明治35年に制定された 国勢調査に関する法律
[76281]から始めたこのシリーズ。
2007年の統計法
[76291]から 崇神天皇
[76300]【記紀によればBC1世紀だが、実際は3世紀頃?】へと、時代がめまぐるしく動いていますが、また明治に戻ります。
[76291]で、太政官政表課設置に触れました。
「政表」とは、政策用統計表というような意味でしょうが、私が「政表」という言葉を初めて知ったのは、この落書き帳でした。
検索してみると、
[58062] oki さんの記事が最初で、以後
[62925][62939]など、すべて「共武政表」についてのものでした。
ところが、この共武政表は 陸軍参謀局が編集した 明治8年のものが第1回で、明治15年までに 合計4回編纂された後、「徴発物件一覧表」と改称されたとあります
[63434] okiさん。太政官政表課とは別の部門で作られた「政表」なのですね。
そこで改めて調べてみると、
統計センターの年表 に、
「辛未政表」 刊行が出ていました。
辛未とは 編纂された明治4年の干支で、発行は 明治壬申(5年)4月となっています。
近代デジタルライブラリーにも 収録されていましたが、政府最初のこの統計書には、官員や諸費用しか掲載されていません。
人口統計は 資料がなかったのでしょう。
官省開拓使東京府職員合表として集計された
官員の総数 を見ると 5904人で、士族がその中の 4462人を占めています。
統計調査支援活動協議会 によると、辛未政表に続いて 壬申政表が刊行され、以後明治6年政表、明治7年政表、明治8年以降の分は 単に「日本政表」と題して 明治11年分まで毎年刊行された とあります。この中には 人口統計も含まれているものと 推察しますが、近代デジタルライブラリーの検索では、残念ながら ヒットしませんでした。
上記ページには、明治12年末現在で行なわれた 試験的実地調査・「甲斐国現在人別調」
[76291]も 紹介されていました。
太政官統計院は、「日本政表」や「甲斐国現在人別調」の後、明治15年に
第1回「統計年鑑」 を編集、刊行しました。
統計年鑑は、明治19年から 「日本帝国統計年鑑」、昭和12年から 「大日本帝国統計年鑑」と改称されて 昭和15年の第59回まで 毎年刊行。戦争で中断した後、昭和24年に「日本統計年鑑」の名で復刊しました
[67072]。2010年版は
第59回 です。
明治政府による人口統計の最初は、内務省戸籍寮が 明治5年1月現在でまとめ、明治7年に刊行した
日本全国戸籍表 であると思われます。
近代デジタルライブラリーの 書誌情報によると、明治7年と8年との 2冊があるようですが、画像は後者と思われます。
3府・60県・開拓使・琉球藩 という管轄分人口表と並んで、国分(84国+樺太+琉球)人口表も出ています。
残念ながら大きな表の下の方が切れているのですが、明治8年1月1日調の総人口は、皇族34 + 華族 2896 + 士族 189万6371 + 卒 3334 + 僧 18万2029 + 旧神官 2765 + 尼 6186 + 平民 3190万0488 + 樺太 2374 で、合計 3399万7449人であったことがわかります。
府県別では、新潟県の 138万8333、名東県 134万9672、愛知県 123万4005、千葉県 105万5373が 100万人超でした。
明治中期までの人口統計は、軍部が非常時に動員できる「人的資源」を把握しておく目的で始めた 共武政表→徴発物件表 の流れ もありましたが、概ねは 戸籍事務に伴なう仕事 とされてきました。
これが大きく変ったのは、明治31年(1898)でした。
新たな
戸籍法 の実施に伴ない、戸籍事務は司法省の所管に移り、人口統計事務は、内閣の直属として統計局が扱うことになったのです
[63726]。
この時の首相は、明治8年 第1回統計表
[67042]や、明治14年 統計院設置の建議
[76291]でお馴染みの 大隈重信であり、大隈内閣総理大臣は、自ら筆を執って
明治三十一年日本帝国人口統計の緒言 を記しています。
この大物政治家の意気込みがあってこそ、明治35年に 国勢調査に関する法律
[76281] が成立し、1920年の第1回国勢調査も実現したのでしょう。
明治31年は 「静態統計」だけでしたが、翌年には 「動態統計」の編纂も始まりました。
「動態」というのは、人口変動の要因となる 出生・死亡・結婚・移動に関する統計で、現在は 厚生労働省大臣官房統計情報部が所管しています。
平成21年人口動態統計(確定数)の概況