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[98206] 2019年 8月 19日(月)20:37:29【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(1)瓢箪から駒?
タイトル変更:
第二次大戦後のヨーロッパを舞台とした シリーズタイトル を付けました。
大戦末期 1945年のヤルタ会談から始まった 東西両陣営の対立時代。
それを象徴する「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦終結が宣言された 1989年のマルタ会談も 30年前の昔話になっています。
世界が新たな対立時代を迎えているのは残念ですが、書き込みの内容は、相変わらずの hmt歴史雑文です。

最初は、冷戦終結時の劇的な歴史展開に出会った記録ですが、「瓢箪から駒?」というタイトルを使いました。

1989/8/19 ハンガリーの辺境ショプロンで、「ヨーロッパ・ピクニック」という名の集りが開かれました。
この集まりは、軽い冗談をきっかけに 計画が始まりました。

もともと 第一次大戦まで、ハンガリーとオーストリアとは 一つの国でした。
この企画は、両国の国境地帯でバーベキュー・パーティを開くというものです。

国境フェンスを囲んだ両国民が 御馳走を交換する姿を世界に示すことで、「鉄のカーテン」と呼ばれたヨーロッパの東西分断も、事実上無視することができる。
そのような平和的示威行動という趣旨だったようです。

ところが、このパーティを本格的に実行し、単なるピクニックでなく、大きな出来事にしようと考える人物が出て、ハンガリーの政治局員などへの根回しを始めました。

こうして、夏も終りに近づいた 1989/8/19 に、東ドイツ国民をハンガリーからオーストリアに脱出させる計画が実行に移されました。

この事件は、もちろん当時のニュースでも伝えられたでしょうが、遠い東ヨーロッパのニュースだけならば、私が 30年後の今日まで記憶している筈がありません。

この事件がきっかけになり、同じ1989年の11月の「ベルリンの壁崩壊」に繋がり、更にNHKスペシャルで8月の「ヨーロッパ・ピクニック」との関係が紹介されたことが、強い印象を残したのでした。

30周年である今日の記事は、私の印象に残る事件になった理由の紹介だけで終りますが、続報で補足するつもりです。
[98211] 2019年 8月 24日(土)16:31:17【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(2)1945年のヤルタ会談と密約
[98206]で付けた シリーズタイトルについて。

保養地として知られる「ヤルタ」は クリミア半島にあります。
クリミアは 19世紀の戦争はともかく、数年前のオリンピック冬季大会【1】の直後とも言える頃(2014/4/1)の ウクライナからロシアへの所属変更でも 記憶に残る地です。

【1】開催地ソチ[85076]も 黒海沿岸ですが、 クリミアと違い 歴史的にもジョージア[92785]【グルジア】に近く、ヤルタの東 約500km離れたリゾート地でした。

しかし、日本に直接の影響を及ぼした歴史的事件は、何と言っても ヤルタ会談でしょう。

第二次大戦末期の 1945年2月、連合国3首脳【ルーズベルト、チャーチル、スターリン】による戦後処理構想の会談が行なわれた地がヤルタでした。
その時代など背景を説明しておきます。

イタリアが 1943年に降伏して枢軸国から脱落した後、1944年になると ナチスドイツも東部戦線での敗北に加えて、ノルマンディーに上陸した連合軍に攻め込まれていました。
太平洋戦線でも 1945年になるとフィリピン陥落。
沖縄など日本領土が次の目標になり、本土空襲も近づいていた時期でした。

それと共に重要なのが 3首脳の一人・米国大統領ルーズベルト【FDR】の状況でした。

[49312] むっくん さん
病魔に侵されたアメリカ大統領ルーズベルトが事理弁識能力を欠いた(意思無能力)ままヤルタ会談に出席したため、ソ連のスターリンが主張した、第二次世界大戦後に東欧諸国がソ連の影響下に入る(これは、著しくアメリカ合衆国の国益を損ねました)ことに異議を唱えられなかったことによります。

病状は、日本心臓財団のページその他の本にも記されています。

そして 首脳間の会談は 欧州の戦後だけでなく、太平洋戦争での日本降伏に必要な協力を得るために、ソ連の要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促した「極東密約」に及んでいたのでした。

「ヤルタ」へのコメントが長くなってしまいましたが、簡単に「マルタ」を説明します。
「マルタ」は、地中海の小島・イギリス海軍の拠点・戦後に独立したミニ国家です。

東西冷戦の象徴になっていた 「ベルリンの壁」崩壊直後の 1989年12月に、米ソ2大国首脳会談が行なわれました。
パパ・ブッシュとの会談で冷戦を終結させたのは ミハイル・ゴルバチョフ大統領です。

いずれも 世界史では有名な地名ですが、国内地理中心の落書き帳では登場する機会が少なく、ヤルタ会談を取り上げた記事は、[49312]の他には Issieさんの[11570]だけ。[66685]は冗談です。
マルタへの言及も古い海軍墓碑[86112]だけでした。
[98212] 2019年 8月 24日(土)17:29:37hmt さん
ヤルタからマルタへ(3)ベルリン封鎖(1948-9)、ベルリンの壁(1961-1989)
第3回で、ようやく本題の 東ドイツに移ります。
言うまでもなく、1945年5月 第二次大戦に敗れたナチスドイツの ソ連占領地区に 1949/10/7 建国された「ドイツ民主共和国」Deutsche Demokratische Republik; DDR の通称なのですが、今回は、東ドイツの中の「西側の飛び地」のように存在した「西ベルリン」を原因として発生した2つの出来事を主として記します。

首都ベルリンは、周辺のソ連占領地域とは別の 米英仏ソの四ヶ国による分割占領地でした。
[15618] Hermitさん
ベルリンはドイツにあらずということで、…「壁」が出来るまではS-Bahnの運行も東西通しで行われていましたし。

ここで、落書き帳初期の記事を引用しました。実は このシリーズ開始後に検索したところ、ベルリンや東ドイツについて、Hermitさんによる貴重な記事が 多数収録されている ことを発見しました。
投稿当時の Hermitさんは カナダ在住でしたが、[15686]には、次のように記されていました。
その当時公私両面で東ドイツにかなり「どっぷり」関わっていたので,このあたりの事情はよく知っているつもりです.

ソ連にとっては目障りな存在である「西ベルリン」を西側3国に放棄させることを狙って開始された「ベルリン封鎖」は 1948年に始まった更に昔の事件です。

この頃 東側は 東ドイツマルクの発行を計画しており、西側3国も占領地の通貨を統合。
通貨をカギとして、西ベルリンに対する東ドイツの経済封鎖が実行されました。
これに対して、「大空輸」によりベルリン放棄を強く拒否した西側の対応は見事に成功。
陸上の物資輸送封鎖は 1949/5/12に解除されました。

1949/5/23には、西側3国統治の各州に ドイツ連邦共和国臨時政府(ボン政府)が成立。
東側のソ連統治地域には、1949/10/7 ドイツ民主共和国成立。

1949年、ドイツに誕生した2つの国。
ところが、ベルリン市内の境界線は自由に通れるので、ここを通って西側へと流出する人口が年々増加し、問題になってきました。

1961/8/13 東ドイツは突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断しました。
一夜にして西ベルリンの周囲を外側から囲んだ有刺鉄線は、間もなくガッチリしたコンクリートの「壁」に改築され、足掛け 29年も存在して、ドイツ分断の象徴的存在になりました。


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