[30005]Issieさん
よく書き間違えがちな「対島」なら「2つの島」という意味がありそうな気もしますが,「対馬」には“2つ”という意味はどこにも全くないように感じるところですけど,いかがなものでしょう。
「対馬」という地名はいわゆる“魏志倭人伝”の「始度一海、千餘里至對馬國」で使われ、わが国の正史でも「ツシマ」にあてる字として採用され、今年3月発足の「対馬市」に至るまで“正式の表記”とされています。しかし、對海國・對馬國とする三国志異本もあり、隋書の「都斯麻」、古事記の「津島」など他の表記もあります。
要は、「ツシマ」という地名に後からあてた漢字表記はいろいろあり、「対島」が“正式の表記”でないからと言って、すべて排斥されるべきものではないと考えます。もちろん“確信犯による異表記”と“対馬の誤記”との両方が存在しており、時代や書類の種類によっても判別することは困難かもしれません。
「対島」が「2つの島」か否かは、みかけの漢字よりも「ツシマ」と発音する地名の由来であると思います。「津島」=「船の着く島」説(本居宣長、
[18618]U+3002さん)が有力ですが、浅茅湾を間に抱えた上県と下県は、律令時代より前から「ペア」の存在でした。
17世紀に大船越瀬戸、日露戦争前に万関瀬戸が開削される前の対馬は、幾何学的には「1つの島」だでした。しかし、国道382号で縦断できる現在と異なり、浅茅湾を船で連絡していた時代には「南北1ツイをなす2つのシマ」との認識もあったと考えます。
「信州」と同様の呼び方「対州」は、「ペアになっている国」という意味にもとれる表現です。特に「壱州」の隣にあるので。
当地は対州馬の産地だった頃もありましたが、魏志倭人伝の時代には「馬」はおらず、「対馬」は当て字でしょう。
「馬韓に対面する島」説もありましたが、対岸はむしろ辰韓。
韓国の学者によるtu-sem(二島)説もあります。(韓国からは2島に見える。)また、対馬は対島の蔑称であるという説もあるようです。
http://www.dcn.ne.jp/~kozoku/Johuku-anngoh.html
このように諸説紛々ですが「ツイをなすシマ」説は捨て難く、
[30000]では“少し怪しい数字島群地名”に拾い上げておきました。
「対馬」の意味もさることながら、近年まで使われていた「上島」・「下島」の名称も謎に満ちています。
[18748]なきらさん
帝国書院1949年発行の「The New SCHOOL ATLAS」…下島(対馬)435…上島(対馬)247 …(単位km2 出典1948理科年表)…
1960年ころまでの地図帳には、上・下島の表示があったような気がします。小さい島が上島、京都に近いですね。
「復刻版地図帳」1934年版、1950年版共に厳原のある南側の島(小さい島)に「上島」、北側の大きい島に「下島」と記されており、1973年版になると地図からは上島・下島の名称が消えています。
吉田東伍:大日本地名辞書(初版1901)の記載は次のとおりです。
上島(かみのしま):対馬の南島にして即下県郡なり。…
下(しも)島:対馬の北島にして即上県郡併に下県郡仁位郷の地なり。…
上島が下県郡、下島の大部分が上県郡と逆転している!!
まあ、これらの記載から、20世紀前半を含むある時代には、南が上島、北が下島だったことがわかります。
朝鮮半島により近い北の島、いわば日本の外側の下島には、今年の2月まで上県郡上県町や上県郡上対馬町がありました。ここが「上」であるという理由付けとして、大宰府以前には、上県から日本海航路で上京する方近かったという説 を紹介しました
[26381]。「上島」・「下島」は交通体系が変った後の命名なので、上下関係が郡の場合とは逆転したのでしょうか。
「上島・下島」と「下県・上県」の逆転に加えて、更に不思議なことがあります。
今度は 昭和13年文部省検定済・朝鮮総督府検定済「改訂新選詳圖・帝国之部」
[22569]を開いてみました。この地図帳は前記「復刻版地図帳」1934年版の少し後の版で、ほとんど同じ内容です。ところがこの地図帳ではなんと北側の大きい島が「上島」に改訂され、上下関係が郡と一致しているではありませんか!!
それが戦後(1949、1950)の地図になると再逆転しているのですから理解に苦しみます。
次に、付録の「おもな島の面積」を見ます。1949年版で 下島(対馬)435km2、上島(対馬)247km2。
ところが、1973年版では、対馬(下県郡)435km2、対馬(上県郡)247km2。「上島・下島」が地図の注記から消えたのに合わせて島名は対馬になりましたが、“2つ”の島を郡で区別しています。面積の小さい方が上県郡となっている間違いのまま、昭和46年4月10日文部省検定済。
地図帳のデータは前年の理科年表を引用していますが、更に遡ると国土地理院のデータで、現在は696km2の“1つ”の島になっています。地図帳によるとどうやら先に島の名称の統合があり、その後1970年代に面積の統合があったようです。
対馬では、元禄以降は郡の境界が島の境界と一致しなくなりました。上県郡(最終的には3町)はすべて下島にあったが、下県郡は上島の厳原町・美津島町と下島の南部にある豊玉町で構成されていました。(美津島町の一部や付属島の帰属に目をつむって単純化した記述です。)