都道府県市区町村
落書き帳

板橋区から練馬区の分区に関する記事集

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[1078] 2002年 3月 10日(日)18:50:12Issie さん
23区と旧東京市
現在の「23区」は,1932年の市域拡張により「35区」となったいわゆる「大東京市」(ロンドンにならって英訳すれば Greater Tokyo ですな)の範囲(1936年に北多摩郡から砧村と千歳村を世田谷区に編入)にそのままあたります。
戦後,1947年3月に区の統合が行われて「22区」になり,同じ年の8月に板橋区から練馬区分離して現在の「23区」になりました。
市域拡張以前の旧東京市は1889年5月の市制施行で誕生するのですが,それは1878年の「郡区町村編制法」により「東京」という地域に設置された15区を引き継いだものです。
旧市域の「15区」とは,麹町・神田・日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷・下谷・浅草・本所・深川の15区。現在の千代田・中央・港・文京・台東各区と,新宿区の東半分,墨田区の南半分,江東区の西半分に当たります。
[1558] 2002年 5月 19日(日)11:13:10Issie さん
江東区
確かに,いつのまにか江東区は面積でも人口でも巨大な区になってしまいましたね。
都心(川向こうの江東区あたりじゃ,とても「都心」とはいえないが)再開発で少なくともしばらくは都心への人口の流入があるそうですね。私,景観を破壊する超高層マンションは嫌いですが(火事や地震も怖いしね)。
ただ,これが将来まで続くかどうかは不透明。
江東区が学校施設の逼迫を理由にマンション建設の自粛を求めたのも,今の児童・生徒の急増は一時的で,間もなく減って元に戻ってしまう,という予測があるからですね。でも考えてみたら,“新しく”利用することになった「日当たりのよくない教室」って,つい10年前までは当たり前に教室として使っていたのではないかしら。
私は30年ほど前,千葉の埋立地の小学校に通っていたけど,団地に入居していた親が“そういう世代”だったので児童が年々激増し,特別教室を全部普通教室にしていた時期がありました。

これは余談。
ところで,江東区の分区ですが,これは札幌市や横浜市のような政令指定都市の場合ほど簡単ではないと思います。
何しろ「特別区」ですから。江東区は「単独の自治体」(制限つきだけど)であって,実は「市」を分割するのと同じ話です。
法律に手続きの規定がないわけではないのですが,現行地方自治法の下で「市」が分割されたことはありません。合併・編入がらみで町村が分割された例は,けっこうあるのですが。
過去の例はただ1つ。地方自治法施行後まもない1947年8月に板橋区から練馬区分離したときだけです。(ほかに,神奈川県の座間町や逗子町のように,戦時中に合併を半ば強制された自治体が再び分離した例がいくつか)。

単なる行政上の区分に過ぎない政令指定都市の区であれば,わりと簡単に分割・併合ができるのですが,市が分割されたことがないというのは,やはり面倒なことがずいぶんあるのでしょう。

でもね,私も江東区は分割してもいいかなと思います。
これは,自治体を減らせ,という総務省の強い指導に反するのですけどね。
[3520] 2002年 10月 3日(木)20:38:06Issie さん
東京の区
はじめに…

[3519]
>この線の西側の長野盆地や上田盆地

「東側」ですね。うっかり…

[3491]
>大阪が24区あり、東京が23区。大阪の方が東京よりも狭いにもかかわらず区の数が多い。

1947年までの東京都(東京市)には区が35もあって,大阪市よりもちゃんと区がたくさんありました(なお,当時の大阪市の面積は現在よりもやや小さいものでした)。
1947年3月15日に都心部の区を中心に統合が行われて「22区」になりました。
 麹町区+神田区 → 千代田区
 日本橋区+京橋区 → 中央区
 芝区+麻布区+赤坂区 → 港区
 四谷区+牛込区+淀橋区 → 新宿区
 小石川区+本郷区 → 文京区
 下谷区+浅草区 → 台東区
 本所区+向島区 → 墨田区
 深川区+城東区 → 江東区
 品川区+荏原区 → 品川区
 大森区+蒲田区 → 大田区
 滝野川区+王子区 → 北区
*そのまま:目黒区,世田谷区,渋谷区,中野区,杉並区,豊島区,荒川区,板橋区,足立区,葛飾区,江戸川区

1947年3月といえば,5月3日の「日本国憲法」「地方自治法」の施行をひかえた準備が進められていた頃ですから,地方自治法で“市”並みに取り扱うことになっている「特別区制」施行のためなのでしょうね。
ともかく,初めは「22区」でしたが,この年の8月1日に「練馬区」が板橋区から分離して「23区」となっています。

東京市が35区になったのは1932年10月1日に隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)の全町村を編入したときのこと。それまでは1889年の「東京市」発足よりも早く1878年から「東京」には「15区」が設置されていました。
同じく「大阪」は「東・南・西・北」の4区,「京都」は「上京・下京」の2区から始まっています。

東京の場合も,大阪も京都も,近代的地方制度が整備される以前,江戸時代以来の地域区分が下敷きになっているように思われます。
特に京都の「上京」「下京」は中世以来の地域区分で,応仁の乱以降,織田・豊臣政権下で都市整備が行われるまでの間は京都は「上京」「下京」の2つの都市に完全に分離していました。
さらに中世以降の「京都」の都市域として生き残ったのは,古代「平安京」のうち「左京」の部分と,平安中期以降に都市化された鴨川左岸(東岸)の白河・祇園・六波羅地区で,「右京」が再び都市化するのは近代になってからのことです。
[5185] 2002年 11月 21日(木)20:51:56special-week[ヒロオ] さん
フィルムコミッションは観光の起爆剤となるか?を考える
[5162][5176]
白桃様、雑魚様

 観光振興の起爆剤としてフィルムコミッションなるものを立ち上げる自治体が最近増えてきました。有名どころは横浜市ですが、小都市でも上田市、川口市、豊明市、舞鶴市、徳山市などがあります。東京都でも石原慎太郎都知事が旗振り役となってフィルムコミッション設立に向けて協議していますね。
 雑魚さんの「撮りたい市町村」はまち並みが独特であったり、昔のままであったりといった特徴がありますね。そういうまちはぜひ自分ののまちを全国に発信したい!と考えているでしょう。テレビで美しいまちを見て、「ああいうところに旅行に行きたいなあ~」と思わせるには絶好の手法です。
 自治体が自分のまちを売り込むためにフィルムコミッションという新たな手法に今注目しています。観光に自治体が関連するようになってきています。テレビ見ているときに「これはどのまちだ?」と思うことあるでしょ?エンディングロールなんかに撮影協力○○市と出てきます。だいたいフィルムコミッションが設立されている自治体です。フィルムコミッションの需要は年々増しているようです。なお、全国のフィルムコミッション設立状況はここでご覧になれます。参考にどうぞ http://www.film-com.jp/

[5166]
NSK様
分割した自治体、練馬区もそうですね。昔は板橋区でしたが、その後分区して練馬区になりました。それなのに今では練馬ナンバーまであるのですから練馬区の勢いは凄まじいですね。鳩ヶ谷市、川口市は近隣4市で合併する構想がありますよ。

[5182]
実は小学生様
 掛川市は全国首長がいいまちだと思う自治体東日本のナンバーワンを獲得しているいい自治体です。生涯学習都市宣言を一番初めにしたのも掛川市でした。市長がかなりやり手ですよね。新幹線掛川駅もあの市長がいればこそできたという感じがします。
[5297] 2002年 11月 24日(日)00:42:36special-week[ヒロオ] さん
自治体再編を考える
[5263][5268][5288][5293]

 名大前ネテでこんなに反響があるとは思わなかったです(笑)
 確かに名古屋大学の略称として名大前というのはありますが、国立大学(ましてや旧帝国大学)なのだから略名はいかがなものか?と私は思います。でも全国にはこういった例が多く見られますね。東大前もありますし・・・。

[5288]
いな様
 当初の予定は弥富通を東進し、島田橋の手前から北上して八事に合流するルートが計画されていたはずです。こちらのルートで、昭和高校前、島田橋天白区役所前、八事音聞山などの建設予定があったと思うのですが?
 瑞穂運動場の名称は変わらないのではないかと思っています。いなさん指摘のように山下通駅が妥当ではないかと思います。金山駅や神宮前駅、大曽根駅から桜通線を利用するのは不便ですし、名駅から桜通線というルートもありますが、やはり金山・神宮前の需要が多いかと思います。

[5280]
実は小学生様
 現行の地方自治法では、市よりも区の方が事務権限がかぎられています。そのため埼玉県和光市と板橋区が合併再編ということはあり得ない話です。(というよりも和光市が拒絶する可能性が高い)しかし[5126]で私自身が記述していますが、今後特別区の再編や特別区に政令指定都市並みの事務権を付与することも考えられており、23区がこのままでありつづけられるかといえば難しいかと思います。小学生さんが指摘しているように千代田区は人口が少ないのでどこかの区と再編する必要がありますし、世田谷区のような人口が多い区も分区などを考えなければなりません。板橋区から分区した練馬区も人口が増加傾向にあり、やはり西方の特別区で再編する必要があるでしょう。
[5274]掛川市は全国の自治体のお手本となっている自治体です。西日本では宮崎県の綾町だと記憶しています。
[5339] 2002年 11月 24日(日)20:25:04あっちゃん[実は小学生] さん
東京23区・分割計画
[5297]ヒロオさん
>小学生さんが指摘しているように千代田区は人口が少ないのでどこかの区と再編する必要があります
>し、世田谷区のような人口が多い区も分区などを考えなければなりません。板橋区から分区した練馬
>区も人口が増加傾向にあり、やはり西方の特別区で再編する必要があるでしょう。
そうですね。東京は区の人口のバラつきがありますね。人口60万人以上の区は分割する必要があるでしょうね。東京の人口60万人以上の区は、世田谷区、江戸川区、足立区、大田区、練馬区の5区です。

[5320]TNさん
>実は小学生さんの仰るプランは相当に困難を伴うのではないか、と思った次第です。
やっぱり無理なのですね。残念ですねえ。
[7439] 2003年 1月 7日(火)16:43:01ken さん
re:re:24番目の区を考える
[7425] の私の書き込みは、[7409] ヒロオ さんのご提議に対し、一見ちょっと批判的な物言いになってしまいましたが、
「現23区は異常な状態にある」というご主旨には大賛同なのです。

要は
「都市東京」を如何なる存在と定義し、その行政機構としてどういうものが相応しいか。
もはや単なる現行23区の離合集散では解決できる次元ではないのではないか、ということなんです。

例えば、江戸時代の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」、「ご朱引きの内」という時の「江戸市中」の朱引きは、何を基準に判断し、どう行政手続化されたのか。
 (参考「かねやす」http://www.travelsite.co.jp/oedo/001.htm

・南葛飾郡を下総国のままでは不都合で、武蔵国に変更すべきと考えたのは何故だったのか。
当時、深川、本所、向島はともかく、砂村や小松川村などは、純農漁村であって、市中になったわけではないのに。
しかし、江戸市中を囲むある一定の周縁部のバッファー地帯は、江戸と同様の武蔵国内にすべき、という発想があったからこそ、付け替えが行われたのであろう。

・当初の東京15区の範囲は如何なる根拠で、東京市と定められたのか。

・1932年の周辺部の新20区の編入、35区化は如何なる判断で、行われたのか。
 当時渋谷町などは8万人を超える人口を持ちながら市制を敷かなかったのは何故?
(関東大震災の影響は十分考慮しなければなりませんが)
<参考>大昔の書き込みですが
[3327] ゆっさん

・1936年北多摩郡の砧村、千歳村を世田谷区に編入、この判断は、何故、誰が、どのように行ったのか?
・これの裏返しとして、同じ北多摩郡のその他の町村は、何故、その後、市街地の拡大にも関わらず、東京市に編入されることがなかったのか?
この点は瑣末ですが重要で、北多摩郡のこの2村が東京市に入れられたということは、旧豊多摩郡、北豊島郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡は東京市にして、「北多摩郡は、府下にしておこう」という発想・判断基準は無かったことを意味します。

・1947年、板橋区分区したのは何を判断基準に行ったのか?
・1947年、都心部を中心に合区をしたのは何故か?

都府県界は(歴史上も)アンタッチャブルではないですし、
現23区の領域自体、都市の発展とともに変遷・拡大してきたものである。(ある時期まで)

東京市は
1889年 15区にて東京市成立
1932年 20区を加え35区
1936年 北多摩郡砧村、千歳村を世田谷区に編入。現領域に。
1947年 都心部を中心に合区22区に再編。
1947年 板橋区板橋区練馬区分区、23区に。
この間約58年間に以上4回の見直しが行われているが、一方1947年意向は
なんと56年間も、何の変更も加えられていない。
(この間の地域実態の激変については改めて述べるまでもないと思いますが)

単純比較にはなりませんが、横浜市の例を対比してみれば
1889年 横浜市誕生
1927年 鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区の5区設置
1939年 都築郡内の9村を編入し港北区に、鎌倉郡内の1町7村を横浜市に編入し戸塚区に。現市域に。
1943年 中区より南区分区
1944年 中区より西区分区
1948年 磯子区から金沢区分区
1969年 南区から港南区分区、保土ケ谷区から旭区分区、港北区から緑区分区・戸塚区から瀬谷区分区
1986年 戸塚区から栄区分区、泉区分区
1994年 港北区+緑区から青葉区・都筑区新設し4区に再編
と18区体制ができるまでにほぼ10年に一度は見直しが行われています。

10年一昔と申します通り、都市の発展と地域行政の見直しが、10年単位くらいでは必要になってくる一例だと思います。
56年間も、その激変にも関わらず、一度も手が入れられていない東京23区は、異常と言えます。
その歴史の前半で出来ていたことが、ある日を境に出来なくなった一因は、「特別地方公共団体」という、異形の自治体となってしまったことも影響しているでしょう。普通地方公共団体であれば出来たことが「特別」であるために出来ない。
その影響度の大きさに比べ、権限が非常に制限されている。
「身長2.2m体重250kgの1歳児」の如き奇形の自治体とでも言いましょうか。「特別」は普通でないということで、良い意味にも悪い意味にもなリ得ますね。

新東京の都市行政を真面目に考えるなら、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の都県界を一度完全に廃し、上尾市、さいたま市、上福岡市、所沢市、立川市、府中市、多摩市、町田市、川崎市、横浜市、習志野市、八千代市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、流山市、吉川市、越谷市、岩槻市、といった範囲に括られる内側を新「東京都」、あるいは新「東京市」とし、その内部は他の道府県の市町村とは違った、新たな発想の行政区分に再編すべき、
残部の東京都は、現行の都道府県制を継続するなら、埼玉県もしくは神奈川県(これは足柄県にでも名称変更必要ですね)に統合、あるいは、両者に分割。千葉県の残部は千葉県として存続。
(野田市、関宿町は、まあ、ご随意に、という感じですが、すみません。)
という感じです。
[67726] 2008年 12月 26日(金)23:06:06おがちゃん[日本人] さん
本日二度目の登場
こんばんは。今日二度目の登場となる、日本人です。
[67719] maki さん
練馬は23区の中で最後に発足した区(1947年8月1日)なのですが、気がつけば人口が世田谷に次いで多い2位…
うーん。練馬区は、板橋区から分離してできた区なので、あまり、「最後に発足した区」とは認めたくないのですが、もし、これが、板橋区から分離しないでいたら、1232362人(データベース検索参考)と、ダントツでトップなのですが・・・。でも、板橋区は昔から人口が多かったのでしょうか。まぁ、60年前に分離したので昔から人口が多かったのは決定的なのでしょうが・・・。
ちなみに世田谷は86万なので、じつに16万の差が。
あれ?世田谷区も人口が増えたものですね。僕は、最初に覚えたことは簡単には忘れることができないため、幼稚園~小学2~3年ころの人口データがインプットされてしまうようです(爆)。おっとっと、話が少しそれてしまいました。確かに、世田谷区は人口がダントツでトップですが、人口増加率はそれほどでもないようです。ウィキペディアによると練馬区は、1980年から2005年までの間に、12万人~13万人ほど増えました。それに対して、世田谷区は、5万人程度だけ増えました。何がここまで25年間の人口増加率の差を広げたのかを見てみました。見てみると、世田谷区は、1985年ごろ~1995年ごろまで数万人ほど人口が減少しています。因みにそのころ練馬区は10年で5万人増加しました。何故世田谷区が一時的に人口が減ったのかよくわかりませんが、よく調べると、東京23区も1985年~1995年に人口減少が起きています。その原因は、
郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ
とのことです。まぁ大体検討がつくかと思われます。

[67722] 桜トンネル さん
当ててみたい、という方はいろいろと推理してみてください。
前回に引き続きすごいデータですね。多分、「ちから」、「おそれ」、「はやさ」、「けいけん」はわかったと思います。

ではでは。母に叱られてしまいそうなので、おやすみなさい。
[74935] 2010年 4月 14日(水)13:36:58【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (7)敗戦直後の大都市改革
このシリーズ区制度の変遷 も、明治・大正・昭和前期を経て、いよいよ戦後になります。

第二次大戦は、「区」が設けられていた六大都市に、大きな変化をもたらしました。
戦時中に都政が施行された東京[74320]と、大阪・名古屋・横浜[65179]・神戸[43161]は大空襲により大きな被害を受けました。
戦争による都市機能の壊滅により、区部の人口は激減し、税収も減って都や市の財政力は低下しました。

しかし、戦争がもたらしたものは、破壊と荒廃だけではありません。
既存の都市が失われたことは、戦災復興を兼ねた都市の再生にとっては絶好の機会でもありました。

2本の100m道路に象徴される 名古屋戦災復興都市計画 は、その代表的な成果でした。名古屋市技監としてこの計画の中心となった田淵寿郎は、1966年に名古屋市の名誉市民第一号に選ばれました。
結果的には空襲を免れた京都でさえも、強制疎開[48995][49021]による防火帯から、御池通などの広い道路ができています。

ところが、戦災復興のチャンスを本格的に生かすことができなかったのが東京です。

1923年の大震災後に行われた帝都復興事業は、内務大臣後藤新平による30億円(国家予算の2倍)規模の大方針で企画されましたが、結局は6億円に縮小。
それでも昭和通りや隅田川の橋を含む復興事業は1930年に完成し、今の東京でも重要なインフラになっています。

敗戦後の1945年に内閣直轄の戦災復興院が発足し、全国115都市を戦災都市に指定しました。
前記の名古屋復興事業もこれを受けて具体化し、技術者の田淵が招かれたのでした。

では東京はどうだったのか。戦前に名古屋都市計画の基盤をつくった石川栄耀が、既に東京都建設局長として在職していました。彼は2万haの区画整理、延長500kmの幹線街路整備、3000haの緑地計画という大規模な計画を作成しました。

しかし、急激な人口増加・財政難は石川プランの実現を許しませんでした。東京復興事業
かつての帝都復興事業以上に厳しい見直し・縮小を余儀なくされ、実際に行われた区画整理は 1652haに留まりました。


そして地方制度の面でも、戦前や戦時中の体制を改革する動きが、戦後に始まりました。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて、1946年9月27日に地方制度改革4法(昭和21年法律第26~29号)が公布されました。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。改正法27コマ、30コマ

付言すれば、この改正により、それまで官選であった東京都長官も公選になりました。
前記4法改正中の府県制改正で府県知事が公選になったのと同様です。
当選したのは官選都長官だった安井誠一郎。食糧難とインフレの時代で、「安いお米をせいいっぱい」という投票もあったとか。

都民の住宅の確保こそが最優先課題であるとの考えから、確信犯的行為として、上記 石川栄耀の大復興計画を握りつぶした都知事こそが、この人物でした。地方自治を掲げた戦後体制による民選知事が、内閣の機関である戦災復興院の意向をはねつけて、国と都の共同体制による復興事業を拒否した形ですが、後世から見ると、果してこれでよかったのか?

さて、上記昭和21年改正に続いて、東京都の区の整理統合問題が具体化しました。
昭和21年(1946)12月には、戦災復興と区の自治権拡張を目指して人口10万乃至30万を基準として整理統合する方針が出され、翌1947年3月15日に22区制発足(D6)。

これは、地方自治法施行の直前とも言える時期ですから、当然、特別区制度を見据えた措置でしょう。
地方自治法施行後の1947年8月1日に板橋区から練馬区分離して、現在に続く23区が出揃いました。

都区のあり方議事録 の9/10コマによると、「都と区の制度的変遷に関する調査研究」という冊子が存在するようです。その要旨は、2つのpdf資料 特別区の区域の沿革について昭和22年の区域再編 とに紹介されています。

今回の記事を作るにあたっては、この資料を利用しました。
[75012] 2010年 4月 22日(木)22:28:16hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (10)制定当初の地方自治法による区
「市の変遷」デビューを機に書き始めた 区制度の変遷 も、いよいよ地方自治法の時代になります。

昭和20年(1945)に戦争が終わり、9月2日に降伏文書が調印されて、日本は連合国(Allied Powers)の占領下になりました。

“大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という第1条で始まる大日本帝国憲法の地方制度は、中央集権的なシステムであり、地方自治に関する規定は存在しませんでした。

日本側当初の明治憲法部分修正案には 地方自治の規定がありませんでしたが、GHQ(連合国総司令部)は、権限と責任を地方にも分与すべく、都道府県および市町村に一定の範囲内で地方自治を認める規定を設けるべきであるとして、住民による直接選挙などを含む草案を出してきました。

これにより日本政府3月2日案に第8章 地方自治 が設けられ、GHQ草案になかった総則的規定も加えられました。
第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

地方自治の分野では、「地方公共団体」という言葉の使用や、住民による憲章(charter)制定→自治体による条例制定(94条)などの変更があったわけです。
このような過程でまとめられた「帝国憲法改正案」は、1946年10月までに 帝国議会で審議・可決 され、天皇の裁可を経て「日本国憲法」として公布されたのは、11月3日の明治節でした。

半年後の1947年(昭和22年)5月3日に「日本国憲法」施行。
そして、地方自治法も同日に施行され、従来の明治44年市制・明治44年町村制・昭和18年東京都制・明治32年道府県制(昭和21年まで府県制)は廃止されました。

このようにして施行された 地方自治法により、現在の「区」ができました。
…と、1行で片付けることができるわけがありませんね。
なにしろ、約63年前のこと。1889年(明治21年市制町村制の施行)から1947年までの58年よりも長期間を経た法律です。

制定当初の地方自治法 に規定された「区」は3種類です。

E1 特別区【特別地方公共団体】(83コマ)
第281条  都の区は、これを特別区という。【第2項省略】
第283条  政令で特別の定めをするものを除く外、第二編中市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
特別区には、原則として市に関する規定が適用され、区長も1946年の35区(D5)、1947年の22区(D6)[74935]に引き続き公選でした。1947年8月1日に板橋区から練馬区分離し23区になりました。

E2 特別市【特別地方公共団体】の行政区(81コマ)
1946年の地方制度改革4法[74935]審議に際して、五大都市に速やかに特別市制を実施する旨の附帯決議がなされました。
その趣旨に沿って、地方自治法制定にあたっては、特別地方公共団体である特別市[369]の制度が盛り込まれました。

特別市(79コマ)は、人口50万以上の市につき法律で指定されることになっており、都道府県の区域外にあり、一部を除いて都道府県に関する規定が適用されます。
特別市には法人格を有しない「区」が設置され、区長は公選、区議会は置かれないとされました[53841]
第270条第1項 特別市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて行政区を設け、その事務所を置くものとする。

しかし、五大都市のある府県からの反対があり、法律による特別市の指定はすぐには実現しませんでした。
シャウプ勧告に基き設置された地方行政調査委員会議による第二次勧告(1951)になると、特別市制を必要とする主な理由である二重監督・二重行政の弊害が事務の再配分により除去されるとして、再考を求めています。
結局は指定困難な状況のまま、1956(昭和31)年に特別市制度は廃止されたので、 E2の行政区も実現せずに終りました。

E3 五大都市の区(50コマ)
第155条第2項 政令で指定する市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて区を設け、区の事務所を置くものとする。
第3項 法律又は政令で特別の定をするものを除く外、行政区に関する規定は、前項の区にこれを準用する。

対象となる【初代】政令指定都市に関しては、[74207]で書いたように、五大都市が指定されています。政令
E2とほぼ同じである区の設置に関する条文や、第3項の準用規定から、特別市の行政区と同様に、旧制度[74736]のD1・ D2とは性格が少し変ったと思われますが、1922年制定の「五大都市行政監督ニ関スル法律」(1943年までは六大都市…)[53841] は存続しました。
[93619] 2017年 8月 31日(木)11:15:08【4】Takashi さん
昭和の大合併と平成の大合併のそれぞれの目的
[93616] 山野さん
(昭和)終戦から10年前くらい後の事なので、戦争の影響による人口の急減に伴う措置なのかな。
自治体によっては人口が減り過ぎて単独での経営が立ち行かなくなった?とかだろうか。
戦争の影響による人口の急減による合併・統合は1947年の東京の35区→22区への統合(その後板橋区からの練馬区分立あり)などがあげられますが、その後の人口は第1次ベビーブームなどの影響でむしろ増加が続いています。また農村部から都市部への人口の大移動もまだそれほど始まっておらず(いわゆる農村部から都市部への集団就職も1960年頃以後です)人口が減り過ぎたところはまだそれほどなかったというのが実情ではないでしょうか?

むしろ
新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設(注)、社会福祉、保健衛生関係などが新たに市町村の事務とされ、行政事務の能率的処理のためには規模の合理化が必要とされた。
出典 総務省市町村合併資料集・市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴
ことが市町村業務の拡大が合併を促す要因になったものと思われます。
(注)戦後一時期ある程度の大きさの市町村が自らの警察署を持っていた時期がありましたが1954年に現行の体制にすることで自治体警察はなくなりました。

(平成)これ、当時の小泉政権の頃に本格始動したんだと思うが、目的は、よく知らないんだよね。
政府などによる合併推進の目的はおおむね以下の通りだそうです。
地方分権に対応して基礎自治体の財政力を強化できる。
モータリゼーションの進展に伴う生活圏の広域化に対応できる。
政令指定都市や中核市・特例市になれば権限が移譲される。
出典 wikipedia

P.S.
(今後)あるとしたら、少子高齢化等による、人口減で経営破綻する所が相次いだ時、またあるかもなぁ。
経営破綻の救済措置としての合併もあるでしょうし、人口減で地域の維持ができなくなることで合併がおこるかもしれませんが、大規模で行われるかどうかはまだわかりません。さすがに埼玉県並の面積の市ができても効率がよいとは思えないのですが。
[93763] 2017年 9月 15日(金)17:21:43【2】hmt さん
東京都練馬区も、「そのまま」存続
[93756] グリグリさん
分立後、現在も全く同じ市町村が存続している自治体を調べてみました(分立後、市制、町制、改称、合併をしていない)。以下の2町11村になります。

最近の分立に関する記事を思い出すために「分立」で記事検索してみたところ、渋谷村や釧路村の記事だけでなく、「板橋区からの練馬区分立」に触れた記事[93619]がありました。

そこで、練馬区変遷情報を確認したところ、変更種別は「分割」となっています。
どちらが誤記らしい。変遷情報に分割の根拠が示されていれば これを信頼したいのですが、それが示されていません。
そこで、関係する板橋区練馬区のサイトを見ました。

板橋区の歴史年表:1947年8月1日 当区面積の60パーセントを分離して練馬区誕生。

練馬区の歴史 練馬区独立小史(練馬区史より抜粋)
これによると、旧制度(東京都制)時代の末期から 地元の板橋区では 練馬区独立の動きがあった。しかし(東京都には無視された形で)1947年3月15日に 35区から22区への再編が実施されたことを知りました。
同年5月3日の地方自治法への切り替え後に、新制度による板橋区議会が、練馬区新設を満場一致で可決。
これにより、ようやく 8月1日からの練馬区独立 が実現しました。

地方制度の変革時期に、このような一幕があったのは、それなりに有用な初知見でした。
しかし 抜粋された記載だけでは、分離独立の手続が「板橋区分割し、改めて(新)板橋区練馬区とを設置した」のか、「板橋区の一部を分けて 練馬区分立した」のか、何れかを判断することができませんでした。

そこで、正攻法の官報を調べることにしました。幸い練馬区発足は、国立国会図書館デジタルコレクションにより無料で閲覧できる範囲【1952(昭和27)年4月まで】に入っています。
検索画面で、キーワード:練馬区、刊行年月日:西暦1947年 を入力するだけで、簡単に 官報第6163号に到達しました。

昭和22年内務省告示第253号
地方自治法第283条において準用する同法第7条第1項の規定により、昭和22年8月1日より東京都板橋区の中 練馬及び石神井 両支所の所管区域を分け、その区域を以て 練馬区を置く。
昭和22年7月31日 内務大臣 木村小左衛門

このように、母体Aの法人格存続を「AのうちBを分け」という言い方で表すのが、「分立」です。[55654]

分割」と「分立」との混乱については、志紀町から分立[55649]、栗橋町[80441]、釧路村[93077]などでも問題にしてきました。
今回、その続編の練馬区のケースでは、内務省告示によりそれが「分立」であることを初めて知ったというわけです。
実は hmtの過去記事[74935]でも、「板橋区から練馬区分離して」という 曖昧な言い方をしていた のでした。

…というわけで、市区町村変遷情報の修正をお願いします。
板橋区の詳細:【分割とそれに伴う再置の情報なので】削除
練馬区の詳細: 変更種別を分立に改め、その根拠を示す。
この修正により、2種類の一覧表【東京都と1947年】は自動的に更新されるものと思っています。

[93756]の対象について
「市町村」ではありませんが、同類である「都の区」【地方自治法第281条第1項により特別区という】を対象に含めることにすれば、東京都練馬区も、「そのまま」存続している自治体の仲間です。

もっとも 練馬区70年の歴史を振り返ると、名前は変らなくても その実体が大きく変化した制度変更がありました。
hmtマガジン区制度の変遷に収録した記事では、制度変更に応じて記号を付けています。
練馬区誕生時の特別区(E1)は、1952年に東京都の内部団体(E4)になり、その自治権が揺らぎました。
「平成12年改革」で基礎自治体の地位を回復しましたが、まだ「市」とは違う「特別区」(E6)です。

詳しくは、[75018][75410]参照。

分立以来70年を迎えた練馬区分立後、市制、町制、改称、合併をせずに「そのまま」存続していることは確かです。
しかし 実体に踏み込むと、「そのまま」という表現には、少し問題があるのかもしれません。


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