88さん
[79523][79666]による「県の境界にわたる境界変更告示リスト」(合計42件)と、下関市の
参考資料 に記された「越境合併一覧」(11件)とを主な材料にして、戦前の事例などにも言及しながら
「県境変更」 について記してきました。
今回は少し材料を変えて、昭和大合併の 1955年に行なわれた越県合併騒動について記しておきます。
その舞台は熱海市泉地区で、名前の示すように温泉地ですが、「熱海温泉」ではなく「湯河原温泉」なのです。
[38323] 白桃 さん
今、湯河原から帰って来ました。で、私も昨晩泊った旅館は、てっきり神奈川県足柄下郡湯河原町なんだと思ってたのですが、なんと、静岡県熱海市だったのです。
千歳川の谷沿いに続く温泉街。実態としては両岸が一体になった湯河原温泉ですが、行政的には県境の千歳川右岸(南西側)は静岡県であり、「伊豆湯河原温泉」という名もあるようです。
この県境ができたのは、直接には足柄県
[24127]が解体されて、相模国が神奈川県・伊豆国が静岡県へと分れた明治9年(1876)のことです。
しかし、そのまた原因を探れば、次の疑問になります。
相模国と伊豆国の国境は、何故熱海との間にある岩戸山【注】でなく、山麓の集落の間を流れる さほど大きくもない千歳川なのか?
【注】
湯河原と熱海の間にある岩戸山は、箱根外輪山の一つです。
熱海さんぽの峠 に、山頂から「泉越」(放電峠)などの峠に通じる尾根を示した図があります。この尾根の下を貫く「泉越トンネル」2457mは、丹那トンネルに次ぐ東海道本線第2位の長さの山岳トンネルです。熱海側山麓には伊豆山神社があります。
伊豆と相模の国境を決めたのは、結局のところ伊豆山権現の勢力だったと思われます。秀吉の小田原攻めに敗れたため、泉地区が一時的に相模国になったこともあるようですが(保善院朱印状)、結局は元禄の境界争いで千歳川以南(泉地区)を確保。
天保国絵図 伊豆国を見ても、千歳川に「此川中央国境」と記されています。そして、伊豆国内に「和泉」など4集落が描かれていますが、何故か「相模国宮上村之内」という文字を冠しています。地理上は千歳川を境界とする伊豆国の側にあるが、村の実体は相模国宮上村の一部として機能していたという両属的な性格だったのでしょうか。
明治になって足柄県が分割された時は、この千歳川に存在した国境が、新しい県境位置になった筈です。
熱海市泉地区の県境騒動 の記載は次のようです。
泉は、明治11年に制定された「郡区町村編制法」に基づき、神奈川県足柄下郡宮上村飛地字泉を静岡県賀茂郡泉村とし、明治22年に熱海、伊豆山などと合併し、熱海村となっている。
しかし、明治13年の
『郡区町村一覧』 を見ても、静岡県伊豆国賀茂郡には「泉村」の記載がありません。
もちろん28コマ(神奈川県足柄下郡)にも記載なし。
尾根の北側の神社領「泉」は、おそらく尾根南側を占める「伊豆山村」の一部になったと推察します。
昔の話が長くなりましたが、静岡県熱海市の泉は、神奈川県の湯河原と県境で分れたまま戦後を迎えます。
昭和28年(1953)に
町村合併促進法 が公布・施行。
同年末 と
翌年末 の改正で、「都道府県の境界にわたる市町村の境界変更」に関する規定が設けられました。
実質的に「お上主導」の特別法や 河川改修に伴う県境手直しに限られていた県境変更。
ところが、今度の法律は 時限立法とは言え「住民主導」の「越県合併」に道を開いたものではないか。
熱海市の本体と「山」で隔てられた泉地区では、この機会に分離し、実質的に同じ町である湯河原町との合併を推進したいという動きが出ました。
前記 「熱海市泉地区の県境騒動」 によると、推進派は 住民の8割の署名を集めたそうです。
反対派は これに驚いて、熱海市と静岡県とに働きかけ、強力な反対運動を展開。
両者の争いは調停に持ち込まれました。
その結果、
調停案 が出され、1955年10月20日に 言わば 水入り とも言える形で小休止。
そして、6年後の最終的な内閣総理大臣裁定では、「現状どおり」。
結果的には、当初は劣勢だった反対派が挽回して、県境変更は実現せずに終りました。