[105333]グリグリさん 他
同一郡内の同一名町村
[105340]MIさんの表を見てみると、市を含まないものでは、やはり大半が施行時の「中心」と「周縁」というか、互いに隣接していて本来1つであってもいいようなところを「町」だけ独立させたような形のものが多いですね。これも「町」というのが単なる人口基準で決まっていたものではなく、中心地としての意味合いを強く示唆するものであったことの一つの証拠ですね。逆にそうでないものは表の中で目立っています。
[105336]ぺとぺとさんの伊那町/村は(伊那町の当時は)隣接していませんし、北足立郡大谷村に関しては隣接していないものの両方が村です。後者について郵便が届くのか非常に不安ですが、のちに七里村となった方は1つ大きさの単位が小さい感じがするので大丈夫だったのかな?北足立郡は
[68339][68352]hmtさんにある通り、施行時以前は~領とつけてたくさんの同名村を区別していたようなので、大谷村もその名残で~領付きで呼ばれていたのかもしれません。
そして表題の件ですが、「同一郡に同一村(町)名をつけてはいけない」というルール(マナー?)があったのだろうか、という疑問についてです。ここでいう同一村(町)名とは大谷村の例のように「村」や「町」を含めてもなお、同じ名前の自治体の組のことです(~新田との組は除く)。
兵庫県が市制町村制施行した際、飾西郡と飾東郡両方に高浜村が誕生しました。そして飾西郡と飾東郡は1896/04/01に合わさって飾磨郡となるのですが、それに先立ち飾西郡高浜村は1か月ほど前の1896/03/03に広村へと改称しています。僕はこれを、郡が合わさることで同じ郡に高浜村が2つできてしまうために、改称せざるを得なかったのではないかとにらんでいますが、いかがでしょうか?とはいえルールなんてなくても、同じ郡に同じ名の村があれば混乱が生じるのは目に見えているので、それがルールがあった証拠にはならないかもしれませんが…。少し調べてみましたが、高浜村が広村へ改称した原因が「飾磨郡高浜村が2つになること」である推論を肯定する材料も否定する材料も見つからなかったので、何かご存知の方がいましたらご教示いただけると嬉しいです。
(余談)広村はのちに八幡村と合併し広畑町となっていますが、これは合成ではなく先祖返りだそうです(
[74977]hmtさん)。しかもこの広畑町、短命の町(名)だそうで…。
最後に、少し話題がそれている内容だったので戻しておきます(笑)。
[105347]MIさん
郡は異なるが隣接する同一名町村
ほかに思いついたものでは、久世郡宇治町と宇治郡宇治村(1889/04/01~1951/03/01)がありますね。
あとは微妙なものとして
村&村の東加茂郡下山村と額田郡下山村(1889/10/01~1956/09/30)…
下山村の一部を下山村に編入で有名です(
[72034]白桃さん)
村&村かつ県またぎの山形県東田川郡朝日村と新潟県岩船郡朝日村(1954/10/01~2005/10/01)…さすがにダメか