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[56304] 2007年 1月 19日(金)14:33:48hmt さん
米国統治時代の「琉球」(1)パスポートの必要な地域
1946年に日本から分離された「外周領域」とその日本復帰に関しては、ずっと以前の伊豆諸島(1946年復帰)に始まり、トカラ(1952年復帰)、小笠原(1968年復帰)と記してきました。関係記事
いよいよ、桁違いに多くの人が住んでいた「琉球」(1953年奄美復帰、1972年沖縄復帰)に足を踏み入れます。

その前に一言。
1952年2月10日の復帰により、トカラの「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」が「三島村」に改称したので、「2つの十島村」は同時には存在しなかったと書きましたが[56242]、この記載には重要な前提があります。

つまり、「日本の法令の下において」という条件です。

村内に国境(!)が引かれてしまい、1946年2月2日に分断されてから約6年間、「鹿児島県十島村」の南には、“もう一つの十島村”が存在しました。こちらは、米国による「琉球」軍政の下ですから、「琉球の十島村」なのでしょう。
当然ながら、鹿児島県も「琉球」も両方とも「じっとうそん」。

何が言いたかったのかというと、
米国が施政権を持っていた時代の「琉球」は、現在の沖縄県に属する地域だけではなく、鹿児島県の一部である奄美とトカラを含んでいた時代があるということ、
そして、この地域の「市町村変遷」を探ることは、「日本の法令下」という枠から出ることになるということ、
この2件を改めて認識しておきたかったのです。

では「出国」しましょう。パスポートをお忘れなく。

「琉球」の統治組織は、時代により修正があっただけでなく、地域的な相違もあり、複雑ですが、沖縄県公文書館の中に、わかりやすい一覧図があったので、最初にこれをリンクしておきます。 http://www.archives.pref.okinawa.jp/press/ryukyu/05.htm

この一覧図によると、Occupied Japanに君臨したマッカーサー司令部(GHQ)に相当するものとして、米国軍政府、米国民政府から最終的には高等弁務官制になった米国の統治機構がありました。
米国(本土では連合国軍)の統制下に置かれた現地政府機構は、本土では「日本政府」だけだったのですが、「琉球」では「全琉球政府機構」と「群島別政府機構」[746]とがある連邦制のような形だったのですね。1952年、対日講和条約発効の直前に単一の「琉球政府」になりました。
…で、「琉球の十島村」はというと、「奄美群島」に属していました。

ここで「市区町村変遷情報」を開いてみると、沖縄復帰前の「琉球」で行なわれた市町村変遷も記録されています。
具体的には、沖縄県 の中に、1945.09.26の石川市から1971.12.01の糸満市まで33件、鹿児島県には名瀬市(1946/7/1、町制と誤記)と知名町(1946/9/1)が入力されています。

ここで疑問が出てきます。
「沖縄県」は、1945年6月の米軍占領から1972年5月の復帰までの間、存在したのか?
占領下、日本の法令によらずに実施された市町村の変更は、現在いかなる効力をもつのか?

占領当初の米国は、日本に征服された琉球は、信託統治後に独立させるという目論みを抱いていたようですが、日本側が、敗戦を機に沖縄県を廃止して、自ら手放したわけはありません。国際的な力関係によって、日本の施政権が及ばない状態になっただけです。
実際問題として、敗戦直後の日本には、沖縄の地位について主張する力がなかったと思いますが、「建前上」だけにせよ、沖縄県は残っていたということになります。

沖縄についての「日本の潜在主権」を米国側に認めさせることに成功したのは吉田茂です。
それは 1951年、講和条約の準備段階におけるダレス特使との会談によるものでした。参考

法令を調べてみると、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 に、先の疑問に対する答えがありました。
第三条 従前の沖縄県は、当然に、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)に定める県として存続するものとする。
第七条 沖縄の市町村は、地方自治法の規定による市町村となるものとする。

奄美についても、同様に 奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律
第八条 奄美群島内の従前の市町村は、地方自治法(昭和22年法律第67号)の規定による市町村となるものとし、…

「沖縄県」については「当然に…存続」という表現で連続性があるが、「市町村」については「地方自治法の規定による市町村となる」という表現で、復帰の日を境に市町村の性格が変わったことを示しているように思われます。
[56322] 2007年 1月 20日(土)17:45:28【2】hmt さん
米国統治時代の「琉球」(2)居残った「石川市」
市町村変更情報沖縄県 の1945年以降で最初に登場するのは、1945年9月26日に中頭郡美里村から分立した「石川市」(現・うるま市)です。
戦後の混乱期に成立したこの「市」の性格については、アーカイブズ 「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」 の中で話題になっています。

1945年4月1日に沖縄島に上陸した米軍に対する日本軍の組織的抵抗は、6月22日に終結。
沖縄の地上戦は、巻き込まれた民間人に約10万人の死者、そして多数の難民を出しました。
宜野座村その他にできた難民収容所の人口は一時的に膨れ上がりました[1188]

1945年8月20日、各地の収容所の代表が美里村にできた石川収容所に召集され、「沖縄諮詢会Okinawa Advisory Council」という名の戦後最初の行政機構が作られました。名前の示すように米軍政府への諮問機関でしたが、翌1946年4月に沖縄知事と「沖縄民政府Okinawa Civil Government」の制度ができた時に、そちらに移行しました。

1945年9月に公布された「地方行政緊急措置要綱」で、沖縄島12と周辺4島で計16の収容所に「市」ができました[4680]
【追記】
最初[1260]の沖縄島16市と書いたのですが、統合改称後の12市に周辺の島を加えた16市[4680] (般若堂そんぴんさん、出典[4985])が正しいようなので、修正しました。

琉球政府公報画像データベースで閲覧できるものは「沖縄民政府公報1946年1号(1946/6/1)以降であり、1945年の緊急措置の内容を調べることはできませんでしたが、「市町村」ではなくて「市区班」機構だったようです(平凡社:沖縄県の地名44、53頁)。

「石川市」は、このような緊急措置によって生まれた「市」ですから、明らかに普通の意味の「市制」ではありません。

1945年10月になると、収容所から各居住地区への移動が始まり、また12月には「沖縄行政機構改革要綱」が公布されて、順次 戦前の市制・町村制が復活しました。これによって石川市と同じ頃生まれたその他の15の「市」は、すべて1946年までには消滅していますが[1260]、沖縄諮詢会所在地の「石川市」だけは最後まで残りました。

1946年10月には石川収容所も解散し、「沖縄民政府」も島尻の知念村(現・南城市)に移転したため「石川市」の人口は激減しましたが、なぜか廃止を免れ、(おそらく何らかの沖縄法令による「市」の地位を得て、)26年後に沖縄復帰の日を迎えました。
こうして本土の市の基準を満たさない「石川市」は、沖縄復帰特別措置法[56304]によって「地方自治法の規定による市」になってしまったわけです。

[1272] オーナー グリグリさんの
ちょっと強引な残り方なんですね。
という発言の通りですが、遡ればごく短期間にせよ「沖縄の首都?」であった歴史が影響しているようですね。

「石川市」の次に記されている1946年4月1日の宜野座村分立は、「沖縄行政機構改革要綱」によるものでしょうが、宜野座村HP を見ると、1948年2月村長公選、同年7月21日米軍政府指令第26号「市町村制」で、自治体として法人格を得たとのことです。
[1260] 紅葉橋律乃介さん
48年、米軍政府の「町村制」。
53年、琉球政府の「町村制」。

本土では1947年に地方自治法が施行されましたが、沖縄の町村も、1948年には「自治体」になったということでしょうか。
1953年になると、日本の「潜在主権」が認められたサンフランシスコ体制の時代になるので、本土の「地方自治法」との整合性を考慮した「町村制」に改められたのだと思います。

更に後のことになりますが、日本復帰前の沖縄でも、日本の市町村コードが使われた[27598]くらいですから、石川市のような例外的な存在はあるにしても、「沖縄法令による市町村」も、「地方自治法の規定による市町村」とほぼ同一視してよい存在になっていたのでしょう。

名瀬市の市制施行(1946年7月1日)は、臨時北部南西諸島政庁ができる前です。知名町も同じ。
軍政時代に、いかなるルールに基づいたものか疑問がありますが、沖縄と違って奄美では存続していた旧行政組織が、戦前の日本の法律「市制」を適用したのかもしれません。

「沖縄民政府公報1946年6月1号」pdf の冒頭に掲げられたニミッツ元帥布告には、
四 本官の職権行使上其必要を生ぜざる限り居住民の風習並に財産権を尊重し、現行法規の施行を持続す
とありますから、従来の「市制」を適用してもよいのかな?
[80904] 2012年 5月 28日(月)18:17:22【2】hmt さん
米国統治下の沖縄・年表
[80851]で「沖縄が日本に戻って 40周年」という記事を書きました。
この機会に、hmtマガジンに現在の沖縄県の原点になった「米国統治下の沖縄」についての記事集をまとめることにしましたが、約27年間に及ぶ米国統治時代の主な出来事と統治機構とを一覧できる表があると便利だと考え、この記事で補足します。

日付出来事米国統治[56304]沖縄の自治組織
1945/3/26沖縄地上戦【注1】
1945/4/1米国海軍政府
1945/6/23地上戦終結【注2】
1945/8/15沖縄諮詢会[56322]
1946/2/2SCAPIN-677【注3】
1946/3/22伊豆諸島復帰[24269]
1946/4/24沖縄民政府[56322]
1946/7/1米国陸軍政府
1950/6/25朝鮮戦争勃発
1950/11/4沖縄群島政府[69553]
1950/12/15米国民政府[40016]
1951/2/1吉田ダレス会談【注4】
1952/2/10トカラ復帰[56242]
1952/4/1琉球政府[69553]
1952/4/28平和条約発効【注5】
1953/7/27朝鮮戦争休戦
1953/12/25奄美復帰
1957/6/5高等弁務官[40016]
1958/9/16-20通貨交換[80907]
1965/2/7ベトナム戦争北爆開始
1968/6/26小笠原復帰
1972/5/15沖縄復帰沖縄県と市町村[80851]

【注1】1945/3/26 米軍が慶良間諸島に上陸、4/1 沖縄本島に上陸
【注2】日本の行政組織は機能を停止。現在、毎年6/23を「慰霊の日」として、沖縄県及び県内市町村は休日[79651]
【注3】琉球等日本の外周領域を政治的に分離[56190](SCAP指令1/28,CIE発表2/2)
【注4】沖縄における日本の潜在主権の存在を主張し、認められた[56304]
【注5】日本独立。潜在主権下にある奄美・沖縄(北緯29度以南の南西諸島)や小笠原は、当面米国の信託統治を認めた。
[85082] 2014年 2月 10日(月)23:12:14hmt さん
変遷情報の「変更種別」(7)小笠原の事例を考える・続編
[85081]を書いた後で、「別の見方」の可能性を再考した結果です。

[85063] グリグリさん
【小笠原5村廃止】の変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。

昭和27年(1952)・ 平和条約発効時に廃止されたのは、あくまでも「5村の役場」です。
「村自体の廃止」ではない かもしれません。
確かに、統治権が米国になったので、日本側の役場を置く根拠は失われました。
しかし、潜在主権[56304][56322]を認められた日本の「東京都に属する小笠原諸島の区域」【注】内には、「5村の区域」が残っていました。
【注】
例えば、小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律(S43-83)第18条[53386]参照

もっとも、区域と名称だけが残っていても、肝心の 地域住民共同体 が失われた5村を、「村」と言って良いものか?

その点、日本の行政機構は失われたが、地域住民共同体は継続していた 米軍統治下の沖縄 の村とは 大違いです。
上記の暫定措置法第19条にも、“旧大村、旧扇村袋沢村、旧沖村、旧北村又は旧硫黄島村に属していた権利義務は、小笠原村に帰属する。”と記されています。

米国統治下でも沖縄県は存続していました[56304]
しかし、住民が完全に居なくなった小笠原では、沖縄と訳が違い、完全なリセットでした。
頭に「旧」という字を付けられた5村は、やはり 役場の廃止と共に 「廃止」されたのでしょう。


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