[94708] Takashi さん
印刷日は1934年7月25日で、発行日は1934年7月30日なのですが、現在の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区にあたる地域がまだ町あるいは村のままの状態で残っております。(ちなみにこの地域の町村が東京市に編入されたのは1932年10月1日)
(中略)この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?
先ず
5万地形図東京西南部の図歴を確認しました。
1934年7月30日発行の図はリスト番号76-7-26という末尾になっており、リストへの追加は近年と推察します。
発行年月日の近い図を拾い出して、発行日順に並べると次の通りです。
リスト番号 | 測量年 | 更新履歴 | 発行年月日 | 備考 |
76-7-5 | 1929 | 修正 | 1931/6/30 |
76-7-26 | 1932 | 要修 | 1934/7/30 | Stanfordによる公開図 |
76-7-7 | 1932 | 要修 | 1946/9/30 |
76-7-8 | 1932 | 要修 | 1947/10/30 |
76-7-9 | 1948 | 資修 | 1948/10/30 |
76-7-10 | 1951 | 資修 | 1951/5/30 |
76-7-11 | 1952 | 資修 | 1952/6/30 | hmtの手元にあった図 |
Stanfordによる公開図は「戦前最後に発行された東京の地形図」という位置付けができますが、東京市35区体制発足(1932/10/1)から2年近くも後の発行であるにもかかわらず、行政区画変更が反映されていません。
しかも戦後の1946年まで次回の新版が発行されていません。
念のため、2.5万地形図【東京南部、東京国際空港、東京西南部、川崎】の図歴を見ると、戦前最後の発行は1932/10/30で、これも東京35区が反映されているとは思われません(未確認)。
1932年というと 日米戦争になるのは まだ9年も先のことです。東京市が35区になったことは、日本人にとっては知らぬ人はない公然たる情報なのですが、仮想敵国を抱える「その筋」としては、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使っていたようです。
もちろん世の中には「大東京35区」の地図が出回っているのですから、地形図だけに このような情報統制をしても実効は全くないと思うのですが、「防諜」という錦の御旗を掲げた「その筋」の圧力を感じることにより「地形図の更新や公開さえも ままならない」という状況が既に発生しかけていたのではないかと推測されます。
今年のニュースで忖度という言葉が話題になりました。
権力者の何気ない行動が あらぬ結果を招いてしまう。そのような気風は、戦前からのものでしょう。
それはさておき、地形図の
更新履歴 用語説明を抜粋しておきます。
修正:修正測量の略。時代の変化に対応して、空中写真や現地調査を元に変化した部分を地図の全範囲について修正すること。
要修:要部修正の略。鉄道、道路、埋め立て地など、大きな変化ではあるが面積的には狭い範囲を修正すること。
資修:資料修正の略。市町村の合併や鉄道の新設など、比較的大きな変化のあった場合、その項目だけを官報や関係機関からの資料だけで修正すること。現地調査は行ってない場合が多く、特定の項目しか修正していない。
偶々hmtの手元に リスト番号76-7-11の図【地理調査所発行】があったので、図外左側に記載されていた更新履歴も確認しておきました。
明治42年測図 昭和4年第2回修正測図 同7年要部修正測図 同27年資料修正(行政区画 鉄道 主要道路)
民間の地図でなく、「国の作った地形図」において 東京35区が出現したのは何時からか?
日本図誌大系関東I(朝倉書店)p.48に掲載された地形図に「世田谷区」の表示を見つけました。
戦後になった1945年から早速に修正作業が行なわれ、1947年に発行された 2.5万地形図に至り、ようやく東京35区、…いや既に【22区を経て】23区か…の名が地形図に掲載されたのではないか?
私はこのように考えています。