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落書き帳

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[1617] 2002年 5月 25日(土)09:37:51Issie さん
人名地名
>埼玉県春日部市
>平安時代に新田義貞の家臣であった春日部氏より。

これは,いくら何でも変。
新田義貞は鎌倉末から南北朝最初期の人ですね。
平安時代には新田氏のご先祖はまだ単純に「源」と言っていたはずです。「清和源氏」の嫡流ね。
新田氏を名乗り始めるのは八幡太郎義家の孫の義重(頼朝のお祖父さんの為義と同世代)からで,それは上野国の新田郡に領地があったから。弟の義康は利根川の向うの下野国足利郡を領地にしたので足利氏。

>でも中には地名と由来には、どちらが先で後なのかはっきりしない

中世の武士の名字なら基本的に地名が先。
古代の「~べ」(~部,~壁など)という地名は,たいてい氏姓制度以前の専門集団の名前の方が先。
各地の「かすかべ」地名は,大王(天皇)一族で「かすか」という名前の人に奉仕する集団に関わる地名です。「くさかべ」「は(つ)せべ」「おさかべ」なんかもそう。とすれば,これらは人名由来ということ。なお,漢字ではいろいろな風に表記されます。どうせ当て字なもので。
「春日部」と「粕壁」と両方あるのもそう。近世以降は「粕壁」と書くのが普通だったけど,市になるときにわざわざ古風な「春日部」を選んでのですね。
本来はどっちでもよい。どうせ当て字なんだから。

鎌倉中期から南北朝以降になると武士団の移動が盛んになって新しい領地に名字を持ってくることが多くなります。
下総国相馬郡(千葉県・茨城県)から持ってきた陸奥南部(福島県)の「相馬」。甲斐国最南部(山梨県南部町)から持ってきた陸奥北部(岩手県・青森県)の「南部」なんてのが代表的。
小さなところでは神奈川県の「津久井郡」は中世領主の津久井氏に由来するけれど,津久井氏は三浦半島南部の津久井庄(横須賀市)が本来の領地だった。というわけで,神奈川県立津久井高校(津久井町)と神奈川県立津久井浜高校(横須賀市)は偶然名前が似ているのではなく,どちらも由来が同じなわけ。

もし「毛利」「小早川」「吉川」が自治体名になったら,これも領主が他所から持って来たもの,ということになります。
「毛利」は本来,相模国愛甲郡の地名。厚木市に「南毛利(みなみもり,なんもうり)」という地名があります。「小早川」は同じ相模国足柄下郡,小田原市の早川あたりですね。「吉川」は確か今の静岡県(駿河か遠江)の地名でした。毛利氏が一番わかりやすいけど,鎌倉時代半ばに東国から移住してきたのですね。

人名の地名。昔の「新田(しんでん)」には腐るほどあるんですけどね。明治の大合併の段階では,まだたくさん町村名になっていました。でも昭和の大合併以降も自治体名として生き残ったものは少ないですね。自治体の中の大字にはいっぱい残っていますが。
千葉県では明治の大合併の時にわざわざ昔の有名人の名前をとって「鎌足村」(藤原鎌足)とか「良文村」(平良文)としたところもあったのですが,その後それぞれ木更津市や小見川町に合併されてしまいました。近世以来の旧村名ではない新地名なので“大字”としては残らず,小学校や特定郵便局の名前にしか残っていないようです(農協は合併されちゃったから)。
[22003] 2003年 11月 15日(土)18:57:51【1】hmt さん
実は私もまだ小学校に…
[21997]グリグリさん、太白さん
登録申請から44時間でお色直しからメンバー紹介までしていただき感謝・感激です。
蛇足:…雨・霰と続く語源の「乱射・乱撃,雨・霰」は、活弁のセリフだったかな?

居住地:富士見市
出身地:神奈川県津久井町
先祖が「応安4年2月諏訪大明神ヲ勧請ス」とあるので、14世紀頃には津久井にいたことになりますが、信州の出自であるとも伝えられています。じゃごたろさん [18158][19635] の諏訪大社に反応したのは諏訪DNAかもしれません。

タイトルが「実は私もまだ小学校に行ってないのです。」なら衝撃的だったのですが、惜しいことに(何が?)1年生のときは東京市立愛日尋常小学校という校名でした。私の次の学年は1年から6年まで国民学校で、小学校に行ってない唯一の世代になりました。
代りのタイトルを探したら、史上2年間しか存在しなかった「併設中学校全期間在学」に該当しましたが、反応してくれそうなのは深海魚さんだけと思われるので没にします。

私が去った後のことですが、地域の方たちが伝統地名抹消施策に抵抗し、小学校在学時に住んでいた納戸町を含めて江戸町名の宝庫を残してくれたことを誇りに思います。ただ区の合併により牛込という地名が使われることが少なくなくなっているのは残念です。せめてJRや地下鉄の飯田橋駅に牛込見付口というような名があればと思うのですが。

併設中学校は厚木でしたが、当時は所在地の南毛利村が長州の毛利の出身地と関係ある地名とは知りませんでした。現在の本を見るとミナミモリという読みが出てきますが、当時はナンモオリと呼んでいました。神奈川ネタ [19684] [20917] は出身地のせいです。

メンバー紹介関連ということで、極めて個人的な書き込みになりました。ご参考になれば幸いです。

【1】 2行目:登録手続き を お色直し に修正
[22152] 2003年 11月 20日(木)20:10:23【1】hmt さん
厚木と横田
[22088] TGRS さん
厚木基地は厚木市には無い。
現在も米軍基地として使用されている厚木の名が全国に知られたのは、1945年8月30日、コーンパイプをくわえたマッカーサー元帥がC-54バターン号から日本に降り立った時でした。
その前、第2次大戦中の空襲に際しては、1941年から帝都防衛の海軍航空基地として使われていたこの基地から、「東部軍管区情報、敵B29…機はアツキ上空に…」というラヂオ放送が関東地方に流されていました。何故かアツギでなく、アツキと発音していました。
しかし、確かに厚木基地は綾瀬市にあり、厚木市から数km離れています。厚木駅も相模川を隔てた海老名市にありますが、こちらの方はもっと近いですね。(例の神奈川県立厚木中学校併設中学校も、当時は愛甲郡南毛利村でした。)

福生市、瑞穂町にまたがる横田基地も「よその地名」を名乗っています。
「横田」は武蔵村山市の中心集落の通称で、バス停名になっています。武蔵村山市は多摩モノレール、西武拝島線、JR八高線が近くにありながら、市域を鉄道が通っていない珍しい市ですから、「横田バス停」はいわば「市の代表駅」です。
なぜ横田の名が基地に付いたかというと、羽村から基地の北部、横田と経由して村山貯水池へ入っていた東京都水道路があったので、米軍が航空写真判読に際して、横田を基地の一部と見誤ったと言われています。

【1】追加
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?mesh=5339522&res=0&offset=0&method=l?7,1304 によりこの説を検証してみると、横田基地の文字の下に滑走路を横断する東京水道の文字があり、右側の図の市街地(古い地図には本町三丁目付近に「横田」の文字がありました)まで直線が続いています。これを横風用滑走路と判読したのでしょう。
[44059] 2005年 8月 11日(木)19:17:47hmt さん
南毛利村が消えて50年、「なんもうり」郵便局も「みなみもうり」郵便局になってしまったのか?
[43975] きまぐれ さん
サムカゼヤマ 寒風山 秋田県男鹿市
フタガミ山 両神山 埼玉県秩父市(旧大滝村)
アンバウ峠 安房峠 長野県松本市(旧安曇村)

角川日本地名大辞典では、“寒風山 かんぷうざん、「さむかぜやま」とも読み、妻恋山、羽吹風(はふかぜ)山ともいう(地名辞書など)。…”とあります。帝国書院の地図(昭和13年)ではフリガナなく、索引ではカンプーザン。
どちらが正解ということではないようですが、地名の由来になっていると思われる北東季節風からすると、音読みの「かんぷうざん」の方が実感が出ています。現在は、この音読みが優勢になっているとは思われます。
きまぐれ さんの昭和15年の地図の編集者は、どうも訓読みがお好きなようですが、何という地図ですか?>きまぐれ さん

山麓に石切り場があり、寒風石(男鹿石)の名で知られる石材を産出する由。石材・鉱物関連地名に加えましょう。

秩父の両神山。山頂直下にある、イザナギ・イザナミ両神を祀る両神神奥社に由来。重箱読みの「リョウがみやま」が普通でしょうが、訓読みがお好きな地図ですからね。

信濃と飛騨の境の安房峠。帝国書院の地図では、峠にはフリガナがありませんが、近くに安房(アボー)山と振ってあります。屋久島の安房川は「あんぼう」と読みますね。安房国に由来する千葉県安房郡は、もちろん「あわ」。

さて、「しろうまだけ」か「ハクバサン」かの問題[26306] [43943]でも実感しましたが、どれか一つが正解で、他はすべて間違いというのは、多肢選択問題に慣れてしまった現代人が陥りやすい落し穴ではないでしょうか。
たぶん、「しろうま」でも「ハクバ」でも、どちらでも良いのです。「ハクバだけ」と湯桶読みになるのは美的でないとは感じますが、これを間違いときめつけるのはどうかと思います。

訓読み・音読みの対立ではないのですが、「東京」も、かつては「トウケイ」と漢音で読まれていました。
“因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン”という詔書を素直に読めば、漢音の「トウケイ」でしょう。
これが、書き言葉として定着して行くうちに、読み方がいつしか呉音読みの「トウキョウ」になってしまった。たぶん、京都の読みに影響されたのでしょう。
現在は圧倒的に「トウキョウ」ですが、「トウキョウ」が正しくて「トウケイ」は誤りとなった時点を特定できるかというと、そんなことができる筈がありません。

「ニッポン」と「ニホン」はどちらも正しい。ということでしょう。
だから日本(ニッポン)銀行があったり日本(ニホン)大学があったり。アーカイブズもありますね。

さて、私が学んだ「併設中学校」のあった神奈川県愛甲郡南毛利村[22152]という「人名由来の地名」[1617]の読み方です。

当時の記憶では、学校の所在地は「なんもうりむら」だったのですが、最近の「市町村名変遷辞典」では、「みなみもり」となっています。
調べてみると、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」や「角川日本地名大辞典」も同様。
そこで、南毛利村が存在していた頃の「市町村大字読方名彙」(小川琢治編1923)[35703] まで遡ってみましたが、これも「みなみもり」。

平凡社の「日本歴史地名大系」14巻519頁だけに「なんもうり」のふりがながありました。しかし、これも518頁の南毛利中学校遺跡には「みなみもうり」のふりがな。
もちろん厚木市HPも見ましたが、読み方はわからず。「厚木の地名」(厚木市教育委員会1996)にも、読み方が出ていませんでした。

そして、厚木市立南毛利小学校の校歌譜面を見たら、「なんもーり われらのいのち…」とありました。地元の作家・和田傳さんの作詞ですから間違える筈はありません。
「南毛利」という地名が使われている施設を調べてみたところ、郵便局HPの南毛利郵便局には「なんもうり」のふりがながありました。

以上のデータを添えて、昨年12月に厚木市HPから連絡して、「なんもうり」村だったことについての行政当局のお墨付きを貰おうとしたのですが、梨のツブテ。

ところで、この記事を書くにあたり、郵便局HPの同じアドレスにアクセスして見ると、なんと「みなみもうり」に変っているではありませんか!!

南毛利の読み方は、半世紀の間に「なんもうり」から「みなみもうり」に変ってしまったのか?
[44061] 2005年 8月 11日(木)21:21:23Issie さん
ほっきつ村
[44059] hmt さん
南毛利

実は厚木市南毛利地区は,うちの職場の「集客エリア」に入っていて何かとお付き合いのある地域です。
私たちは「南毛利中学校」を通常「なんもりちゅう」と呼んでいます。行政地名に即して言えば「なんもうり中学校」でしょうか。

群馬県の「北橘村」について,行政上“公式”には「きたたちばな村」という呼称であっても,「ほっきつ村」という呼称が普通に行われていますね。
「南毛利村」もこれと似たようなケースかとも思われます。

まあ,ある意味“通称”に過ぎませんから,「正式名称」は別にあるのかもしれませんが。

蛇足ながら,
相模原市立の「大野南中学校」は,通常「なんちゅう」と呼ばれます。
ところが「大野北中学校」は,「(大野)きたちゅう」と呼ばれます。
対照的な校名であっても,通称も対照的とは限らないのですね。
[44065] 2005年 8月 11日(木)23:37:23hmt さん
「正式の読み方」など 存在しなかったのかもしれない
[44061] Issie さん
私たちは「南毛利中学校」を通常「なんもりちゅう」と呼んでいます。

学校当局も「Nanmouri Junior High School」と書いていますね。
南毛利小学校も「なんもうりしょうがっこう」

群馬県の「北橘村」について,行政上“公式”には「きたたちばな村」という呼称であっても,「ほっきつ村」という呼称が普通に行われていますね。
「南毛利村」もこれと似たようなケースかとも思われます。

現存する北橘村は、公式ページで「きたたちばな村」であると「意思表示」していますが、50年前に消滅した南毛利村の場合には、読み方についての公式文書が残っているでしょうか。

そもそも、50年前に「行政上“公式”の読み方」なるものは、存在したのでしょうか?
「東京」や「日本」の公式の読み方が(たぶん)定められてないのと同様に、そもそも「南毛利村」に、「行政上“公式”の読み方」を求めることが間違っているような気がしてきました。

正式に定められていたのは「書き言葉」の「南毛利村」だけであり、大部分の人々は「なんもうり」と読んでいたが、「みなみもり」と読んでいた人もいる。多数、少数で決まる問題ではないから、どちらかが間違っているとは言えない。読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよい。

小学校や中学校は、多数派の呼び方に従って、現在も「なんもうり」になっている。
学校名の読み方としては、日本大学(にほんだいがく)のように、これが「正式」なのでしょうね。

しかし、旧自治体の読み方が、学校の読み方と一致している必然性はない。
大正時代に京都大学の小川研究室から読み方の問い合わせが来た時に、対応した役場の職員は、「みなみもり」と答えた。
間違いではないかもしれないが、少数派の読み方が「市町村大字読方名彙」[35703]に収録されてしまい、後々の文献に引き継がれた。

こんなところが真相ではないかと想像しますが、いかがでしょうか。

いや、正式の読み方は存在したのだよ という材料をご存知ならば、是非ご教示願います。
[44066] 2005年 8月 12日(金)01:17:00【2】Issie さん
もり/もうり
[44065] hmt さん
Nanmouri Junior High School

一般的に行われる英語(風)表記では日本語の母音の長短の区別には全く無関心ですから,これでは「なんもり」か「なんもうり」かわからないですねぇ。

…と思ったら -mou- と表記してあって,「もうり」と読んで欲しいという意思表示をしていますねぇ。逆に言えば,「一般的な」ヘボン式ローマ字表記(昭和29年内閣告示の第2表の参考にされた)には則っていないわけだ。


そもそも、50年前に「行政上“公式”の読み方」なるものは、存在したのでしょうか?
「東京」や「日本」の公式の読み方が(たぶん)定められてないのと同様に、そもそも「南毛利村」に、「行政上“公式”の読み方」を求めることが間違っているような気がしてきました。

正式に定められていたのは「書き言葉」の「南毛利村」だけであり、大部分の人々は「なんもうり」と読んでいたが、「みなみもり」と読んでいた人もいる。多数、少数で決まる問題ではないから、どちらかが間違っているとは言えない。読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよい。

私,基本的に長い引用は意識して避けているのですが,
この部分に関して,私は全く同じ感覚でいるということを表明したく,
長い引用を行いました。
基本的にこのような考え方に立つ旨,これまで何度もこちらで表明しているところです。
[48812] 2006年 1月 28日(土)23:40:00hmt さん
音読み・訓読み
[48802]りゅう さん   ほっきつ?きたたちばな?
[48803] miki さん   「きたたちばな」→「ほっきつ」

日本武尊伝説の橘山([34294] 烏川碧碧さん)由来の群馬県勢多郡「南橘村」は昭和大合併の時代に前橋市に編入され、「北橘村」も近々消滅するのですね。

その北橘村の読み方については、2002年に話題になり[5176] [5178] [5181]、渋川市との合併で「ほっきつまち」と読むようになることも[37082] Hiro(&TOKO) さんの記事にあります。

このような音読み・訓読みの問題、過去にも秋芳洞[43914] [44105]、白馬岳[43943]などで話題になりました。村名としては、南毛利村[44059]の例があります。

既に論じられているように、現在の 北橘村公式ページの 村の紹介→村の概要を見ると、「きたたちばなむら」を正式名称としているものの、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していることが読み取れます。
合併を機に、「ほっきつまち」と読むことになるのも、このような背景があるのでしょう。

もっとも、1889年にできた北橘村に「正式の読み方」などあったのかどうかは疑問があります。
[44065]で南毛利村について書いたことなのですが、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思われます。
「正式の読み方」にこだわるようになったのは、近年のことなのでしょうね。

[5178] YSK さんによると、前橋市内にある「南橘」という地名も、現在は「なんきつ」だそうですが、昔は「みなみたちばなむら」と読んでいたのかもしれません。

人名の音読み・訓読みについても、記事を書いたことがあります[43834]
徳川慶喜の実名(正式の名前)は訓読みでも、現実には「けいき」さんと呼ばれ、本人もそれを好んでいたとのことです。
[50529] 2006年 4月 7日(金)18:36:58hmt さん
まなづるまち
[50434] 花笠カセ鳥 さん
どうも、某の出番がきたようです。

気が向いた時で結構ですが、官報情報検索[26211]をお願いしたい件があります。

アーカイブズ・呼称が複数ある地名 ~地名呼称の多様性~でも取り上げられている神奈川県真鶴町の読み方ですが、「全国市町村要覧」では平成16年版まで「まなつるまち」になっていたものが、平成17年版から「まなづるまち」に改められております。

真鶴町HP では、以前から当然のように「MANAZURU」を使っており、最近になって呼称を変えたという記事は見当たりません。
これは、おそらく 「呼称の変更」 ではなく、従来自治省が “「まなつる」と読んでいた” のを「訂正」してもらったということだろうと思われるのですが、2005年4月の前1年間の官報に、自治省として読み方を変更したことに関係する記事があるかどうかを調べていただければ幸いです。

幕末以降市町村名変遷系統図総覧 を見ると、昭和2年10月1日に真鶴村から真鶴町になった前後はいずれも「まなづる」、昭和31年9月30日に岩村と合併した現在の町名は「まなつる」となっており、この合併の時の告示文が「まなつる」になった原因ではないかと思われます。この点もわかればお願いします。

中世文書では「真名鶴」の表記が多かったが、近世以降は「真鶴」と表記し、「まなづる」と読むのが普通だったが、「まなつる」と読む人もいたのかもしれません。
自治省が昭和31年の合併告示で「まなつる」と書いた「いきさつ」は存じませんが、自治省の資料に「まなつる」と書かれると、これが「正式名称」であり、「まなづる」は間違いだなどという人も出てくるのでしょう。
これでは困るので、真鶴町当局としても、自治省に訂正してもらったというところが真相でしょうか?

既に消滅している神奈川県南毛利村[44065]、群馬県北橘村[48812]、広島県佐伯町[43977] 等に関連した記事の際にも感じたことですが、地名の表記や読み方については、ある程度の「ゆらぎ」があり、これをお互いに認め合って共存してゆくのが自然な姿と思われます。

「正式の読み方」にこだわり、無理に統一しようとすると、この国は、「にほんこく」と「にっぽんこく」とに分裂しかねません。

町村名ではありませんが、最近見たテレビ番組で、琵琶湖「沖島」の四季が紹介されていました。
ナレーションでは、公式の読み方「おきしま」([50183] むっくん さん)が使われていましたが、孤塁を守る71歳の漁師さんは繰り返し「おきのしま」と言っており、里帰りした娘さんは「おきじま」と発音していました。

「ノ」を含まない漢語式の表記という点では同じですが、西宮、尾道などの有名地でない悲しさ、圧倒的に多数の島外の市民が「おきしま」と呼ぶようになり、市の当局者(これも島外の人)も「おきしま」を公式の読み方にしてしまったのではないでしょうか。

島民と市当局との関係を、真鶴町民と自治省当局とに置き換えてみれば、「まなつる」問題との類似性を感じることもできます。
[58485] 2007年 5月 15日(火)23:55:24【1】hmt さん
小倉橋
[58450] アルバトロス さん
小倉橋は、幅が狭くすれ違うのにも大変でしたが、数年前新小倉橋が出来ました。旧城山町、今は相模原市の所在です。

小倉橋(おぐらばし)は、東京の聖橋(ひじりばし)を4つ連ねたような優美な姿のコンクリートアーチ橋ですが、1車線の交互通行で、交通のボトルネックになっていました。

自動車が大型化する前には、途中に設けられた交換場所を利用して十分に行き違いができたのでしょう。
小倉橋が完成した1938年は、国産自動車の代表的なブランドだった「ダットサン」が誕生(1932)して間もない頃です。まだ「1馬力」の荷車が盛んに往来していました。

小倉橋付近は、昔はもっと水量が豊富だった相模川が、山地から出てきたあたりの景勝地でした。小倉橋より5年前の1927年に震災復興事業で架設され、そのスタイルが評判だった聖橋と同様のデザインが採用されたのは、少し下流の「水郷田名」[1321]と共に東京近郊の観光地だった時代を物語っています。

この橋の西岸は、1955年の昭和大合併で城山町になる前は、「湘南村」でした。相模の「相」にサンズイで 「湘」=相模川。
[29999] Issie さん
このあたりの相模川も明治以来著名な景勝地で,それを「湘江」になぞらえ,その川の南側だから「湘南」となるのですね。

新小倉橋が、小倉橋とのバランスに配慮した 上路アーチ橋 を採用したのは良いとして、着工が1989年と伝えられ、2004年完成ですから、15年もかかったことになります。西詰を直進すべき取り付け道路も未完成のようです。

[58458] 稲生 さん
今年のターゲットが相模川(桂川)なのです。

ご参考までに、道志川や中津川を含む 相模川水系 に関係する主な記事を集めてみました。

余談:相模川と直接に関係するわけではありませんが、「南毛利郵便局」の「読み方」についての記事[44059]があったので、稲生さんへのサービスに収録しようかと思い、リンクしてあった郵便局HPを開いてみたら、今度は「愛甲石田駅前郵便局」になっていました。郵便局名ってよく変るものなんですね。
[80304] 2012年 2月 18日(土)21:26:28hmt さん
市町村変遷データベース関連 (3)南毛利問題
[80299] MI さん
昨年夏に日野宿を調査するために神奈川県立公文書館で複写してきたもの

明治22年神奈川県令第9号 別冊「町村分合改稱」[78873]で 確認していただきたい村があります。
その村の名は、主として戦国時代以降の歴史に登場する毛利家の出身地とされる 愛甲郡南毛利村 です。

私は 1946年度から6年間、この地に通学しました。
6年間というのは「中高一貫」であったためですが、それは現代使われている意味での「一貫校」ではありません。
戦後の学制改革に伴って全国に生まれ、1948年度限りで幻のごとく消えた 併設中学校 という制度が適用された 普通の公立学校の2学年に該当しただけのことです。

それはさておき、当時の記憶では、学校の所在地は「なんもうり」村でした。
落書き帳参入後、「市町村名変遷辞典」で「みなみもり」となっていることを知った時は、てっきり誤記だと思いました。
しかし資料を調べてみると、意外にも「みなみもり」が多数であることがわかり、これまで全く疑問を抱いていなかった「村名の読み」についての疑問が生まれました。落書き帳の関係記事

更にその後の調べにより、町村制直後の明治22年和泉橋警察署編 新旧対照市町村一覧 のルビ 「みなみもり」村、大正になってからの鍾美堂編 改正新旧対照市町村一覧 のルビ 「ミナミモリ」村、国勢調査後の 「市町村大字読方名彙」(小川琢治編1923) の 「ミナミモリ」と、資料的には圧倒的に「みなみもり」であることが確認されています。

しかし、厚木の小・中学校 に収録されている 「南毛利小学校」も 「南毛利中学校」も、ページのタイトルに「なんもうり…」と振り仮名が付けられています。
「南毛利郵便局」の「なんもうり」→「みなみもうり」[44059]→愛甲石田駅前郵便局[58485]のように、名称がフラフラしている事例もありますが、学校の呼び名は「なんもうり」と呼ぶ人を再生産し、地名の保存に大いに貢献していると思われます。
もちろん、「学校名の読み」と「村名の読み」とが一致していることは、必ずしも求められていないのですが…

[44065]で私が導いた結論は、「正式の読み方」など 存在しなかったのかもしれない ということでした。
正式に定められていたのは「書き言葉」の「南毛利村」だけであり、大部分の人々は「なんもうり」と読んでいたが、「みなみもり」と読んでいた人もいる。多数、少数で決まる問題ではないから、どちらかが間違っているとは言えない。読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよい。

明治22年の神奈川県令においる南毛利村の「読み」の状況を確認してみても、その「読み」が 自治体名称の不可欠の構成要素であるか 否かについての 決め手にはならないかもしれません。

しかし、「ミナミモリ」のルビが 付いていたのならば、それが正式名の一部であるにせよ、単なるガイドラインであるにせよ、何故に地元がそれを無視して 「なんもうり」と呼び、学校名とすることが続けられていたのか? その理由を探りたくなります。

「ナンモウリ」のルビが 付いていたのならば、多くの資料が 「ミナミモリ」となっていた理由が疑問になります。

ルビが付いていなかったのならば、「正式の読み方」不存在説の補強になるかもしれません。

いずれにせよ、市町村の「読み」について考察する材料になるものと思われるので、よろしくお願いします。
[80306] 2012年 2月 18日(土)23:15:02MI さん
愛甲郡南毛利村の読み
[80304] hmt さん
明治22年神奈川県令第9号 別冊「町村分合改稱」[78873]で 確認していただきたい村があります。
その村の名は、主として戦国時代以降の歴史に登場する毛利家の出身地とされる 愛甲郡南毛利村 です。
 ご要望を戴きましたので、早速確認いたしました。
郡名新町村名舊町村名
ミナミモリ
愛甲郡南毛利村長谷村 温水村 愛名村 愛甲村
恩名村 船子村 戸室村 飯山村飛地
 ご覧のとおり「ミナミモリ」とルビが振ってありました。そこで、これ以外に手許で確認できるものとして、近代デジタルライブラリーからめぼしいところを拾ってみたのですが、すべて「ミナミモリ」でした。

稲波惇太郎編, 『神奈川県改定区画傍訓町村名鑑』, 稲波惇太郎, 1889    「ミナミモリ」
和泉橋警察署編, 『新旧対照市町村一覧』, 加藤孫次郎, 1889          「みなみもり」
梅沢玉吉編, 『神奈川県各市郡改町村名大字役場位置表』, 西田書房, 1891 「みなみもり」
星野文三編, 『大日本市町村名鑑』, 博聞社, 1893                  「ミナミモリ」
鍾美堂編輯部編, 『新旧対照市町村一覧』, 1903                   「ミナミモリ」
鍾美堂編, 『改正新旧対照市町村一覧』, 鍾美堂, 1913               「ミナミモリ」
文録社編輯部編, 『最近検定市町村名鑑 昭和18年版』, 1942          「ミナミモリ」

 そこで、手持ちの資料四冊に当たってみたところ、その内の一冊に「ナンモリ」を見つけることができました。

, 『新旧対照市町村一覧』, 中村鍾美堂, 1902「ミナミモリ」
共盟館編輯所編. 『最近市町村明覧』, 大川屋書店, 1912「ミナミモリ」
大西林五郎編, 『帝国市町村便覧』, 尚栄堂, 1921「みなみもり」
日下伊兵衛, 『改正市町村名大鑑』, 和楽路屋書店, 1928「ナンモリ」

 小学校中学校だけでなく、南毛利スポーツセンターは「なんもうり」と読むようですね。検索すると南毛利公民館、南毛利保育所などもありますが、こちらの読み方は分かりませんでした。
[80309] 2012年 2月 19日(日)15:38:31hmt さん
市町村変遷データベース関連 (4)南毛利問題続編
[80306] MI さん
ご覧のとおり「ミナミモリ」とルビが振ってありました。そこで、これ以外に手許で確認できるものとして、近代デジタルライブラリーからめぼしいところを拾ってみたのですが、すべて「ミナミモリ」でした。

ありがとうございます。町村制に先立って行政当局が示した「ミナミモリ」という「読み」は、1955年の南毛利村消滅までの 約66年間、大きな影響力があったものと理解しました。

なお、戦後の資料が挙げられていなかったので、昭和25年国勢調査人口総数 を調べてみたら、「南毛利村 Nammori-mura」となっていました。昭和15年も同様。

…ということで、統計局に使用されている 「なんもうり」村 までを完全に否定するほどの「正式さ」については 依然として疑問が残るのですが、通常のデータベースに使われる「村名の読み」としては、「みなみもり」村が優勢 であったことを改めて認識しました。

次に、「自治体としての(正式の?)読み」とは別に、現在も使われている「地名」としての読み方です。

小学校や中学校だけでなく、南毛利スポーツセンターは「なんもうり」と読むようですね。検索すると南毛利公民館、南毛利保育所などもありますが、こちらの読み方は分かりませんでした。

南毛利スポーツセンターと同様に、南毛利公民館南毛利保育所 のいずれも、URL に「nanmouri」を使っています。
南毛利柔道スポーツ少年団 も同様。

こちらは「なんもうり」優勢ですが、関係者が「なんもうり小学校」などで学んだ人達なら、当然と思われます。
学校の沿革 によると、崇立館→長谷学校が 「南毛利小学校」と改められたのは 明治25年です。
村の学校を作った関係者が 3年前の県令による「ミナミモリ」を知らない筈はない と思われるのですが、「南」を音読みにした学校名になったのは、何故でしょうね?

[80304]で記したように
「学校名の読み」と「村名の読み」とが一致していることは、必ずしも求められていない
だから、「音読みにした方が立派に聞こえる」 というような理由で、「なんもうり」にした のかもしれない。

学校の影響は絶大で、村の呼び名としても、いつしか「なんもうり」が定着し、昭和になれば 国勢調査を担当した役場の吏員も、「なんもうりむら」として 報告するようになった。

…などと推測しています。
[80314] 2012年 2月 20日(月)16:10:36【1】hmt さん
市町村変遷データベース関連 (5)データベース資料に記された「町村名の読み」
[80304][80306][80309]で、町村名の読みが記されたデータベース資料が何種類か使われました。
折角なので、問題がありそうな「読み」を神奈川県中郡(明治28年度迄は大住郡)~愛甲郡の範囲内から、読みの清濁などが問題になりそうな町村を拾って、記載状況を対比してみました。

もっとも、肝心の濁点の有無が判別困難のため、誤読のおそれもあることをお断りしておきます。

資料の説明
資料(1)明治22年神奈川県令第9号 別冊「町村分合改稱」【町村制施行直前】[78873]
資料(2)和泉橋警察署編 『新旧対照市町村一覧』  加藤孫次郎 1889【町村制施行】
資料(3)鍾美堂編 『改正新旧対照市町村一覧』 鍾美堂 1903発行【1902/1末現在】
資料(4)鍾美堂編 『改正新旧対照市町村一覧』 鍾美堂 1913発行【1912/10調査】
資料(5)小川琢治著 『市町村大字読方名彙』 成象堂 1925発行【第1回国勢調査後】
資料(6)「市町村名の読み方 及び 市町村面積人口表」 日本書房 1937発行『日本地名大辞典第一巻』掲載[74307]【昭和戦前】
資料(7)文録社編輯部編 『最近検定市町村名鑑 昭和18年版』 1942【大戦中】
資料(8)統計局 昭和25年国勢調査[80309] 1950【昭和大合併より前の最新国勢調査】PDF資料の6/12コマが神奈川県

対比表の説明
文字数を節約するために、読みの一部は「…」で省略。
資料(6)の読みは訓令式ローマ字で、母音の上の長音符号をハイフンで代用。
資料(8)はヘボン式のため、長音が表記されていません。末尾の「-mura」等は省略。

町村名の読み 対比表(主として清濁に着目)
郡名町村名M22県令和泉橋鍾美堂M36鍾美堂T2小川読方日本書房文録社S25国調現在
伊勢原町いせは?らイセハライセバライセハラIsebaraイセバラIsehara伊勢原市
秦野町はたのハタノハダノハダノHadanoハタノHadano秦野市
東秦野村ひがしはだ?の…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoヒガシハタノHigashihadano秦野市
南秦野村みなみはだの…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoミナミハタノMinamihadano秦野市
西秦野村にしはだの…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoニシハタノNishihadano秦野市
北秦野村きたはだの…ハダノ…ハタノ…ハダノ…hadanoキタハタノKitahadano秦野市
足柄上上秦野村かみはだの…ハダノ…ハタノ…ハダノ…hadanoカミハタノKamihadano秦野市
足柄上寄村【追記】やどりきヤドリギヤドリギヤドリギYadorikiヤドリギYadorigi松田町
足柄下眞鶴村マナヅルまなづるマナズルマナヅルマナヅルManazuruマナツルManazuru真鶴町
足柄下国府津村こくふつコーズコフヅコフヅKo-zuコフツKozu小田原市
足柄下仙石原村【追記】せんごくはらセンゴクワラ…バラ…ハラ…baraセンゴクバラSengokubara箱根町
愛甲高峯村たかみねタカ子タカネタカネTakamineタカネTakamine愛川町
愛甲三田村【追記】みたミタサンダサンダSandaサンダ睦合村厚木市
愛甲南毛利村ミナミモリみなみもりミナミモリミナミモリミナミモリMinamimo-riミナミモリNammori厚木市

資料(6)以降では高峰、資料(8)では真鶴というように、字体の変化もあります。

【追記】 MI さん宛
表の第3列(M22県令)は[80299]マナヅル、[80306]ミナミモリ以外は空欄にしてあり、補足していただくことを期待していたのですが、寄村・仙石原村・三田村の3村については、そもそも 1889/3/31の廃置分合が行なわれていないので、資料(1)の対象外でした。町村制施行の県令10号[78873]には ルビ付きの町村リストはない という理解で正しいでしょうか?
また、県令9号付属の廃置分合リストの ルビの対象 は、全町村でしたか、それとも 一部の町村のみでしたか?
[80315] 2012年 2月 21日(火)06:54:56MI さん
明治22年神奈川県令第9号での読み
[80314] hmt さん
【追記】 MI さん宛
表の第3列(M22県令)は[80299]マナヅル、[80306]ミナミモリ以外は空欄にしてあり、補足していただくことを期待していたのですが、寄村・仙石原村・三田村の3村については、そもそも 1889/3/31の廃置分合が行なわれていないので、資料(1)の対象外でした。町村制施行の県令10号[78873]には ルビ付きの町村リストはない という理解で正しいでしょうか?
また、県令9号付属の廃置分合リストの ルビの対象 は、全町村でしたか、それとも 一部の町村のみでしたか?
 拙稿[78873]で示した通り、県令9号では「分合改稱」した町村が全27ページの「別冊」にまとめられています。しかし県令10号は「横濱ヘ市制」「其他ノ町村ヘ町村制」を施行するというだけで、町村のリストはないのです。
 町村制施行時の一覧表はないものかと公文書館所蔵のマイクロフィルムを繰っていましたら、明治22年3月30日付の神奈川県広報号外に、
○達甲第三十九號
                 郡役所
分合町村役場位置別紙ノ通リ之ヲ定ムヘシ
 但別紙ハ第一部ヨリ送付ス
  明治二十二年三月三十日 神奈川縣知事沖 守固
とあり、その別表として全28ページの「神奈川縣各郡町村名大字役場位置表」がありました。こちらには県令9号に掲載されなかった、つまり単独に町村制を施行された町村も記載されています。しかし残念ながら「読み」は記されていませんでした。

 それでは[80314]の表に県令9号の読みを補完してみます。

町村名の読み 対比表(主として清濁に着目)
郡名町村名M22県令和泉橋鍾美堂M36鍾美堂T2小川読方日本書房文録社S25国調現在
大住伊勢原町イセハラいせは?らイセハライセバライセハラIsebaraイセバラIsehara伊勢原市
大住秦野町ハダノはたのハタノハダノハダノHadanoハタノHadano秦野市
大住東秦野村ヒガシハダノひがしはだ?の…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoヒガシハタノHigashihadano秦野市
大住南秦野村ミナミハダノみなみはだの…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoミナミハタノMinamihadano秦野市
大住西秦野村ニシハダノにしはだの…ハダノ…ハダノ…ハダノ…hadanoニシハタノNishihadano秦野市
大住北秦野村キタハダノきたはだの…ハダノ…ハタノ…ハダノ…hadanoキタハタノKitahadano秦野市
足柄上上秦野村カミハダノかみはだの…ハダノ…ハタノ…ハダノ…hadanoカミハタノKamihadano秦野市
足柄上寄村やどりきヤドリギヤドリギヤドリギYadorikiヤドリギYadorigi松田町
足柄下眞鶴村マナヅルまなづるマナズルマナヅルマナヅルManazuruマナツルManazuru真鶴町
足柄下国府津村コフヅこくふつコーズコフヅコフヅKo-zuコフツKozu小田原市
足柄下仙石原村せんごくはらセンゴクワラ…バラ…ハラ…baraセンゴクバラSengokubara箱根町
愛甲高峯村タカ子たかみねタカ子タカネタカネTakamineタカネTakamine愛川町
愛甲三田村みたミタサンダサンダSandaサンダ睦合村厚木市
愛甲南毛利村ミナミモリみなみもりミナミモリミナミモリミナミモリMinamimo-riミナミモリNammori厚木市

 なお、hmtさんの表で「中郡」については明治29年に大住郡と淘綾郡が合併して成立したものであり、明治22年時点の郡名に改めました。
[81834] 2012年 9月 12日(水)20:15:17【2】hmt さん
市町村の読み (3)埼玉(さいたま)村?
[81832] グリグリさん
近代デジタルライブラリーの文献(計4件)を確認してみたところ、【埼玉村は】すべて「さいたま」でした。

これは、埼玉県居住歴 約40年の私にとっても 予想外の結果でした。
きちんと調べたことはなかったのですが、常識として、次のような使い分けであると心得ていました。

「埼玉古墳群」や、その所在地の「村」や「字」のような小地名は「さきたま」と発音する。
その地を含む「郡」や「県」のような広域地名においては、イ音便で変化した「さいたま」という発音になる。

『新編武蔵風土記稿』 216巻崎玉郡忍領埼玉村に見える下記の記事が、「常識」の根拠となっているようです。
和名抄では「佐以多万」と註す。万葉集では「佐吉多万」又「前玉」とも載す。今土人は郡をサイ玉と唱へ村名をサキ玉といへるは唱を以て分るなるべし。

行田市の紹介 の中にも、県名発祥の由来として、次のような記載がありました。
およそ1200年前の奈良時代にできた『万葉集』の中に「前玉(さきたま)の小埼の沼(おさきのぬま)」や「佐吉多万(さきたま)の津」の歌があります。この「さきたま」は、現在の行田市埼玉周辺をさす地名であり、今も神社や字名は「さきたま」と読みます。(中略)
このように、小さな地名、「さきたま」が変化して、より広い郡名「さいたま」として用いられるようになっていったのです。

明治の町村制では、この「常識」を覆して 村にも「サイタマ」を適用するという「お触れ」が出たのか?

さっそく、[76874]むっくんさんの「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」により、明治22年埼玉県令甲第7号別冊 を確認。
この正式な公示文書には、フリガナは付いていません。

小地名である埼玉村に「サイタマ」を使った例を探したら、『新編埼玉県史資料編19』の別冊付録に、『改正埼玉県町村便覧』という本の復刻がありました。原本そのままではなく、後に加工したものですが、確調居士編纂、浦和文華堂蔵、明治22年4月 とありました。
著者の正体は不明ですが、当時の埼玉県庁のお役人でしょう。
とにかく復刻本の65ページに(北埼玉郡)埼玉村があり、「サイタマ」とルビが振ってありました。

埼玉村の読みを「サイタマ」とする資料は、すべてこの『改正埼玉県町村便覧』を引き写したものではないかと思います。

更に調べたら、『行田市史資料編近代1』に、同時代の「埼玉県行政文書」がありました。県庁内部文書でしょう。
資料81 明治20年7月 北埼玉郡町村編成表(抄)
町村制の準備作業の案でしょうが、合併町村名として成田町、行田町と14村とを列挙。10村には フリガナがあるのですが、長野村・荒木村・持田村・埼玉村には フリガナなし。
埼玉県庁の担当者は、サイタマと読むのは自明のことと考え、フリガナを付けなかったのでしょうか。
資料82 明治23年 北埼玉郡町村編成表(抄)
町村制施行後です。13町村すべてに フリガナが付いています。埼玉サイタマ村(p.217)。

このように、埼玉県庁内では暗黙の了解として 「サイタマ」村 が通用していた様子がうかがえます。
しかし、この 「サイタマ」村 という読み方は、実際に現地で使われていたのでしょうか?

これを判断する材料は、今のところ見出していません。
日本地名大辞典(角川書店)も、日本歴史地名大系(平凡社)も、埼玉大百科事典(埼玉新聞社)も、「埼玉村 さきたま」を見出し項目に採用しており、「サイタマ」村については、そのような読みの存在についての言及さえしていません。
このことから、(明治時代のことはいさ知らず)戦後に昭和合併期まで残っていた埼玉村は、「サキタマ」村と呼ばれていたものと推測する程度です。

資料では「ミナミモリ」村となっているが、現地で使われていたのは「ナンモウリ」村。[80304][80309]
そんな事例を思い出す調査でした。しかし、南毛利村と埼玉村とは状況が違います。
南毛利村の場合は「ミナミモリ」と書いた県令[80306] があったのに、現地の呼称は、明らかに「ナンモウリ」でした。
埼玉村の場合も、県庁内では「サイタマ」村で通っていたしいが、正式に公示された県令にはルビがなく、世間的には「幻の読み」である疑いが一段と高まりました。

この記事の最後に、埼玉村として最後の1950年国勢調査を確認したら、なんと「Saitama-mura」でした。
戦後まで「サイタマ」村が生き残っていましたね。
…ということで、自分でもよくわからない状況になりました。このまま、幕引きします。

【修正】
タイトル変更と、埼玉県行政文書、国勢調査など追加調査に基づく修正。
[82290] 2012年 12月 5日(水)17:42:13hmt さん
Re:国勢調査報告書の“小さな”間違い
[82289]白桃 さん
私も[80441]で昭和24年 栗橋町を「分割」としたのは誤記?と指摘したことがありますが、人口の数値にも誤記があるのですか。所詮は人の仕業ではありますが…

“小さな間違い”か否かは知りませんが、市町村名の「読み」については、 前々から問題が指摘されています。
例えばIssieさん[80475][80476]
国勢調査報告のローマ字表記による読みがしばしば地元自治体が公式に定めているものと違っている,あるいは国勢調査報告自体で年によってその表記に変動がある

明治22年の県令に記された「ミナミモリ」と異なる 国勢調査報告の表記 「南毛利村 Nammori-mura」を、単純に“間違い”と片付けたくない理由については、記事集 南毛利 を御覧ください。


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