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落書き帳記事集海と島


記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[82870]2013年2月10日
海と島 (1)安芸灘 hmt
[82879]2013年2月12日
海と島 (2)瀬戸内海の海域 広島湾・燧灘・備後灘・備讃瀬戸 hmt
[82882]2013年2月13日
海と島 (番外)隠岐の島前 hmt
[82886]2013年2月14日
海と島 (3)地元の会話では 居住地名の「大島」 が使われるが、国土地理院の自然地名は 「屋代島」 hmt
[83592]2013年6月7日
海と島 (4)2つ以上の名前がある島 hmt
[83595]2013年6月10日
海と島 (5)能美島・江田島・倉橋島 hmt



[82870] 2013 年 2 月 10 日 (日) 15:36:10【1】 hmt さん
 海と島 (1)安芸灘
hmt 日本の 海と島

離島架橋一覧[82809] を拝見しています。人工島・トンネル等・町村も加わって178件。
十番勝負問四想定解70市[82800]に 大村・常滑・泉佐野(空港島)、木更津・川崎(アクアライン)、沼津[82788]の各市を加えて76市。
「離島」というと郡部のイメージが強かったのですが、今回のリストに登場したのは 16町(松島町 南伊勢町 串本町 大崎上島町 周防大島町 上関町 海陽町 上島町 大月町 新上五島町 長島町 本部町 久米島町 苅田町 知内町 今別町)と沖縄の4村(今帰仁村 大宜味村 座間味村 伊平屋村)に過ぎず、平成合併を経て 殆んど「市」で埋め尽された日本の姿が見えました。

このリストは 「架橋」という局所的なテーマに沿った視点で集められた結果です。
それ自体も地理的話題として発展させることができると思ったものの、私の頭の中で優先的な地位を占めたテーマは、これらの事例の背後にある「海と島」というワイドな視野からの地理でした。

離島架橋の代表例である、安芸灘大橋から岡村大橋まで7橋からなる安芸灘諸島連絡架橋(記事集)から始めましょう。リストの呉市にまとまって収録されています。

2005年に 原付で安芸灘の島々を走破された いっちゃん さん[47088]は、当時の未完成区間をフェリーで越えました。
2008年に上蒲刈島と豊島との間の豊島大橋【注1】が完成し、7つの離島架橋を含むルートに 「安芸灘とびしま海道」 の愛称が付けられました。旧称「安芸灘オレンジライン」は、大崎下島地区【注2】の部分的な愛称だったようです[46897]
【注1】愛称アビ大橋 アビ は広島県の鳥
【注2】島を覆う段々畑で栽培される 大長みかん。島外に畑を求めた出作や収穫物の運搬には農船が多用されていました。大長港みかん船[80971]

今回のリストには、本州四国架橋や天草架橋のような大規模架橋から、小規模な離島架橋まで含まれていますが、いずれにせよ架橋というテーマは、近接した島々が存在する「海域」、そして「島の間の狭い海」を抜きにして語ることはできません。

「島の間の狭い海」に関しては、地名コレクションでは既に3つのコレクション(瀬戸水道海峡 が作られています。
上記に該当する事例では、広島県大崎下島・愛媛県岡村島間の県境になる「御手洗瀬戸」が収録されています。岡村島を天然の防波堤とするこの地には、 御手洗・大長・小長の3港が位置しています。

海域を示す「安芸灘」が収録されている「灘」コレクションを見ると、鹿島灘から始まる 34事例の大部分は 島が少ない海域であり、多島海である安芸灘は、灘の中では異色の存在であることが知れます。

説明文に即して理解すれば、“地形的には風を遮る大きな半島や島がなく、ある広がりを持った海、または外洋に直接面した波の荒い海”には該当し難い海域であるが、“海・潮流の流れが速い所あるいは風浪が激しい所で航海が困難な海域”に該当するので、「安芸灘」と呼ばれるに至ったのでしょうか。

中世瀬戸内海の村上水軍。三家からなるこの一族の根拠地(能島・来島・因島)は、いずれも安芸灘の東口である島にあります。島々の間を流れる複雑な潮流の中での 巧みな操船により 瀬戸内海を支配した 水上軍団の姿が浮びます。
そして、近代になってからは、安芸灘の中心部に位置する呉が 大日本帝国海軍の軍港として 重要な地位を占めました。
日清戦争の 1894年には 東京と鉄道と結ばれ[61378] 宇品港を持つ兵站基地の広島に、明治天皇が戦争指揮をする「大本営」が設置されました。いわば日本の臨時首都です。

海上保安庁 海の相談室FAQ集 にある「灘ってなに?」によれば、安芸灘の東側は「三原瀬戸の諸島及び来島海峡」とされており、忠海と今治とを結ぶ東経133度に近い線です。南側は松山・忽那諸島・屋代島を結ぶ北緯33度50分台の線で、西は大畠瀬戸から広島湾、北は呉市から竹原市までの本州海岸線と、東西約70km、東側に多数の島がある海域です。南北は西側の広島と屋代島の間が最大で 50km。

海保の見方は これでわかったので、国土地理院の地勢図で確認してみます。手元にある広島図幅は生憎古いもの(1960)でしたが、意外にも安芸灘が見当たらず【追記:注】、大崎下島の南に斎灘と記されています。斎灘(いつきなだ)は海保の水路図誌掲載14灘の中にはなく、安芸灘の一部(四国に近い部分)と理解されますが、地図には昔から掲載されている海域です。
【追記:注】
平成元年に測量の日創設記念で発行された20万図集を見たら、甲島の南あたりに「安芸灘」と記されていました。つまり遅くとも平成以後ならば、国土地理院の地勢図でも安芸灘が確認できるようです。

そこで、市販の地図帳を見ました。平凡社にも帝国書院にも上蒲刈島の南、松山の北あたりに 安芸灘の記載がありました。
そして海保の見方では安芸灘に含まれていると思われる斎灘、広島湾も記されています。
国土地理院と海上保安庁との見方に食い違いがあり、市販の地図は双方を立てた結果、このようになったのでしょうか。
もっとも、「広島湾」の範囲が平凡社では広く、帝国書院では狭いなど出版社による相違もあります。

要するに、海保自身も認めているように、海域については区画整理が済んだ土地のようにハッキリとした境界線はなく、名称・範囲共にファジーなところがあるということのようです。

[82879] 2013 年 2 月 12 日 (火) 19:17:59 hmt さん
 海と島 (2)瀬戸内海の海域 広島湾・燧灘・備後灘・備讃瀬戸
hmt 日本の 海と島

「海と島」シリーズの第2回。安芸灘[82870]に続いて瀬戸内海の海域を概観します。
瀬戸内海の海域区分については、第6管区海上保安本部のページ に次のように記されています。
瀬戸内海は、大きく分けて10区分され、東から(1)紀伊水道、(2)大阪湾、(3)播磨灘、(4)備讃瀬戸、(5)備後灘、(6)燧灘、(7)安芸灘、(8)伊予灘、(9)周防灘と呼ばれています。しかし、それぞれの海域の範囲は、 どこからどこまでとハッキリと線を引いて分けられているものではなく、ばく然とした海域です。(後略)

付属した図も(1)〜(9)の9海域になっているのですが、“10区分”と書いてある理由は?
実は(後略)の部分に“広島湾は安芸灘の一部で…”という文があります。
(1)〜(9)の9海域に広島湾【安芸灘の西部】も加えて、10区分としているのかもしれません。

広島湾再生プロジェクトに示された図によると、広島湾は 倉橋島の南西端から南の屋代島東端を結んだ線(東経約132度27分)以西、面積1043km2の海域であるとされています。北の広島県側には能美江田島や厳島があるので、海域面積は 島の少ない山口県沖と半々 というところでしょうか。この用法を、仮に「広い広島湾」と呼んでおきます。

ところが、学校で使われることの多い帝国書院の地図帳では、大きな島のない湾の最奥、広島市付近の狭い海域(厳島・似島間)に 小さな字で広島湾と記されています。
岩国付近は 広島湾と水温が違う安芸灘である とする[67534]ペーロケさんの用法は、この「狭い広島湾」です。
岩国も広島同様、西中国山地に接していますが、広島湾より安芸灘の方が水温が高いこともあり、かつ海が東側全体に広がっているためか、広島に比べ気候が温暖なのです。

区別して呼ばれたり、全体を安芸灘と一括されたりしますが、東経132度と133度との間にある広島湾・安芸灘・斎灘から来島海峡を東に回ると、島の少ない燧灘(ひうちなだ)です。地勢図(岡山及丸亀図幅)において魚島の北東に大きく記された「燧灘」の字は、この名が鞆の浦から新居浜へと続く広い海域に及んでいることをうかがわせます。

しかし、海保の区分では魚島を境界として、南の「燧灘」と北の「備後灘」との2海域に分れています。
備後灘は、水路図誌14灘 の一つであり、海保の瀬戸内海9区分の中では、東の(4)備讃瀬戸、南の(6)燧灘、西の(7)安芸灘と北の本州(笠岡−忠海間)に囲まれた海域ということになります。
一方、国土地理院の地勢図には、備後灘の名が記されておらず、角川の日本地名大辞典でも、燧灘への送り見出しだけと、軽い扱いです。

海保14灘の説明文によると、備後灘の西端は「三原瀬戸」となっています。
三原瀬戸は瀬戸コレクションで広島県,愛媛県の部に収録されているように、愛媛県最北の大三島が竹原市忠海と対する瀬戸で、毒ガス遺跡の大久野島もあり、南の来島海峡と共に東経133度に位置しています。
関門海峡が東経131度、明石海峡・友ヶ島水道が東経135度ですから、安芸灘・斎灘と備後灘・燧灘との境界であるこの付近は、まさに瀬戸内海の真ん中です。

燧灘の東は、香川県から北西の三崎に突出した荘内半島(荘内村→詫間町→三豊市)で限られています。
この線をそのまま北西に延長して、走島を経て本州に届いた先が 広島県沼隈半島の鞆の浦で、輯製図(明治)の水島灘は この付近に及んでいました。現在の地勢図にも水島灘は存在しますが、北東部のみに縮小しています。

海保9海域の中で (5)備後灘と(6)燧灘の東にある海域は (4)備讃瀬戸です。
この「備讃瀬戸」も、地勢図(1969)にはありませんでしたが、同じ国土地理院の出した 地名集日本(7/97コマ)に収録。
最新の地勢図は未確認。民間の地図帳においても、平凡社には掲載されているが、帝国書院なしと対応が分れていました。

本四連絡橋に 北備讃瀬戸大橋・南備讃瀬戸大橋の名が使われていますが、この名称は「備讃瀬戸」が「与島と四国との間の瀬戸」であるという誤解を与えかねません。よく考えれば、備前と讃岐との境界ではないことに気が付きますが…

当事者の考えを推測すれば、この付近から西の備讃瀬戸航路【注】は南北に分れているので、備讃瀬戸北航路・備讃瀬戸南航路に対応して本四架橋を命名したものであり、交通地名としては妥当です。
【注】
交通手引書 4/16コマの図参照。航路の写真は備讃海域の特徴

航路に限定されない備讃瀬戸海域の範囲を確認しておきます。
備讃瀬戸環境修復計画 掲載図を見ると、備讃瀬戸の西端は荘内半島の三崎からほぼ真北の北木島を経て笠岡方面への線が、東端はさぬき市の馬ヶ鼻から小豆島南端の釈迦ヶ鼻を経て蕪崎から牛窓付近のサカケノ鼻という線が引かれています。

東西約 60kmに対して本州と四国とが最も近接する大槌島【注】付近の海の幅が 約6km。
大槌島の香川県側は「槌戸瀬戸」の名がありますが、岡山県側の瀬戸は無名なのでしょうか?
【注】
国境(現在も県境)の島であることは、樽流しの話と共に[28633]で紹介されています。海のピラミッド[41633]

[82882] 2013 年 2 月 13 日 (水) 17:42:14 hmt さん
 海と島 (番外)隠岐の島前
hmt 日本の 海と島

瀬戸内海から始めた「海と島」シリーズですが、珍しく隠岐の記事が出たので、ちょっと番外で外海に出てフォローします。

[82881] 桜通り十文字 さん
これが2つの島なのかはかなり微妙ですが……。

島根県隠岐の島前(どうぜん)西ノ島にあった黒木村【注】には美田湾があり、その北は地峡になっていました。船越という地名は、船を引いて地峡を越した名残です。
提示された水路は、大正4年(1915) この地峡に作られ、美田湾と日本海とを直結した 長さ3町の 船引運河 です。
1964年の改修で 12mに拡幅されているようです。
美田湾口にも西ノ島大橋(2005)が架けられていますが、もともと1つの島ですから、離島架橋ではないでしょう。
【注】
後醍醐天皇が幽閉された黒木御所跡に由来。「テンコウセンヲムナシュウスルナカレ」のお話[27015]は、ここを脱出した後。
黒木村は、1957年に浦郷町と合併して、西ノ島町 になっています。

[82886] 2013 年 2 月 14 日 (木) 18:18:28【2】 hmt さん
 海と島 (3)地元の会話では 居住地名の「大島」 が使われるが、国土地理院の自然地名は 「屋代島」
hmt 日本の 海と島

[82880] ペーロケ さん
私は愛媛、山口、広島の居住経験がありますが、「屋代島」と呼んでいるのを一度も聞いたことがありません。

私は 大野瀬戸の沿岸に約4年間 住んでいました。対岸は「厳島」です。
眼前に臨むのは緑濃い原生林に包まれた島の南部で、島の北部にある厳島神社の朱塗りの鳥居や社殿は見えなかったのですが、「宮島」と呼んでいました。

「屋代島」からは 30km以上離れていましたが、ここでも お説のとおり「大島」と呼んでいたと思います。
地元としての実感は 付近の島々との比較において 「大島」(面積128km2)であり、それだけで十分に通じます。
これは、2004年に 周防大島町 が発足する前の実感ですが、「周防大島」の呼び名は、あまり聞かなかったように記憶します。
わざわざ国名を付けた新自治体名は、合併した4町の1つ大島郡大島町と同名になるのを回避するのが最大の理由でしょう。

もちろん、もともと相対的な言葉である“大島”は、小さな無人島に至るまで日本中に数多く存在します。
参照:「大島」コレクションアーカイブズ「大島」

最大の奄美大島(712km2)の他に、伊豆諸島の大島【伊豆大島】(91km2)も有名です。この3大島以外にも 1000人以上の人口がありそうな大島として、しまなみ海道の大島【伊予大島、(郡名から)越智大島】、炭鉱から造船への産業転換を果した西海市の大島【(これも大島町時代の郡名から)西彼大島】、宮城県の大島【気仙沼大島[15299] 】、遣明船の寄港地であった的山大島(あずちおおしま)[75121](2005年まで長崎県最後の村であった大島村)、♪ここは串本 向いは大島の【紀伊大島】などがあります。
日本最大の無人島も「大島」【渡島大島、松前大島】です[33529]

大島の名称について。
国土地理院の地名集日本島面積によると、奄美大島や的山大島のように冠称付きの大島は例外的存在で、大部分は単なる「大島」です。大島は、本来的にはローカルで通用すべく生れた冠称を必要としない地名であったのでしょう。
上記括弧内で示した【○○大島】は、本来はローカル地名であった「大島」の一部が、伊豆大島のように全国に知られる存在になり、他の地域の大島と区別する必要から生じた別名である と思われます。

本州、北海道を始めとして、「大きすぎる島」は大島とは呼ばれないようです。沖縄本島も「本島」。
近くの島と相対的に見比べた結果が「大島」なのでしょう。奄美には徳之島があり、屋代島も防予諸島の中で山口県の平郡島や長島、愛媛県の中島などと比べることができるから「(相対的な)大島」と呼ばれたのでしょう。
世界最大の大島は、面積約1万km2の Big Island(ハワイ島)?

地名には自然の地物(例えば島)に付けられた「自然地名」と、人々が社会生活を営む場所(例えば集落)に付けられた「居住地名」とがあるようです。[56419]参照

思うに、厳島・屋代島は「自然地名」なのですが、地元の人々が普通に会話に使っているのは、より身近な「居住地名」である宮島・大島なのだと思います。
厳島で居住者がいるのは北部だけですが、2005年に廿日市市と合併するまで 全島が広島県佐伯郡宮島町でした。日本三景「安芸の宮島」で知られる「宮島」の名が、自然地名の厳島に代って日常会話の島名として使われることに違和感はありません。

屋代島は 2004年の合併で周防大島町になる前は、山口県大島郡の4町でした。郡名そのものが島名「大島」の存在を示唆しており、これが屋代島に代り使われるのも自然なことと思われます。

このように理解しながらも、[82870]で敢えて「屋代島」と記した理由を書きます。
1つは、地元での会話と違う 落書き帳の記事では、全国的視野に立って、数多くある大島の中に埋もれやすい名称でなく、独自の識別性を発揮する島名 を記すのが好ましい と考えたからです。

更に重要な理由は、今回のテーマ「海と島」を、自然地名に関する記事として捉えたからです。
「屋代島」は、国土地理院が その各種出版物、すなわち『地勢図(松山図幅)』、前記の『地名集日本』(94/97コマ)、『島面積』(4/10コマ)などで使っている唯一の島名です。ウオッちず でも自然地名としての注記に使っています。但し、居住地名の周防大島町に比べてずっと小さな文字です。

山口県当局も、自然地名としては「屋代島」を使っています。海岸保全区域

確かに地図では大島(屋代島)と注記がありますが

上記のように、地勢図などでは「屋代島」単独で使われていました。『日本の島全図 Shima:zu』[82777]も同様です。市販アトラスでは平凡社が「屋代島(周防大島)」、帝国書院が「屋代島(大島)」となっていました。
「大島(屋代島)」は発見できませんでした。

屋代島・大島に関する議論から離れます。

実は、この付近の島の自然地名で最も気になるのは、2004年の4町合併で全島が「江田島市」になった島です。
『島面積』(3/10コマ)には“江田島・能美島 えたじま・のうみじま 91.54km2 江田島市”と記されていました。

古い地勢図(手元の1970年版)は、3箇所に江田島・西能美島・東能美島と書き分けていました。
しかし、『日本の島全図 Shima:zu』や平凡社のアトラスが“江田島・能美島”なっていることから、最近は能美島の東西は区別されていないのかもしれません(未確認)。
ウオッちずも江田島と能美島と書き分けていますが、居住地名の江田島市に比べて小さな文字であることは、屋代島の場合と同様でした。

大きな島なのに、『地名集日本』には収録されていません。国土地理院も割り切れずに苦慮している?のかもしれません。
外野席からの勝手な推測を記せば、居住地名が江田島市に統一されたので、時が経過すれば 自然地名も「江田島」に統一されてくる のではないか?

そんなことを考えながら過去記事を検索したら、さすがに 地元出身の ゆうさん が発言していました。
[30880] ゆう さん 島の名前と自治体の名前 〜江田島市官報告示に寄せて を御覧ください。

[83592] 2013 年 6 月 7 日 (金) 17:05:35 hmt さん
 海と島 (4)2つ以上の名前がある島
hmt 南太平洋 hmt 日本の 海と島

[83576] ゆう さん
お久しぶりです。「能美島」に関する六管海保の報道発表をお知らせいただきありがとうございます。

国土地理院の報道発表は未発見ですが、平成19年まで 3連の島名「江田島・東能美島・西能美島」で記されていた面積が、平成20年(129コマ)から 「江田島・能美島」という2連の島名に改められていることを確認しました。

リンク記事[82886]を見て自覚したのは、もっと続けるつもりで始めた 海と島シリーズ が中断していたことです。
今回の記事は、一応その続編の形にします。

六管海保のプレスリリース「別図」について[83581][83582]のコメントがありました。
確かに「お役所仕事」の通念からすれば、能美島の島名変更を伝える発表にとり、必要な情報であるかどうかは疑問です。
しかし、私としては、このような「雑学的な情報」を提供してくれる 海上保安庁海洋情報部の姿勢に 好感を抱いており、それに便乗して今回の記事を書くことにしました。

第六管区の管内 は、瀬戸内海の大部分と宇和海です。その海域で一つの島に2以上の名前がある島【注】は、能美島・江田島の他に4組あるとのことなので、一応その様子を調べてみました。
【注】部分により異なる名を持つ島。屋代島と(周防)大島、厳島と宮島[82886]のような別名ではない。

能美島・江田島(91.54km2)に比べればずっと小さい島ですが、徳山港の前には 仙島・黒髪島(5.37km2)、その西には 大津島・馬島(4.73km2)と2組の「連称島名」があります。
[83553]の工場夜景でも紹介したコンビナートが南に広がる徳山港の西側が仙島。奥に重なって見える黒髪島との間は 干渡(ひと) と呼ばれる砂洲で繋がっています。
黒髪島産の花崗岩は高級品として知られ、国会議事堂の建築用石材として使われました。
現在は定住者はなく、石材会社が自社の船で運ぶ関係者だけが 立ち入ることができる島になっています。

黒髪島の西にある大津島も採石の島で、こちらは現在も 500人以上の住人が居る有人島です。南側の馬島部分にも集落があります。
江戸時代初期の大阪城再建用巨石が残っており、第二次大戦末期の人間魚雷回天の訓練基地跡なども存在。

愛媛県四阪島は今治市に属していますが、かつて日本最大の銅精錬所のあった地で、新居浜と関係の深い島です。
四阪島は5つ島の総称ですが、その中心をなす 家ノ島と美濃島との間は埋め立てられて 陸続き になっています。
四阪島の銅精錬所は 1976年に閉鎖され、住民のいない島になっていますが、現在も稼働している亜鉛回収工場には通勤者がいるそうです。

天然の砂洲にせよ埋立にせよ、これら3組の島はいかにも2島を連結した形であり、2つの名が生きているのは当然のことと思われます。満潮時に2島に分離する岡山県笠岡諸島の 大島と小島は、この仲間から除外した方がよさそうです。

能美島と江田島との間の 飛渡瀬は、他の事例に比べて 連結部分の陸地が かなり広いですね。
ゆう さん の調査結果 [18638] に記されているように、これでも昔は別の島であったが、潮流の堆積作用で次第に浅くなり、飛んで渡れる程度の浅瀬[3009]になったとのことです。

浦崎の事例[82821]で示したように、江戸時代には 浅瀬の埋立による新田開発が行なわれています。
伊能大図 167図 により、能美島・江田島の輪郭は現代とほぼ同じになっていることを確認することができます。
参照:地名“飛渡瀬(ひとのせ)”の由来

同じ自治体に属することになった 21世紀になっても、能美島と江田島という別々の島名は健在。
やはり「地名の重み」を感じさせる事例であると感じます。

その一方で、「文化遺産である地名」の扱いに関して 行政の姿勢に疑問を感じるような事例もあります。
半島振興法に基づく施策では、「江能倉橋島」という 半島名? が作られました。
2004年の合併では、江田島町にもあった「飛渡瀬」という地名が、「江南」に改称されてしまいました。

瀬戸内海から大きく離れて、南へ4000〜5000km。世界第2の大きな島の名です。
最も一般的なのは ニューギニア島 ですが、「パプア ニューギニア独立国」という国名が示しているように、首都ポートモレスビーのある南部(独立前はオーストラリア領、その前はイギリス領)は「パプア」、第一次大戦までドイツ領だった北部は「ニューギニア」と呼ばれていました。
これらの名は、この島の西半分を占める旧オランダ領にも使われ、第二次大戦後に西パプアの国名で独立しましたが、インドネシアが 武力でこれを奪い取り、自国の東(イリアン)にあたるこの地を「イリアンジャヤ」と呼びました(現在はパプア州)。

イリアン島という言葉がどの程度使われたのかは知りませんが、パプア島・ニューギニア島と合せて2つ以上の名前がある島に該当することは確かでしょう。

世界第3位の島も2つの島名を持ちます。
ブルネイ・ダルサラーム国やマレーシア領のある北部は「ボルネオ島」。由来はブルネイが訛ったもの?
南部もオランダ領時代は ボルネオ島 でしたが、インドネシアになってからは「カリマンタン島」が使われています。

最後に、島が2つあるのに島名が1つ というタイトルと逆の事例です。
沖縄県八重山郡竹富町の 新城島(あらぐすくじま) を挙げておきます。
地形図を見るとわかるように、干潮時には珊瑚礁が顕れて「上地」と「下地」とが連結し、徒渉可能になります。
パナリ島という別名は、2つに離れた島という意味。
シマーズ[82777]には 2島共に有人島と記載されていますが、下地【注】は1963年に廃村?
【注】パイロット訓練用空港のある下地島(宮古島市伊良部島の隣)とは別の島です。

[83595] 2013 年 6 月 10 日 (月) 18:53:30 hmt さん
 海と島 (5)能美島・江田島・倉橋島
hmt 日本の 海と島

「2つ以上の名前がある島」[83592]の続き です。

[13638] ゆう さん
「国郡志下調書出帳」によれば、江田島と能美島とはもともと別の島だったようです。
江田島市指定の文化財 によると、「国郡志御用ニ付下調書出帳」は、広島藩が藩内の地誌「芸藩通志」編纂に際して各村々に提出させた記録で、現在の市政要覧的なものと説明されており、江戸時代を通じて何度も行なわれた新開造成が記録されているようです。
文禄・慶長の昔から続く大柿町飛渡瀬の妙覚寺付近から西は昔からの能美島東であり、江田島町飛渡瀬から江田島町江南という町名に変更された部分が、埋め立てられた浅瀬の跡ということでしょうか。

能美島・江田島の地質図 も、能美島と江田島との間にあった飛渡瀬戸の姿を浮び上がらせてくれます。
一方、東西の能美島の間は 細々ですが花崗岩の山で連結されており、この地峡は、海峡→沖積地という過去がなさそうです。

[83592]でリンクした伊能大図167図が小さかったので、[82821]で使った 模写図 を探したが不成功。残念。

言うまでもないことですが、都道府県市区町村の視点からは、能美島に属する旧3町が佐伯郡で、旧江田島町だけが安芸郡でした。1954年に大柿町と合併した飛渡瀬村も佐伯郡だったのですね。

何故、違う郡だったのか。もちろん、島の開拓者の出身地が、広島湾の西側と東側とに分れていたからでしょう。
江田島の 矢ノ浦 は、安芸郡矢野町(1975年広島市に編入)[69019]から移住した 弓の名手・矢野玄鎮に由来すると伝えられ、江田島は本土の 矢野・坂・吉浦との間に深い交流があったようです。

1994〜1997年に行なわれた住居表示により 江田島町「中央」という行政地名になってしまっていますが、矢ノ浦は 中郷・向側・山田と共に「本浦」という江田島の中心集落の一部でした。

東京の築地にあった海軍兵学校[1679]が、本浦の広い干拓地に移転してきたのは 明治21年(1888)でした。
現在は海上自衛隊第一術科学校ですが、ここは中央という町名でなく、「江田島町国有無番地」となっています。
「無番地」は時々見かけますが、「国有」が付いている地名は珍しいと思います。

本浦が面している江田島湾は、その入口を津久茂瀬戸で固めた天然の要塞という地形ですが、江田島の東海岸に出ると、呉・吉浦の対岸にあたる小用港があります。1970年頃この地を訪れた際に、深田サルベージが柱島沖から引き上げた 戦艦陸奥の主砲 が置いてありました。記念品として、砲身の中にこびりついていた牡蠣殻を持ち帰った記憶があります。

江田島の東海岸を南下すると 能美島になり、早瀬瀬戸を隔て 対する大きな島が 倉橋島(70km2)です。
現在は 全島が呉市に属していますが、2005年編入前の この島は 北部が音戸町、南部が倉橋町でした。
1889年の町村制施行時には、安芸郡瀬戸島村・渡子島村と倉橋島村で、その前は 「村」の付いていない「○○島」でした。

つまり、現在では 倉橋島という1つの島名で呼ばれているこの島は、明治時代には 音戸瀬戸のある北部東側が「瀬戸島」、江田島や早瀬瀬戸に近い北部西側が「渡子島」、そして大きな面積の南部が「倉橋島」と 3つの名でそれぞれ呼ばれていたことがわかります。

これまでは、能美島・江田島の場合、沖積地を除外して考えれば江田島は分離しており、東西能美島も地峡で隔てられていたので 3つの島名があったのだと納得していました。

しかし、瀬戸島・渡子島・倉橋島の事例を見ると、もともと居住地名としての「○○島」は、自然地名の「◎◎島」との間に1対1関係がある必要はなかったのではないかと思われてきました。

瀬戸島と渡子島との間には 地峡があるわけではないが、山で隔てられた別の「島」だった。
自然地名としての「島名」が使われるようになったのは 明治以後で、この場合、面積最大の倉橋島に落ち着いた。
所属する郡の違いなど、人文的な要素もあって 自然地名が統一されなかった事例が「能美島・江田島」だった。
これが 「2つ以上の名前がある島」の原因として 私が到達した結論です。

倉橋島と言えば、その南東端に突き出た半島の先端には 鹿老渡(かろうと)があります。最近も[83585]で言及されています。
ここは、御手洗・蒲刈方面[82870]から 周防灘入口の上関[75096]に向う 帆船のコースに位置しており、風向きにより南北の2港を使い分ける構造になっていました。



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