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落書き帳

デ・レーケ

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[20690] 2003年 10月 6日(月)18:04:15【1】YSK[両毛人] さん
木曽三川分流工事の歴史
[20683]深海魚さん
合流しそうでなお、堤防を挟んで河口まで並行する形を採る上記両河川(註:木曽川と長良川)も、何やら含蓄がありそうで独特の雰囲気です。
これは、木曽三川の分流工事によるものですね。
濃尾平野では、木曽川、長良川、揖斐川という大きな川が収束する地勢のために水害に悩まされていまして、居住空間を堤防で取り囲んだ「輪中」を形成してきました。

江戸時代に入り、木曽川左岸(東岸)に西国からの防衛を目的から、尾張徳川家の藩祖となる徳川義直が堤防「御囲堤(おかこみてい)」を築き、木曽三川の合流部ではかえって災害が激しくなったのだそうです。そこで、木曽三川の最初の大規模工事である、「宝暦治水」です。これは、西国の有力大名であった薩摩藩の弱体化を狙って、幕府が薩摩藩に命じた工事のようで、当時の木曽川と長良川は下流部で1つの川になっていたようで、さらに木曽川+長良川と、揖斐川が現在の海津町南端の部分において合流していたため、この工事はこの地点における三川の分流を主目的に実施されたそうです。

長良川と揖斐川の背割堤に「千本松原」があります。その堤防の揖斐川河川敷に、85名の薩摩義士がまつられている「治水神社」があるそうです。

「長良川紀行」千本松原・治水神社
http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub5/4tisuiginsya.htm

また、明治期にもオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケによる木曽三川の分流工事が行われ、木曽三川は完全に分流して流れるようになりました。深海魚さんご指摘の合流しそうで河口まで並行する木曽川と長良川との間に背割堤を設け完全分流にしたものです。

「三川分流」ってなーに?
http://www.mint.or.jp/nagashima/html/page14.htm

千本松原の美しい松並木や、木曽川と長良川との間の長大な堤は、このような、濃尾平野における治水工事の壮絶な歴史を物語っているのですね。
[50010] 2006年 3月 22日(水)23:11:38【4】むっくん さん
書き込み50000番達成記念!「希少地名 (一般)」コレクションの「ワンド」の考察
現在、「希少地名 (一般)」コレクションにおいて「ワンド」の地形の種類は“湖の湾入部”と“川岸の入江”に分類されています。果たしてそれが妥当な分類なのか、そして、「ワンド」を地名コレクションとして集める価値のあるものなのか、という疑問を私は持ちました。以下に考察します。
まず「ワンド」には(1)自然に出来たワンドと(2)人工的に整備されたワンドの2つ([30741]愛比売命 さんも推測されておられます)があります。具体的には、
(1-a) “水制”を造成した後に自然に「ワンド」となるもの(詳細は後の「淀川ワンド」で説明します)
(1-b)“川岸の入江” や“湖の湾入部”
(2)将来的に多様な生態系を持つワンドとなるように河川敷に作られた池
と分類されます。(2)の人工的に整備されたワンドは現在
多自然型河川づくりの整備手法の一つ([30741]愛比売命 さん)
として位置づけられているため、国土交通省によって現在積極的に作られています。

それでは最初に大阪府の欄にある「淀川ワンド」([29921]牛山牛太郎 さんによる)を考えます。
「淀川ワンド」は100%自然に出来たわけではありません。「淀川ワンド」の出来るまでを見てみると、
1.川の水路を固定すると同時にその水深を維持するために、川の流れに直角に石を積んだT字型の枠みたいなもの(水制)を築き、
2.長い年月の経過で、水制に土砂がたまって、本流沿いにたくさんの池が誕生する。これらの池がワンドと呼ばれるようになる。
以上のような過程((1-a)に分類される)で「淀川ワンド」が出来ました。
詳しくは淀川河川事務所(国土交通省)の HP1HP2の整理番号438を参照願います。
さて本論に入りますと、建設省〈現在の国土交通省〉の資料(淀川工事事務所河川環境課「平成のワンドづくり」~人と自然にやさしい川づくりセミナー論文集 1992.12.1/東京)を引用しますと、「淀川ワンド」におけるワンドとは
水制に囲まれた本流沿いにある池
と定義され、水制とは、
流水の制御または河岸および海岸の洗掘防止を目的として設けられた工作物
と定義されます。
これらの厳密な定義からすると、「淀川ワンド」の地形の種類は“川岸の入江”ではなくて“河川敷の、川とつながっている(もしくは雨が降ったときのみにつながる)小さな池”と表記するほうがよさそうです。

第2に[30733]でYSK[両毛人]さんが紹介された茨城県北浦にある
金上ワンド(北浦町)、山田ワンド(北浦町)、吉川ワンド(北浦町・麻生町)、蔵川ワンド(麻生町)
についてですが、「ウォッちず」を見る限りでは、「淀川ワンド」同様に護岸のために水制を造ってはありますが、単に水制があるだけなので自然に出来た“湖の湾入部”((1-b)に分類される)とするのがふさわしいと思われます。

第3に山梨県の平野ワンド([30306]倉田昆布[昆布in]さんによる)については「ウォッちず」を見る限りでは、護岸のために水制を造った形跡もありません。しかし、人工的にワンドを造成する方法として入江をひろげてワンドにする方法(広い意味で(2)に分類される)もあります。ただ、河口湖の入江をひろげてワンドにするというのは考えにくいため、自然に湖にできた“湖の湾入部”((1-b)に分類される)と考えるのが妥当であると思われます。

第4に笠岡市の「湾頭」([30752]みかちゅう さんによる)は過去に“河口の入江”((1-b)に分類される)であったものと推定され、現在はワンドではないと考えられます。また、三浦半島の海岸のワンド([30742]今川焼 さんによる)は場所が完全には特定できませんでしたので何に分類すればいいのかが分かりません。

最後になりましたがここ5年で現在(2)の手法による「ワンド」が全国で激増しています。「ワンド」を集めるとしたらおそらく(1)に分類される“自然に出来たワンド”に限定することが必要であると思います。そこでおそらく(2)に分類される、荒川にある五反野ワンド,小菅ワンド([30742]今川焼 さんによる)は地名コレクションに採用しないほうがよいと考えられます。

補足1
[30742]今川焼 さんによると
淀川のワンドというのは、いくつものワンドの総称
とのことですが、「淀川ワンド」([29921]牛山牛太郎 さんによる)としてまとめてよぶことが果たしてふさわしいのかを検証します。
まず、淀川は大きくかけて2度の変貌をとげています。1度目は1887年(明治20年)デレーケによる構想です。1874年(明治7年)~1896年(明治29年)、1897年(明治30年)~1910年(明治43年)、1907年(明治40年)~1922年(大正11年)、1939年(昭和14年)~1968年(昭和43年)の4期にかけ淀川流域に主として水制を作る工事が行われ、これらの工事後の水制に土砂が堆積して淀川流域に数多くの「ワンド」が出来ました。2度目は1971年(昭和46年)に高水対策を主目標としての構想です。この工事では多くの水制を除去したために淀川流域の多くの「ワンド」が失われました。
ちなみに淀川流域の「ワンド」の数を年度別に記すと、
1968年(昭和43年)…約500
1975年(昭和50年)…約130
1992年(平成4年)…約70
現在…約45
となります。
このように、土木工事により年々淀川流域の「ワンド」の数が変化することからすると淀川流域の「ワンド」の総称として「淀川ワンド」を用いざるを得ないと私は考えます。

補足2
淀川河川事務所のHP(GIF)に淀川流域に現在約45あるワンドのうち7つのワンドが記載されていたので以下に紹介します。
(ア)樟葉(くずは)ワンド
(イ)点野(しめの)ワンド
(ウ)鳥飼(とりかい)ワンド←この図での中央部付近の北緯34度46分11秒,東経135度35分11秒付近です
(エ)庭窪(にわくぼ)ワンド群
(オ)夜雲(やぐも)ワンド
(カ)平成(へいせい)ワンド
(キ)城北(しろきた)ワンド群
ただ、このうち(カ)の「平成ワンド」は(2)の手法による「ワンド」として平成になってから作られました(大阪市淀川区HP)。そのため、「平成ワンド」は人工ワンドと呼ばれています。

補足3
(1-a)に分類される水制由来のワンドは、既出である淀川河川事務所(国土交通省)のHP2に記載されている河川流域をさがせばいいのではないかと私は考えます。具体的には、
十勝川、石狩川、尻別川、藤琴川(米代川水系)、米代川、最上川、北上川、阿武隈川、鬼怒川・小貝川・烏川・江戸川(利根川水系)、釜無川・笛吹川(富士川水系)、千曲川(信濃川水系)、犀川(信濃川水系)、黒部川、常願寺川、手取川、梯川、安倍川、天竜川、矢作川、木曽川・長良川(木曽川水系)、大谿川(円山川水系)、旭川、高津川、太田川、吉野川、那賀川、石手川(重信川水系)、肱川、物部川、仁淀川、四万十川・後川(渡川水系)、六角川・牛津川(六角川水系)、筑後川・早津江川・諸富川(筑後川水系)、菊池川、山国川、番匠川、大淀川
です(ただし、河川名と同一の水系に属する水系を省略して表記しました)。

以上、拙書込みにお付き合い下さいましてありがとうございました。
#心より50000書き込みをお祝い申し上げます。

#「てにをは」を訂正
[66785] 2008年 9月 16日(火)19:39:42【1】hmt さん
境界線について(9) 県境を越える 渡し舟
「県境の交通路」コレクション は、県を越える道路・鉄道と峠が対象になっており、県境の渡し舟は、「矢切の渡し」が おまけ のような形で登場しているだけです。

「野菊の墓」の舞台である 矢切の里 は、伊藤左千夫の小説が発表された明治後期には東京近郊の農村で、既に明治大合併で成立した千葉県東葛飾郡松戸町の一部になっていました。

戦後に木下惠介監督の映画「野菊の如き君なりき」(1955)を見た後で、手漕ぎ和船の「矢切の渡し」に乗りに行ったことがあります。
映画にも登場した当時の船頭さんは杉浦浅太郎さん。
現在もその息子の正雄さんと孫の勉さんの代に引き継がれている個人経営の渡し舟ですが、その本質は「県境の交通路」というよりも、観光船ですね。

矢切の渡しで江戸川を渡った対岸は東京都葛飾区柴又。寅さんだけでなく、「帝釈人車軌道」[61507]でも落書き帳に登場。
また、帝釈天のすぐ北にあるのが金町浄水場。昔は悪評をとった水質も、1992年以降は高度浄水処理によって向上[58751]
「矢切の渡し」の歌謡曲は、1983年に細川たかしの歌がヒット。

次に利根川の渡し舟を調べてみます。
利根川下流の香取市(旧小見川町)にある富田渡船。ここは[65807]で記したような歴史的経緯による下総国で、県境は更に北の常陸利根川。
茨城県では、取手の小堀の渡し[65697]が落書き帳の話題に出ていますが、ここも県境でない!
利根川上流の島村渡船。伊勢崎市(旧境町)の飛び地(2県にまたがる保育園[64362] 逆太郎 さん)への足。これも県境でない。

結局のところ、利根川における県境の渡し舟は、群馬県千代田町赤岩と埼玉県熊谷市葛和田とを結ぶ 赤岩渡船 が唯一の存在と思われます。

次に、木曽川・長良川の流れる愛知・岐阜県境の渡し舟を上流側から。
中野の渡し(愛知県営西中野渡船場) は、名神高速道路と新幹線とが並んで木曽川を渡る地点から2kmほど下流。愛知県一宮市西中野の対岸は岐阜県羽島市。

ここから更に下ると、木曽川は長良川とより沿いますが、合流はせずに背割り堤を隔てて並流します。
1887~1912年にオランダ人技師ヨハネス・デレーケの改修計画に基づいて行なわれた 「三川分流工事」 [20690]YSKさんの区間ですが、背割り堤は上流側が岐阜県、下流側が愛知県の所属。従って、県境は上流側は引き続き木曽川ですが、下流側は長良川に移る区間があります。

日原渡船(塩田の渡し)の場所では、愛知県愛西市(旧八開村)塩田と岐阜県海津市日原との県境は木曽川で、愛知県渡船が「県境の交通路」。隣の長良川にも岐阜県渡船がありますが、こちらは県境に該当せず。
ところが、それよりも少し下流の森下渡船の場所になると、岐阜県海津市森下と愛知県愛西市葛木との県境は、背割堤防の西側の長良川になります。
この岐阜県の森下渡船、以前の木造船を老朽化で廃棄した後、新調する費用がないので、現在は必要に応じて 2.6km上流の日原の舟を回送して共用。従って、 予約が必要
東側を流れる木曽川にも葛木渡船があるが、こちらは両岸愛知県なので、県境の交通路に該当せず。

結局のところ、愛知・岐阜県境の渡し舟は、木曽川が一宮市西中野と愛西市塩田、長良川が海津市森下で、合計3箇所。

京王閣競輪の開催日には、貸ボート屋が多摩川対岸(京王稲田堤)との間に 渡し舟 を運航しているそうです。片道300円は電車に比べて高いが、利用者は川崎側の土手に駐車したドライバー。これも都県境の交通路?
昔は「菅の渡し」という渡し場だったとか。
[67664] 2008年 12月 21日(日)21:19:38hmt さん
淀川の源流・川の立体交差
[67648] [67656] むっくん さん
高時川を紹介していただき、ありがとうございました。
歴史上でも有名な「姉川」ですが、「妹川」がいたことは初めて知りました。
しかも、この「妹」は「姉」よりも長い! (本流より長い支流[67150]

リンクしていただいた 資料 には、北国街道栃ノ木峠に近い所にある「淀川の源」の石碑の写真がありました。
流域面積の割には本流の長さが異常に短い淀川ですが、源流を遡ればここまで来るのですね。
でも「妹川」の地位に甘んじているのは、水量が伊吹山地から流れてくる「姉川」に負けているからだろうと思います。上記の資料には、合流点付近で“川底をさらけ出して断流している無惨な高時川の姿”とありました。

姉川と妹川(高時川)との間を流れる田川は、洪水の度に 三川合流地点からの逆流に苦しみました。錦織で高時川の下を潜る立体交差によって琵琶湖に直接放流する水害対策が 万延元年(1860)に行なわれ、更に明治17年(1884)に オランダ人技師デ・レーケ による現在のコンクリート製暗渠に改修されたのでした。

[67651] 日本人 さん
用水路がありならば
[67656] むっくん さん
用水や疏水などの人工河川?をいれると数が膨大になるような気がします。
ということですが、「川の立体交差」は本質的に「人工河川」です。田川の場合も下流部は「人工の放水路」に他なりません。

[67650] geo さん
見沼代用水の上を綾瀬川が通るここ【上尾市瓦葺】なんかもそうです。

享保の改革における新田開発の一環として、紀州出身の幕臣・井沢弥惣兵衛為永が「見沼」溜井に「代」わる水源を利根川に求めて建設した、幹川水路約70kmに及ぶ「用水」です。天然河川(星川)の流路を利用した部分(約17km)もありますが、大部分は人工水路です。

この事業は、見沼に代わる灌漑用水を確保して、低地のあちこちにあった沼や溜井を干拓するだけでなく、見沼新田の排水と洪水対策用に芝川を開削、用排水路は舟運にも役立てるという総合開発でした。
見沼代用水自体は自然給水を可能にするために やや高い位置に作られており、江戸までは通じていません。そこで、これと芝川との間を 閘門式の運河 で連絡し、年貢米を江戸に運ぶことができる水上輸送路としたわけです。これが 見沼通船堀 です。

ところで、geo さんがリンクした地図ではわからないのですが、瓦葺伏越(下流から撮影) という写真を見ると、手前を流れる綾瀬川よりも、画面の奥(蓮田市)に水門が見える見沼代用水の方が高い位置にあることがわかります。
つまり、“見沼代用水の上を綾瀬川が通る”よりも、“綾瀬川の下を見沼代用水が伏越(ふせごし=サイフォン)で潜る”の方が適切な表現なのです。

実は、江戸時代の見沼代用水は、享保13年(1728)の開削当初から ずっと掛樋(かけとい)、つまり水路橋で綾瀬川を越えていました。盛土による高架用水路としては 掛樋の方が自然であり、舟の通行も可能です。参考までに、綾瀬川よりも川幅の広い元荒川を横断する 柴山 では、江戸時代から伏越構造であったため、1760年までは通船のための掛樋も設けられていました。

瓦葺掛樋の脇には瓦葺河岸(現・上尾市)が設けられ、見沼代用水と綾瀬川と2つの水運路のインターチェンジとして、年貢米だけでなく、帰り舟による肥料・生活物資の集散地にもなりました。

このように、瓦葺掛樋は舟運の盛んだった時代には重要な地位を占めていましたが、構造的に脆弱な木製高架橋の維持管理は結構大変で、幕府の費用による公共事業とはいうものの、地元の農民も動員されたようです。
明治になり煉瓦製の下部構造と鉄製の樋に改築されたのも束の間、歴史に残る明治43年(1910)の大洪水で倒壊の憂き目に遭いました。

現在の見沼代用水は、水資源開発公団による利根導水路の一環として、1968年に建設された利根大堰から取水しています。そして、綾瀬川との交差部分の構造も、240年ぶりに伏越に変更されました。

見沼代用水は綾瀬川をくぐった後,東縁と西縁に分岐します。
リンクしたページの写真・瓦葺伏越の入口(下流から撮影)にあるように、蓮田市側の水門で別々の水路になり、並んで綾瀬川をくぐった後で東西に分かれます。


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