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落書き帳

国勢調査

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[76281] 2010年 10月 1日(金)23:25:35hmt さん
国勢調査 (1)日露戦争で延期された第一回国勢調査
第一回国勢調査が大正9年(1920)に実施されたことは承知していましたが、明治35年に制定された 国勢調査に関する法律 では、第一回は 明治38年施行(第3条) と定められたことまでは 知りませんでした。

日露戦争で 実施できなかったのですね。改正法

時刻が遅くなったので、国勢調査当日の書き込みは これだけ。
[76291] 2010年 10月 2日(土)19:29:16【1】hmt さん
国勢調査 (2)“有史以前”の統計行政 から 新しい統計法(2007)まで
「国勢」という言葉は、いつから使われたものでしょうか。
統計Today No.14 に、大隈重信が 明治14年(1881)に建議した 「統計院設置の件」という文書がありました。
現在の国勢を詳明せざれば 政府則ち施政の便を失ふ 過去施政の結果を鑑照せざれば 政府其政策の利弊を知るに由なし 故に 現在の国勢を詳明し 過去施政の結果を鑑照するは 是れ政府に在て 欠くべからざるの務なり

「国勢」とは、「国の情勢」という意味で、私たちが国勢調査票に書き込む「人と世帯の実態」だけでなく、産業・経済・社会制度・軍事などより広い分野に係るデータを対象とするものと思われます。

この建議により太政官に設置された「統計院」(内閣制度発足の明治18年以降は内閣統計局)により、明治15年(1882)を第1回とする「統計年鑑」がまとめられたことは、既に国土面積統計の変遷に関する記事[66993]で記しました。

大隈重信といえば、明治8年統計寮から発表された「第1回統計表」[67042]の時にも登場しました。
この「統計寮」は、明治4年太政官制度の下で発足した大蔵省統計司が改称したもので、租税・戸籍等に関する統計を所轄する機関でした。
もっとも、統計寮とは別に、太政官正院には「政表課」が設置されており、政策決定用のデータを整える 統計院>内閣統計局は、こちらが発展した組織でしょう。

人口調査についていうと、明治12年末現在で実施された「甲斐国現在人別調」が、統計院によって明治15年にまとめられています。画像
これは、明治時代の人口統計に使われた戸籍依存のものでなく、調査員による実地調査で、まさに後に行われる国勢調査のテストでした。

調査項目は、居住地及び住居の持借の別、姓名(家主は族籍も記入)、家主と家族の続柄、男女の別、身上(配偶関係)、年齢、生国、宗旨、職業など。
今年の調査票にないのが、族籍(士族・平民など)と生国、宗旨【江戸時代の人別帳を思い出します】。持家借家の別は、今年の調査票にもありましたね。
戸籍では「戸主」ですが、この調査では「家主」と呼んでいるようです。現在は「世帯主」。

調査に人手がかかるだけでなく、統計院での集計にも1年半かかったそうで、当時の予算事情や統計スタッフの不足から、山梨県でのテストを全国の実地調査に拡大するには至りませんでした。

しかし、明治28年(1895)に、万国統計協会から1900年の世界人口センサスへの参加勧誘があり、これが国勢調査実施を促進することになり、貴族院・衆議院で国勢調査に関する建議が可決されました。
[76281]で触れた明治35年法律第49号は、議員立法で成立したものだそうです。

1905年が日露戦争で実施できず、1910年の事情はよくわからないが、1915年も第一次世界大戦で実施できず。
このようにして、わが国の国勢調査は、1920年が第1回ということになりました。

国勢調査の目的は、大隈重信の建議に示されているように、政策決定の基礎となる資料の収集です。
戦前の「国勢調査に関する法律」[76281]は極めて短く、国勢調査の目的は記されていません。
戦後の国勢調査は、昭和22年の旧統計法 に基づいて行なわれてきましたが、この法律の目的にも、大隈が書いた政策の文字はありませんでした。

2007年に 統計法が全面的に改正され[68817]、ようやく下記の文言が法律の目的に書き込まれました。
公的統計が国民にとって合理的な意思決定を行うための基盤となる重要な情報であること

2010年の調査は、人口減少社会になって最初の国勢調査になるだけでなく、この新法に基く、最初の国勢調査でもあるわけです。
[76300] 2010年 10月 5日(火)15:40:55hmt さん
国勢調査 (3)日本書紀から コンピューターまで
[76291]で明治の統計行政について、“有史以前”というタイトルを使いましたが、もちろん「第1回国勢調査が行われた1920年より前」という意味です。白桃 さん[19923][21410]参照。
ついでに、というわけでもありませんが、うんと遡ってみました。

日本書紀 の巻第五は、実在の可能性がある最初の天皇とも言われる第10代崇神天皇の事績です。
縦書きのテキストをスクロールすると、12年に“始校人民。更科調役。”と記されています。
秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也

今風に書けば、崇神天皇12年9月16日、人民の戸口調査を行って税金を課した。男からは狩猟の獲物、女からは手作業で作る布帛である。これ以後、気候は安定し、穀物もよく実り、天下は泰平に治まって、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれるようになった。

正史の記すところによれば、最初の国勢調査をして、適正な税制を定めた崇神天皇の事績が、「国の肇め(はじめ)の天皇」と呼ばれる所以のようです。

さて、10月18日は「統計の日」です。国勢調査と何か関係があるかなと思ったのですが、調べてみると、別の由来でした。
明治3年9月24日(グレゴリオ暦1870年10月18日)に発足した「府県物産表」の作成事業を、日本の近代統計のはじまりとして、1973年に制定されたものだそうです。総理官邸

この日付の法令全書を見ると、太政官の達を受けた民部省が、29品目について年平均総額を報告するように求めています。その宛先は「府県」ですから、まだ「藩」は対象外だったのですね。
米・雑穀・塩類・油類・酒漿・茶葉・砂糖・菓類・紙類・漆・蝋・木綿・麻・蚕卵紙・生糸・羽毛皮・革類・海産・魚類・草類・漆器・鉄器・磁器・織物・金石類・染草・木材・薬品・雑品

自動車も電気機器もプラスチック製品も加工食品もないこの品目を見ると、産業構造の変化を思い知ります。

「人口取調之儀」も同じ頃に御達があったことが触れられています。

このような統計調査。昔から行なわれてはいますが、正確な結果を出すためには、いろいろな問題があります。
正直者が馬鹿を見るようでは正確な実態把握はできないので、普通の行政系統から離れた機関により、匿名性を保証して申告を求めることも必要です。調査員の量と質の確保も大きな課題です。

集計技術についても、大きな問題点がありました。

アメリカ合衆国の統計局は、1880年の国勢調査の集計が何年たっても完了しないことに、苦慮していました。
人口増加だけでなく、調査項目を増やしたために、手作業の集計能力を越えてしまったのです。
人数を数えているうちにも人口は毎日変っており、数え終わらないうちに、10年後の調査年が来てしまう。

この悩みを解決したのが、ハーマン・ホレリスです。
カードの所定の位置に開けた穴で数値を記録し、機械式カウンターで統計項目を個別または組み合わせて数える。ホレリスの作表機を用いたシステムが統計局に採用された結果、1890年の国勢調査は僅か2年で集計を完了するという成功を収めました。

1890年の機械は国勢調査専用機でしたが、1906年になると、パンチカードシステムは 別のデジタルデータ処理作業もできる 汎用の「事務機械」に進化しました。
そして、ホレリスが創始した会社は、合併や改称を経ながらこの「事務機械」を「国際的」に広め、「IBM」という名の、今日の情報化社会の技術的基盤を整える役割を果たした会社になりました。

19世紀末にアメリカの統計局を悩ませた国勢調査の集計。
それは、それに続く1世紀の間に、世界を変えるキッカケになったのでした。
[76303] 2010年 10月 7日(木)20:55:37【1】hmt さん
国勢調査 (4)政表・日本全国戸籍表・日本帝国人口統計
明治35年に制定された 国勢調査に関する法律[76281]から始めたこのシリーズ。
2007年の統計法[76291]から 崇神天皇[76300]【記紀によればBC1世紀だが、実際は3世紀頃?】へと、時代がめまぐるしく動いていますが、また明治に戻ります。

[76291]で、太政官政表課設置に触れました。
「政表」とは、政策用統計表というような意味でしょうが、私が「政表」という言葉を初めて知ったのは、この落書き帳でした。
検索してみると、[58062] oki さんの記事が最初で、以後[62925][62939]など、すべて「共武政表」についてのものでした。

ところが、この共武政表は 陸軍参謀局が編集した 明治8年のものが第1回で、明治15年までに 合計4回編纂された後、「徴発物件一覧表」と改称されたとあります[63434] okiさん。太政官政表課とは別の部門で作られた「政表」なのですね。

そこで改めて調べてみると、統計センターの年表 に、「辛未政表」 刊行が出ていました。
辛未とは 編纂された明治4年の干支で、発行は 明治壬申(5年)4月となっています。
近代デジタルライブラリーにも 収録されていましたが、政府最初のこの統計書には、官員や諸費用しか掲載されていません。
人口統計は 資料がなかったのでしょう。
官省開拓使東京府職員合表として集計された 官員の総数 を見ると 5904人で、士族がその中の 4462人を占めています。

統計調査支援活動協議会 によると、辛未政表に続いて 壬申政表が刊行され、以後明治6年政表、明治7年政表、明治8年以降の分は 単に「日本政表」と題して 明治11年分まで毎年刊行された とあります。この中には 人口統計も含まれているものと 推察しますが、近代デジタルライブラリーの検索では、残念ながら ヒットしませんでした。

上記ページには、明治12年末現在で行なわれた 試験的実地調査・「甲斐国現在人別調」[76291]も 紹介されていました。

太政官統計院は、「日本政表」や「甲斐国現在人別調」の後、明治15年に 第1回「統計年鑑」 を編集、刊行しました。
統計年鑑は、明治19年から 「日本帝国統計年鑑」、昭和12年から 「大日本帝国統計年鑑」と改称されて 昭和15年の第59回まで 毎年刊行。戦争で中断した後、昭和24年に「日本統計年鑑」の名で復刊しました[67072]。2010年版は 第59回 です。

明治政府による人口統計の最初は、内務省戸籍寮が 明治5年1月現在でまとめ、明治7年に刊行した 日本全国戸籍表 であると思われます。
近代デジタルライブラリーの 書誌情報によると、明治7年と8年との 2冊があるようですが、画像は後者と思われます。
3府・60県・開拓使・琉球藩 という管轄分人口表と並んで、国分(84国+樺太+琉球)人口表も出ています。

残念ながら大きな表の下の方が切れているのですが、明治8年1月1日調の総人口は、皇族34 + 華族 2896 + 士族 189万6371 + 卒 3334 + 僧 18万2029 + 旧神官 2765 + 尼 6186 + 平民 3190万0488 + 樺太 2374 で、合計 3399万7449人であったことがわかります。
府県別では、新潟県の 138万8333、名東県 134万9672、愛知県 123万4005、千葉県 105万5373が 100万人超でした。

明治中期までの人口統計は、軍部が非常時に動員できる「人的資源」を把握しておく目的で始めた 共武政表→徴発物件表 の流れ もありましたが、概ねは 戸籍事務に伴なう仕事 とされてきました。

これが大きく変ったのは、明治31年(1898)でした。
新たな 戸籍法 の実施に伴ない、戸籍事務は司法省の所管に移り、人口統計事務は、内閣の直属として統計局が扱うことになったのです[63726]
この時の首相は、明治8年 第1回統計表[67042]や、明治14年 統計院設置の建議[76291]でお馴染みの 大隈重信であり、大隈内閣総理大臣は、自ら筆を執って 明治三十一年日本帝国人口統計の緒言 を記しています。
この大物政治家の意気込みがあってこそ、明治35年に 国勢調査に関する法律[76281] が成立し、1920年の第1回国勢調査も実現したのでしょう。

明治31年は 「静態統計」だけでしたが、翌年には 「動態統計」の編纂も始まりました。
「動態」というのは、人口変動の要因となる 出生・死亡・結婚・移動に関する統計で、現在は 厚生労働省大臣官房統計情報部が所管しています。平成21年人口動態統計(確定数)の概況
[76308] 2010年 10月 9日(土)19:00:42hmt さん
国勢調査 (5)平成22年国勢調査 と 2010年前の古代ローマ国勢調査?
今回の国勢調査。これまでと一番変った点は何でしょうか。個人的には、郵送提出方式の採用と思います。
統計調査員が戸別訪問して、調査票を置いてゆくところまでは従来と同じですが、郵送提出を選ぶことができ、私も早速利用しました。調査員による回収の場合も、封入提出になりました。東京都だけですが、インターネットによる回答方式も導入されたとか。

国勢調査は、個人情報保護法(2005年4月施行)の適用対象から除外されているのですが(統計法52条)、社会の個人情報保護意識の高まりからすると、従来維持してきた 調査員による回収点検方式に比べて 多少は調査精度が低下するおそれがあっても、封入により個人情報を守る姿勢を示す方向に変更することは、やむを得ないことだろうと思います。

国勢調査の実務は、総務省統計局が企画立案 を行い、都道府県、市区町村、統計調査員を経由して調査票の配布、回収が行なわれます。これに従事する事務職員の総数は、調査期間中は非常勤の国家公務員となる 統計調査員 約80万人を含めて 約90万人、その費用は約600億円 だそうです。出所

国勢調査は、日本だけのものでなく、国際的な広がりのある事業です。
既に[76291]で触れたように、万国統計協会からの 1900年世界人口センサスへの参加勧誘(1895)が、わが国の国勢調査実施促進の動機になりました。
現在では、国際連合が調査事項などの勧告を行っています。

国勢調査e-ガイド に紹介されている 「2010年ラウンド世界人口・住宅センサス計画」のための原則及び勧告に盛り込まれた調査事項(大項目8、小項目44)を、今回の調査票の14項目と比較してみました。

性別・年齢・配偶関係などは当然ありますが、国連の項目にあった宗教・言語・民族性・出生地・出生国・入国年などの項目が調査対象になっておらず、国際移動の少ない日本の特殊性を今更ながら実感しました。
国連調査の大項目「出産及び死亡」に関する7項目や「障害特性」も、日本では調査対象外。
「経済的特性」の中で、職業や通勤通学に関する調査はかなり詳しく、利用交通手段は、国連の項目にない日本独自の調査項目のようです。

調査内容については、国勢調査の実施に関する有識者懇談会(第4回)の資料3 の中に、問題点などが検討されており、国連勧告の項目や、過去の国勢調査事項の変遷(pdfの14/15)も収録されていました。

旅行・出張・出稼ぎなどで一時的に不在の人も、不在期間が3ヶ月未満の場合は自宅という記入になります。

ここで、突然思い出したのが、時代と場所が全く異なる 古代ローマ属州における国勢調査?です。

「ルカによる福音書」によると、皇帝アウグストゥスの勅令により、ナザレの大工・ヨセフは、登録のためにダビデ家の本籍地・ベツレヘムに旅行することになり、滞在中に同行したマリアがイエスを出産したのでした。イエス伝

現代の人口調査や 住民登録とは異なり、徴税・徴兵などを目的とする戸籍の再登録事業だったのでしょうか。
地元から逃げ出した人々を、強制的にUターンさせる政策だったとも思われず、詳しいことはわかりませんが、なんと、登録の為に わざわざ本籍地まで 150km以上の長旅をする必要があったのですね。参考までに地図のある pdf資料
[76311] 2010年 10月 10日(日)17:21:42hmt さん
国勢調査 (6)ローマの ケンスス・近代的センサスは 1790年の アメリカから
少なくとも紀元前第3ミレニアムには、古代オリエントや古代中国で ある種の「国勢調査」が行なわれ、約2000年前の日本[76300]や 古代ローマ[76308][76309]の戸口調査も話題になりました。

統計局・人口センサスの歴史 には、
これらは、徴税、徴兵、使役などの特定の目的のための情報収集として行われてきたため、すべての人口を調査する必要はなく、例えば、世帯主、納税者、徴兵年齢の男子など、目的を達成するために必要な特定の人だけの調査が行われました。その意味では、現代の国勢調査とは性格の異なるものです。
と記されていますが、人頭税目的ならば、すべての人口を調査すると思います。
もっとも、人頭税主体の税制下では、隠蔽のために、人口統計自体の信頼性が疑われるという問題があります[72127]
古代からの戸口調査と近代的センサスとの性格の違いは、支配者のための調査か、国民のための調査かという点にあると思われます。

[76309] Issie さん
ローマの戸口調査は「土地税と人頭税からなる統一的な財政組織」を設定するためのものだったようです。
戸口調査に当たって「本籍地」に戻らなければならないというのは,ローマによる征服以前から,…行われていたものだそうです。

参照された河出の本によると、次のように記されているので、土地税を主体とするものだったのでしょうか。
課税のためには、臣下の担税力を調べるために戸口調査(ケンスス)が行われる。
申告は、自分の土地財産のある、一般には父祖の故郷で行われる。

このケンススの実施を担当したローマの行政官が cencor(ケンソル)。
共和制ローマにおいてはコンスル(執政官)経験者が任命されるものであったそうです。で,その選出が5年ごと。

共和政ローマの[政務官 によると、「ケンソル」は 元老院議員のお目付け役のような、重要な政務官だったようです。
元々は、ローマ市民権保持者を確定して「count」する仕事でしょうが、いずれにせよ古代ローマ国家の中枢に関わる役目です。

5年に一度 臨時に任命される役職 ということでは、1920年の第1回国勢調査でも26万人、今回は80万人が任命された 統計調査員[76308]と同じですが、「ケンソル」の人数は2人。
徴税目的の戸口調査(ケンスス)【ローマ市民権と無関係】の実施を担当したものではないようです。
統計局・「国勢調査」の名前はいつできた? にも、 市民登録・税の徴収・人口調査を行った役人と書いてあるのですが、…

上記ページには、「国勢調査」という四字熟語が公式使われたのは明治29年で、“詮査斯”、“詮察斯”のように、英語のセンサスを漢字に当てはめたようなものもあったことを伝えています。
明治14年の大隈建議は、“現在の国勢を詳明し”と表現していました[76291]

古代の戸口調査はさておき、近代的センサスが最初に行われたのは、1790年のアメリカ合衆国でしょう。
これは、1787年に制定された合衆国憲法の規定に基づくものでした。
下院議員及び直接税は、合衆国に加入する各州の人口数に応じてこれを各州に配分するものとする。
人口数の算定は 合衆国議会の第1回の開会から3年以内に行い、以後10年ごとに法律の定めるところによりこれを行う。

ここでも税金が出てきますが、それは徴税の目的でなく、集めた直接税を配分する目的でした。
下院議員定数と共に、国勢調査の目的は、国民の利益であることが明らかにされました。

19世紀になると、1801年にイギリス、フランス、デンマーク、ポルトガルでも近代的人口センサスが行われ、以後も 各国が続きました。アジア最初が フィリピン(1877)なのは、米国の影響でしょうか。

日本も 1900年センサスを前に勧誘され、法律も大隈内閣時代の 1902年に制定されたが、戦争を含めた経済的事情のために、第1回は原敬内閣時代の 1920年、にずれ込みました。

ようやく実現した国勢調査。「文明国の仲間入り」を合言葉に国を挙げての一大行事になったようです。
第1回国勢調査ポスター には、次のように記されていたそうです。
国勢調査は社会の実況を知る為に行ふので課税でも犯罪を探す為でもありません
課税に「ぜいきん」とルビを振るなど、分かりやすい文章が評判になったとか。

記念切手は知っていましたが、記念鉄瓶は初見。時代を感じます。


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