音別・三厩・笠利・矢野・小佐々)[69019] の5ヶ所とを合せた8ヶ所です。

一応、グリグリさんの十番勝負解説[61174]で分離型として挙げられた9市を、この8ヶ所と対比しておきます。
釧路市、尾鷲市、広島市、尾道市、佐世保市、鹿児島市は一致。静岡市蒲原は、2008年の由比町編入で飛び地状態解消。

残る2市のうちの土佐市。リアス式海岸の浦ノ内湾(横浪三里)周辺の地域は、大部分が浦ノ内村(現・須崎市)でしたが、東端だけは宇佐村(現・土佐市)で、横浪半島(浦ノ内半島)先端の土佐市宇佐町竜は、町村制施行の1889年から存在した宇佐村の飛び地でした。従って、その後の飛び地合併には該当しませんが、飛び地のタイプとしては、桜島型の海続きでした(現在は架橋済み)。
天草上島の棚底湾対岸にある天草市(旧・倉岳町)の飛び地には、人家はなさそうです。何らかの経済的理由?

逆に沿海型飛び地合併現存組のうち十番勝負の分離型9市に入っていなかったのは、「市」でない三厩と、一体型とされていた奄美市笠利でした。

平成合併では、現存する三厩(外ヶ浜町)、音別(釧路市)、笠利(奄美市)、小佐々(佐世保市)【他に桜島が拡大】だけでなく、更に2件の沿海飛び地合併がありました。
一旦は沿海飛び地が形成されたが、その後の合併で飛び地状態は解消し、過去帳入った2件を列挙。

旧・新潟県西蒲原郡岩室村 2005年3月 新潟市 の沿海飛び地になったが、同年10月 巻町編入で飛び地状態解消
旧・静岡県庵原郡蒲原町 2006年 静岡市 の沿海飛び地になったが、2008年 由比町編入で飛び地状態解消

次に、昭和に生まれた沿海型飛び地が、平成合併で解消した出水市の事例を紹介します。

1954年、鹿児島県出水郡米ノ津町が出水町と合併して 出水市 になりましたが、米ノ津町には高尾野町を隔てた西側に飛び地(荘地区)があったので、この区域に関しては飛び地合併の形になりました。
その5年後、高尾野町 は江内村と合併するのですが、両者はこの出水市荘地区と野田村とによって隔てられており、これも沿海型飛び地合併でした。

2組の飛び地合併の結果、出水市と高尾野町との領域が入り乱れ、平成合併で生じた津軽半島飛び地模様[68989]のミニ版という情況を呈していましたが、2006年3月の合併 で、出水市荘・高尾野町江内という2つの飛び地状態は解消しました。
【追記】
この2件の飛び地については、[40211] 作々 さんの記事がありました。

もっと古い沿海型飛び地もあります。一応列挙しておきます。

旧・三重県三重郡塩浜村 1930年 四日市市 の沿海飛び地になったが、1941年 日永村編入で飛び地状態解消
旧・和歌山県西牟婁郡南富田村 1955年 白浜町 の沿海飛び地になったが、1958年 田辺市の一部(旧西富田村)編入で飛び地状態解消
旧・宮城県牡鹿郡荻浜村 1955年 石巻市 の沿海飛び地になったが、1959年 渡波町編入で飛び地状態解消
旧・山口県熊毛郡阿月村 1956年7月 柳井市 の沿海飛び地になったが、僅か2ヶ月後には 伊保庄村編入で飛び地状態解消

最後の事例に関連して、現在の地図で柳井市の市域を見ると、本体の市街地から室津半島の東側を南に伸びて、更に海を越えた平郡島に至ります。地図だけ見れば、いかにも柳井市域は南へと伸びていった感じです。

しかし、実際の編入経過を見ると、海を隔てた大島郡平郡村が1954年。2年後の半島部も、上記のように先端の阿月村が先で本体に近い伊保庄村が後となっています。
柳井と元々同じ郡であり、柳井港の東に連なる大畠となると更に後で、平成の新設合併により 2005年に柳井市になりました。
桜島が鹿児島市になったのが、遠い側の東が先で、近い西が54年後であった事情と、共通するものを感じます。
[69038] 2009年 3月 28日(土)15:34:46【1】hmt さん
「飛び地」の魅力 (11)本体とは何か? 分体の飛び地も考えたい
飛び地のことを長々と記しながら、私は飛び地の定義には触れずにきました。
トポロジーでは、2つの領域の相対的な位置関係を対象とするにしても、人文地理的な用語の「飛び地」は「本体」と対比され、主従関係にある使われ方がされています。

では、「本体」とは何か?
過去記事を見ると、市役所・町村役場などのある地域を指すのが主流になっているようですが、 [11959][41297]等で指摘されているように、便宜上から村外に設置されることもある役場[19799]を基準にすることは、適切とは思われません。
「本体」とは、主たる居住地のある地域ぐらいでいかがでしょうか? 簡単に言えば、人口の多い方が本体。

ところが、前回[69023]ちょっとだけ登場した天草市倉岳町(天草上島)の、 棚底湾対岸 に関して、次のようなやりとりがありました。

【以下引用】
[67253] ペーロケ さん
【香川県と高知県と淡路島とからなる白桃国で南あわじ市が首都だとしても、香川地域も高知地域も】
飛び地にしていいと思います。現に[60435]般若堂そんぴんさんご指摘のここ、誰がどう見たって飛び地ですね。

[67256] N-H さん
いや、グリグリさんの定義からすると、これは飛び地ではないということになりますね(役所のある本体とは陸続きでないから)。
【引用者注: グリグリさんの定義[67237]は、“陸続きでない場合は海または内水面(湖沼)を通ってもよいが、それでも他の自治体を通らないと到達できないもの”となっており、市役所のある天草下島からならば、海を通って到達できる。】

[67257] ペーロケ さん
グリグリさん理論では
あくまでも位相幾何学的に連続するかどうかだと思います。
が重要ということなので、陸続きの領域がある場合は、海を飛び越えるのではなく、陸続きで移動する方が優先され、その際に別の自治体を通らないといけない、という意図だろうと思います。それを、役所が別の島(すなわち、本体じゃない)の領域にも拡大解釈したわけですが、グリグリさんは本体が云々ということはおっしゃっていませんよね?
そもそも、本体っていう概念もあまりシックリ来ません。(以下略)
【引用終】

この議論、直感的には飛び地肯定説に傾くのですが、天草市の本体は(市役所基準でも人口基準でも)天草下島ですから、こちらからの視点ならば、否定説に軍配が上がります。
つまり、問題の地域は、倉岳町など天草上島内の地域から見れば飛び地ですが、天草市の本体である天草下島内の地域からは飛び地でないということなのですね。

“(天草市の)本体に対する飛び地”という筋を通せば後者になるが、地理的に近接した前者を無視した考えには納得せず。
つまり、“倉岳町など天草上島内の地域に対する飛び地”という概念を取り入れる必要があると思います。

天草市のように、陸続きでない複数の地域からなる領域を、仮に「本体」と「分体」という言葉で区別すれば、問題の地域は、“分体の飛び地”ということになります。問題の地域も小さいながら分体ですから、正確に言えば、“(天草市の)主たる分体(であるところの天草上島地域)の飛び地”ということになるでしょう。

陸続きでない複数の地域が一つの領域を構成するのは、極めてありふれたことです。
日本そのもが島国だから、当然これに該当します。本州が本体であり、北海道・九州・四国などの主要な分体があります。分体のうち、小さなものは離島と呼ばれています。

[11853] 太白 さんが例示したデンマークは、コペンハーゲンがあるシェラン島が本体ですが、本体よりも面積が大きい分体であるユトランド半島は、大陸の一部です。両者の間にはフュン島(古都オーデンセ所在地)があり、これも主要な分体です。もちろん面積最大の分体はグリーンランドです。

大陸にある島国の分体として赤道ギニアも例示されていますが、歴史上の顕著な事例として、イギリスがありました。
1066年、イングランドを征服して王朝を開いたのはノルマンディー公。英語読みの名はウィリアム1世。
イギリスの本体はグレートブリテン島ですが、1180年の図(百年戦争 背景) を見ると、イギリス王家は、ノルマンディー地方だけでなく、フランスの大半に及ぶ巨大な分体を領有していたことがわかります。

急にスケールが小さくなりますが、長崎県平戸市も、本体が島にあり、分体の田平町が九州本土にあります。

上記やりとりの中で、[67257] ペーロケ さん (以下略)と書いた部分
仮に平戸市が波佐見町を編入した場合は、波佐見町域が飛び地になるんでしょうが、佐々町だったら飛び地じゃなくなるのも変ですね。

この場合、佐々町は、九州本土の分体に対しては飛び地になりますが、平戸市本体の飛び地ではありません。
内陸の波佐見町は、平戸市本体に対しても飛び地になります。

【追記】「棚底」という地名について
本文で“棚底湾対岸”と書きましたが、リンクしたMapionも、ウオッちずも“柵底湾”と記載しています。
しかし、25000分の1地形図の図名は「棚底」(たなそこ)であり、棚底開拓地、棚底川などの表記もあるので、棚底湾が正しいものと推測しました。
[69048] 2009年 3月 29日(日)12:52:18【1】hmt さん
「飛び地」の魅力 (12)内陸型飛び地・川崎市麻生区岡上
[69040] Issie さん
ノルマン朝は当然にイングランドの王家ではありましたが,大陸,つまりフランスではあくまでも「フランス王」であるカペー朝の歴代王の“家臣”でありました。

琉球王国を征服した島津家が、日本では徳川家に臣従していたようなもの? 
あちらさんは本拠地をイギリスに移したのに、こちらではあくまでも薩摩が本体という点は大きな違いですが。

ジョン・バ・イッシー

飛び地の話題からウィリアム征服王、ジョン失地王を経て Issie さんと「ご同名」の王様の話になるとは、意外な展開。
雑談の醍醐味ですね。

本筋の飛び地。
「飛び地」には、本体に対する飛び地だけでなく、天草上島の例で見たような「分体の飛び地」もあることがわかりました[69038]
これまで、飛び地に対する「親」の地域を本体と呼んできましたが、自治体の中で人口最大の地域でない分体についても、飛び地の存在を認めることにしたいので、飛び地域に対する本地域という意味で、「本域」と改めます。

「親」の地域である本域との関係に注目すると、飛び地は、以下の3分類に改めた方が適切と思われます。

内陸型 = 飛び地が内陸であるもの。本域は内陸・沿海の区別不問。
市浦(しうら)型 = 飛び地は沿海で、本域は内陸のもの。
沿海型 = 飛び地と本域の双方が沿海であるもの。

2番目の命名は異質ですが、五所川原市 市浦にちなんだものです。さしあたり思いつく類例としては、隣接した 中泊町 小泊がある程度です。共に2005年津軽半島で誕生。

内陸型飛び地に入ります。
そのトップスターとして挙げたいのは、川崎市麻生区の 岡上 です。過去記事
これは、昭和14年に行なわれた横浜市第6次(17町村編入)・川崎市第6次(2村編入)の市域拡張の際に行なわれた、都筑郡岡上村の 川崎市 への飛び地合併で生まれたものでした。

【追記】
むじながいり さん の パラパラ地図神奈川県 をリンクしました。
第6次市域拡張のあった1939/04/01と、その直前(1938/10/01)とを対比してください。

改正新旧対照市町村一覧(1913) で岡上村を見ると、役場は 柿生 と記されています。
現在は「おかがみ」と呼んでいるようですが、「ヲカノボリ」というフリガナが付いていました。

岡上村が 柿生村とのペア を組んだことは、既に [817]Issieさん によって紹介されています。
明治22年の町村制で組合役場を作った鶴川(鶴見川)流域の都筑郡柿生・岡上の2村ですが、間にある南多摩郡鶴川村(能ヶ谷、三輪)の領域により隔てられた「飛び地組合」でした。
現在の飛び地の淵源は、都筑郡の間に南多摩郡が入り込んでいた行政区画にありました。

もっと遡れば、江戸時代初期には多摩郡だったらしい岡上村が、都筑郡に移ったのが遠因だそうで[68630]

南多摩郡鶴川村の前身である小野路村や野津田村のことは、[33902]で書いたことがあります。
鶴川村になって4年後の明治26年には 東京府に移管され[33700]、岡上村から 役場のある柿生村に行くには 東京府経由ということになってしまいました。
# 東京府になって2年後の1895年、鶴川村の小島鹿之助(近藤勇の後援者で義兄弟)に孫娘が生まれました。私の母です。大昔のことを書いているようでも、私にとっては、ある程度は身近に感じることのできる時代と地域なのでした。

この地域は、かつて「禅寺丸」という小さな甘柿の産地でした。柿生という村名は、これに由来。現在は小田急の駅名。
子供の頃はよく食べたものですが、もっと見栄えの良い大きな柿が市場に出回っている現在、禅寺丸を口にする機会はなくなりました。

飛び地の岡上村に話を戻すと、1939年の横浜・川崎の市域拡張の際に、低い分水嶺を介して背中合わせ(こちらは鶴見川支流の恩田川流域)の田奈村[34657]と共に横浜市に合併すれば飛び地が解消したのでしょうが、組合役場時代の飛び地状態を維持したまま、川崎市への合併という結果になったのですね。

本域の川崎市は、もちろん沿海ですが、岡上飛び地の淵源は柿生組合村の飛び地であり、本域側が 1939年に大きな川崎市の一部となって海に面したことが、岡上飛び地に影響を及ぼすこともありません。
今回改めた分類で、「内陸型」の本域につき それが内陸であるか沿海であるかの区別を不問 にしたのは、このような理由によるものです。


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