市町村変更情報沖縄県 の1945年以降で最初に登場するのは、1945年9月26日に中頭郡美里村から分立した「石川市」(現・うるま市)です。
戦後の混乱期に成立したこの「市」の性格については、アーカイブズ
「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」 の中で話題になっています。
1945年4月1日に沖縄島に上陸した米軍に対する日本軍の組織的抵抗は、6月22日に終結。
沖縄の地上戦は、巻き込まれた民間人に約10万人の死者、そして多数の難民を出しました。
宜野座村その他にできた難民収容所の人口は一時的に膨れ上がりました
[1188]。
1945年8月20日、各地の収容所の代表が美里村にできた石川収容所に召集され、「沖縄諮詢会Okinawa Advisory Council」という名の戦後最初の行政機構が作られました。名前の示すように米軍政府への諮問機関でしたが、翌1946年4月に沖縄知事と「沖縄民政府Okinawa Civil Government」の制度ができた時に、そちらに移行しました。
1945年9月に公布された「地方行政緊急措置要綱」で、沖縄島12と周辺4島で計16の収容所に「市」ができました
[4680] 。
【追記】
最初
[1260]の沖縄島16市と書いたのですが、統合改称後の12市に周辺の島を加えた16市
[4680] (般若堂そんぴんさん、出典
[4985])が正しいようなので、修正しました。
琉球政府公報画像データベースで閲覧できるものは「沖縄民政府公報1946年1号(1946/6/1)以降であり、1945年の緊急措置の内容を調べることはできませんでしたが、「市町村」ではなくて「市区班」機構だったようです(平凡社:沖縄県の地名44、53頁)。
「石川市」は、このような緊急措置によって生まれた「市」ですから、明らかに普通の意味の「市制」ではありません。
1945年10月になると、収容所から各居住地区への移動が始まり、また12月には「沖縄行政機構改革要綱」が公布されて、順次 戦前の市制・町村制が復活しました。これによって石川市と同じ頃生まれたその他の15の「市」は、すべて1946年までには消滅していますが
[1260]、沖縄諮詢会所在地の「石川市」だけは最後まで残りました。
1946年10月には石川収容所も解散し、「沖縄民政府」も島尻の知念村(現・南城市)に移転したため「石川市」の人口は激減しましたが、なぜか廃止を免れ、(おそらく何らかの沖縄法令による「市」の地位を得て、)26年後に沖縄復帰の日を迎えました。
こうして本土の市の基準を満たさない「石川市」は、沖縄復帰特別措置法
[56304]によって「地方自治法の規定による市」になってしまったわけです。
[1272] オーナー グリグリさんの
ちょっと強引な残り方なんですね。
という発言の通りですが、遡ればごく短期間にせよ「沖縄の首都?」であった歴史が影響しているようですね。
「石川市」の次に記されている1946年4月1日の宜野座村分立は、「沖縄行政機構改革要綱」によるものでしょうが、
宜野座村HP を見ると、1948年2月村長公選、同年7月21日米軍政府指令第26号「市町村制」で、自治体として法人格を得たとのことです。
[1260] 紅葉橋律乃介さん
48年、米軍政府の「町村制」。
53年、琉球政府の「町村制」。
本土では1947年に地方自治法が施行されましたが、沖縄の町村も、1948年には「自治体」になったということでしょうか。
1953年になると、日本の「潜在主権」が認められたサンフランシスコ体制の時代になるので、本土の「地方自治法」との整合性を考慮した「町村制」に改められたのだと思います。
更に後のことになりますが、日本復帰前の沖縄でも、日本の市町村コードが使われた
[27598]くらいですから、石川市のような例外的な存在はあるにしても、「沖縄法令による市町村」も、「地方自治法の規定による市町村」とほぼ同一視してよい存在になっていたのでしょう。
名瀬市の市制施行(1946年7月1日)は、臨時北部南西諸島政庁ができる前です。知名町も同じ。
軍政時代に、いかなるルールに基づいたものか疑問がありますが、沖縄と違って奄美では存続していた旧行政組織が、戦前の日本の法律「市制」を適用したのかもしれません。
「沖縄民政府公報1946年6月1号」pdf の冒頭に掲げられたニミッツ元帥布告には、
四 本官の職権行使上其必要を生ぜざる限り居住民の風習並に財産権を尊重し、現行法規の施行を持続す
とありますから、従来の「市制」を適用してもよいのかな?