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落書き帳

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[13386] 2003年 4月 18日(金)01:54:21Hermit さん
田舎暮らしもいいもので
[13330]太白さん
私は現在カナダのオンタリオ州の田舎(日本の基準ではごっつい田舎)にいます。
トロントなどの都会では24時間営業の店(大抵はShopper's Drug Martなどのpharmacy-chemist系か給油所併設の店)はあるようですが、数は知れています。田舎では日曜日は閉店というところも少なくありません。ショッピングモールもせいぜい8時か9時まででしょう。大手小売りのWal-Martも明日のGood Fridayとその次の日曜日は休みになるくらいですから。
カナダに来る前はヨーロッパ諸国を転々と暮らしていましたので、まあこんなものかなと思っています。
そうか、日本ではコンビニで堂々と酒が買えるのか。ここではアルコール飲料は政府の専売(直営の販売店でのみ販売)ですからね(ケベック州を除く)。飲食店でもライセンスがないと酒は出せません。このライセンス、経営主体にではなく店そのものについているので、ライセンスのある店はそれ自体取引の対象になることもあるようです。
何を以て都会とするかということですが、どこかで大都市の条件として、
・国際空港がある
・地下鉄が通っている
・中華街がある
というのを聞いたことがあります。そうなら日本には大都市はないということになってしまうのでしょうか。中華街(たとえ構えは小さくてもそうと認知されている)のあるところには国際空港がなかったり地下鉄が通っていなかったりと、この条件なかなかにうまいところを突いています。もっとも、中華街というのだから中国は除くのでしょうけれどね。
[14415] 2003年 5月 1日(木)00:05:24Hermit さん
「空飛ぶ骨董店」はまだまだありますよ
[14363]夜鳴き寿司屋さん
[14270]月の輪熊さん
飛行機ネタ,いいですね.飛行機は地面との縁を切って動いていることがほとんどなので「地理ネタ」にはならないと思っていたのですが....
冷房が故障くらいはまだ序の口です.仕事柄,これまで世界中でいろいろな飛行機(定期便,チャーター,軍用機など)に乗りましたが,無事に地上に帰還できたのが奇跡ではないかと思ったほどのことも何度もありましたから.
例えば,
・出発前に地上作業員がフラップを金槌で叩いて曲がりを直していた.この飛行機,荷物を収納する頭上のトランクの蓋が全く閉まらず,離陸時に荷物が雪崩のごとく乗客の頭上に降り注ぎました.その中には生きた鶏やら直径80センチくらいの壺やら,何でそんなもの持ち込むのかというものも含まれていましたよ.アフリカの某国でのことです.
・飛行機に乗り込んで座席に着こうと手をいすに伸ばしたら,いすがそのまま前に倒れ,それがドミノ倒しのように次々に広がり,ついにはその列のいすが全部倒れてしまった.おまけに倒れたいすを元通りにして座ると,こんどは人間をシートベルトで縛り付けたまま後ろにひっくり返り,一人では起きあがれなくなってしまった(これは東欧の某国でのこと).
・飛行時間30分位の短距離便でのことですが,離陸前から燃料タンクから燃料が漏れているので気になって乗務員に知らせても,「いつものことだから心配するな」との何とも怪しい返事.おまけにエンジンの回転音がおかしい(因みにこの飛行機はジェット機でした).死にたくないので下りようとするが,目的にには車では行けない(道がない)のでどうにもならず.そのまま飛び立って無事に着陸しましたが,あの会社今でもあるのかな(これは南米の某国での体験).
・飛行機そのものの問題ではないのですが,その便にはいすの数より多い人間が飛行機に乗っていました.おまけに離陸直後まだ飛行機がひどく傾いている状態の中で,通路で石油ランプを使ってお茶を沸かす人間は出るは,すり鉢の親分のようなもので香辛料を混ぜ始めるやつは出るは,何ともすごいフライトもありました(これはアジアの某国).
などはまだかわいい方です.
旧ソ連の飛行機の場合,機体そのものの問題よりはエンジン(騒音や燃費),艤装(操縦や航法などの電子機器の類)の問題が大きいように聞いています.モスクワと北米を結ぶアエロフロートがイリューシンで運行されていた頃は,時刻表上は直航でしたが実際にはグリーンランドで給油のため着陸していましたから.この飛行機,よく見ると尾部に車輪が付いており,これはエンジンの推力が足りないので車輪がないと離陸時にしりもちを付いてしまうからというのをボーイングの技術者から聞くまでは「あれは何なの」と思ったものです.
因みに,アエロフロートが使っているエアバス機はリースのはずです.機体番号を見れば分かります.コストの面や整備の問題もありますから,そうせざるを得ないのでしょう.機体を購入するのなら,政治的思惑を除けばボーイング製の飛行機の方が経済的にはまだ有利ですし.
アントノフについては,輸送力ではあれが現在世界一であるということ,おそらくはリース料が安いということから航空自衛隊も使ったのでしょうね.
高麗航空ですが,ずいぶん前にモスクワで見たときには確か社名は朝鮮航空or朝鮮民航だったように記憶しています(曖昧ですみません).昔のソビエトの空港はなかなかに興味深いところでした.西側では見ることのない国の航空会社の飛行機がたくさん並んでいたり(北朝鮮,キューバ,東ドイツ,エチオピア,ベトナムなど),航空博物館に行かないと見られないような旧式のプロペラ機がそれこそずらっと勢揃いしているかと思うとその横には「飛行機の墓場」のような光景が延々と広がっているのですから....
「XXXの墓場」は何も飛行機に限ったことではなく,トラックや重機などもそうでした.商社やメーカーの方から直接伺った話ですが,ソビエト(ロシア)は壊れると直して使うというよりは壊れたものを放置して新しいものを買うという傾向が強かったようです.経済的に行き詰まってくると使える部品を壊れた機械から外して使い回すということも行われたようですが,いずれにしてもこの傾向そのものが変わることはなかったようです.某建機メーカーの技術者が,「あの国は毎年1000台単位で建機を買うが,半分は整備不良で1年で放置され,そしてまた翌年新車を買う.整備技術者はいないのでしょうかね」と私に半ば呆れて聞いたことは忘れません.共産主義のなせる業と言ってしまえばそれまでですが,東ドイツなどではそうしたことはなかったので(機械でもプラントでも最初は売れるが,そのうちに自分たちで似たようなものを作ったり整備がきちんと行われるので追加の注文がほとんど来ない),そうとばかりも言い切れないように思います.
経済的困窮や体制疲労の度合いが旧ソ連諸国以上の北朝鮮のことですから,その国の航空会社の飛行機にはすすんで乗りたいとは思いませんね.
[14965] 2003年 5月 9日(金)02:19:07Hermit さん
ベルリンの空港事情
[14950]TACOさん
東京-ベルリンの定期便がなぜないかという件ですが、ベルリンのTegel空港の滑走路の短さが主な原因かと思います。昔は花形だったハンブルク行き、デュッセルドルフ行きがなくなったのも同じ理由です。ミュンヘンまでの直行便が飛ぶようになったのも新空港開港からですから。
ベルリンには民間定期航空機用として現在3つ空港があります(Tegel, Schoenefeld, Tempelhof)が、ルフトハンザを始め大半の会社の便はTegel発着です。Schoenefeldは旧東ドイツの空港で、ロシアからのアエロフロートなどは今でもこちらを使っています。Tempelhofは戦前はベルリンの空の玄関口でしたが、市の中心部にあり拡張が出来ないので今はごく一部の短距離路線とファンフライト用の空港になっているようです。
1948年のベルリン封鎖に伴う西側連合国の物資空輸はよく知られていますが、米英仏それぞれの占領地域に当然のことながら当時は空港がありました。Tegelはフランス占領地区、Tempelhofはアメリカ占領地区、イギリス占領地区にはGatow空港という具合です(Gatow空港は今もありますが、旅客機の発着には使われていないようです)。一方ソビエト占領地区の空港としてはJohannisthalとSchoenefeldがあり(正確にはSchoenefeldはベルリン市の外側です)、拡張性に難のあるJohannisthal空港が使われなくなり、東ベルリンの空港としてはSchoenefeldが使われるようになったと記憶しています。
ドイツ統一に沸いた一時期、東京発フランクフルト経由ベルリン行きという便がありましたが(Schoenefeld着だったかな。乗ったことがないので自信なし)、客があまりに少ないのですぐになくなっています。ということは需要そのものがあまりないということなのでしょう。現在のフランクフルト乗り換えで私は問題ないと考えています。フランクフルトとベルリンの間はほぼ1時間に1本の割合で便がありますから。それに現在のドイツの空のハブはフランクフルトですし(ミュンヘンをしきりに第2ハブにしようとしていますが、棲み分けがあまりはっきりしていません)。とはいえ、2007年完成を目指して現在のSchoenefeld空港を改良、拡張して新空港建設が進行中です。名前は
Flughafen Berlin-Brandenburgとなる予定だとか。その際には現在のTegel空港は閉鎖されることになっています。
ベルリンが首都として今後ますます発展し、旅客需要が伸びればルフトハンザも当然東京-ベルリン線の開設に(新空港開港後)踏み切るでしょう。
ちなみに、ドイツではミュンヘンの新空港の時もそうでしたが、新空港が出来ると古い方は閉鎖するようです。この方が自然だと私は思うのですが....ミュンヘンの空港、結構遠いですよ。市の中心部からタクシーで50ユーロ(=100マルク)はかかりますから。金額的にはフランクフルトの3倍ですね。

Vancouver - Victoriaの飛行機はそこそこ人が乗っています。まあ何と言っても船よりは速いし、飛行機を乗り継いで他に行く人間も結構多いようですから。ちなみに、ビクトリアは日本人観光客にも非常に人気のある町です。仕事の心配がなければ私も住みたいと思っています。
[15556] 2003年 5月 20日(火)05:12:13Hermit さん
ヨーロッパのターミナル事情
[15540] Issieさん
[15548] 雑魚さん
この辺の話,なかなかに面白いものがあります.
ご指摘の通り,ロンドンなどはターミナル分散の典型でしょう.それを結ぶ形で地下鉄のCircle Lineが走っていますから(Waterlooなどそこからはずれているものもありますが.たぶん駅がテムズ川の南側にあるからかと思います).ロンドンの場合には,鉄道が20世紀に入って国有化されるまで各鉄道会社がそれぞれターミナルを独自に作ったという事情もあるかと思いますが.Kings CrossとSt. Pancrasなどその典型でしょう.日本の感覚では「なぜ同じ駅にしないのか」というくらい接近しています.
今でもWaterloo駅などに行けば,入り口の壁に当時の会社名がきちんと残っています.また,Victoria駅は2社相乗りという珍しい形になっています.今でも,駅の東側(カンタベリーやドーバー方面行き)と西側(ガトウィック,ブライトン方面行き)とは壁で仕切られていてはっきり「別物」と分かります.
東京や大阪同様,ロンドンも中心部は基本的に地下鉄(とバス)が交通手段として使われてきています.今でも,たとえばスコットランドや北イングランドからロンドン中心部を通って南イングランドへ旧国鉄だけでゆくことは基本的にはできません(Olympia経由の線路はありますが,そこを通る列車はほとんどないのでは).山手線や環状線が地下鉄と考えればわかりやすいかと思います.ただ,旧Holborn Viaductのように市内に食い込んだ駅(現在は地下に移行)もありましたから,イギリス人も不便だとは思っていたのではないでしょうか.

この伝で行くと,ベルリンはやや特殊な例なのかもしれませんね.戦前までベルリンのいわば中央駅だったAnhalter Bahnhofはまさに当時のベルリン市街の中心にありましたから.ここは地図を見れば一目瞭然ですが,「壁」のすぐ近くということもあり戦後は長らく空き地同然だったところです.戦前の中心だったPotsdamer Platzも同様(ここなどまさに「壁」の真下)で,統一後急速に開発が進んでいますが,往事の面影はありません.
戦後西ベルリンではZoologischer Bahnhofが,東ベルリンではOstbahnhof (東ドイツ時代にはHauptbahnhofと呼んでいましたが....)がそれぞれ中央駅的な役割を果たしていましたが,統一なった現在はLehrter Stadtbahnhofに新中央駅を建設中です.場所は少々違うのですが,ここは戦前Hamburger Bahnhofという名前の駅(準ターミナル)があったところです(ハンブルクなど北行きの列車が発着).旧 Hamburger Bahnhofは今は改装されて確か美術館になっているはずです.
東ベルリン時代には,近距離郊外電車(S-Bahn)はFriedrichstrasse発着(ここが東西ベルリンのトランジットの役割を担っていた駅で,西ベルリンから来た近距離電車もここが終着でした.駅の地下が国境検問所になっていて,地下鉄で来てもそこを通るようになっていました.地下の薄暗いところに暗い顔の人間が大勢並んでいて,なかなかに不気味なところでしたよ),ポーランドやロシア行きの長距離列車(の一部)は東部にあるLichtenberg発着など,分散化の傾向はあったようです.ただ,これも「壁」という特殊な状況と駅の構造(Ostbahnhofは所謂「行き止まり」型の駅ではなく,また「壁」がすぐ近くを走っていて拡張が難しかった)が原因かと思いますが.
ベルリンに限らず,ドイツではターミナルが分散していることは少ないように思います(ドレスデンなど例外あり).ミュンヘンやハンブルク,フランクフルトなどほとんどの大都市で中央駅は町の中心にあります.
日本からの観光客があまり訪れることもないのですが,ライプチヒの中央駅,町の規模との比較では非常に大きな駅です.ホームが40番線近くまであります.鉄道好きの方にはなかなかにこたえられない駅ですよ.ここが戦前まで商業の中核都市だったこと,ドイツの政治,経済の中心部が現在よりは東側にあったことの名残でしょうか.

行き先を駅名にするというのは,日本の人の感覚には確かになじまないでしょうね.東京に大阪駅があり,大阪に東京駅があるようなものですから.それでいて中間の名古屋は名古屋駅だし.この点,ロシアはフランスのまねをしたのでしょうか.何しろ当時のロシアの上流階級は日常会話もフランス語だったようですから....
[15562] 2003年 5月 20日(火)10:12:28Hermit さん
東西ドイツ間の交通事情(今は昔の物語....)
[15558] 雑魚さん
「壁」があったころの東西ベルリン間の交通ですが,FriedrichstrasseとCheckpoint Charlieは外国人(含外交官)も使えるポイントでした.外国人用としてはこの2カ所だけです.その他に,西ベルリン市民専用,西ドイツ国民用のポイントがそれぞれ複数ありました.詳しい場所は地図が手元に今ないので後でお知らせします.
西ベルリンと西ドイツ(東ドイツ領経由)とのトランジット交通路は,アウトバーンと鉄道がそれぞれ3本(ハンブルク/ハノーファー/カッセル方面)ありました.道路の場合には西ベルリンを出るときに時間入りのスタンプが押され,東ドイツを出るときに時間のチェックができるようになっていました(他の寄り道をさせないためかと思います).確か3時間以内の通行しかできなかったように記憶していますが.鉄道では,西ベルリンを出ると当然のことながら東ドイツ領内では停車しません(逆も同じ).東ドイツ領内を走るときは国境警備隊の隊員が各車両の入り口と出口に乗車していました.昔は車内でも自動小銃携帯のようでしたが,東西ドイツの国交樹立以後はホルスターに入った拳銃(日本の警官と同じ)程度でした.ただし,車両の最後部(デッキ)の兵隊は自動小銃携帯でした(私自身の目で見ているので間違いありません).
東ドイツのアウトバーンは戦前のものから大して補修されておらず,またコンクリート舗装のため路面の状態が悪く,表示最高速度100キロでもそこまでの早さでは走れるところが少なかったですね.まあ現地の車はあのトラバントやソ連製のラダなどでしたから(ちなみにパトカーもラダ)それでも良かったのでしょうが.外交官以外は,速度違反をすると結構な罰金を取られたようです(とにかく外貨が欲しかったのでしょう).私自身は捕まったことはありませんでしたが,社会主義の本質ここにありというところでしたね.
鉄道も保線が行き届いていないこともあり,東ドイツ領内では速度ががたっと落ちました.東西ドイツを結ぶ特急列車や東ドイツ領内のベルリン-ライプチヒ/ドレスデン/ロストクなど主要都市を結ぶ幹線でも,表定速度で30-40キロ台でしたから.現在ではベルリン-ライプチヒ/ドレスデン間はそれぞれ特急列車で1時間半程度ですが,当時は4時間以上かかっていました.仕事で東ベルリンからライプチヒに出張したことがありますが,文字通りの1日仕事でしたよ.
この他に,西ベルリンと西ドイツ各地を結ぶ航空路線が当然ありました.時間的にはこちらの方が遙かに早いので,旅客に関しては飛行機が主力だったのではと思うほどです.東西ドイツの時代は,西ベルリン行きの飛行機は切符を取るのが結構大変でしたから.これも飛行機の航路帯として鉄道,道路同様西ベルリンから見て北西,西,南西の3ルートに限定されており,西ドイツ領空に入ってから各都市に向けて分岐していました.東ドイツ領空では高度15000フィート(高射砲の弾が届く範囲という意味で)に制限されていたこともあり,距離の割に時間がかかっていましたね.
西ベルリンが法的には西ドイツ領でないということから,西ベルリンと西ドイツとを結ぶ航空路線は西側占領国の航空会社の担当でした.ハンブルクやハノーファー,デュッセルドルフなどイギリス占領地区はBA,フランクフルト,ミュンヘンなどアメリカ占領地区は今はなきPanAm,シュトゥットガルトなどフランス占領地区はエールフランスが運行していました.また,西ベルリンとロンドンやパリを結ぶ路線も全部連合国の航空会社の独占でした.日本ではあまり知られていないようですが,ルフトハンザが西ベルリンに飛べるようになったのはドイツ統一以後の話です.フランクフルトの空港で,一番いい場所にある乗降口はパンナムが押さえているのを見たとき,なるほどドイツは連合国に占領されていたのだなと納得したのを覚えています.
[15618] 2003年 5月 21日(水)01:31:16Hermit さん
King's CrossとSt. Pancras
[15613] 般若堂そんぴんさん
King's Crossの火事ですか。そのときロンドンにいて、同時刻に地下鉄に乗っていた(別の線です)ので良く覚えています。87年10月でしたね。焼け跡の映像を見て、何ともすさまじい火事だったのだなと恐ろしくなったものでした。
ご指摘のKing's CrossとSt. Pancrasですが、駅としては別物です。狭い道1本挟んだ程度の距離ですので、歩いて移動できるのですが。非常にローカルな例えで言えば、近鉄奈良線の生駒駅とロープウェイの生駒駅(宝山寺方面行き)くらいな感じでしょうか。関東で言うと(あまり詳しくないのでご勘弁のほどを....)、都営新宿線の本八幡も、南側の出口で出れば総武線の本八幡駅、北側の出口で出れば京成八幡駅という風になっていますが、あれよりもKing's CrossとSt. Pancrasは近いですよ。ですので地下鉄ではまとめているのではないかと思います。ちなみに、地下鉄のKing's Cross駅は5系統(そのうち2つは路線を共用しているので正確には4つかな)の乗り換えが可能な非常に大きな駅です。加えて旧国鉄のThamesLinkのKing's Cross駅が少し離れたところにあるので、乗り換えに手間取るところですね。

木製エスカレーター、運転時に木製部品が擦れるのか「ひこひこ」と音を立てていますから、すぐに分かります。これを聞くと「ロンドンに来たな」という気になるから不思議なものです。

「社会主義の本質」の件、ご指摘通りですね。歴史に名を残した「自称社会主義」国家はどれも実際には理想と現実がいかに違うかを知らしめただけでしたから。
現在の資本主義国が問題だらけなのは重々承知してますが、それでも当時の「自称社会主義」国よりはましでしょう。あの息苦しさ、信じていた人間の笑顔が突然般若の顔に変わる恐怖(この例え、べつに般若堂さんにひっかけたものではありませんので誤解なきよう)、あれは体験した人間でないと分からないのではと思います。「ベルリンの秋」の著者の江口博之氏ほどではありませんが、私も仕事とプライベートの両面で江口氏と似た体験を多くしていますから。
東西ドイツが統一され、それまで西ベルリンの地下鉄が通過していた東ベルリンにある駅に降りたときは、比喩でも何でもなく涙が出ました。フランクフルトの中央駅で涙を流しながら抱き合う老姉妹、傍らの列車の行き先表示板を見ると "Frankfurt(Main) Hbf - Leipzig Hbf"とあり、東西に引き裂かれた肉親なのだなと子供ながらに理解してから十数年たってのことです。

蛇足ですが、東西にドイツが分かれていた頃は、西ドイツの国鉄はDeutsche Bundesbahn(略してDB)でしたが、東ドイツでは戦前と同じくDeutsche Reichsbahn(略してDR)でした。ナチ時代を否定しているはずの東側でそのころの名称が残っているとは面白いなと思ったことを覚えています。もっとも、これについては相応の理由があるのですが、それを書き始めると長くなるので止めましょう。また、ベルリンはドイツにあらずということで、DB管理下ではなく別組織(BVG)になっていました。「壁」が出来るまではS-Bahnの運行も東西通しで行われていましたし。
[15686] 2003年 5月 22日(木)02:44:31Hermit さん
役に立たない情報です
[15682] 般若堂そんぴんさん
私が知らないことまで含め追加で書き込んでいただいてありがとうございました.
Jubilee Lineの計画,そういえばそんなものがあったと聞いたことがあります.
しかし,Aldwychの駅(昨日の書き込みではStrandとしてしまいましたが,正確には般若堂さんが書かれたとおり地下鉄の駅名としてはそちらが正解です.Strandは道路名で,そこにあるバスの停留所の名前でした.あの辺に学校があってよくバスで行っていたのでつい間違えてしまいすみません....),何であんなに半端なところに作ったのかと今でも不思議です.川を越えて南に行くというのならともかくも(まっすぐ行けばWaterlooですから),あそこで終点ではBBCと私が通っていた学校のためだけに作ったと言われても仕方ないのではないかと思います.
ロンドンの地下鉄の運行系統としては,あと結構複雑なのはMetropolitan Lineでしょうかね.これは慣れないうちはしっかり行き先と停車駅を確認しないとひどい目に遭います.なにせ快速運転で多くの駅を通過しますから....
書き出すときりがないのでこの線に関してはまたの機会ということにしましょうか.

[15678] 夜泣き寿司屋さん
[15679] 般若堂そんぴんさん
その当時公私両面で東ドイツにかなり「どっぷり」関わっていたので,このあたりの事情はよく知っているつもりです.
表面的にはご指摘の通りでしたが,一皮むけば,特に経済の分野ではソビエトほどではないにしても行き詰まりは隠しきれないほどでした.加えて東西ドイツの国交樹立(正確にはヘルシンキ条約以後)以後は西ドイツの情報がほとんどダイレクトに入るようになり,いわばそれまでの嘘が全部ばれるという形で内部からの崩壊が始まっていました.ここがポーランドやチェコスロバキアなどと決定的に違った点です.個人的につきあっていた人間も,密告や盗聴の危険のないところでは「この国は長くない」「壁さえなければさっさと西ドイツに行きたい」としきりに言っていましたし.
「北」を巡る動き(所謂帰国事業から現在に至るまで)でもそうですが,マスコミや政治家,経済人は当局の宣伝に易々と乗せられて彼らのお先棒を担ぐと言うことが多いですよ.現場で働く商社の人(現地採用)やノンキャリアの外交官の方がずっと状況をしっかり把握していましたね.例外はありますが,概して日本の人は情報を収集したり分析したりするのが苦手なのだなというのが私の偽らざる感想です.
所詮,1民族を2つに割る形で無理矢理作った人工国家は,金の面での無理が利かなくなった時点で実質的に崩壊し,「壁」という物理的な障壁がなくなって完全に消滅したというところですかね.

地理ネタということで言えば,ロンドンは結構面白いところですよ.一見平らに見えますが,かなり起伏があります.特徴的なのは,北向きの斜面は勾配がきつく,南向きでは緩いということです.氷河が浸食してできた土地だということがよく分かりました.町がどこにできて,どの方向に発展していったのかもまさに「生きた教材」です.こういうものを見るのなら,修学旅行や社会科見学も意味があるのではないでしょうか.
蛇足:ご存じの方も多いでしょうが,地名でWimbledon, Coulsdon, Selsdon, Croydon(いずれもロンドン南部)の最後についている-donは「丘」の意味です.こうした地名がロンドンの南部に多い(北にもHendonなどありますが....)のも,氷河の末端がどの当たりまできていたのかをうかがわせて興味深いものがあります.
ああ,昼休みも終わりか.そろそろ「本業」に戻らないと....
[15843] 2003年 5月 24日(土)21:55:23Hermit さん
運転マナー
[15830] 月の輪熊さん
「大阪と韓国の交通マナー」ですが,私が経験した限りでは両方ともなかなかですがそれでもまだ大阪の方がましでしょう.韓国人自らが「ソウルで運転できれば世界中どこでも大丈夫」などと言っていたくらいですから.「いらち」の度合いがソウルや釜山のほうがずっと高いですね.路線バスがタクシーを追い越すのを経験したのは韓国でだけです.
私が実際に経験した都市では,交通マナーではカイロが最悪かな.「混沌」というものを具現するとああなるとしか言いようがありません.

....「子供ながらに理解してから十数年」という文面からすると、東西ドイツでは統一よりかなり前から、こうした行き来ができたということなのでしょうか....
については,73年の東西ドイツの国交樹立からは,東ドイツ市民の西ドイツ訪問は条件付きで可能になっています.その条件とは,男性60歳,女性55歳以上であることというものでした(その他東ドイツ政府が特別に認めたものは除く).
つまり,年金受給年齢になり,もはや労働力として見込めない人間は西側に行っても良い(仮に亡命してもその分東ドイツ政府の負担が減る)ということです.働けるうちは働かせ,手がかかるだけになったら好きにしろというところですかね.このあたりにも「似非社会主義」の本音が露骨に現れています.
それ以下の年齢の西側訪問(や移住)については,基本的には個別審査でした.単なる旅行や親族訪問でビザ(東ドイツの出国ビザ)が下りることはほぼ100%なく,結婚などを理由とする移住については当人の学歴や職歴が高ければ高いほど下りにくいようでした.これはおそらく東ドイツの学問や産業の内情が漏れるのを恐れてのことかと思います.ビザが下りるにしても早くて2年,通常は3年は待たされていました.また結婚の場合,相手(西側の人間)の職業なども審査の対象でした.要は,その案件が東ドイツにとって有用かどうかとの視点で決定が下されていたようです.
[16245] 2003年 6月 1日(日)09:39:05Hermit さん
またまた東西ドイツの話ですみませんが....
[16226] 月の輪熊さん
ご指摘の点,なるほどそうです.その他の大きな背景としては,
・ドイツ敗戦後1949年の東西ドイツ建国までは(完全に自由ではないものの)互いに往来ができたこと
・東西ドイツ建国後も,東ドイツの各地→東ベルリン→西ベルリン(→西ドイツ)という経路でなら東ドイツ国民は西側へ出られたこと
があるかと思います.
何度かここでも触れていますが,ベルリンは法的には連合国の占領地でありドイツではないので,1961年8月に東ドイツがソビエトの承認の下で「壁」を作るまでは,東西ベルリン間の往来は自由にできたのです.東ドイツ建国以後は東ドイツから西ドイツへは直接行くことはできなくなりましたが,上記のルートでなら東ドイツの市民も西側に行けたというわけです.おおよそ東ドイツ国民の1割が東ドイツ建国後から「壁」建設までに西ドイツに逃れています.
地理ネタから少々はずれますが,政治的に見れば東西ドイツでの60年代末から70年代初めにかけての指導部の交代(西では社民党のブラント政権誕生,東ではスターリン主義者の最後の生き残りと言われたウルブリヒトが事実上失脚し,「2つのドイツの共存」を目指すホーネッカーがリーダーに)が大きく作用しています.
東西ドイツの相互承認はドイツ(ここでは西+東)の東部国境がどこなのかという問題も含んだ非常にやっかいなものでした.つまり,オーデル-ナイセ線をドイツの東部国境と認めるのかということです.これは第二次大戦の戦後処理の根幹をなす部分です.東ドイツを認めるということは,西ドイツにとっては第二次大戦後のポーランド(の地理的な位置)を認めるということもなります.この問題,日本とソビエト(ロシア)との間の千島を巡る問題の比ではありません.
結果としては,西ドイツがオーデル-ナイセ線を認める(従来の主張を取り下げる)ことで東西ドイツの相互承認が実現したと言えましょう.
日本側の言う「北方領土」が人口の非常に少ない島だということで,一般の日本人の関心を集めないということが,ここを巡る議論で国民的な盛り上がりに欠ける理由なのかもしれませんね.いわゆる離散家族が大量に発生していたら,問題がここまでほったらかしにされることはなかったはずですから.

蛇足ですが,朝鮮半島の場合,詰まるところ同族相争った戦争の責任が誰にあるのか(どちらが計画し侵攻したのか)は様々な状況証拠から明らかでしょう.それを北側が認めない限り,南北統一を巡る議論は進行しないと思いますけれど.
[16285] 2003年 6月 2日(月)04:35:33Hermit さん
今回はペテルブルク観光案内人ということで....
[16278] 夜泣き寿司屋さん
ご指摘の通り,日本国の旅券(一般旅券)にはその昔「渡航先」のページに
This passport is valid for all countries and areas except ......
という具合に旅券の有効指定から外れた国や地域が書かれていました.私が知っている限りもっとも古いバージョンの旅券では,ここに該当するのは北朝鮮,中国,北ベトナム,ラオス,南イエメン,東ドイツといった国でした.このうち最後まで残っていたのが北朝鮮です.現在のものより一回り大きな旅券(90年代半ばまでのバージョン)には除外国としてDPRKと書かれていました.
こうした国へ行くには,特別の渡航許可書を取得する必要がありました.商用や現地側の招請(文化交流など)による場合は,ビザの他にこの許可書が必要だったようです.

[16267] スナフキんさん
[16279] ニジェガロージェッツさん
ペテルブルクには何度も仕事と私用で小生行きましたが,確かにロシア的な部分が少ない町ですね.ロシアの町で,観光でもう一度行きたいと思ったのはペテルブルクだけです.市の中心部(ネバ川の南側)には,いかにも「社会主義」を連想させる砂糖菓子のようなコンクリートの高層建築物があまりありませんし.
ペテルブルクは「北のパルミラ」と呼ばれるほど美しい町です.特に夏の日の長い時期は11時過ぎまで明るく(何しろ北緯60度ですからね....),散策をするにはもってこいでしょう.
また,ペテルブルクは「北のベニス」とも称されていますが,これは町に運河が多くあることによります.多くの運河は宮殿広場を中心に同心円状に掘られています.この運河,もともとはネバ川の河口に作られたこの都市の水はけをよくするためのものだったようです.季節の良い期間は,運河巡りの観光船が出ています.これに乗ると,この町が人工的かつ計画的に作られたことがよく分かりますよ.
宮殿広場とエルミタージュ美術館(元の宮殿)は必見です.夏ならこれに郊外のペトロドボレツ(元の夏の離宮)が加わりますか.
ただ,モスクワに比べてホテルが少なく,部屋が取りにくい上に料金が高いのが難点でしょうか.
ニジェガロージェッツさんがペテルブルクに足を踏み入れていないというのは意外でしたね.

蛇足:ロシアで最初の鉄道が敷設されたのもペテルブルクです(ペテルブルク--ツァールスコエ・セロ間,1837年.因みにこの鉄道軌間6フィートというものでした).ペテルブルク--モスクワ間の鉄道が建設されるのはそれから14年後のことです.この鉄道(当時の皇帝の名を取って「ニコライ鉄道」と呼ばれていました),地図を見れば分かりますが定規で両都市を結んだかのごとく一直線に走っています(何でも皇帝が本当に定規で地図に線を引いて「ここに線路を敷け」と言ったそうな....).650キロを一直線ですから,さすがロシアと言うところですか.
この区間は,昼間走る列車が少なく(主力は両端を夜出て反対側に朝着く寝台列車),景色をゆっくり眺めることができないのが難点です.ロシアを巡る観光客も,両都市間の移動にはこの寝台列車を使うことが多いようです.時間を有効に使えるのと一泊分浮くこと,飛行機より切符が取りやすいことが理由だとロシア人から聞きました.両都市間の航空便は一日16-17往復あるのですが,小型の飛行機(ツポレフ134や154など)を使っているので席数が少ないのが理由のようです.
このいわばシャトル便ですが,全てがシェレメチェボ空港発着というわけではなく,一部ドモデードボやブヌコボといったローカル空港発着です.基本的にAeroflot(SU)とPulkovo Air(FV)が運行しています(一部GTK Russia <R4>あり).モスクワも東京や大阪同様,空港が複数あるのでなかなかに難物です.加えて,シェレメチェボ空港は,西側からの国際線が発着する第2ターミナルと国内線(+ウクライナ,ベラルーシなど旧ソ連各国)用の第1ターミナルが非常に離れており(路線バスで10-15分),日本やヨーロッパの感覚でトランジットをしようとすると大変な目に遭います.ましてやシェレメチェボ第2--ドモデードボなどといったら大仕事です(ロシアの地方都市行きの便は結構ドモデードボ発着というのが多いので,こうした目を見ることもしばしばありました).体力と度胸のある方は是非一度お試しを.
[17447] 2003年 6月 28日(土)02:47:54Hermit さん
第三軌条方式は危ない?
10日間仕事で家を空けていました。
書き込みが多いので今や完全に「過去の人」です。
週末で追いつけるかどうか。
カナダ東部も「熱波襲来」で、小生のいる田舎でも本日の気温は27度。一昨日は30度を超えたとか。ニューヨークは5月からほとんど毎日雨か曇りのようですし、今年は天候が不順なようです。

[17440] kenさん
[17445] 般若堂そんぴんさん
電車の集電方式ですが、地上だけを走っていても第三軌条方式と架空線集電(パンタグラフ)とを併用しているところとしては、ロンドンの近郊を走る鉄道があります。ロンドン及びその近郊の電車は、地下鉄がそうだからなのか第三軌条方式がほとんどなのですが、北部にはパンタグラフを使うものがあります(このあたり第一次大戦後に民間鉄道を併合して国有化した名残か)。ですので、以前ご指摘のRichmond-North WoolwichのSilverlink(Richmond-Gunnersbury間は地下鉄と線路を共有)などはこの方式です。
この両方式、確かトンネルができてイギリスとフランス/ベルギーが鉄道で結ばれるようになった際に問題になったと新聞で見た記憶があります(当時ロンドンにいたので良く覚えています)。
少なくとも、踏み切りのある路線とは乗り入れできませんよね。
死人が続出してしまいます。
ですが、イギリスでは平気で踏み切りを作っていますよ。それでも死人が出たという話は聞いたことがありません。まあ、のんびりしていて"at your own risk"が浸透している国だからなのでしょうけれど。さすがに "Danger! High Voltage"の看板はありますが....

おまけ
以前東西ベルリン間の交通について書き込みをしましたが、先日暇を見つけようやく昔の地図が家の倉庫の奥から出てきましたので追加で補足いたします。
東西ベルリン間の検問所としては、
鉄道での入出境ではFriedrichstrasse駅
自動車(と徒歩)ではCheckpoint Charlie
がありますが、これは外国人用です。
この他に、西ベルリン市民用(徒歩)には
Bornholmer Strasse
Chausseestrasse
Drewitz (西ベルリンの市バスと接続、ポツダム行き)
Invalidenstrasse (Sandkrugbruecke)
Oberbaumbruecke
Sonnenallee
Friedrichstrasse駅(地下鉄、S-Bahn)
Waltersdorfer Chaussee
がありました。西ベルリン市民の自動車での越境ポイントは、
Bornholmer Strasse
Chausseestrasse
Drewitz
Heiligensee
Invalidenstrasse (Sandkrugbruecke)
Sonnenallee
Staaken (Heerstrasse)
でした。
西ドイツ国民用のポイントは、
Bornholmer Strasse
Heinrich-Heine-Strasse
Friedrichstrasse駅(地下鉄、S-Bahn)
となっていました。
外交官用のポイントとして、
Checkpoint Charlie
Bornholmer Strasse
Invalidenstrasse (Sandkrugbruecke)
がありました。
この他に、Schoenefeld空港へのトランジット用のポイントとして
Waltersdorfer Chaussee
も設定されていました。
こうしたことが「今は昔の物語」となったのは何とも幸いなことです。
「壁」がなくなって今年で14年ですか。時のたつのは早いのを痛感します。
[18428] 2003年 7月 19日(土)23:30:42Hermit さん
地理ネタでなくてすみませんが....
私の以前の書き込みがオーナー殿はじめみなさまにご迷惑をかけたようです。
表現が至らなかった点は深くお詫びします。問題とされた部分も無論特定の法人や個人の誹謗中傷を目論んだものではありませんが、そう受け取られるのならそれは私の責任でしょう。
必要なら私の以前の書き込みは(今回問題とされたもの以外も含め)全て消去して下さい。

日本の、それも都道府県市区町村というテーマに日本とほとんど縁のない小生が紛れ込んだこと自体が間違いだったようです。日本に人生の1/20程度しか住んでいないのでは、こちらから積極的に関わろうにも接点がありませんからね。

ただ、都道府県市区町村ネタ以外にも鉄道ネタなどは個人的にはとても参考になりました。他で探し回っていて見つからず、ここで博識の方々がその知識の一端を披見されていることが "bingo" ということは多かったのです。

この手の書き込みは、私見ですが50人程度、多く見積もっても100人くらいが管理の限界なのではないでしょうか。社会集団においても、意志決定やリーダーシップが平等に行われ、権力や情報の独占がなく、諍いの解決が集団内で非公式に行われるのは数十人の集団までとされています。集団が大きくなればこそ、リーダーの存在は不可欠です。

オーナー殿もご苦労が絶えないとは思いますが、自分の目指す方向でこれからも運営を続けて下さいませ。
データベースとしての使用以外で今後小生がここを訪れることはないと思います。


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