[48946] inakanomozart さん
京都の番地は町ごと(いわゆる地番区域)に1番地から付けられているのではないようです。
昨夜、今尾恵介さんの
「住所と地名の大研究」[26845]85~90頁を参照して原稿を書いたのですが、一晩寝かせている間に、たもっちさんから、現地の住宅地図調査に基づく力作
[48954]がアップされました。
# 性急に横レスを入れずに、御指名のあった たもっちさん からのレスを待っていてよかった。
今尾さんの手法も同様のもので、まず住宅地図から番号を追跡し、いくつかの町をまとめた一辺(正確には切手のようにジグザグ)300~500mぐらいの長方形のブロック毎に地番が付けられていることを発見しています。
同書86~87頁には、下京区の結果が図示されています。これによると、ブロックの北西隅の1番から蛇行しているようにも思われるのですが、順番から外れているものも多く、番号も飛んでいて一筋縄ではゆきません。
今尾さんの次の段階の発見も、たもっちさん
[48954]の
もう少し詳しく見ているうちに、何となく察しがついてきました。どうやら、「元学区」が地番区域になっているようです。
と同じです。
京都市の
町組改正と小学校 によると、16世紀の京都に形成された町組(ちょうぐみ)が、明治元年・明治2年の改正により、三条通を境に北側が上京33番組(884町)、南側が32番組(821町)に再編成され、平均26~27町の各番組には学校が1つずつ作られたとあります。
一般に「番組小学校」と呼ばれるこの町組会所兼小学校は、教育(筆道,算術,読書)だけでなく、京都府の出先機関としての戸籍事務から警察・消防まで各種の仕事を行なう近代京都の「自治センター」だったのだそうです。
有済小学校に残る
太鼓望楼 は、番組小学校が火の見を含めた「総合庁舎」の役割を果たしていた事実を伝えています。
現・京都市役所付近で、たもっちさんが調査された区域の富小路通御池角に明治2年5月21日に作られた上京第二十七番組小学校は、番組小学校の第1号であり、その年のうちに全64校が出揃い、明治5年の全国的な学制発布に先立つ、日本最初の学校群が発足しました。
学校の名称には明治25年「学区」に再編成された際に、中国の古典(論語など)や地域の歴史に由来する漢字名が付けられ、例えば柳池(りゅうち)小学校となり、その区域は「柳池学区」と呼ばれるようになりました。
この「学区」は、単なる通学区域ではなく、独自の財源を持ち,教育経費を負担する自治団体として、昭和16年に国民学校令により廃止されるまで存続していたというから驚きます。
明治6年から御池通柳馬場東入北側にあった柳池小学校は、戦後の新制中学に転用されるなどして、通学区と従来の「学区」とは一致しなくなり、「元学区」
[48954]と呼ばれるようになったようですが、
素晴らしきわがまち の執筆者を見るとわかるように、現在でも自治組織として活動している様子をうかがうことができます。
地番が付けられたのは地租改正事業の際でしょうが、当時、このように機能していた「番組」という区域が地番区域として用いられたのは“自然ななりゆき”であったというのが、今尾さんの結論です。
今尾さんの本の存在ついては、既に
[48957] YSKさんも言及しておられますが、たもっちさんが、独自の調査によって、短期間でこれと同様の結果を導かれたことは、敬服に値します。
リンクされた頁も、とても役に立ちました。
“どうにもカッコが悪いので消しちゃったほうがいい”
[48959] などと言わないでください。