都道府県市区町村
落書き帳

諸県郡

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[13251]2003年4月15日
中島悟
[66884]2008年9月28日
じゃごたろ
[66916]2008年10月4日
Issie
[66922]2008年10月4日
むっくん
[66927]2008年10月4日
hmt

[13251] 2003年 4月 15日(火)21:50:07【1】中島悟 さん
誰もふれていないのか?
[13194]通りすがりさん
誰もふれていない
昨日の今日でですか?
と、いうわけで
[13134]ともたんさん
「中」のつく地名が五ケ所
質問の解答にはなりませんが関連した話を一つ。
宮崎県の諸県郡(もろかたぐん)は明治初期に南北に分割し、
その数年後に北諸県郡の北部から「西」と「東」が分離しました。
南諸県郡は曽於郡に編入されて消滅したため現在では
「北」「西」「東」のうち北諸県が一番南にあるそうです。
新参者なのでもしすでに出た話題ならすいません。
[66884] 2008年 9月 28日(日)16:34:29じゃごたろ さん
牟婁郡と諸県郡
こんばんは、じゃごたろです。
寒冷前線が日本列島を通過して寒気が入り込んだ今日、かなり寒くなってきました。暖房がほしくなる季節ですが、ほんの数年前は18リットルで1000円でおつりがきた灯油も、現在は2000円を超してしまいます。

[66882] YSK さん
[66878] hmt さん

地方自治の成り立ちの歴史もあるのでしょうが、郡名としても似たような例がありますよね。

三重県の北牟婁郡と南牟婁郡、和歌山県の東牟婁郡と西牟婁郡。それぞれの県内でみれば南北、東西の方向は一致していますが、東牟婁郡よりもさらに東(北)に南牟婁郡、北牟婁郡があります。これは県を別にしていますが、同じ宮崎県内でも北諸県郡・南諸県郡の北側に東諸県郡・西諸県郡があるという地勢になっています。

これらは、東西南北と実際の地勢が一致していない例といえると思います。
[66916] 2008年 10月 4日(土)11:59:39Issie さん
鹿児島県日向国諸県郡
[66884] じゃごたろ さん
これは県を別にしていますが、同じ宮崎県内でも北諸県郡・南諸県郡の北側に東諸県郡・西諸県郡があるという地勢になっています。

この辺りは,現在の宮崎県が一時期(1876~83年)鹿児島県に合併されていたこと,さらにさかのぼると藩政時代に“日向国”に属する 諸県郡 が薩摩藩(鹿児島藩)の支配を受けていたことがあって,いささか複雑なのですね。

紀伊国牟婁郡 の場合は,1878(明治11)年の郡区町村編制法よりも前に「和歌山県牟婁郡」と「三重県牟婁郡」とに分割されていて,郡区町村編制法でさらに郡を分割するに際して,和歌山県の中では東西に,三重県の中では南北にと,それぞれ独立して別個に分割したのでしょうね。それぞれの県の分だけを見れば,東・西,南・北という分け方は妥当であるように見えます。

日向国諸県郡 の場合,明治4(1871)年7月の廃藩置県後,同年11月の府県統合で大淀川以南の区域が 都城県 に,以北の区域が 美々津県 に属し,1873(明治6)年に都城・美々津両県が合併して 宮崎県(第1次) に,そして1876(明治9)年に宮崎県全域が 鹿児島県 に編入されました。
したがって,1878年の郡区町村編制法は,「鹿児島県日向国諸県郡」として迎えました。で,この時には全域が 鹿児島県 に属していたので,諸県郡は分割されず,都城 に郡役所が置かれました。
ところが,1883(明治16)年に日向国の領域を以て「宮崎県」が再び設置されることとなり,諸県郡もその大部分が再置される 宮崎県 に属することとなったのですが,その際に 志布志 を中心とする郡の南部だけが 鹿児島県 に残ることとなりました。
そこで,宮崎県に移管されることとなった区域を「北諸県郡」,鹿児島県に残る区域を「南諸県郡」とすることにしました。これは,「武蔵国葛飾郡」のうち埼玉県分が「北葛飾郡」,東京府分が「南葛飾郡」,「下総国葛飾郡」のうち千葉県分が「東葛飾郡」,埼玉県分が「中葛飾郡」,茨城県分が「西葛飾郡」となったのと同じような措置です。
(※おっ,今はない郡名ですが,「北葛飾郡」よりも北に「西葛飾郡」という例が出てきましたね。)
「北諸県郡」の郡役所は従来に引き続き 都城町 に置かれました。その後,宮崎県は翌1884(明治17)年に「北諸県郡」を3分割することにしました。既存の「北諸県郡」は 都城 に郡役所があります。それに対して新しく設置する2つの郡は 都城 から見ると“北”の方にあるのですが,2つの郡同士の位置関係から,小林 に郡役所を置く「西諸県郡」と,高岡(現宮崎市) に郡役所を置く「東諸県郡」という呼称となりました。

なお,「南諸県郡」は当初, 垂水郷 の大隅郡役所の管轄とされ,1880(明治13)年の鹿児島県による大隅地域の郡再編後は東噌唹郡とともに 岩川郷(現曾於市)の郡役所の管轄となりました。そして,郡制の施行によって両郡が統合されて「噌唹郡」となり,「南諸県郡」の名が消滅するとともに,元は 日向国 に属していた志布志周辺は完全に 大隅国 に属することになりました(それ以前に,南諸県郡が鹿児島県に残った段階で 大隅国 に編入されていたかもしれません)。

ま,そんな経緯があったのですね。

ところで,自治体名でも郡名でもないのですが,私は東急東横線に乗っていて「白楽駅」の1つ横浜寄りに「東白楽駅」があるというのが,何となく飲み込めません。東横線は基本的に渋谷から横浜へ向かって 南・西 の方向へ伸びている,という感覚があるからです。
でも,この区間に限ってはわずかに東に振れているのですね。確かに「白楽駅」よりも「東白楽駅」の方がわずかに東にあります。それよりもずっと南にあるのですが。
まあ,間違いではないわけだ。
[66922] 2008年 10月 4日(土)16:15:08むっくん さん
Re:鹿児島県日向国諸県郡
[66916]Issie さん
郡制の施行によって両郡が統合されて「噌唹郡」となり,「南諸県郡」の名が消滅するとともに,元は 日向国 に属していた志布志周辺は完全に 大隅国 に属することになりました(それ以前に,南諸県郡が鹿児島県に残った段階で 大隅国 に編入されていたかもしれません)。
南諸県郡の所属国については法律第55号(M29.3.30)が根拠となります。同法では、
鹿児島県日向国南諸県郡及同県大隅国東噌唹郡を廃し其の区域を以て噌唹郡を置き大隅国に属す
(中略)
此の法律は明治三十年四月一日より施行す
とあるため、この点に関してはIssieさんのご推察の通りのようです。
しかしながら[62662](88さん)によりますと、鹿児島県に郡制が施行されたのはM31.4.1であるとのことですので、所属国変更が行われたのは郡制施行の時期より1年遡ることになるようです。

重箱の隅レスで、失礼しました。
[66927] 2008年 10月 4日(土)23:03:30hmt さん
「国界変更」により 日向国南諸県郡から大隅国噌唹郡へ
[66916] Issie さん
方角地名逆転・混線の発端[66878]「ふじみ野西口」の住民です。
東西南北諸県郡[66884]のうち「南」だけ宮崎県でないことには気がついたものの、コメントを躊躇している間に詳細な解説をいただき、ありがとうございます。

日向国諸県郡志布志周辺が大隅国になった時期。これが「南諸県郡」の消滅と同時の明治30年(1897/4/1)であることも確認したのですが、この件も既に[66922]むっくんさんのレスがありました。

実は、この南諸県郡がらみの変更は、3年前 [47002]てへへさんの問いかけの2番に関係していました。
“不明点は以下の3点です。
1、旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管された県界変更と同時に、本当に播磨美作の国界が変わったのか?(法令的には痕跡がない?検索単語があまいせいか?)
2、明治29年の鹿児島県での変更はどこか?(旧日向国諸県郡のうち鹿児島県に移管された南諸県郡と関係があるか?それとも旧大隅国菱刈郡が薩摩国伊佐郡に併合したことと関係があるか)
3、明治35年の京都府での変更はどこか?(見当もつきません)”

そして、[46981]にからめて書いた次の記載は、[47002]てへへさんの不明3点に対する回答になっていました。
[59173]hmt
“(1)明治29年法律第56号 第1条 岡山県及兵庫県の境界を変更すること左の如し
岡山県美作国吉野郡石井村を兵庫県播磨国佐用郡に編入し岡山県美作国吉野郡讃甘村大字中山を兵庫県播磨国佐用郡江川村に編入す
(2)「鹿児島県下国界並郡界変更及郡廃置法律」 明治29年法律第55号
日向国南諸県郡が大隅国噌唹郡へ、大隅国北大隅郡(桜島)と菱刈郡とが薩摩国鹿児島郡と伊佐郡へと、いずれも郡の廃置分合と共に国界も変更されています。
【薩摩国川辺郡だったトカラ列島が大島郡への所属変えで大隅国になった変更もあるので補足しておきます。】
(3)明治35年法律第14号 京都府丹後国与謝郡雲原村を同府丹波国天田郡に編入す”

「国界変更」を最初に持ち出したのは [36159]で、埼玉県下総国中葛飾郡が北葛飾郡に統合され武蔵国になった事例。

鹿児島県の場合に戻ると、郡の再編(1897/4/1)>郡制(1898/4/1)>府県制(1898/9/1)と少しずつ時期をずらせて旧制度を実施した後で、明治32年(1899/7/1)の(新)郡制と(新)府県制施行を迎えたことが、[62662]88さんのリストからわかります。

ついでに誤記?の指摘
なお,「南諸県郡」は当初, 垂水郷 の大隅郡役所の管轄とされ,1880(明治13)年の鹿児島県による大隅地域の郡再編後は東噌唹郡とともに 岩川郷(現曾於市)の郡役所の管轄となりました。
南諸県郡になったのが明治16年だから、その後の郡役所の管轄変更が明治13年ということはないですね。

鉄道と町名に関連して
東急東横線に乗っていて「白楽駅」の1つ横浜寄りに「東白楽駅」があるというのが,何となく飲み込めません。

現在は「東白楽」という町名がありませんが、昭和4年測図・昭和18年仮修正の 横浜市復興局三千分一地形図 を見ると、東白楽という地名があります。白楽駅付近には「西白楽」も。現在の横浜市神奈川区白楽は、両者を統合したものと思われます。


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