[81832] グリグリさん
近代デジタルライブラリーの文献(計4件)を確認してみたところ、【埼玉村は】すべて「さいたま」でした。
これは、埼玉県居住歴 約40年の私にとっても 予想外の結果でした。
きちんと調べたことはなかったのですが、常識として、次のような使い分けであると心得ていました。
「埼玉古墳群」や、その所在地の「村」や「字」のような小地名は「さきたま」と発音する。
その地を含む「郡」や「県」のような広域地名においては、イ音便で変化した「さいたま」という発音になる。
『新編武蔵風土記稿』
216巻崎玉郡忍領埼玉村に見える下記の記事が、「常識」の根拠となっているようです。
和名抄では「佐以多万」と註す。万葉集では「佐吉多万」又「前玉」とも載す。今土人は郡をサイ玉と唱へ村名をサキ玉といへるは唱を以て分るなるべし。
行田市の紹介 の中にも、県名発祥の由来として、次のような記載がありました。
およそ1200年前の奈良時代にできた『万葉集』の中に「前玉(さきたま)の小埼の沼(おさきのぬま)」や「佐吉多万(さきたま)の津」の歌があります。この「さきたま」は、現在の行田市埼玉周辺をさす地名であり、今も神社や字名は「さきたま」と読みます。(中略)
このように、小さな地名、「さきたま」が変化して、より広い郡名「さいたま」として用いられるようになっていったのです。
明治の町村制では、この「常識」を覆して 村にも「サイタマ」を適用するという「お触れ」が出たのか?
さっそく、
[76874]むっくんさんの「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」により、
明治22年埼玉県令甲第7号別冊 を確認。
この正式な公示文書には、フリガナは付いていません。
小地名である埼玉村に「サイタマ」を使った例を探したら、『新編埼玉県史資料編19』の別冊付録に、『改正埼玉県町村便覧』という本の復刻がありました。原本そのままではなく、後に加工したものですが、確調居士編纂、浦和文華堂蔵、明治22年4月 とありました。
著者の正体は不明ですが、当時の埼玉県庁のお役人でしょう。
とにかく復刻本の65ページに(北埼玉郡)埼玉村があり、「サイタマ」とルビが振ってありました。
埼玉村の読みを「サイタマ」とする資料は、すべてこの『改正埼玉県町村便覧』を引き写したものではないかと思います。
更に調べたら、『行田市史資料編近代1』に、同時代の「埼玉県行政文書」がありました。県庁内部文書でしょう。
資料81 明治20年7月 北埼玉郡町村編成表(抄)
町村制の準備作業の案でしょうが、合併町村名として成田町、行田町と14村とを列挙。10村には フリガナがあるのですが、長野村・荒木村・持田村・埼玉村には フリガナなし。
埼玉県庁の担当者は、サイタマと読むのは自明のことと考え、フリガナを付けなかったのでしょうか。
資料82 明治23年 北埼玉郡町村編成表(抄)
町村制施行後です。13町村すべてに フリガナが付いています。埼玉サイタマ村(p.217)。
このように、埼玉県庁内では暗黙の了解として 「サイタマ」村 が通用していた様子がうかがえます。
しかし、この 「サイタマ」村 という読み方は、実際に現地で使われていたのでしょうか?
これを判断する材料は、今のところ見出していません。
日本地名大辞典(角川書店)も、日本歴史地名大系(平凡社)も、埼玉大百科事典(埼玉新聞社)も、「埼玉村 さきたま」を見出し項目に採用しており、「サイタマ」村については、そのような読みの存在についての言及さえしていません。
このことから、(明治時代のことはいさ知らず)戦後に昭和合併期まで残っていた埼玉村は、「サキタマ」村と呼ばれていたものと推測する程度です。
資料では「ミナミモリ」村となっているが、現地で使われていたのは「ナンモウリ」村。
[80304][80309]
そんな事例を思い出す調査でした。しかし、南毛利村と埼玉村とは状況が違います。
南毛利村の場合は「ミナミモリ」と書いた県令
[80306] があったのに、現地の呼称は、明らかに「ナンモウリ」でした。
埼玉村の場合も、県庁内では「サイタマ」村で通っていたしいが、正式に公示された県令にはルビがなく、世間的には「幻の読み」である疑いが一段と高まりました。
この記事の最後に、埼玉村として最後の1950年国勢調査を確認したら、なんと「Saitama-mura」でした。
戦後まで「サイタマ」村が生き残っていましたね。
…ということで、自分でもよくわからない状況になりました。このまま、幕引きします。
【修正】
タイトル変更と、埼玉県行政文書、国勢調査など追加調査に基づく修正。