都道府県市区町村
落書き帳

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[36159] 2004年 12月 28日(火)23:02:23【1】hmt さん
埼玉県の生まれた後―県域変更あれこれ
埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代[36047]   (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代[36081]
(3)は「杤木縣」などの話[36083]になって  (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合[36111]
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。

その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。

1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。

県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。

この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。

戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。

実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。

河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。

1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした[13099]

戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動[4049]があります。

もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです[4111]
それでも残った飛地があり、この落書き帳で話題を提供しています。
[65713] 2008年 7月 9日(水)15:59:30hmt さん
内間木から岩渕にかけての荒川の流路と行政境界線
[65707] ryo さん
笹目橋より西側の怪しさは只者ではありません。(このあたりは和光市の境界線も怪しすぎる…)

笹目橋の西側、つまり彩湖の南端部で 和光市が戸田市に突出している境界線付近 を、古い地形図で確認してみました。

明治42年測量図では、上流側の内間木村から荒川の蛇行が続いています。対岸の美谷本村(合成地名コレ集録済み)にある「曲本」なんて地名も、曲流からきているのでしょう。
新河岸川との合流点を過ぎた後にある、ご指摘の和光市(当時は新倉村)が戸田市(美谷本村・笹目村)側(北)に突出する境界線も、もちろん蛇行した荒川の流路です。

その先、白子川を合わせて東京府と埼玉県の境界になると蛇行はおさまり、少し東流した後、船渡で南に突出、更に浮間で大きく南に突出するというのが、改修前の荒川の流路です。
浮間は、[65477]で言及した浮間ヶ原の所在地で、岩淵町の赤羽(鉄道駅ができてからはこの地名が有名)に隣接しています。

江戸時代の西遷工事[38111][39453]によって入間川の流路に押し込められた荒川。
「荒ぶる川」が旧入間川流路で納まっていたはずもなく、江戸時代にもたびたび洪水に見舞われました。
そして、近代になると明治43年(1910)の大水害を契機として、新たな大改修工事が行なわれました。

下流部の対策の柱は岩渕で分水する荒川放水路[35860]
そして、中流部において水を抑える手段としては、連続堤防や横堤によって1~2kmもの川幅に洪水滞留させる構想です。
中流部の末端に位置するこの付近も、蛇行していた流れを直流に変え、広い河川敷を確保する対策が取られました。

# “広い河川敷”といえば、国土交通省認定 「川幅日本一」 地点も荒川にあり、その川幅は 2532mとのことです。航空写真

内間木・岩渕間の荒川流路に話を戻します。
昭和31年応修の地形図になっても、直流化された荒川に沿って、かつての蛇行の痕跡をたくさん認めることができます。
右岸の内間木村は戦時合併[37842]で志紀町になりましたが(皇紀2604年の2月11日紀元節)、この際に荒川左岸の地は一足先に発足した美笹村に編入され、行政境界線は荒川の新流路と一致することになりました。昭和合併を経た昭和31年地形図では朝霞町。

一方、その前年(1943)に同じく戦時合併によって右岸・大和町(現・和光市)と左岸・美笹村(現・戸田市)とが発足した時には、このような調整が行なわれず、境界は旧河道のまま残りました。
昭和43年の地形図になると、旧河道の跡はほとんど消え、“怪しすぎる”境界線だけが目立つことになりました。

ここよりも下流側で荒川の直流化によって南岸に取り残された2つの埼玉県突出部も後に東京に編入されました。[36159]
埼玉県北足立郡横曽根村(現・川口市)のうち浮間が、東京府北豊島郡岩淵町(現・北区)に編入されたのは 1926年。
その上流側の埼玉県戸田町船渡が、東京都板橋区に編入されたのは 戦後の1950年。
戸田葬祭場や戸田変電所の名称に、かつてこの地が戸田町であった歴史を留めています。

笹目橋より西側の埼玉県と東京都の境界。
これは基本的には白子川(矢川)の流路でしょう。この川に流入先は、荒川改修の結果、並行する独立流路が設けられた新河岸川に変わっています。小さな川ですが、白子川も直流化の結果、現在の流路と都県境とは不一致になっています。
神奈川県と東京都の境界にあるその名も「境川」よりも短距離ですが、たびたび言及されている境川と類似した情況にあるようです。

この白子川を遡ると、その水源は「大泉」という地名の由来になった湧き水です。
現在は完全に練馬区内になっている大泉地区ですが、元々は左岸の埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村と右岸の東京府豊島郡石神井村上土支田とに別れていました。学校統合による経費節減を狙った越県合併であったことを[62334]で記しました。
流路変更とは無関係ですが、ここでも府県境の変更が行なわれていました。
[71933] 2009年 9月 12日(土)18:27:21hmt さん
東京博善の創業者・木村荘平
明治20年、日暮里に新設した火葬場を運営すべく創立された東京博善。
同社は明治26年に江戸時代からの伝統ある火葬場の落合・代々幡を合併し、更に日暮里から町屋の隣接地に移転して町屋も合併しました(明治37年)。町屋斎場の中に、東京博善や日暮里火葬場の 旧標柱 が保存されています。

大正の大震災を経て、昭和初年には桐ヶ谷も合併。現在 23区内にある9つの火葬場(地図)のうち、町屋・落合・代々幡・桐ヶ谷・堀ノ内・四ツ木の6斎場が東京博善の運営です。
立地の原則から外れ、住宅地の中になってしまった火葬場もありますが、もはや 郊外への移転 もままならず、ひっそりと存続を続けています。

# 東京博善とは無関係ですが、ネットの中には、“埼玉県松戸市にある「四ツ木斎場」”などと記してある ページ がありました。お客の中には、埼玉県や松戸市の人もいるんでしょうが…
公営斎場でもないし、間違いだらけ。

東京博善以外は都営の瑞江火葬場。1937年東京市営として発足。
2004年開場の臨海斎場。これは、5区による一部事務組合の運営。
そして 1950年まで埼玉県北足立郡戸田町だった 舟渡 にある 戸田葬祭場[65713]です。

東京博善は現在は廣済堂の傘下ですが、元々は木村荘平が明治20年日暮里に創業しました。
創業者の木村荘平は、実は他の事業でも有名な人物でした。
それは、日本初の外食チェーン店・牛鍋の「いろは」です。

興味のある方は 人物伝 を読んでいただくとして、この明治人を少し紹介しておきます。

木村荘平は京都の商人で、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩の川路利良と知り合い、大警視になった川路のつてで上京して、警視庁管轄下の屠場監理を任されました。要人とのコネ、世間の偏見を逆手に取った事業展開。このあたりの話は、藤田伝三郎[67425]を思い出させます。

藤田は軍隊の革靴で儲けましたが、木村の商売は、ようやく日本人の口に入り始めた牛肉を使う外食産業でした。
現代の牛丼チェーン店と違うところは、店長がすべて木村荘平のお妾さんという家族経営だったということ。

多くのお妾さんに生ませた子供の名前は、店名と同様にナンバー方式。
画家の木村荘八(著書も多数)、直木賞作家の木村荘十、映画監督の木村荘十二など、20世紀後半にも活躍していた人たちが、木村荘平の息子でした。
[79661] 2011年 11月 23日(水)12:46:06hmt さん
県境の変更 (6)埼玉県としては 80年ぶりの出来事
2010年3月1日に 埼玉県の面積 が 0.83km2広くなり、人口も 137人増えました。
埼玉県全体に対する比率で言えば 面積で 5000分の1、人口では5万の1という僅かな変化なのですが、「集落単位での埼玉県編入」という点では、実に 80年ぶりの出来事でした。

勿体ぶった表現で書き出しましたが、利根川の対岸・群馬県との間で行なわれた 前小屋県境手直し が、渡良瀬川の対岸・茨城県との間で行なわれた 伊賀袋県境手直し から数えて 80年ぶりだったということです。

この2つの事例は、変遷情報の主体になっている市町村の廃置分合に該当しない「境界変更」であるために、ある意味では市町村よりも上位の区分である【注】都道府県に関係する「県境変更」であるにもかかわらず、最近まで変遷情報の記録対象になっていませんでした。
【注】
「上位の区分」という言葉は、現行法では存在しないはずの自治体間の上下関係を思わせるので、「基礎的自治体」の対語である「包括的自治体」と言った方が適切かもしれません。

そこで、[76950][79438]で変遷情報への記載を提言したところ、 [78859][79522]とで編集対象と認められました。
もっとも[79660]によると、88さんとしてはこの編集方針を見直し、「近世村単位」のみに戻す考えもあるようです。
80年を隔てて実現した上記2件の「県域変更情報」が、このまま「都道府県市区町村変遷情報」の対象として生き残れるかどうかについて、楽観は許されない状況です。

埼玉県の県域の変遷については、2004年以降いくつかの記事 を書いています。

千葉県との境界が 明治8年に庄内古川から江戸川に移り、翌明治9年(1876)には熊谷県のうち武蔵国の領域(旧入間県)を編入し、“ほぼ” 現在の形 になりました。
しかし、その後で 東京府に隣接する 大泉(1891)、保谷(1907)、浮間(1926)が 埼玉県域を離れ、戦後も 舟渡(1950)、元狭山村(1958)と東京都域への編入が続き、長期的な県域面積は減少傾向と思われます。

ここで過去記事の誤記に気がついたのでお詫びしておきます。
舟渡の過去記事を検索したら、5件中4件まで「船渡」と誤記していました
大船渡に引きずられた?

埼玉県の面積に戻ります。
長期統計(統計局)の都道府県別面積 は 1920~2000年に限られており、この間の埼玉県に大幅な変化はありませんが、伊賀袋編入や元狭山村転出による増減を見ることができます。
理解できないのが 昭和25年の面積で、この年だけ5km2以上増加し、5年後にはまた戻っています。
変遷情報 で前後の年の動きを見ても、県の面積に影響しそうなものが見当たらないのですが、何でしょうか?

戦後は舟渡や元狭山村の後、1961年に行なわれた 北足立郡大和町(現・和光市)と東京都練馬区との間の境界変更 を最後として県域に変化のない状態が続いていました。最後の事例は、告示中に「河川敷地」という文字が見えることから、都県境の白子川[65713]直流化改修に伴う手直しと思われます。

さて、前小屋の事例に関連して、「境界変更」という手続で行なわれた戦後の県境変更リストが、88さんから提示され、それを「きっかけ」として、今回の県境変更シリーズが始まりました 関係記事

この記事集の3番目[79523]に列挙された 40件の境界変更リスト。
埼玉県については、No.1と No.4が舟渡で、No.10(白子川)から 49年ぶりの事例が No.39(前小屋)ということです。

前小屋の事例[79438]は、約 140人の人口移動を伴った境界変更ということでも、最近の境界変更の中では特筆に値すると言えるでしょう。半世紀前のことながら 埼玉県としては直前の事例であった 白子川のケース(境界変更リスト[79523]の No.10)は、人口移動なしの無人地帯でした。
近年では 2004年町田-古渕間の境川での境界変更事例(リスト No.35)で 13世帯31人が移動したのが顕著な例だったようです(毎日2010/3/2)。

もちろん変遷情報の収録対象になっている大字単位の境界変更の場合には かなりの人口移動を伴います。
しかし、境界変更リスト番号が示すように、いずれも昭和中期の事例になります。 No.5 岐阜県三濃村→愛知県旭村、No.8 京都府亀岡市西別院町→大阪府能勢村、 No.9 群馬県矢場川村→栃木県足利市、No.11 岡山県日生町大字福浦→赤穂市。
変遷情報に収録してもらえない No.17 栃木県田沼町入飛駒→群馬県桐生市も、これらに次ぐ規模と思われますが、人口移動数は不明。

参考までに、21世紀になってからの県境変更で 最大の人口移動を伴った事例は、2000人規模の人口を持つ長野県木曽郡山口村の 岐阜県中津川市 への編入と思われます。
これは廃置分合ですから、40件のリストには含まれていません。
[79662] 2011年 11月 23日(水)13:05:34hmt さん
県境の変更 (7)河川改修と県境変更
[79661]に引き続き、前小屋の事例から出発し、県境変更の原因となる河川改修について記します。

落書き帳を遡ると、利根川右岸(埼玉県側)にありながら群馬県太田市であった南前小屋地区の住民が、2006年に深谷市へ編入求め両市議会に請願を提出した記事があります。[52705] KMKZ さん
一見すると、前小屋地区における県境変更手続の歴史は、2006年からの4年弱のように思われます。

しかし、境界変更の原因になった河川改修は、明治43年の大水害を契機として内務省により立案実行された 大正から昭和初期にかけての利根川第三期改修工事(1918~1929)です。
つまり利根川の流路が変更されて、左岸(群馬県)にあった土地が右岸になってしまってからでも 80年以上であり、この間には水面下を含めて多くの県境変更運動が行なわれたもの推察されます。
原因になった大水害から数えれば、境界変更リスト[79523] No.39の境界変更は、実に 100年越しの問題解決だったのでした。

付言すると、昨年オフ会への参加途中の Hiro_as_Filler さんが、“看板に誘われ深谷市前小屋にふらりと入りこむ ”[76893]際に渡った 小山川が利根川の旧河道で、38世帯 137人が住む前小屋の集落は 小山川と利根川との間の導流堤上に並んでいます。写真の(4)

[79523]で示された境界変更リストから、河川に関連しそうな箇所を拾ってみました。
利根川では印旛沼付近の No.6と 佐原付近の No.20。
リストには挙げられていませんが、その間にある 滑川駅対岸と 神崎の市街地上手(昭和40年12月13日自治省告示第167号)も 「県の境界にわたる境界変更」に該当すると思われます。
常陸利根川では No.19。上流部では No.39の前小屋。
利根川水系では、No.23が鬼怒川付近ですが、河川改修との関係は不明。矢場川付近(No16、22)も不明。

荒川は No.1、4(舟渡)とNo.10(白子川)で、いずれも既報。
東京・神奈川の都県境を流れる境川直流化がもたらした県境との食い違いとその是正(領地交換)については、過去記事 で度々話題になりました。境界変更リストでは、No. 28、32、35、38。

このように境界変更リストから拾い上げてみると、関東地方に集中しています。
明治時代の特別法による県境変更[47106][79538]も、江戸川(明治28年3月30日法律第24号)、利根川(明治32年2月8日法律第4号)、多摩川(明治45年3月28日法律第5号)と関東地方に集中。

もっと前になると、木曽川沿いの 松山中島村が1887年に愛知県から岐阜県に移された事例[79347]もあるし、江戸時代の初めには 木曽川の新流路が濃尾国境になったことにより 羽栗/葉栗・中島・海西3郡が 美濃と尾張に分割されたという歴史[39454] もあるのですが、現代の河川改修による県境変更が 概ね関東だけに見られる現象は何故なのでしょうか。

[4248] でるでる さん
【北川辺町や藤岡町】の他にも流路変更によって、現在の行政区域とが一致しないところは多いですよね。
利根川を挟んだ茨城県と千葉県(佐原市周辺)、同じく利根川を挟んだ群馬県と埼玉県、筑後川を挟んだ福岡県と佐賀県が特に目立つかなという印象があります。

筑後川の場合、江戸時代に行なわれた河川改修の後も、筑後国(柳川藩)と肥前国(佐賀藩)との国境は変更されず、これが現在の県境と流路との不整合に持ち越されているようです。mapion
佐賀県道・福岡県道19号諸富西島線が、「県境跨ぎ」の道路になっています。

これで何百年もやってきたのだから、今更県境を流路に合わせる必要はないのではないか。
そう言われると、それも御尤もな意見と思われてきます。

筑後川の地図を出したついでに、県境変更とは無関係の余談を。
河口部にある大野島(福岡県)/大詫間(佐賀県)は、元々別々の中洲であったものが、砂の堆積により陸続きになったもののようです。「2県にまたがる島」コレクション[41368]
[90145] 2016年 3月 30日(水)19:17:43【2】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (3)県境の事例
人数では[90105]の5000人以上に及ばないものが大部分ですが、hmtが ずっと注目して 落書き帳に書き続けてきた 県境変更の事例中には、かなりの人口異動を伴うものもあります。

大正9年以来の「都道府県間の境界変更」は、[90107]で紹介されているように 国勢調査の一覧表 参考6 に集められています。
今回は、その中から人口異動を伴うものを抽出し、面積異動や関係過去記事、変遷情報収録状況と共に示すことを試みました。

県境変更に伴う面積異動の値については、栃木県「入飛駒」のように過去記事[79559]に記した例もありますが、ほとんど未調査でした。栃木県菱村や京都府樫田村のように「村ごと」の場合は、変更前の1955年国勢調査に村の面積があるので容易に知ることができます。
2005年に県境変更した長野県山口村の場合は、国土地理院の2004年面積調の値が使えます。

では、分村のケースで面積を知るには? 
1958年に境界変更により分村し、翌日岐阜県白鳥町に編入した 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村を例に 計算で求めてみます。

一部を福井県に残すために 前日実施した境界変更(分村)による面積異動を計算します。
1955年当時 (178.22+128.29=)306.51km2であった穴馬2村の面積が、1960年和泉村332.26km2となっていることから、福井県に残留した面積は 25.75 km2であったことが判ります。
越県合併の相手方・岐阜県郡上郡白鳥町の面積は、石徹白村併合により22.39から110.78へと88.39 km2増加しています。
合計114.14 km2は、1955年の石徹白村面積103.07km2と少し合いませんが、岐阜県に越県合併した面積が大部分であることは知れます。人口異動も1297人で、昭和30年国勢調査人口1402人の大部分です。

1955/4/1に岐阜県恵那郡三濃村から愛知県東加茂郡旭村に越境した事例の面積異動も、同様の計算で求められると思ったのですが、1950年国勢調査は人口だけであり、面積がなかったので1955年面積との比較ができません。
現在の地図で見ると豊田市浅谷町(あざかいちょう)を主とし、須渕町の部分もあるので、豊田市の町別面積人口表から両町の面積を加えて、越境合併した面積は 5.59km2と見積りました。

2010年 前小屋の県境手直しにおいては、面積調でも交換した面積異動の差0.83km2迄しかわからなかったのですが、変遷情報の詳細には深谷市への編入119.6haという値が記録されていました。

こんな具合に、いろいろなデータから面積異動の値を求めて作ったのが、下の表です。
面積異動の値が不明や、計算不一致で信頼できない結果となった地域も含まれています。ご容赦下さい。
境川を挟む領地の交換について:人口異動は国勢調査の実数(4件合計61人)が示されていますが、面積異動は「無人地帯と併せてほぼ0」の差額で発表されており、面積異動の実態は不詳です。

都道府県境に関係する人口異動を伴う市町村変遷情報(大正9年国勢調査以降)【注】

関係自治体(数字は県code)地域名*日付人口異動(人)面積異動km2記事変遷情報
08新郷村→11川辺村伊賀袋1930/7/1 144?[78789]境界変更
08河内村→12栄町利根川1956/1/1930.71[79523]の6番未収録
09田沼町→10桐生市入飛駒1968/4/15575.65[54264] [79523]の17番[81913]未収録
09菱村→10桐生市菱村1959/1/1572421.90[2878][14592]編入
09足利市←10矢場川村矢場川1960/7/131313.66[2878][14616] [79523]の9番境界変更
10太田市→11深谷市前小屋2010/3/11391.20[79438][79661] 境界変更
11元狭山村→13瑞穂町元狭山1958/10/1521303.53[4049] [54264] 編入
11戸田町→13板橋区舟渡1950/4/1289 [65713] 未収録
11横曽根村→13岩淵町岩淵1926/10/1412 [65713] 境界変更
13町田市→14相模原市境川1999/12/13[79523]の32番未収録
13町田市←14相模原市境川2004/12/142[79661] [79523]の35番未収録
13町田市←14相模原市境川2007/12/110[79523]の38番未収録
13町田市←14大和市境川1985/2/16[79523]の28番未収録
18石徹白村→21白鳥町石徹白1958/10/15129788.39[31291][54264]編入
20神坂村→21中津川市神坂村1958/10/15143236.53[25925][54264] 編入
20山口村→21中津川市山口村2005/2/13204024.67[46924][54264] 編入
21三濃村→23旭村浅谷*1955/4/118055.59[46981][54264] [79523]の5番境界変更
26亀岡市→27東能勢村牧・寺田*1958/4/13868.08[79559] [79523]の8番境界変更
26樫田村→27高槻市樫田村1958/4/188918.00[31152][54264] 編入
33日生町→28赤穂市福浦1963/9/116407.50[41400][46914] [79523]の11番境界変更
34八鉾村→32八川村三井野原*1953/12/1571.01[90148][79523]の2番未収録

* 地域名のうち、従来使っていた三濃村などの旧町村名は 現在ではあまり使われなくなっていました。
これを今回改め、現在の地図でも見ることのできる 浅谷(あざかい)、牧・寺田、三井野原にしました。

【注】
1 この表よりも前の明治時代には、特別法による県境変更が行なわれました。[85062]の前半は特別法による事例です。後半は県境にある自治体の境界変更による事例で、この記事の表の旧版と言えるでしょう。
2 この表の21件のうち、人口異動最大の菱村を始めとする6件が「編入」として変遷情報に収録されていました。いずれも元の自治体の消滅を伴うもの、すなわち廃置分合の1種としての編入です。
変遷情報に「境界変更」として収録された7件の大部分は自治体の領域が変るだけで消滅しないものですが、矢場川村と三濃村のケースは分村によって消滅しました(廃置分合)。
変遷情報未収録の8件は主として比較的小規模の境界変更ですが、入飛駒だけは未収録で残されていることを不自然と感じさせるほどの規模です。


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