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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[22470]2003年12月2日
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[28294]2004年5月15日
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[29086]2004年6月7日
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[34159]2004年10月13日
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[34231]2004年10月15日
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[39147]2005年3月30日
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[40207]2005年4月23日
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[40889]2005年5月8日
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[42450]2005年6月18日
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[42658]2005年6月29日
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[42835]2005年7月5日
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[42889]2005年7月7日
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[42994]2005年7月13日
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[43689]2005年7月28日
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[43937]2005年8月7日
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[47300]2005年12月10日
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[47334]2005年12月12日
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[51787]2006年6月16日
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[51790]2006年6月16日
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[52889]2006年8月1日
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[56419]2007年1月25日
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[57237]2007年3月10日
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[57377]2007年3月21日
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[57407]2007年3月24日
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[58234]2007年5月1日
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[59271]2007年6月19日
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[64963]2008年5月3日
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[65216]2008年5月22日
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[65257]2008年5月26日
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[65418]2008年6月5日
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[65471]2008年6月9日
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[65885]2008年7月28日
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[66030]2008年8月13日
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[67150]2008年10月28日
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[67302]2008年11月18日
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[68789]2009年3月8日
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[70109]2009年5月13日
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[70715]2009年7月4日
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[70843]2009年7月16日
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[73413]2009年12月27日
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[74963]2010年4月17日
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[75031]2010年4月26日
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[75121]2010年5月16日
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[75427]2010年7月1日
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[75432]2010年7月2日
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[78207]2011年5月10日
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[78708]2011年7月4日
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[78719]2011年7月6日
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[79651]2011年11月20日
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[82265]2012年11月26日
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[82382]2012年12月26日
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[83639]2013年6月26日
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[84218]2013年10月12日
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[84493]2013年12月1日
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[84546]2013年12月16日
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[84638]2014年1月2日
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[85784]2014年7月1日
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[86400]2014年9月23日
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[86697]2014年11月19日
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[86788]2014年12月12日
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[88640]2015年8月14日
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[88837]2015年9月29日
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[89249]2015年12月5日
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[89260]2015年12月8日
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[89541]2016年1月9日
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[91561]2016年10月4日
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[91562]2016年10月4日
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[97006]2018年11月18日
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[97079]2018年12月7日
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[100684]2020年10月21日
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[100701]2020年10月22日
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[101431]2021年3月1日
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[22470] 2003年 12月 2日(火)22:07:17hmt さん
建物があったから県庁が来た + 色々なバス
[22449]夜鳴き寿司屋 さん
明治期の県庁移転の理由が三重県などのように県庁に使用できる大きな建物
埼玉県は当初は岩槻に県庁を設置する予定で県名も埼玉郡から付けられた
その通りです。明治4年(1871)7月の廃藩置県後、同年11月に全国的な県の統合があり、埼玉県もこの時に誕生しました。[21976]参照。現在の埼玉県東部約3分の1の地域、江戸川の少し西にある 庄内古川=昔の渡良瀬川 から荒川までの間です。県庁の位置は この県域の中心を占めた埼玉郡の岩槻町とされ、県名もこの郡名によりました。
しかし岩槻には庁舎として適当な建物がなく、浦和宿の旧浦和県庁舎を仮に使いました。

埼玉県の県域はこの後で 東は江戸川まで(1875)、西は 荒川から秩父までの 旧入間県の範囲に拡大し(1876)、明治23年(1890)9月23日に 浦和が正式に埼玉県庁の位置になりましたが、県の名は埼玉のままでした。これが「埼玉にない埼玉県庁」のいわれです。[20917]参照。

[22435] EMM さん
北陸鉄道バスは「赤バス」、国鉄バス(当時)は「青バス」
むかしむかし 東京市営は「黄バス」、東京地下鉄道 (1938年に東京乗合自動車を合併) は「青バス」でした。戦時交通調整により 市営>都営バスに統合。
「銀バス」とか 車体の色を付けた呼び名は各地にあると思います。
[28294] 2004年 5月 15日(土)17:14:16【1】hmt さん
よみかき・そろばん
[28245]EMMさん
なんでも、水系単位で電力会社が決まっているそうです。
[28251]かすみさん
電力会社の再編成(1951年5月)において「1水系の水力発電開発は、1社に任せて総合的な開発を期待する」
発電・送電設備が主たる消費地に直結するものは、その主たる消費地の会社が受け持つ
木曽水系については(関西電力)東海支社が管理

電力会社ごとに 水系単位で開発する という方式は、ずっと昔から実行されてきたようです。
松村博「日本百名橋」36 電力王の夢を架けた桃介橋(鹿島出版会,1998)には、次のように書かれています。
読書発電所は福沢諭吉の女婿で、電力王といわれた福沢桃介が設立した大同電力㈱によって建設された。福沢桃介は一河川一会社主義を主張し、大正7年には木曾川の電源開発に着手し、(中略)各発電所を建設、読書発電所はその総決算ともいえるものであった。

「大同電力」は木曽川水系の水力を開発して関西への送電線も持つ電力会社でした。発電所は長野県、岐阜県に所在しても、消費地の関西地方に直結する電力だから、戦後の再編成で関西電力(東海支社)になったわけです。
戦前に「日本電力」が開発した富山県の黒部川水系が関西電力(北陸支社)になり、戦後 関西電力の手で「クロヨン」が完成したのも、ほぼ同じ事情です。「日本電力」は、黒部峡谷の“日電歩道”に名を残しています。
この2社は卸売り主体でしたが、関西地方における需要家を握っていたのは現在の関西電力の前身の中核「宇治川電気」です。その卸売りが小売に手を広げて大混乱…という話は地理から脱線しすぎるのでよします。

宇治川電気の名は、鉄道ファンの方はご承知かもしれません。現山陽電鉄の前身を兼営していました。
電力と電鉄の兼営は戦前は多数あり、すべて戦時体制で分離されました。現在では関西電力大町トンネルの無軌条電車が唯一の兼営事例でしょう。

戦前には、「東京電灯」と上記の関西3社、それに名古屋で勢力のあった「東邦電力」[19892]を五大電力と呼んでいましたが、その他 各地に多数の電力会社が存在し、[28234]で紹介した入り乱れた周波数地図となる原因になっていました。
戦争の時代になると統制が強まり、1942年には国策会社日本発送電と 9配電会社による電力国家管理となりました。
戦後の 1951年に「電力の鬼」松永安左ヱ門[19892]が、反対論を押し切って電力再編成( 9社による分割民営化)を強行し、現在 (沖縄電力を加えて 10社) の体制になりました。

閑話休題 (それはさておき)
読書発電所という名前には、ちょっと関心をそそられます。

筑摩県筑摩郡読書村 (よみかきむら) は、明治4年の合併の際に江戸時代からの與川 (よがわ)・三留野 (みどの)・柿其 (かきぞれ) 3村の頭文字を取って合成した村名でした。「豊科」[908]と同様の命名法ですね。
現在は長野県(1876年)木曽郡(1878年西筑摩郡から1968年木曽郡に名称変更)南木曽町(なぎそまち)読書(1961年合併)。中央本線の駅名も1968年に三留野から南木曽に変りました。三留野は中山道の宿場町で、次の妻籠宿も南木曽町です。

1923年運用開始の読書発電所は、1994年12月、近代化遺産として国の重要文化財に指定されています。現在稼働中の発電設備が重要文化財に指定されたのは、日本最初のことでした。指定の対象は、発電所本館、水槽、水圧鉄管、柿其水路橋と南木曽町所有の桃介橋です。

その桃介橋に自分の名を残した福沢桃介は福沢諭吉の養子で女婿ですが、教育者の養父に反発して、「そろばん」の方の道に進みました。株相場で儲けた資金を使って電力事業等の実業界で活躍したのです。松永安左ヱ門とはよきライバル関係だったと言えるでしょう。
関西電力HPの経歴 http://www.kepco.co.jp/tokai/kisogawa/momosuke/momosuke.htm からは省かれていますが、川上貞奴とのロマンスは有名でした。
せっかく地名の話題に戻したのに、最後にまた脱線。

【1】長野県西筑摩郡読書村は南木曽町に合併する直前の村名だったので、明治4年の筑摩県に遡って修正しました。
それにしても県名、郡名が変っているものですね。「曽」の字体変更まで加えればもっとあるわけで…。
[29086] 2004年 6月 7日(月)23:27:24hmt さん
SOS・ウナヘマ
[29068]EMMさん
urgentの上2文字、urを電信の最初に打つと至急電を表します。
モールス信号では「・・- ・-・」となります。
かなのモールスでは「・・-」は「ウ」、「・-・」は「ナ」なのです。

なるほど。urgentが語源ということは聞いていましたが、モールス信号が仲立ちで「ウナ」になったとは気がつきませんでした。昔からの疑問が氷解。

英文のモールス信号といえば、「SOS 」=「・・・ --- ・・・」が有名です。簡潔で判別し易いために、それまでのCQD(Come Quick Danger)に代って1906年に採用されました。
タイタニック号の遭難信号 http://www.cleandenpa.net/museum/study/cap3/cap3_1.htm を見ると、「CQD」を発信してから 「ア、SOSに代ったんだ」と気がついて、「SOS」を発信したのでしょうか。

[29065] N-H さん
「トカホセ」「カレチ」「ウテシ」などのマニアックな電略

「東海道本線」「乗客専務車掌」(レチの語源は列車長)「運転士」ですね。
「ウナ」の方は、鉄道のような業務電信だけでなく、公衆電報にも使われ、一般的な用語になっていました。
用例:ウナヘマ=至急返事を待つ
[34159] 2004年 10月 13日(水)22:24:31hmt さん
秋葉原・小手指ヶ原・勝瀬原・安達ヶ原
秋葉原
[34126]EMM さん
鎮火神社自体が明治2年にできた比較的新しい神社なのだそうです。
なるほど。明治2年の大火を機に、江戸時代から神田川北岸にあった空地の他に 新たな火除地を設け、翌年 ここに秋葉大権現を勧請したというわけですか。切絵図になかったわけです。
神社→秋葉原駅の住所は第五大区→神田区→千代田区ですが、「台東区秋葉原」という町名があります。[34129]の分類では、(2)ですか。
[34120]を書いた後で「あきばっぱら」という呼び方があったことを思い出したのですが、これも秋葉原の歴史にありました。
学生時代、当時総武線の終点だった御茶ノ水駅で、千葉県から来る「担ぎ屋」によく出会ったものですが、あのオバサンたちは正統的な「あきば」という呼び方をしていました。

小手指ヶ原
埼玉県入間地方で最も有名な「原」は、「小手指ヶ原」でしょうか。1333年に新田義貞の鎌倉めにおける幕府軍との合戦場として歴史に残っています。西武の駅名は「小手指」で、駅前の所沢市小手指町など、地名としては「原」が付いていないようです。もちろん古戦場付近も原野のままである筈はなく、畑になっていましたが、始発電車が多い通勤好適地なので、宅地開発が進んでいることでしょう。

勝瀬原
知名度からいうとゼロに近い存在ですが、実はhmtの地元では、「富士見市勝瀬原特定土地区画整理組合」が、1986年から事業を進めています。東武東上線の「ふじみ野駅」が1993年に開業したのもその一環です。
たしかに区画整理事業開始前は、原野に近い状態でした。これが本来の「勝瀬原」か? いやいや、これは自然の「原」ではなく、将来の開発を当て込んだ土地投機により、耕作放棄状態になっていた土地と思われます。
「勝瀬原」という名前自体、区画整理事業開始前には聞いたことがありませんでした。どうやら都市化を前提とした事業のために新たに作られた「原」地名のようです。

安達ヶ原
コレクションに入れないような「原」ばかりでは申し訳ないので。
「原コレクション」に安達ヶ原(福島県本宮町)がありますが、鬼婆伝説で知られる「安達ヶ原」は、二本松市にあります。
本宮町にも同じような伝承があるのかな?

その他「相模原市・相模原台地」からの連想で「伊勢原市」とか、「中津原台地」とかも浮びましたが、接尾語の付かない単独の「原」地名としては、もう一つですね。
まあ、「相模原」も 「相模原町」発足の時から普及した地名で、それ以前は、むしろ「相模野」だったような気がするのですが。
[34231] 2004年 10月 15日(金)21:24:21hmt さん
千代田城の秋葉三神・牢屋ヶ原
[34216]EMMさん
鎮火神社の由来が「宮城内の紅葉山より鎮火三神を奉遷し」となっており、先日ご紹介した「秋葉原の歴史」に書かれた内容と微妙に異なっています。

直接には紅葉山からとしても、元をたどれば遠州秋葉山ですね。
千代田城自体も火災には悩まされており、天守閣は1657年、本丸殿舎は1863年、二の丸は1867年の火災以後再建されていません。というわけで皇居になった西の丸も、鎮火三神の霊験なく、1873(明治6)年に焼失。伊能図の正本はこの時に失われました。

このような火災の脅威はこの後も実感されており、1891年1月の帝国議事堂焼失の原因が漏電と発表されると、宮内庁では皇居での電気の使用を中止してしまいました。民間でも契約破棄が相次ぎ、存亡の危機に立った電灯会社は、必死に安全確保と啓蒙に努め、1893年には皇居でも電灯の使用が再開されました。

神田に秋葉の鎮火神社を下された英照皇太后は、孝明天皇の女御で、五摂家出身の九条夙子です。少し前までは、“女御”という言葉が生きていた時代だったのですね。参考までに、明治天皇の生母は中山慶子権典侍で、誕生日11月3日(天長節→明治節→文化の日)は太陽暦換算です。当時の暦では嘉永5年9月22日でした。

秋葉神社の縁が切れてしまっている訳ではなく、秋葉原駅に隣接するラジオセンターの2階に分社があるそうです。
ラジオセンター2階に見当たりません。どこかの店内でしょうか。

明治初期の「原」地名を一つ。
「牢屋ヶ原」。有名な伝馬町の牢屋敷を引き継いだ囚獄が、1872年に市ヶ谷に移転した後の荒れ野原です。
幕末から明治維新への混乱期にも被害が少なく、江戸時代と変らぬ繁栄を続けていた日本橋の近くなのに、ここは人気のない場所でした。
[39147] 2005年 3月 30日(水)19:48:16hmt さん
Re:絶海の孤島
[39120]笠津前浜さん
世界中で、他の島から一番遠い島はどこになるのでしょうか。
[39135]EMMさん
南大西洋の更に南にあるブーベ島かトリスタン・ダ・クーニャ島のいずれかだったと思います。

南大西洋の地図を見ると、トリスタン・ダ・クーニャは群島ですから、他の島から一番遠い島には該当しません。
ブーベ島は、近くに島がない本当の孤島のようですから、たぶん この島が正解でしょう。
上記の地図で見当をつけると、最も近い陸地は、北に約1800km離れたトリスタン・ダ・クーニャ群島のゴフ島が最も近く、南の南極大陸、西の南サンドイッチ諸島がこれに次ぐと思われます。

[10526]太白さん
ノルウェーは南極探検のパイオニア、アムンゼンを生んだ国ですし、南極条約締結前は南極大陸の一部の領有権を主張していたくらいですから、南緯60度以北にあったこの島が残ったということでしょうか?

1739年の元日にこの島を発見したJean-Baptiste Charles Bouvet de Lozierはフランス人のようですが、その後の確認がなされず、その存在すら怪しまれた幻の島だったようです。19世紀になって一応再発見され、最初の発見者の名からブーベ島と命名されました。最初の上陸は1925年イギリス人でしたが、その2年後に上陸したノルウェーの捕鯨船員が約1ヵ月間滞在し測量しました。ノルウェー領になったのは、この実績が認められたようです。
#竹島や沖ノ鳥島を巡る動きも、このような「実績」作りに関係したものでしょう。

その後も数回の上陸実績はあるようですが、この火山島の地形、周囲の海流や気候は上陸を極めて困難にしているようです。
無人なのに、インターネットの独自トップドメインを持っている[10521]のは、たしかに不思議。
それだけでなく、こんなページまでありました。


もう一つのトリスタン・ダ・クーニャ島。
こちらは厳密な意味での「孤島」ではありませんでしたが、ギネスブックでは『世界で一番大陸から離れたところにある,定住者のいる島』と認定されているようです。
この火山島(最高峰2062m!)の周囲も断崖で海と隔てられ、上陸は困難なようです。同じ群島の中には、イナクセシブル島(接近不可島)という名の島さえあります。

とはいうものの、人がいるだけに、話題もあります。
興味がある方は独学トリスタン・ダ・クーニャをどうぞ。
世界一?酒飲みの島。家系が限られている世界で喘息の遺伝。切手販売で外貨獲得。等
1961年には山麓の定住地付近に、昭和新山のように山が生まれ、全島民286名がイギリスに脱出したそうです。

最後に、ブーベ島とトリスタン・ダ・クーニャ島に共通する特徴を2つ挙げておきましょう。
ペンギンの島。
そして、日本から見たら「地球の裏側にある島」。
[40207] 2005年 4月 23日(土)17:51:57hmt さん
国名コード
[40163]みやこ♂さん  国別のドメイン
[40167]EMM さん   アマチュア無線で国名のかわりに

アマチュア無線で使われている略号は、ずいぶん特殊なものですね。
特許の世界でも、アルファベット(大文字)2文字の国名コードは日常的に使われています。
番号と併用する使い方が普通ですが、指定国を列挙したりする場合にも使います。会話には使いませんね。

US、GB、DE、FR、IT、ES、NL、RU、CN、KR、TW など、日本語や英語から容易に類推できるものが多い中で、これはどこの国?と思うのがCHやZAでしょうか。

「CH」は、Confederation Helvetia というスイス連邦の正式名称を略したもの。ローマ人が Helvetiaと呼んだのは、この地の住人、ケルト人の一部族ヘルウェティイ族に由来するようです。
郵便や自動車のナンバーにも使われているようなので、ヨーロッパでは日常的に目にする言葉なのでしょう。

「ZA」は 南アフリカ。オランダ人が開拓したので、現地のアフリカーンス語もオランダ語の Zuid-Afrika と同じような単語なのでしょう。

特許で出会ったことはないのですが、クロアチアの「HR」(Hrvatska)やアルジェリアの「DZ」(アラビア語はうまく書けません)なども難解です。

オリンピックのような国際スポーツ大会でも、アルファベットの国名コードを目にする機会があります。
このIOC国名コードは、大文字で3文字。[31819]でリンクしたアテネ開会式入場順 pdfリストにも記されています。

さて、これらの国名コードについて、国際的には「ISO 3166-1」があり、JISにも採用されているようです。

インターネットの ccTLDは、ISOに基いていることがわかります。但しISOの表において黄色で示された準会員的な地域を少し含んでいるようです。話題になったノルウェー領ブーベ島(BV)は、正会員に名を連ねているので、立派なものです。オーストラリア領ハード島(HM)[10521] も緑色の正会員。でも、これらのドメインは実際に使用されているのでしょうかね?

そう言えば、[40163]でリンクされた渡辺組のHPで「su」を見ると、
旧ソビエト連合
たまにですが、今でも、お目にかかることがあります。
とあります。使い続けていれば、ソ連時代のドメインもまだ生き残っているのですかね。

特許や商標の分野の分野で使っている EP(ヨーロッパ特許)や BX(ベネルクス商標)は、紫色で示されている ISO外 のコードでした。

上記ISOのページは2文字コードだけですが、CIAのページには、アメリカ政府の決めたFIPS (Federal Information Processing Standard) 10-4 codesや ISOの alpha-2 code elementsと並んで、3文字コードも出ています。

前記のように、IOC国名コードも3文字ですが、これは難解な ISOの3文字コード(丸括弧内)をかなり変えています。
スイス(CHE)は「SUI」、南アフリカ共和国(ZAF)は「RSA」、クロアチア(HRV)は「CRO」、アルジェリア(DZA)は「ALG」になっていました。
[40889] 2005年 5月 8日(日)15:00:29hmt さん
浅草の「鳥越」と源義家
コレクションのタイトル名、「希少」という言葉を巡る議論のきっかけになった「鳥越」という地名ですが、この落書き帳内で検索してみると、[40618] がんす横丁まま さん 以前では、石川県鳥越村が圧倒的に多数を占めていますね。
[40673]で、EMM さんが改めて紹介されているように、
石川県人としても鳥越という地名は非常に身近な地名
であることが、よくわかりました。

「鳥越」コレクションが実現するのかどうかは、よくわかりませんが、東京付近の者にとっては、「鳥越」といえば、やはり浅草。
まだこの落書き帳に登場していませんでしたね。

現在、台東区鳥越一丁目、二丁目として名を残す「鳥越村」は、地元のM.K.さん が、浅草下谷散歩(旧町名探訪)の中で、旧浅草鳥越一丁目「まちしるべ」の補足として記されたところによると、その名の由来である鳥越神社を中心に 約 1km四方 の広い村域だったようです。

鳥越神社は、「江戸名所図会」に、「最も古跡なれども、旧記等散失して勧請の年暦・来由等詳ならずといへり」とあるように、古い社です。言い伝えによると、日本武尊伝説にちなんだ「白鳥大明神」と呼ばれていたようですが、源頼義・義家親子の軍勢が、白い鳥に浅瀬を教えられて無事に大川を越えることができたことから「鳥越大明神」と呼ぶようになったとのこと。「まちしるべ」にも、同様の趣旨が記されています。

鳥越神社は、ドンド焼きでも有名ですが、昨年の小正月前後に左義長[23878]の話題が出た時には、登場しませんでした。

源義家といえば、雁の乱れによって伏兵の存在を知り、これを打ち破ったという有名な逸話(「後三年合戦絵詞」)が伝えられているように、鳥から発信された情報を正しく処理して活用した人です。道の駅「雁の里せんなん」

これと正反対に、鳥から発信された情報の処理を誤った例が、約100年後の治承四年(1180)にありました。
関東で反旗を翻した源頼朝を討つべく下向し、富士川の西岸に布陣した平家の大軍。
水鳥の一斉に飛び立つ羽音を、敵の大軍による夜襲と誤認し、大混乱、総崩れ。平維盛は一戦も交えないで敗走しました。
[42450] 2005年 6月 18日(土)13:13:39hmt さん
分子の阿波踊り
[42447] EMM さん
「有機化学美術館」というコーナーの「ネーミングいろいろ(2)」というコーナーに「Cycloawaodorin」のことが出ています。

ご紹介のあった日本語を含む化合物名のページの最後に示されている、輪になって踊っている「阿波踊り分子」の姿を拝見しました。
なるほど! 絶妙の命名です。

同じページの中ごろ「(2)地名」には、ナナオマイシン、ニッコウマイシン、スルガトキシン、マンザミン、ケラマフィジン、日本酸が紹介され、また幻の「ニッポニウム」[22232]にも言及されています。
# 昨年日本で発見された113番元素には、どんな名が付くのでしょうか?

ところで、上記の「日本酸」の由来について、“詳しいところは明らかになっていません。”とありましたが、
“日本産のハゼの木の木蝋から単離”とありますから、「Japan wax」(木蝋)から名付けたものでしょう。

微量成分の「日本酸」からは逸れますが、木蝋の主成分はパルミチン酸のグリセリドですから、「蝋」という名が付いているものの、その実体は珍しく常温で固体の「植物脂肪」なのです。和蝋燭を消した時に刺激臭があるのは、グリセリンの分解で微量のアクロレインが生成するためとか。

地理の話題から外れてゆくので、このへんにします。
[42658] 2005年 6月 29日(水)12:25:24hmt さん
Google Mapsの衛星画像を楽しむ
先月末に紹介した時は、反響が少なかったのですが、1週間前にやや詳細な再紹介記事を書いたら、今度は、多くの皆さんが楽しんでいることがわかり、満足しています。

利用上のヒントや、画像の背景を読み解く手法、興味ある画像など、さすがに「落書き帳」のみなさんだけのことはあると、感心しています。

記事もだいぶ集まってきたので、利用される方の便宜のためにも、アーカイブズもどきGoogle Mapsを楽しむを作ってみました。

[42643] EMM さん
写真の区切りがあるのです。

その典型が、西武池袋線保谷駅の西側ですね。車両基地へのY字分岐付近に大縮尺から取り残された地帯があり、ぼやけています。左右の画像の明るさの違いは、撮像時点のお天気の影響でしょうか。

## 大縮尺表示可能なところを見つけました。 なぜ大阪や名古屋をさしおいて、四日市???
### 朝鮮半島ではとんでもなく微妙なところが設定されていました。どんなところかは探してください…

[42524](2005/6/23追記)hmt で、イェテボリの東の郊外、寧辺(Yongbyon)付近、四日市が大縮尺画像であることに触れております。

私も、最初に自宅付近を探した際に、[42654] じゃごたろ さん と同じように、
都心部のように、車が一台一台認識できる程の解像度ならよかったのに。
と思ったのですが、衛星から監視されていると思うと、単純に大縮尺画像地域を羨むこともできないようです。
[42835] 2005年 7月 5日(火)23:07:33hmt さん
享保16年春、雪解け水が暴走して大河が誕生
[42684] EMM さん
新潟市周辺を表示したら「Yaketori-gata」なる自然地形名が表示されるのですが、これ、何なんだろう??新手の「潟」???
[42781] 赤尾鯰 さん
「Yaketori-gata」は、焼島潟の誤訳でしょうね(中略)その昔、阿賀野川と信濃川が合流してた頃に存在していた潟ですが、今はただの川(通船川)になり事実上消滅してます。

焼島潟(やけじまがた)は、阿賀野川旧流路の河跡湖で、明治の地図には出ていました。現在の新潟市榎町。1920年に、臨港鉄道(焼島貨物駅[42800]のある信越本線貨物線:上沼垂信号場-東新潟港間)敷設の際に、北端の通船川の分だけを残して埋め立てられて消滅しました。昭和初期に北越製紙の工場ができています。

どうやら、現役の「潟」コレクションには入れそうもないことが決定的になった「焼島潟」ですが、その周辺を探ってみたら、下記のように、川の流れの変遷による新潟港の栄枯盛衰の歴史が見えてきました。

信濃川の河口の新潟にしても阿賀野川の河口の沼垂にしても、大小の潟や沼が散在する湛水地帯の「サンズイ地名」です。
ここは、水運の要という恵みを受ける反面、水害や川のもたらす地形の変化というハンディも背負ってきた歴史を持ちます。

阿賀野川は、海岸から約2kmまで流れてきたところで、蒲原砂丘に遮られ、左に折れてから日本海に注いでいました。江戸時代初期の寛永10年(1633)に、大洪水によって流路の変った阿賀川は、信濃川に合流します地図
沼垂はその影響で移転を余儀なくされますが、それ以後水量を増した信濃川の河口は水深が深くなり、新潟は天然の良港になりました。2つの大河の広い後背地と「河道(かわみち)」で結ばれ、1700年頃に新潟への入港船は年間3500隻と繁栄しました。

さて、この河口部。増水して川が溢れると、水は海岸砂丘に遮られて行き場を失い、至る所に滞留して湿地帯となります。北流してきた阿賀野川が西に向きを変えるところで、松ヶ崎村の砂丘を開削して日本海に直進させる分水路を作れば、水害を防ぎ、新田を開くことができる。新発田側はこう考えて、幕府に「堀割工事」を願い出ました。

港湾が命だった新潟の町は、自分たちの利益を損なうものとして強硬に反対したが、時は享保の改革による新田開発奨励時代。将軍吉宗の大方針には勝てずに、享保15年(1730)、阿賀野川の直流堀割工事は許可され、松ヶ崎村の小さな水路はたちまち完成します。

そして翌年の雪解け時期を迎えました。水かさを増した阿賀野川は、砂地を掘って蛇籠を並べた小さな掘割を直進しながら、自分の力で一挙に流路を押し広げ、幅270m、深さ6mの大河になり、ここが阿賀野川の本流になってしまいました。旧水路は細い流れの通船川になりましたが、信濃川に合流する手前は大きな潟状に残りました。これが前記の「焼島潟」です。

1731年に起こったこの阿賀野川暴走事件を書きながら思い出したが、明治10年(1977)に東京で起きた「溜池」の貯水流出事件[33199]です。川の流れは、ちょっと変えるだけのつもりでいじっても、大きな変化につながることがあるという教訓です。

それはともかく、阿賀野川の水に逃げられた新潟港は、信濃川からの土砂が堆積して水深が浅くなり、1741年(寛保元)の入港船は約2000隻に減少したと伝えられます。こうした経済的苦境は、長岡藩の治下での増税に反対する暴動(明和騒動)の一因となり、更に、抜荷事件を発端とする「新潟上知」によって、天保の改革を進める幕府に召し上げられてしまいました。
そして幕末。安政5年(1858)新潟を開港場とすることになりましたが、戊辰戦争のために、実現したのは明治元年になりました。しかし、相変わらずの浅い水深と冬季の強風が災いして、対外貿易港としては成功しなかったようです。

それでも新潟は政治的中心地として発展し、新潟区(1879)を経て明治22年には新潟市。この間には、沼垂との間に万代橋も開通しますが、江戸時代から新潟と沼垂との対立はまだ続いていて、北越鉄道敷設の際に爆破事件(1897)も起こっています。大正になってから(1914)やっと合併していますから、この頃には対立が解消したのでしょう。

新潟港が近代的な港として整備されたのは、大河津分水(通水1922)によって土砂の流入が食い止められて水深が確保された後です。もっとも、そのために新潟の海岸は、♪海は荒海向こうは佐渡よ の荒海に侵食されることになりました。
第二次大戦後は臨海工業地帯の形成・新潟地震(1964)による被害・関屋分水事業(通水1972)による再整備・新潟東港の設置などの歴史を重ねています。
「マンギョンボン(万景峰)'92」号のニュースで目にするように、特定重要港湾・新潟港は、日本海側の代表的な港湾になっています。

それにしても、1920年に「潟」の実態がなくなっているのに、Google Earthでは、水色の「水系自然地名」として残っているのは、どういうことでしょうか?
駅名に使われているように、地名自体は比較的近年まで存在したのかもしれませんが。
[42889] 2005年 7月 7日(木)23:07:48【1】hmt さん
品川の海
[42842] EMM さん
海岸線に張り付いている「Sinagawa Wan」なんかもあるのですが、品川湾という名称はいつ頃まで使われていたのでしょうか???

Google Earthで、東京湾内において水色の表示が出てくる湾は、湾口から Otu Wan, Yokosuka-ko, Nagaura-ko, Negishi-wan とあり、その右に「Tokyo-wan」。そして、中央防波堤内外埋立地の上に「Sinagawa Wan」ですね。

はじめに、自然地形としての湾を確認しておくと、古川の川口と目黒川の川口との間が弧状の湾入をなしています。これが、本来の「品川湾」でしょう。大きな道路では、第一京浜がほぼこの旧海岸線に沿っています。なお、「旧海岸通り」は、ずっと後、昭和初期の海岸です。

例えば、「蝦夷地航路開拓と測量に向けて、堀田仁助が江戸の品川湾を出航(寛政11年)」、「慶応4年正月、鳥羽伏見の敗戦を知った徳川慶喜は、開陽丸で大坂を出て品川湾に到着」、「同年8月、榎本武揚は4隻の幕府艦隊を率いて品川湾を脱出」という具合に、江戸と外海を結ぶ品川湊がありました。

この海は、幕末に黒船の脅威が現実になると、大砲の台場が築造された江戸の防衛線でもありました。
♪窓より近く品川の 台場も見えて波白く…と、鉄道唱歌に歌われていますが、明治になって敷設された鉄道は、この品川湾岸に沿って海中に築いた土手の上を走りました。

品川湾南端は品川宿[38442]です。当時の目黒川口だった北品川の海岸には地付台場跡があり、その沖には、四番、一番、五番、二番、六番、三番、未完成の七番の順に2列の台場跡が並んでいました。この内、四番は陸地に取り込まれた天王洲アイルになり、六番はレインボーブリッジの横に残り、三番は台場史跡公園になっています。

そして、品川湾北端の芝浦は漁師町でした。「芝海老」の名や落語の「芝浜」でおなじみ。
からくり儀右衛門こと初代田中久重の田中製作所(電信機)が新橋から移転して来たのは明治15年で、芝浦製作所と地名を名乗りました。マツダランプの東京電気と合併して合成社名の東京芝浦電気→東芝と、「芝」の地名を伝えています。

明治中期になると、近代的なインフラ整備が検討されます。東京市史稿 港湾篇には、
品川湾及隅田川地質調査 1889(明治22)年10月16日
などと、品川湾も登場し、また、漢語風の「品海」という用例も現れています。
品海築港方案討議 1889(明治22)年2月19日

この「品海築港」は、田口卯吉、渋沢栄一、福沢諭吉らによって主張されたのですが、近代港湾の建設は横浜が先行することになり、明治20年(1887)からの東京は、隅田川河口の浚渫による「築島」(つきしま=月島)の造成[33296]という、築港よりも土地造成が主体の工事になりました。

20世紀になっても、「明治43年11月29日、白瀬南極探検隊の開南丸出航」の地は、(「芝浦」と書いてある記録も多いのですが)「品川湾」とも記されており、まだ使われています。

品川湾に近代的な埠頭を建設する「東京築港計画」は、明治33年に立てられたものの、遅れに遅れ、震災復興事業でようやく急ピッチで進み、大正14年に日の出埠頭が、続いて芝浦埠頭、竹芝埠頭が昭和初期に完成しました。東京港の正式開港は、昭和16年(1941)5月20日。
さすがにこの時代になると、「品川湾を出航」という用例はなくなったと思います。

東京湾の赤潮の記事を見ると、
内湾の赤潮の発生は1939年までは、品川湾から横浜沿岸の湾奥西部にとどまっていたが、1950年ごろから湾奥東部へ拡大し…
とありますから、東京湾内を詳細に区別する必要のある「海の視点」では、現代でも「品川湾」という呼び名は存在するのかもしれません。

でも、陸上の一般人にとっては、埋立が進み、レインボーブリッジが架けられた現在、「ウォータ-フロント」という言葉の方が幅を利かせ、「品川湾ってどこ?」という感覚になっています。

なにしろ、東京モノレール沿線がすっかり海から離れた風景になってしまっているのですから、品川湾は地理的な存在としても消滅した言わざるを得ないでしょう。
1964年、東京オリンピックに合わせて開通したモノレールの開業当初は、92年前の鉄道開通時を再現するが如くに、さえぎるもののない海上の高架橋を走っていたのです。
[42994] 2005年 7月 13日(水)16:13:42hmt さん
海の攻撃から陸地を守る
[42976] hmt
京浜河川事務所が、沖ノ鳥島[26266]の管理
たしかに「港湾」ではない。でもなぜ「河川」?
[42979] EMM さん
地方整備局の河川部の事務分掌の中には海岸保全に関することも入っているものの港湾部だけが除外

なるほど。
「海」 に飲み込まれそうな 「陸地」 である沖ノ鳥島を保全するのですから、当然 「陸地系」の部署 が出動するわけですね。
沖ノ鳥島こそ “陸地系と水面系の争い” が、たとえ話でなく、現実に問題化している現場なのでした。
[43689] 2005年 7月 28日(木)16:15:11hmt さん
剱岳の高さが決まるまでの97年
【おことわり】
内容は、[43643]「剱岳の高さが決まるまでの36年」に、明治以来の経過を追補し、表現を全面的に改めた改訂版です。

「山の高さを知りたい。どっちが高いのか比べてみたい」というのは、昔から人々の思いでした。
しかし、測量技術が発達していなかった頃は、柳田国男「日本の伝説」に紹介されている加賀の白山が富士山と背比べをした話([34785] EMM さん白山のわらじ)のように、正確な比較は不可能でした。

明治になって、三角点網が全国に張り巡らされ、水準測量とあいまって山の高さの正確な値がわかってきました。この過程で、日本の山のほとんどが、陸地測量隊によって登頂されましたが、最後に残された山が 「剱岳」でした。弘法大師が 3000足の草鞋を使っても登れなかったという山です。
民間の初登頂計画に先んじて旗を立てなければ測量隊の恥、というわけで登頂に挑戦した陸地測量手・柴崎芳太郎の苦闘は、新田次郎の「剱岳・点の記」に記されています。明治40年(1907)やっと山頂にたどりついた彼が目にしたものは、古代の修験者が残したと思われる錆付いた鉄剣と銅製の錫杖の頭でした。

結局、この時には、あまりにも険しい場所での大掛かりな作業は困難ということで、四等三角点(地籍測量を目的とする現在のそれとは性格が異なり、三等三角網の一時的な補完点)を設置することはできず、剱岳の標高は、周辺の山からの観測による、三角点よりも精度の低い標高点として 2998mが求められ、5万分の1地形図に記載されました。
剱岳の標高点値 2998mは、昭和5年(1930)に3003mに改定されました。♪アルプス一万尺…には少し足りなかったにしても、一時は「3000m」の大台を確保した剱岳でした。
ところが…

1968年、国土地理院で北アルプスの空中写真(このへんでしょうか?)を図化機を通して覗き込んで仕事をしている若い技師がいました。
この地方に新たに作成する2万5000分の1地形図の原図作成作業です。2枚の写真の立体視(原理的には[43502]たもっちさん と同じ)によって剱岳の山頂の標高を測定した結果は、2997m。
前記のように、当時の5万分の1地形図では3003m。

剱岳が3000m級の山から転落ということになると、世間を騒がすニュースになる。というわけで、慎重に測り直したがやはり2997m。
ところが、新しい2万5000分の1地形図には、2998mと記されて発行されたそうです。上司曰く、標高点の数値に数mの誤差があるのは当然だ。写真法の測定結果からみれば3003mより、昭和5年以前の2998mのほうが正しいようだから戻した。

上記のいきさつは、野々村邦夫さんの「剱岳は何メートルになるのかな?」(2004年)に紹介されています。
この野々村さんこそ、36年前に2997mという、地図上では幻の数字となった測定値を得た技師本人で、長く勤めた国土地理院を院長で退官、現在は日本地図センター理事長です。

上記のコラムは、[43552]でeiji_t さんが紹介してくれたコラム「地図一途」の前身「駅弁地理学」の一つなのですが、
 04.11.04からのバックナンバーも読めます。
と紹介されているように、昨年10月以前のバックナンバーが、ネットでは殆んど読めなくなっている(単行本になっている由[43678])中で、奇跡的にキャッシュとして生き残っている頁です。

そのタイトル「剱岳は何メートルになるのかな?」は、国土地理院が、剱岳に三角点を設置してGPSによって標高を測量するという予定をふまえたものです。

そうです、剱岳の三角点設置とGPS測量(「剱岳測量100周年記念事業」らしい)は、3000mの大台を達成するかどうかで、昨年の秋にこの落書き帳の話題にもなったテーマです。

その中で、[34307]みやこさんが
剱岳は,たしか一番最初は2998mだったと思います(かすかな記憶・・・)。それがいつ頃か3003mとなって,さらに戦後,いつの頃だったか,またどういう理由でか,2998mに舞い戻ったのです。
という疑問を呈しておられますが、それに対する当事者の立場からの回答は、野々村さんのコラム明らかになりましたね。

前記の「駅弁地理学」2004/5/20は、剱岳の山頂に三角点が新設される前でした。
GPS測量によって三角点の標高が2997.1m、最高地点はそれよりも1.5m高く、地形図には2999mと記されることになった後日談については、新しいコラム「地図一途」の最新号(July 21, 2005)に「3000mに届かなかった剱岳」と題して掲載されています。
こちらは、会員登録(無料)をして閲覧することになります。[43552]参照。
[43937] 2005年 8月 7日(日)15:18:42【1】hmt さん
謎の駅名・中部天竜
[43908][43914]に続いて、[43884]きまぐれさんの例示に出てきた地名の訓読み→音読み論議。

佐久間ダムの下流、天竜川が U字形に曲り込んだところにある「中部」です。
きまぐれさんの地図では「ナカッペ」、65年後のウオッちずでは「なかべ」。帝国書院地図では 戦前から「なかべ」で、一見したところ、訓読み→音読みの変化があったようには見えません。

ここには、全国でも珍しい施設・佐久間周波数変換所[28255]があります。
そうです、ここは 60ヘルツ、50ヘルツ境界地域なのです。せっかくなので 電力周波数の話題 をまとめておきます。

東西日本の境界地域と言えば、ここはまた 地質構造を分ける境界地域でもあります。
「領家帯」の由来に関して[38585] 音無鈴鹿さん、[38586] Issie さんに教えていただいた、“静岡県磐田郡水窪町奥領家”も、ここから数km北東にあります。

訓読み→音読みの話から外れてしまいましたが、「中部」の天竜川対岸(半場)に佐久間レールパークのある「中部天竜駅」があります。長篠から三河川合まで来ていた鳳来寺鉄道と、信州の辰野から天竜峡まで来ていた伊那電気鉄道とを結ぶ三信鉄道が 佐久間駅として開業した翌年の1934年に、中部天竜(なかっぺてんりゅう)と改称されました。
ところが、戦時買収で省線(飯田線)になった時に、なぜか「ちゅうぶてんりゅう」と音読みに改名。
きまぐれさんが[43884]で、この地名を挙げた理由には、この駅名の存在があると推察します。

この駅名。なぜ鉄道省が「ちゅうぶ」に改めたのか?
天竜川の中部にあるからと考えたのならば、「天竜中部」になりそうなものです。中部地方にある天竜川沿いの代表駅?
どうやら姫新線「中国勝山」駅の謎と同類ですね。[5548] 夜鳴き寿司屋さん、[5554]白桃さん

そうそう、
[43908]の“ウオッちず:なかべ/静岡県磐田郡佐久間町中部”について、[43909] miki さんから(期待した通りの?)反響がありましたね。ウオッちずを使った趣旨は、数十年前(戦前)の地図に振られたルビと比較する“最近の読みと地名”ですから、かならずしも現在(7月1日以降)の表記にこだわらないということです。

あの表は、[43884]を見ながら作ったものですから、当然 きまぐれさんの書かれた“静岡県浜松市(旧佐久間町)”を見ているわけです。でも、あの表に“最近の読み”の補助情報として入れるには、「浜松市」よりも「磐田郡佐久間町」の方が、情報価値が高いと考えて、あえて合併情報未修正のウオッちずをそのまま使いました。

「現在の地名」に関する記事ならば、合併の結果を厳密に反映させるべきでしょうが、今回の記事は数十年を隔てた読みの変化に関するものであることにご留意ください。「磐田郡佐久間町」という旧地名から、電力の境界地帯を、そして旧・水窪町と隣接することから「領家」へと、産業・地質・歴史の話題に思いを及ぼすことができるのです。頭をコチコチにして、旧地名を切り捨てるのは、文化的に貧しいことだと思います。

この記事の中でも、
Issie さんに教えていただいた、“静岡県磐田郡水窪町奥領家”
という表現を使っています。
[38586]が書かれた時点では、これが正しかったわけですから、引用するにあたり、勝手に「浜松市」に変更するわけにはいきませんね。

[43910] [43918]EMM さんの適切なフォローに感謝。
[47300] 2005年 12月 10日(土)16:49:07hmt さん
薬師寺の坊さん・修学旅行の夜汽車
[47252] [47268] [47289] EMM さん
「薬師寺の坊さんの話はムチャクチャ面白い」
私が行ったのは20年ばかり前の話 2代前の管長さんの頃
今おいでたとしてもかなりいい年だろうなぁ。

高田好胤さんですね。 EMMさんがリンクされたサイトの中にある歴代管主紹介の2人目にあります。
管主になられたのは1967年ですが、橋本凝胤さんの下で副管主だった時代から、修学旅行生相手のお話が名物だったと聞いております。
残念ながら平成 10年(1998年)遷化されました。「薬師寺・好胤説法」など、著書多数。

修学旅行では行きませんでしたが、大人になってからは、薬師寺を含む「西ノ京」には何度も訪れました。

[47268]EMM さん
私の時の修学旅行列車はリクライニングの無いボックスシートでした。

1950年頃に修学旅行で乗った汽車の記憶です。
東京駅から乗った「夜行列車」に使われていたのは、ボックスシート2組に小窓が3つという古い客車でした。戦後に古い客車の「鋼体化」が行なわれた際のタネ車として使われた大正時代の代表的な客車「ナハ22000」形式だろうと思います。
いくら普通列車でも、東海道本線にこんな時代物の客車が使われていたのは驚きです。

調べてみると、今では「旧型客車」と呼ばれている戦後の新形式「スハ43」が急行列車用として登場したのは1951年であり、木造客車の鋼体化工事でローカル用の「オハ61」等ができたのも同じ年からです。そのような変化を迎える「夜明け前」の時代の修学旅行は、大正時代の客車による「夜汽車の旅」だったのでした。

旧型客車の狭いシートも今から考えると貴重な経験ですが、時刻表で調べると、東京発20:45の129列車は翌朝9:20に石山に着いていますから乗車時間12時間半。

帰路は、ボックスシート1組に大窓1つで、背板にクッションという昭和戦前の新形式「オハ35系」でした。東海道本線の客車としては、これが普通でしょう。
[47319] 2005年 12月 11日(日)18:19:01hmt さん
「堺町」のある都市
「堺」ついでに、もう一つ。
ウィキペディアによると、堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っているそうです。

それによると、
「堺町」もしくは「堺丁」がある都市は、岸和田市、大和郡山市、和歌山市、姫路市、津山市、倉吉市、広島市、高知市、北九州市(旧小倉市)
# 「堺丁」は、「和歌山市新堺丁」だけでしょうか。

「栄町」もしくは「栄」がある都市は、会津若松市、甲府市、金沢市、福井市、静岡市、浜松市、名古屋市、岐阜市、彦根市、岡山市、鹿児島市

堺と無関係の瑞祥地名「栄町」が存在する都市は他にもあるでしょうが、上記の都市はいずれも堺が「黄金の日々」をすごした頃の城下町であり、堺商人に由来するのでしょう。
文字が変っているので、「金沢市栄町」はグリグリさんのクイズの趣旨(完全一致)から対象外ですが、町名の由来を考慮すると、地名にはこのような「字面の変化」も存在するという事例を示してくれます。
そういえば、倉吉市堺町「さかえまち」のように、「読みの変化」もありました。

「堺筋」がある都市は大阪市、富田林市
これは町名ではなく、道路の名前です。富田林市の堺筋も地図で見るとバス停です。

金沢市の町名になっている市名([46919]オーナーグリグリさん)から、「A市の町名になっているB市」の話題が生れました。

A市をキーにする場合は、 字面の一致だけなら、A市の町名一覧の中から拾い出すだけの力仕事になりますが、なぜA市に「B町」があるのか?という由来を考察する[46992]となると、また違うレベルの仕事になります。

上記「堺」の場合のように、B市と同名の「B町」をキーにすると、拾い出すこと自体がたいへんなので、横着者は他のサイトのデータを借用しました。
それでも、[46954]EMMさんのように“A市「金沢町」探し”を試みた方もあります。
[47334] 2005年 12月 12日(月)20:54:49hmt さん
Re:栄町?
[47322] EMM さん
「金沢市栄町」はて?金沢にそんな町あったっけ?と思って調べたら確かに旧町名としては存在しました。
明治4年に下堤町横町と深見小路の2町が合併してできた比較的新しい町名でした。
…由来は金沢市のものも含め瑞祥的なもののようです。

なるほど、横着して自分で調べずに他のサイトから借用したデータは、たちまち馬脚を現しましたね。
[47323] 作々さん によると、鹿児島市栄町も整理されたとのことだし、ウィキペディアの記事は「現存町名」にこだわらず、「城下町」にある「それらしき町」を拾ったものということなのでしょう。必ずしも「堺商人」由来の裏付けがない瑞祥地名も含めて。

一方、[47326] futsunoおじさんの新潟市栄町は、城下町でないことからウィキペディアには挙げられていなかったが、日本海有数の商業港ということで、(憶測の域を出ないものの)堺商人の進出拠点に由来する町名の可能性があるのかもしれません。
[49243] 2006年 2月 16日(木)22:19:43hmt さん
内幸町・本町
[49219] EMM さん
内幸町(うちさいわいちょう)は、「丸の内」の「幸町」の省略形 ではないでしょう。

現在の帝国ホテル付近にあった山下御門から南下してきた 外壕は、第一ホテルのところで西に曲り、ここに 幸橋御門 がありました。幸橋御門の内側は、富国生命ビル付近までが柳沢吉保の後裔である大和郡山藩、東京電力・みずほ銀行本店・NTT日比谷ビル付近が鍋島藩や薩摩藩の上屋敷でした。

明治になって柳沢邸に東京府庁が置かれ、ここ現在の日比谷シティ付近は「内幸町一丁目」になりました。
内幸町は、「幸橋御門の内側」という意味ですね。
なお、東京府庁は明治27年に移転しており、電車唱歌[33135]では丸の内に登場します。

島津邸・鍋島邸など(現在の日比谷通りとJRの間)は、同様に山下御門の内側なので「内山下町一丁目」と呼ばれることになりました。こちらには、明治16年に鹿鳴館が建てられました。

関東大震災からの帝都復興事業を経て、昭和13年の区画整理により、現・日比谷通りの東側が「内幸町一丁目」、西側が「内幸町二丁目」に再編成されました。なお、千代田区の町名由来板ガイドに見える案内板の地図は、現地で南向きに建っているので、南が上になっているのでご注意ください。

[49232] matsu さん
渋谷区本町(ほんまち)は、[38515]で触れたように、以前は「幡ヶ谷本町」でした。昭和30年代に「代々木本町」が「元代々木町」などになり、渋谷区で唯一の「本町」になりました。

渋谷区本町は「ほんまち」ですが、中野区(住居表示で変更される前は「本町通」)、板橋区の「ほんちょう」の他、「日本橋本町」も「ほんちょう」ですね。
[51787] 2006年 6月 16日(金)19:05:19【2】hmt さん
青函トンネルのなかった時代に 東京駅から札幌駅まで直通した1等寝台車
[51742] 打吹 さん
そういえば東京から乗り換え無しで行けない都道府県庁所在地ってどのぐらいあるんですかね(寝台列車可)?
[51743] EMM さん
##東京駅発着オンリー、とするとさらに札幌・青森・富山・金沢が×になりますね…と思ったら水戸と前橋も仲間入りするのでは?
[51752] BEAN さん
大昔なら、東京駅発に限定しても本州のほとんどの県都には行けたようです。
[51772] suikotei さん
かつては東京駅にも東北線・上越線・信越線・常磐線の列車が発着していました。
手許にある1972年3月の時刻表(復刻版)によりますと、…(中略)…少なくとも、青森・盛岡・仙台・秋田・山形・福島・水戸・宇都宮・前橋・新潟・長野には乗り換えなしで行けたことになります。

青函トンネルが1988年に開業し、上野駅や大阪駅からの寝台列車が運転されている現在でも、東京駅からとなると、直通の汽車で札幌駅に至ることは不可能です。
ところが、1948年から1954年までの間、東京駅から札幌駅まで直通した1等寝台車があったのです。

津軽海峡はどうしたのかって? 寝台車ごと、青函連絡船に積み込んで航送したのですね。

日本鉄道時代から計画された津軽海峡の鉄道連絡船は、国有化後の1908年から運行を開始し、1925年からは貨車の航送が行なわれていました。鉄道車両の航送は、それよりも前1911年から関門航路でも行なわれていましたが、日本では貨車だけで、客車の航送はありませんでした。

# ヨーロッパでは、伝統的にフェリーによる客車の航送が盛んなようで、比較的近年の1994年にも、タリン(エストニア)からストックホルムに向かうエストニア号が高波に襲われてバルト海に沈没し、852人が死亡した事故がありました(生存者137人)。船首ドア・ロックの欠陥のため、車両デッキに海水が流入したことが原因とされています。

それはさておき
日本最初の客車航送により札幌直通を実現させたのは、「進駐軍」の命令でした。
# 第2次大戦後に日本を占領した米軍を主とする「連合国軍Allied Powers」の呼び名です。講和条約発効後は、日米安全保障条約に基づく「駐留軍」になりましたが、講和前の時代は実質的には「占領軍」でした。

須田寛さん(JR東海初代社長)の 講演pdf では、米軍第8軍司令部のあった横浜から、北海道における進駐軍の要地・千歳を経て札幌までの列車を出せという命令により、画期的な横浜始発、客車航送、千歳線経由の運行を無理やりやらされたが、けがの功名で、勾配のない千歳線経由が北海道のメインルートになったことが語られています。
この講演にはありませんが、「Yankee Limited」という列車名が付いていたと思います。

手元の「時刻表昭和27年12月号」を見ると、東京発19:00(常磐線経由)10:20青森着、青森発11:15(連絡船)15:45函館着、函館発16:20(室蘭本線・千歳線経由)22:58札幌着という1.2.3等特殊列車1201列車(上りは1202列車)が載っており、1等寝台車の記号に東京-札幌間の注記があります。

この「特殊列車」とは、1952年(昭和27年)4月に、連合国軍用の専用列車が一部ながら日本人に開放されて誕生した1、2等主体の急行列車で、上記の札幌行の他に佐世保行、呉線経由佐世保行もありました。
この時刻表では既に「特殊列車」(東京-札幌間)ですが、その少し前の「Yankee Limited」(横浜-札幌間)時代には、日本人のために上野発急行「みちのく」の1等寝台車も航送がありました(1950)。

いずれにせよ、東京-札幌間を直行する1等寝台車の運行は独立後の1954年まで続けられましたが、この年の9月26日に「洞爺丸事故」が起こり、札幌行の寝台車航送は廃止されました。10月には、占領下の遺物の「特殊列車」制度も廃止され、1201、1202列車は急行「十和田」に生まれ変わりました。

おまけ:時刻表のこと
上記の「(日本国有鉄道監修)時刻表 昭和27年12月号」も[51779] スナフキん さんの1972年11月号と同様に実物です。当時は現在の半分のB6判で、表紙の絵は、デッキ付きの電気機関車でした。昭和27年というと、半流線形車体になったEF58改良型が出始めた年ですが、まだ表紙に間に合っていません。「国鉄監修・交通公社の時刻表」は、創刊500号の1967年10月号から大型(B5判)になりました。表紙は寝台電車「月光」です。これも実物あり。
JTB時刻表の前身は1925年鉄道省編纂の 「汽車時間表」(復刻版あり)です。
残念ながら、「三本松の時刻表」[23129]は持っていません。
[51790] 2006年 6月 16日(金)22:21:09【1】hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間
[51789] EMM さん
さて、青函連絡船は列車も運んでたのすっかり忘れてました。
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
真夜中ですから、客車航送の値打ちがありますね。

高松で4:10発の13列車に併結し、9:45松山着が3両(うち1両は八幡浜行)、3両は土讃線へ入り、10:50須崎着。

本題の「東京直行」には該当しませんが、宇高連絡船でも客車航送が行なわれていたことを、改めて認識しました。
この客車航送は、1955年5月11日の紫雲丸事故で終ったので、青函航路より少し後まで存在したことになります。
[51911] 2006年 6月 29日(木)14:38:51hmt さん
マイナスイメージの地名
[51894] かつ さん
ここの掲示板で(少なくとも2年以上前)「死」か何か(地名に使う漢字としては何か縁起でもないなぁ~と思ったことを覚えています)の漢字の入った地名のことが書かれていたと思うんですけど,どこの何て地名だったかなぁ~と思いまして。
[51896] EMM さん  この記事かな?
[51901] かつ さん  どうやら違っていました。

「不香田」(不幸だ)、「野良犬村」、「鼻毛石」、「メクソ」などに関する記事もありました。
関係記事

“漢字としての”マイナスイメージではなく、“言葉としての”マイナスイメージなので、かつさんの求めている記事には該当しないかもしれませんが…

# さいたま市にできた「見沼区」の名前が話題になった頃のようです。
[52674] 2006年 7月 25日(火)23:07:14hmt さん
Google Earthに使われた地名(1)芥川
[52603] 音無鈴鹿 さん
高槻市が"Akutagawa"に!! これは西国街道の摂津芥川宿ですね。

西国街道(山崎通)が淀川の支流・芥川と交差する地点の東詰を中心に形成された芥川宿。
この名を引き継いだ大阪府三島郡「芥川村」は、1931年に高槻町と合併するまで存在していました。
# 同時に合併した芥川町というのもあったのですが、これは1929年に清水村が改名したもの。

元亀・天正の頃の切支丹大名・高山右近から江戸時代の永井家へと伝統ある城下町の高槻は、芥川のすぐ下流側。
1920年高槻町の人口は3897人で、芥川村は2816人。

…というわけで、「芥川」という地名は江戸時代まで遡らなくても存在していたわけですが、芥川宿の近くに明治9年(1876)に開業した鉄道の駅が「高槻駅」だったことからも、昔から「高槻」のネームバリューが上だったことがうかがえます。

Google Earthの地名に対する疑問と言えば、"Akutagawa"と記されているポイントは、交差点名「城東町」が示している通り、高槻寄りです。逆に、“takatsuki japan”で検索して示されるポイントは芥川寄り。どうも逆転している様子。

以前に話題になった新潟の「焼島潟」に関して、[42842] EMM さんが
もしかしたら、Google Earthを制作したKeyhole社が使用した日本の自然地形名の資料が古いものだから、と言うことではないかと思うのですが、いかがでしょうか??
と発言されていますが、自然地形名に限らず、都市名についても“資料が古い”疑いがあります。

そこで、 全国的に整備された「古い地図資料」の第1号とも言える、「揖製二十万分一図」と、Google Earthの地名とを比較してみました。この図は、明治19~24年(1886-1891)に参謀本部陸軍測量局により刊行されたもので、復刻されたものを平凡社の地名辞典で見ることができます。

この図で高槻付近を見ると、確かに「芥川」と「高槻」とが同程度の町として描かれています。
これならば、「高槻」でなくて「芥川」を選ぶこともあり得るように思われます。

次に「Yaketori-gata」[42684]ならぬ 「焼島潟」[42781]
[42835]では“明治の地図には出ていました”と書いたのですが、これは“地形として描かれていた”ということで、「焼島潟」という“地名が出ていた”わけではありませんでした。

なお、新しいGoogle Earthでは、島以外の自然地名は表示されなくなっているようです。
かつて話題にした品川湾[42889]、富士山[42664] [42681] [42695]などの自然地名表現は、すべて過去のことになってしまいました。
[52889] 2006年 8月 1日(火)12:54:10hmt さん
峠を越えて出入りする人から見れば「奈良盆地」、平地の中だけの世界に生きる人にとっては「大和平野」
地理学における使い方はともかく、世間の人は大和国の奈良付近の平地をどのように呼んでいるか。
Googleでの使用状況については、[52818] EMM さんのレポートがありました。(Yahoo!は[52723]
その結果を比率(大和平野を1とする)と共に示すと、多い方から奈良盆地:約68200件(2.6倍)、大和平野:約25800件(1倍)、大和盆地:約18700件(0.72倍)、奈良平野:約472件(0.018倍)となっています。

同じ手法を使って、使用されている分野による違いが見られるか否かを解析してみます。

[52706] huzisan さん
地理学的に言って、盆地としてカテゴライズする場合は、「奈良盆地」で、文学的に表現すれば「大和平野」
とあるので、"地理"と"文学"、それに地域を示すキーワードとして"奈良県"を使ってみました。
「誤用」問題に首を突っ込む気はないので、代表選手に選んだ"大和平野"と"奈良盆地"とだけを対比した結果です。

"大和平野" "地理" のGoogle検索結果204 件を1とすると、"奈良盆地" "地理" 約 939 件は4.6倍。
これが"大和平野" "国土地理院" となると約 47 件と少なく、"奈良盆地" "国土地理院" 約 429 件は9.1倍にもなります。

"大和平野" "文学" の約 119 件に対して、"奈良盆地" "文学"は約 533 件で4.5倍。地理と変わらない数字です。
"大和平野" "万葉" で試みると約 437 件に対して"奈良盆地" "万葉" が約 9,560 件で21.9倍と圧倒的な開き。
この結果からは、”文学的に表現すれば「大和平野」”という説は裏づけられませんでした。

その一方で、"大和平野" "奈良県" の 14,500 件に対して"奈良盆地" "奈良県" の約 33,300 件は2.3倍と、相対的に少なく、地元では"大和平野"という表現を用いる機会が比較的多いことが推察されます。
このことが全体の比率 "大和平野" の検索結果約 24,900 件に対して"奈良盆地" 約 67,600 件は2.7倍 に影響を及ぼしているようです。

近畿地方図のような小縮尺の地図で「山に囲まれた平地」を見ている人たちにとっては勿論のこと、
[52870] faith さん
正しいかどうかとは別に関係ありませんが、奈良や大和は「平野」とはあまり共起しない表現ですね。(関西での日常生活では。)
「奈良平野」と言えば、「奈良盆地だろう」という声が返ってきそう。
とあるように、関西在住の方でも、峠を越えて奈良に出入りする立場から見れば、「盆地」であるという意識は当然のことと思われます。

その一方で、この「盆地」の中に視点を置いてみれば、目に入るものは山よりも平地であり、
[52850] らるふ さん
「盆地」のイメージは「山に囲まれた平地」というのが一般的だと思うので、ある程度以上の大きさの盆地は山に囲まれたイメージではなく、広大な平地として「平野」と呼ばれるケースもあるのも肯けます。
という感想も出てきます。

この結果を見ると、“地理か文学か”というジャンルの相違よりも、“実感するものが山なのか平地なのか”という視点の相違から、「盆地」と「平野」が使い分けられているように思われます。

例えば、役所の使い方を見ても、平野の中で自己完結する仕事の農林水産省近畿農政局大和平野農地防災事業所は「大和平野」を名乗っていますが、その仕事が盆地の内外にわたる国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所では、奈良盆地を洪水から守るために と記載しています。
国土交通省でも、道路関係は平野内のローカル交通に多く用いられるためか、「大和平野」を多用しています。
[56419] 2007年 1月 25日(木)23:45:08hmt さん
地形図の「居住地名」は、自治体の作る「地名調書」に拠る
[56403] [56407] EMM さん
ところで、ウオッちずに記載される小字名の基準ってどうなってるんでしょう?
「現行の住所」となってない小字(ないしそれに準ずるもの)がいーっぱい出ている
地租改正前から使用されている(とおぼしき)小字名で記載されている…という場合が極めて多い

この問いかけは、ウオッちずに記載される集落名、国土地理院の用語では「居住地名」の出所を問うているように思われます。
「取捨選択及び総合表示の原則」([56406] 88 さん)以前の問題です。

地図を作る国土地理院の仕事は、第一段階の測量によって「地物の存在する場所」を知ります。
第二段階として、その場所に他の場所と区別できる何らかの「地名」を書き込むことになります。
[56416] 千本桜さん の表現に従えば、
最初に地名ありきではなく、物体ありきです。

作戦用途に限定される軍用地図ならば、勝手な「地名」を創作することも可能でしょうが、正式の地形図となると、「認証された地名」を使うことになります。
そこで登場するのが 「地名調書」 です。
少し長いですが、[53057]でリンクした “地名の標準化について”pdf の2頁から引用します。

国土地理院では地図作成に必要な地名の把握のために「地名調書」を作成している。この地名調書は市町村から提出される市町村単位の地名集で全国的に統一した形式・内容を持ち基本測量・修正測量のたびに作成され、明治から現代までの地名の変化の状況もほぼわかる貴重な資料である。
地名調書の調査項目は居住地(集落)の名称として大字・小字の名称、施設名として役場・学校・郵便局・神社・寺院・公園等の名称、自然地名として河川・湖池・海岸・島・山岳等の名称である。これらの位置を表示した地図等を同時に収集する。

ここでは「居住地名」については「大字・小字の名称」としか書いてありませんが、調書のサンプルを見ると、「通称」がかなり重要な地位を占めていることがわかります。

都市化された地域では「現行の住所」に使われている公式の地名だけでも不自由するすることはないでしょうが、山の中にポツンと存在する集落は、住所に使われる大字では他の集落と識別することができず、 EMM さん例示のケースのように小字を持ち出す必要があるのでしょう。小字の一部が更に別の小集落をなす場合は、通称で区別する必要が出てきます。

…と、国土地理院側としては、小字・通称までを含めた詳しい地名調書を望んでいても、自治体側がこれに必ずしも応じてくれるわけではないようです。

自治体の若い職員は、住所に使われる公式名称しか知らず、山間部の集落の通称などわからない。昔なら古顔が役場に居て、的確に回答してくれたのにという声が地図の豆知識2-23 から聞こえてきます。

平成の大合併の結果、地名調書の作成が、現地から遠く離れた市役所の仕事になってしまった現在、この傾向はますます著しくなっており、山間部のあちこちに散在する複数の集落に「同じ公式地名」が記されて、相互に区別することができなくなるという事態がいっそう甚だしくなっているようです。

地図の歳時記 の中にも、こんな話がありました。
非公式な地名は一切記入されていない「地名調書」もあった。地図作成者としては、集落が点在するのに、居住地名が一つでは、いかにも不案内であるから、担当者に集落名を尋ねたが、「正式な大字名はこれこれしかありません」とくる。
なおも、『現地のバス停には「鹿ケ作」とありましたから、現地ではそう呼んでいるのではありませんか』と粘っても、「それは正式な名称ではありませんから、ここに記入して証明することはできません」とくる。

自治体側の協力がないと、地図屋さんも苦労します。

「現行の住所」となってない小字(ないしそれに準ずるもの)がいーっぱい出ている[56403]

ウオッちずは、国土地理院の基準による結果というよりも、自治体側が「地名調書」作成に協力してくれた成果なのでしょう。自治体側が「正式な大字名でないから」と書き込んでくれなければ、国土地理院側がいくら望んでも地形図に書けないのですね。参考:GIS用語解説の「地名調書」

付言すると、国土地理院は自治体側の「地名調書」を鵜呑みにしているわけではなく、吟味検証の上で採用しています。
前記「地図の歳時記」にも「新宿」が「すんじゅく」となっていたのを修正してもらった話がありました。
また、「居住地名」は「地名調書」に拠るが、「自然地名」は必ずしも「地名調書」で依頼された通りにはならないようです。
[57237] 2007年 3月 10日(土)23:04:13hmt さん
陸地系の「河川」と水面系の「海」
88さんの労作「河と海」 は、特に言及はされていませんが、グリグリさんの「海上架橋」[57062] [57151] に触発されたものと推察します。
 
地理的な定義はよくわかりませんが、河川法、港湾法その他の法的な位置づけについてです

[52855] Issieさんは、平野と盆地に関する話題の際に
一応きちんとした“約束”を共有する(つまり,“統一された呼称”が定められている)ことが当然に前提とされるべき“地形の専門家”の世界
と書かれていますが、河川の場合、「地理的な定義」などというものはあるのでしょうかねえ?
もっとも、河川は地形だけの世界ではなく、堤防・人工の公共水流を含めた、防災や利用などの社会的側面も強い存在なので、仮に「地形の専門家による河川の定義」があったとしても、落書き帳の世界には馴染まないかもしれません。

88さんの“法的な位置づけ”は、まさに社会的側面を重視した国土交通省河川局の立場からの視点と理解しますが、河川法第三条で“この法律において「河川」とは、一級河川及び二級河川をいい、…”と定義しながら、同第百条で“一級河川及び二級河川以外の河川で…”と、「準用河川」も河川の一種に広げてしまっているのは、矛盾ではないのかな?

どうも河川法における河川の定義は、第四条の“河川(公共の水流及び水面をいう。以下同じ。)”の部分であるように思われます。第三条は定義ではなく、法律の適用範囲か。

「河川」「海」の境界は、これよりもさらに困難です。

河川法第四条の“公共の水流”に着目して、流れているところは「河川」、流れていないのが「海」というのが原則的な区別なんでしょうが、流れが海に入って急停止するわけではないし、潮の流れもありますからね。

ところで、以前に沖ノ鳥島を管理するのが京浜河川事務所であることにつき、EMMさんから「陸地系と水面系」 という観点を教えていただいたことがあります。
今回のテーマにも関連するところがあるように思いますので、ご参考まで。
[57377] 2007年 3月 21日(水)16:23:32hmt さん
畳表は「備後」と思っていたが
いぐさの話題
[57284] hiroroじゃけぇ さん
一番目立つ「畳表」の原料、「い草」の生産地ぐらい知っておいて欲しいものです。
[57288] ペーロケ さん
都道府県単位で「8割以上が熊本県」という常識ならともかく、

恥ずかしながら、「備後表」(びんごおもて)からの連想で、主生産地は広島県東部とばかり思っていました。
国内の主産地は熊本県(肥後表)、次いで福岡県(筑前表)が少々ということなのですね。
もっとも、中国からの輸入品に押されて、国産の藺草自体が希少になりつつあるようですが。

熊本県と言えば、八代市 の新市名候補として、「いぐさ市」の応募もあったとか。[11018] はやいち@大内裏 さん

“(稲の)田植えはまだまだ先だと思いますが”というEMMさんのご指摘[57286]の通り、田植えの季節が全く違いますね。
いぐさの植え付け時期は、11月下旬から12月頃。備後の寒田植 という言葉があるようです。
重労働は、氷の張る季節の田植えだけでなく、梅雨明けの酷暑の最中に、刈り取り・泥染め・乾燥作業があります。

地名ゆかりと言えば、数十年前には「琉球」という縁のない畳も普通に使われていました。
琉球畳の原料は「いぐさ」ではなく、「シチトウイ」(七島藺)という全く別の多年草(カヤツリグサ科)だそうです。
現在、沖縄で栽培されているのは備後草が訛った「ビーグ畳」で、七島藺は大分県などで僅かに栽培されるだけの希少品になり、琉球畳は特殊な高級品になっているとか。

昔は、「いぐさ」の重要な用途が畳の他にもありました。
それは、灯明に使う「灯心」です。「いぐさ」を蒸して皮むきして取り出す、スポンジ状の白い芯です。
なぜか「灯芯」ではなく、「灯心」と書きます。
「いぐさ」は、別名「灯心草」とも呼びます。
[57407] 2007年 3月 24日(土)15:53:59hmt さん
「アルプス社方式」は概ね正しいと思われるが、たしかに疑問の箇所もある
[57151]グリグリさん
MapionやYahoo!地図などでクリックした位置(中央の位置)の住所が左上に表示されますが、この表示がない場合は海上と思われます。自治体境界なども含めてかなり精度の細かいデータが入っていることから、「表示なし=海上」と考えて良いでしょう(データ誤りはあるかもしれませんが)。
[57331]グリグリさん
今川焼さんのご指摘の通り、Mapion、Yahoo!地図のどちらも阿蘇海と久美浜湾は住所表示がでないですね。しかしながら、どちらも日本の国土であるのは間違いありませんので、地図サイトにデータが設定されていないだけかと思います。

国土地理院の 京都府面積調 には、
阿蘇海は、水面が境界未定のため、宮津市及び与謝郡与謝野町の面積には含まれません。
と記され、京都府の面積に入っている「内水」(本来なら市町村の面積にも含まれるべきもの)であることが明らかですね。
久美浜湾については、このような注記はありませんが、京都府及び京丹後市の面積に含まれているのでしょう。

ご指摘があった箇所の他にも、地図サイトのデータ設定が、正しくない場合があると思われます。
例えば、東京都面積調 によると、中央防波堤内側埋立地(中潮橋北側)と中央防波堤外側廃棄物処理場(中潮橋南側) とは「所属未定」ですが、「アルプス社方式」を適用すると、「江東区」になっています。

潟湖(海跡湖)に戻ると、水面の面積が縮小した現在の八郎潟調整池(潟上市・大潟村他多数)やサロマ湖(佐呂間町・湧別町・北見市)には住所がありますが、松川浦(相馬市)の住所はYahoo!地図に入力されていません。

類似の例は、「掘り込み港湾」でも見ることができます。
金沢新港([57370]EMMさん)、富山新港は住所があります。もともと住所のあった場所を掘ったのだから、住所がある「陸部」であると考えるのがが当然のように思われます。
ところが、田子の浦港・鹿島港・石巻港・苫小牧港の水面には、いずれも住所が入力されていません。

ついでに、日本最初の掘り込み港湾は、「手結港」 だそうです。承応元年(1652)に野中兼山が築港したというから、河口港だった石巻港が土砂堆積で機能を失い、1960年に新たな工業港の掘り込み工事に着手するよりも300年以上前のことです。
これは、明治政府が住所の制度を作る前から「海港」になっていたわけですから、住所がないのも当然かもしれません。

最後に、河口についてもう一つ。
日本の国土地理院
河口周辺は、海岸線の自然な形状に従って河口両岸の先端を直線で結んで陸海の境としました。
なんて言ってましたが、
セントローレンス川の河口付近 のような地形だったら、どのように扱うのでしょうか?
テムズ川の河口付近 も、結構拡がっていましたね。
[58234] 2007年 5月 1日(火)15:01:34hmt さん
オーナー グリグリ さんにお尋ねします
[58218] EMM さん の記事の中に、「しんだい」での記事検索結果が使われていますが、件数が多いためか、結果が表示されるのに時間がかかるようです。

[57328] オーナー グリグリ さんの“記事検索を利用したミニアーカイブ作成方法(保存版)”という記事では、このようなケースにおいて、キーワード検索をそのまま使うのでなく、記事番号検索形式に変換してリンクすることが推奨されており、その手順が示されています。

ところが、この記事で示された「手順2」に従って、“アーカイブ編集へ(管理者用)”というところをクリックすると、“暗証コードを設定してください”と要求されます。
アーカイブ編集権のない身としては、立入禁止区域の扉の前に立ったような気がしながらも、メンバー登録の暗証コードを入力してみると、やはり拒否されるようで、「手順3」の「アーカイブズ 編集用ページ」に進むことができません。

私自身は、[42356](勝手にアーカイブズ 新装開店)以来、「記事番号検索形式」による引用を多数利用していますが、キーワード検索とは手作業で分離した記事番号入力によって処理しております。
YSK さん の[42391](アーカイブをつくってみよう)にも、番号直接入力方式が示されています。
多くの場合、このような手作業方式でも、さほどの不自由は感じていません。

しかし、[57328]に示された手順による変換方式が使えるものなら、件数の多いケースでは威力を発揮するのではないかとも思われます。
そこで、[58218]のケースに遭遇した機会に、あえてお尋ねする次第です。

[57328] の「手順2」から「手順3」に進むためには、どのようにすればよろしいのでしょうか?
[59271] 2007年 6月 19日(火)20:03:00【1】hmt さん
現代に生きてる国名
現代に生きてる国名 に関するご意見、ありがとうございました。

[59199]で、“国名自体が日常で使われなくなっている傾向”と書いたのは、全国的にあてはまることではないようですね。

私の地元での日常感覚は、[59243] Issieさんの発言にある
「武蔵」という呼称で,旧国の領域全体を“一まとまりの地域”と理解されることは,現代ではない
ということなのですが、「県」という大区画の下位区分としての使い方にしても、[59238] グリグリさんが示されたように、「能登」や「若狭」という “国名自体を 日常で使っている” のだとすると、国名不使用は全国的な傾向ではなく、地域差が存在するということのようです。
[59254] EMMさん の記事を見ると、「能登」と「加賀」でも使い方に地域差がありそうだし…

府県で分断された「丹波」が、県境の両側で“別々の丹波”として使われているという[59253] 今川焼さん の記事も、興味深く拝見しました。

「国名」ではないのですが、“別々の丹波”から思い出したのは、「葛飾」という広域地名の運命です。
もともと下総国葛飾郡だった区域が、江戸時代に下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡になり、明治11年に、下総国葛飾郡は千葉県(東…)、茨城県(西…)、埼玉県(中…)に、武蔵国葛飾郡は東京府(南…)、埼玉県(北…)と5つの葛飾郡([755] Issie さん)と東京府の2区(本所・深川)に分かて編制されました。

茨城県西葛飾郡は1896年施行の郡制で猿島郡に編入されて消滅。
本家格の千葉県下総国東葛飾郡でさえ、9市(市川・船橋・松戸・野田・柏・流山・我孫子・鎌ヶ谷・浦安)の出現で領域を狭めたあげく、平成の合併により遂に2005年消滅。
武蔵と下総に分かれていた埼玉県の区域は、北葛飾郡として統合後、三郷・幸手・吉川各市の出現や庄和町の編入で狭まりましたが、まだ存続。
東京府は、郡部として残った地域も1932年に東京市に編入されて更に4区が誕生しますが、そのうちの一つが、「葛飾区」として現存します。寅さんの葛飾柴又[59285]はここ。

その結果、本来「下総国」だった「葛飾」という広域地名は、行政区画としては、その一部が東京都・埼玉県に、“別々の葛飾”として残存することになっています。
ところで、江戸川よりも東の地域では、“また別の葛飾”であるという感覚は、現在も生きているのでしょうか?

【追記】
[59285] 役チャンさんご紹介の京成電鉄「葛飾」駅の改称は、本家葛飾がその地位を失墜したことを感じさせます。
それにしても、「西船」とは!! あまりにも大きな落差に唖然。
[64963] 2008年 5月 3日(土)19:36:24hmt さん
わかるかな? 都道府県の名前と場所(2)
帝国書院調査に関する補足が長くなりましたが、これを総合初等教育研究所([64947] [64949] hiroroじゃけぇさん)、の調査と見比べてみました。朝日新聞の記事によると、こちらの調査対象は北海道から長崎までの21都道府県の23小学校の5、6年生計3962人で、47都道府県名を示し、全国の白地図のどこに当たるかを埋めさせたとのこと。

この記事の冒頭で帝国書院の調査は、“都道府県名から白地図の番号を答える場合よりも「難問」”と言ったので、その正答率(6年生)が、[64949]に示されている値に比べてどのくらい下がっているかを比較しました。
その結果、認知度トップ3の北海道・沖縄県・青森県以外はすべて15%以上(大部分は19~30%)低下しており、最初に県名を与えるか否かは、予想外に大きな影響があることがわかりました。

6年生の正答率は次の順番になりました。
北海道99、沖縄県94、青森県88、東京都63、新潟県62、岩手県57、秋田県55、千葉県55、大阪府51、石川県51
鹿児島県50、長野県46、山口県42、滋賀県41、広島県40、埼玉県38、福島県38、高知県38、京都府38、宮城県37
茨城県36、神奈川県36、長崎県35、鳥取県35、静岡県35、兵庫県34、福岡県34、熊本県33、岡山県33、香川県33
和歌山県33、大分県33、山形県32、奈良県31、栃木県31、愛媛県31、愛知県31、群馬県29、富山県29、島根県29
徳島県28、三重県28、宮崎県27、佐賀県26、岐阜県26、山梨県24、福井県23

[64949]と比較して大幅に順位が変動した県
福岡県(45→27)、福島県(30→17)、鳥取県(13→24)、岡山県(41→29)、……、福井県(35→47)、静岡県(10→25)、富山県(20→39)、愛知県(11→37)、岐阜県(19→45)

少し前に[64071] Issie さんが紹介された日本地理学会の調査がありました。
これは、東京都内37校を含む全国(北海道から兵庫県まで)の51高校(6159人)と全国の31大学(3747人)で、10都県の位置を日本地図上の番号で答えるものでした。

もともと別々の調査ですから、方法の違いがあることを認識した上で、小学校・高校・大学の正答率を比較してみましょう。

都県帝国6年総合初等高校生大学生
東京63.379.293.795.1
長野46.370.383.491.0
石川50.671.378.787.2
秋田55.374.478.085.5
愛知30.671.570.084.5
栃木30.951.265.979.3
奈良31.154.565.378.6
島根28.648.755.565.9
愛媛30.857.249.968.5
宮崎27.446.941.067.3

日本地理学会の調査pdf については、[64072]EMM さんが対象とした高校の地理的偏りがあることを指摘されています。
財団法人総合初等教育研究所の調査研究の頁 には今回調査が掲載されておらず、詳細は不明ですが、高校の数字が異常に低い値だった愛媛・宮崎両県の場合、小学校の方が少し上になっています。
[65216] 2008年 5月 22日(木)17:58:30hmt さん
「飛行場」と「空港」
[65210] じゃごたろ さん
「飛行場」と「空港」の違いはなんなんでしょう。

航空機が発着する場所である「飛行場」には、民間用と軍用(自衛隊・米軍)とがあり、民間用は公共用飛行場と非公共用飛行場とに分かれます。

本来の「空港」とは、公共用飛行場のうち、空港整備法 に基づいて整備・設置された第一種空港・第二種空港・第三種空港です。

第一種空港:国際航空路線に必要な飛行場
第二種空港:主要な国内航空路線に必要な飛行場
第三種空港:地方的な航空運送を確保するため必要な飛行場

しかし、自衛隊の設置する飛行場のうち、空港の機能を果たすものとして政令で定められた「共用飛行場」も、「空港」と通称されているようです。

[56930] 佐賀県さん がリンクされた国土交通省航空局による 全国空港配置図 において、★で示された15の飛行場のうち、札幌、百里、小松、美保、徳島の5つの飛行場が自衛隊との「共用飛行場」です。

共用飛行場の場合、民間機用には 「小松空港」 、自衛隊基地としては「小松基地」と呼び分けられており、正式名称の「小松飛行場」と呼ぶことは皆無とか [57134]EMMさん。

航空自衛隊美保基地のある「美保飛行場」も、「米子空港」と呼ばれているようです。所在地は、米子市でも旧・美保関町(松江市)でもなく、境港市。
「札幌飛行場」も、「丘珠空港」又は 「札幌丘珠空港」

アメリカ空軍が管理する「三沢飛行場」は、航空自衛隊と民間も使用しており、これも国土交通省の管轄する民間航空ターミナル地域は「三沢空港」と呼ばれます。

航空局の全国空港配置図で★マークで示された残る9つの飛行場名を、参考までに示す設置管理者名(括弧内)と共に列挙します。
弟子屈(弟子屈町)、調布(東京都)、名古屋(愛知県)、但馬(兵庫県)、岡南(岡山県)、広島西(広島県)、天草(熊本県)、枕崎(枕崎市)、大分県央(大分県)

この中の調布飛行場[57123] は、1972年米軍から返還され、場外離着陸場として運用されましたが、1992年管理者を航空局長から東京都知事へ変更し、2001年「その他飛行場」として供用開始しています。

ホンダエアポート[57123]のような非公共用の飛行場は、航空局の「全国空港配置図」には含まれていません。
このような小さな飛行場を含めた過去及び現在の飛行場一覧の膨大なリストが、[65210] じゃごたろ さんがリンクされた「滑走路探検隊」の別のページに存在します。
全国索引地図 から入ってください。凡例 も参照のこと。

現在の「松本空港線」も以前は「松本飛行場線」から改称されたものですが

「空港整備法」の制定(昭和31年)より後、松本飛行場から松本空港への改称に伴なうものでしょうか。
小松空港・米子空港・丘珠空港など法律上の「空港」でない飛行場に関連する県道名称は、今でも「○○飛行場線」となっていると想像しますが、いかがですか?
[65257] 2008年 5月 26日(月)15:23:07hmt さん
「掛け算の地名」、「割り算の地名」
[65235] Issie さん
冗談はともかく,こういう「足し算の地名」というのはあるのでしょうかね。

「足し算の地名」ではないのですが、「掛け算の地名」ならありました。
明治31年10月1日 広島県三次郡, 三谿郡 の区域をもって 双三郡を設置。3+3=2×3。
合成地名コレクション にも集録されています。

[65245] 桜通り十文字 さん
旧茨城県七会村は七つの村が合併したから七会となった。という話を聞いたことがあります。

同類がいっぱいあって、既に 合成数地名コレクション が作られていることは、既にEMM編集長 指摘のとおり[65252]

ここを見てもわかるように、 (いずれも7村の合併ですが) 茨城県西茨城郡七会村(現・城里町)と 茨城県新治郡七会村(千代田村を経て、現・かすみがうら市)とがあり、「茨城県七会村」では特定不十分です。
現在の町村名と違って、昔は同一の県内に同じ名前があることが多かったので、郡名を省略しないようにしましょう。

なお、西茨城郡七会村の読み方は「ななかい」と思われますが、「ななゑ」との 記載例 もあります。新治郡七会村「ななえ」。

[65246] 揖斐の山 さん
愛知県にあった旧十四山村も同じように「14ヶ村」による合併で成り立ったとか。

村役場が TEXTLE & FASHION 2003年9月号 に書いた紹介文によると、17~18世紀に木曽川河口に広がる浅瀬を干拓した造成地で、村名の由来は新田開発時に14の新田村があったとか、干拓時に14の葦山をもとに開発したという説が有力とのこと。

しかし、明治の大合併で愛知県海西郡十四山村が成立した1889年の 新旧対照市町村一覧 を見ると、16ヶ村の合併となっています。

直接に合併した村の数ではなく、輪中地帯において地形に基づいて呼ばれていた「十四山」という地名が採用されたものなのでしょう。
「山」という名がついていますが、木曽川河口のデルタ地帯で、ほとんどゼロメートル地帯です。

編集長は“文中に例示されたものはすべて収録”としていますが、合成数地名コレクションには見当たりません。
合併した村の数とは合わないが、集録対象になると思われるので、ご検討願います。>yamadaさん

1906年に行なわれた町村の組み換えの結果、村の領域は少し変り、1913年には郡の合併で海部郡十四山村。
2006年弥富町に編入、弥富市になりました。

合成数地名関連では、以前に [53318]「三郷」に 少し足りない「二郷半」 というのを書いたことがあるのですが、それから連想される 「二合半坂」[61689] 伊豆之国 さん。
富士山の半分=五合に相当する日光の山が半分見えるので、更に半分の「二合半」にしたとすると、これは「割り算の地名」?
[65418] 2008年 6月 5日(木)23:27:54hmt さん
朝日のア、いろはのイ、上野のウ…
[65413] EMM さん
総務省省令(無線局運用規則)
こんなものまで「総務省令」で定められているとは知りませんでした。

この規則が対象としているのは、一般人による無線通信ですが、戦後にこのような制度ができるよりも前に、電信文を電話によって送る目的で「朝日のア、いろはのイ、上野のウ…」が使われていました。

電話ネットワークは、戦前から全国各地に及んでおり、官公署や会社・商店などでは利用されていましたが、一般家庭への普及度は低く、何よりも市外回線の整備がまだまだの状態で、遠距離の通話はいつ繋がるかわからない状態でした。
このような時代に、簡単な内容を確実に伝える手段として大いに利用されたのが電報(公衆電信)でした。

「公衆電信」という名の通り、本来はは電信符号によって伝えるものであり、大都市間の通信では多重通信を利用した電信設備で大量処理されていたと思われますが、処理件数の少ない「田舎の郵便局」の関係する通信においては、電話回線を利用して電信文を送る作業が行なわれました。
その際に当時の逓信省が定めたコードが「朝日のア、いろはのイ、上野のウ…」でした。

現在のコード表を見ても、逓信省管轄であることを思わせる言葉が登場しています。
為替のカ・切手のキ・手紙のテ・はがきのハ・保険のホ・ラジオのラ

「無線のム」の領域になった現在のコードでは「ちどりのチ」になっていますが、郵便局時代は「貯金のチ」だったと記憶します。「年賀のネ」もあったかな?

[65415] Issie さん
「神がかりで正気を失った昭和初期」

郵便局時代は「英語のエ」でなく、局員が日常使う「鉛筆のエ」だったと記憶します。
「そろばんのソ」は現在も使われていますが、郵便局時代の「机のツ」「数字のス」は変りました。
「平和のヘ」も戦後だと思いますが、戦時中のコードは思い出せません。
「クラブのク」などという“敵性国語”を使うこともなく、「車のク」でしょう。

地名で採用されているのは,「大阪のオ」「東京のト」…
「さい(才)のオ」・「富山のト」だった? 地域による変種があるのかもしれません。
「をわりのヲ」は、「尾張」よりも「終り」と考えていました。
[65471] 2008年 6月 9日(月)16:02:35hmt さん
テレガラム
[65465] EMM さん
電信法、ないしは電信法に関する施行令などで和文通話表が規定されている可能性

「朝日のア、いろはのイ…」によって電信文を伝えるのは、電話が開通していることが前提です。
それは電話が次第に津々浦々まで普及していった(大正から)昭和前期にかけての時代に、自然発生的に行なわれた伝え方であると推測します。

そして、最初はバラバラだった符丁が、ある時期に統一されたことが推測されるのですが、それは郵便局内部の「作業手順」の制定で済むことです。
逓信省令で公式化する必要はなかったものと思われます。
この点、電波管理の立場から免許した民間無線局に対して統一コードを強制する必要のあった「無線局運用規則」とは、事情が異なります。

明治33年の電信法に規定されていないことは、[65466] むっくんさん が確認されていますが、一応は可能性を求めて、日本法令索引により電信・電話などを検索してみました。やはり、それらしきものは見当たりませんでした。

和文通話表の本筋からは外れますが、日本法令索引を調べたついでに、明治33年の電信法より前の法令を調べました。
明治18年の 電信条例改定 から更に遡ると、明治7年太政官第98号布告の 日本帝国電信条例 になります。
第一条 此条例は日本帝国政府電信寮に於て所轄する処の電機上に施行するなり
第二条 此条例中に用ゆる電報(テレガラム)の語は百般の音信総て電機を以て伝送し又は伝送せんと欲するものを指て言ふなり

現在の技術を背景に、この定義を読むと、電話もインターネットもテレビ放送も、すべてこの条例で使われる「電報(テレガラム)」に該当するように思われます。
第三条では、国内電報事務は政府の専権であることを規定しています。

東京・横浜で電話サービスが始まったのは明治23年(1890)であり[55694] 、その10年後の 明治33年電信法 になると、「電話」という言葉が登場します。
第一条 電信及電話は政府之を管轄す

国内の電気通信事業は、電信条例時代の明治18年(1885)の内閣制度以来長らく逓信省の所管で、電報配達員も「〒」マーク(頭文字の図案化)の赤い自転車に乗っていました。戦時中の運輸通信省通信院→(内閣)逓信院を経て戦後に逓信省が復活。

昭和24年(1949)に郵政と分離して電気通信省設置。自転車の色は緑青色になり、マークも変りました。
昭和27年(1952)に電気通信省から日本電信電話公社へ移されましたが、昭和60年(1985)の民営化まで、国→公社による独占事業体制が続きました。
公社化の翌年、公衆電気通信法が施行されて明治33年(1900)の電信法が廃止されたことは [65465]EMMさん 既報。

最初の話題に戻って、戦前の郵便局で始まったと思われる「朝日のア、いろはのイ…」の資料探し。
「法的根拠」は絶望的で、「郵便局内部のマニュアル」も探し難い。
昔の電話帳には、電話による公衆電報依頼の案内として「朝日のア、いろはのイ…」の表が掲載されていたような記憶があります。
しかし、賞味期限切れの電話帳が保存される機会は、古い鉄道時刻表よりも更に少ないと思われ、逓信総合博物館[65465]に行っても閲覧することはできないのではないでしょうか。
[65885] 2008年 7月 28日(月)23:50:06hmt さん
歌枕探索・長崎の「中の島」
[65879] EMM さん
長崎の市街地に少なくとも2か所「中の島」と言う場所がある事が分かりました。

長崎の「中の島」を探索していただき、ありがとうございます。
100年前の長崎ぶらぶら節の時代には相撲興行が行なわれた広場のあった長崎駅裏の「中の島」。
歌の作られた20世紀後半には鉄道用地になっていました。

もう一つの「常磐の中の島」。
こちらは、戦後に出島の南側に造成された地域にある小さな中の島ですが、こちらの方が1975年頃に“あなたと二人で濡れた街”としてふさわしい歌枕であると思われます。
明治時代に出島の北側に変更された中島川の河口は、もともとこのあたりでした。
そういえば、江戸時代に多数の石造アーチ橋が作られたこの川の名前は、「中島川」でしたね。
[66030] 2008年 8月 13日(水)22:46:40【1】hmt さん
トンネルの話題
東海北陸自動車道の飛騨トンネル。関越トンネルに次ぐ長さもさることながら、高い土圧と大量の高圧湧水に苦しめられた難工事の末に完成した成果であることを、ぜひ記憶に留めておいてください。
工事関係のページ には、[66026] EMMさん のリンクからも移ることができます。

飛騨トンネル開通は 2005年予定から2008年にずれ込み、総工費は当初予定の600億円に対して1100億円(08/7/4読売)。
それでも軽傷13人で済んだのは、死者67人を出した丹那トンネル工事の時代に比べて、技術が進歩したおかげでしょう。
丹那トンネルは工期7年の予定が16年に(1918~1934)、工費も770万円→2600万円という空前絶後の難工事でした。

トンネルついでに
東京湾アクアラインの他にも、東京湾を横断する海底トンネルがあることをご存知ですか?
東京電力は、富津と東扇島とにLNG基地を持ち千葉県側 5つ、神奈川県側 3つのLNG火力発電所に燃料を供給しています。
2つのLNG基地を結んで連携するガス導管工事が2003年から進められており、2005年に両側からのシールドトンネル(内径3m)が 東京湾中央部の海底で接合 したそうです。
[67150] 2008年 10月 28日(火)22:35:59【1】hmt さん
阿賀野川・阿賀川(大川)、そして只見川
5年も前になりますが、本流より長い(又は流域面積が大きい)支流、いわば 川の本流と支流との逆転 に関する一連の記事がありました。

要点を記すと、[18691]太白さんの問いかけに対して、[18697]千本桜さんが“20年来の気がかり”として、代表的な例である阿賀野川と只見川との関係を示されました。
更に、長さや流域面積以外の判定基準の存在について、流量([18701] 般若堂そんぴんさん)と川底の高低([18703] EMMさん)とが提示されました。
太白さんは、これら自然的要因のいずれにも当てはまらないケースの存在についても言及されました[18957]
いずれにせよ、確かに謎ですね。

古い話題を持ち出したのは、とある団体旅行で、先週この大河・阿賀野川の豊かな水量を実感したからです。
約50年前に訪れた只見川については、今回は片門発電所付近を車窓から一瞥しただけでした。

最初に数値などにより阿賀野川の広がりを確認しておきます。
210kmで日本国内 10位とされている長さは、「阿賀野川水系」 の本川延長、つまり「本川」として指定された一級河川阿賀野川 83km(新潟県)と、その上流福島県にある一級河川阿賀川 127kmとの合計です。

阿賀川(大川)の源流は、奥会津・栃木県境の荒海山を水源とする荒海川です。この部分も常識的には「阿賀野川の本流」なのでしょうが、本川指定がないので、河川管理上の「本川」の長さ 210kmには含まれていないはずです。

阿賀川の支流の只見川は、流路延長145.2kmとなっています。三津合の合流点から河口までは 110km以上あると思われるので、こちらの長さは 250~260kmあるでしょう。
只見川の源流部には群馬県境にもなっている尾瀬沼があり、ヨッピ川も群馬県側。県境といえば、奥只見湖も主として新潟県です。
つまり阿賀野川水系の上流部は、福島県だけでなく、一部は群馬県と新潟県の領域に及んでいます。

流域面積 7710km2は日本で8番目。そのうち 阿賀川の山科地点から上流の集水面積 は 2742 km2、只見川の片門地点から上流は 2765 km2でどちらの流れもあまり変りません。なお、基準点はいずれも合流点から数km上流です。
しかし年間の総流量は、阿賀川 37億m3に対して只見川 70億m3と2倍近く違います。豪雪地を流域とする只見川の雪解け水が阿賀野川の豊富な水量を支えていることを裏づけています。

これまでの比較では、流域面積で甲乙つけ難く、長さと水量で只見川の圧勝。
これを逆転して、阿賀川(大川)が本川と指定された理由は何か? そこで、河川勾配を検討してみます。
[18703] EMM さん
川の本流と支流を決定する要因は、長さでも太さでも水量でも流域面積でもなく、川底の高低だったような覚えがあるのですが。

阿賀野川水系の断面図 をざっと眺めると、150kmあたりで只見川に阿賀川が合流しているようにも見えます。

しかし、合流点はもっと先の110km付近でしょう。大川ダムから駆け下り会津盆地を通り過ぎた阿賀川は、狭窄部に入ってから、階段状のダム湖で高度を下げてきた只見川と合流します。断面図を詳細に眺めると、130km前後で会津盆地を通る阿賀川は、山間を通る只見川よりも低くなっているようです。

つまり、少し強引かもしれませんが、合流点の少し上手に着目すれば、盆地を流れてきた阿賀川(大川)に、山地を流れてきた只見川が合流するという構図です。
匙加減でどうにでもなるような基準ですが、これが地元の実感に合うようにも思われます。

また、流域面積でなく流域人口ならば、比較するまでもなく会津盆地を擁する阿賀川(大川)が、山地を流れる只見川に圧勝。

千本桜さん。20年来の気がかり、いや5年経ったから25年来となった気がかりに対する答になっているでしょうか?

上記の断面図を見ると、阿賀野川河口から尾瀬沼までは260km以上あります。
300km以上の信濃川と利根川とは別格として、石狩川に次ぐ日本第4位の長さ?

ついでに、阿賀野川水系が日本第1位のものとして、水力発電所数 122があります。
1914~1926年に建設された猪苗代第一~第四発電所は当時最大級の発電所で、東京への長距離送電の成功は、わが国の電力事業を一段と発展させました。
戦後は只見川の電源開発が行なわれ、巨大ダムの田子倉発電所と奥只見発電所(1959-60)が有名です。
参考までに、利根川水系の水力発電所は 98、木曽川水系 77、富士川水系 71。
[67302] 2008年 11月 18日(火)15:20:00【1】hmt さん
昭和14年頃でも「平和のヘ」
[67298] EMM さん
戦前の和文通話表の調査、ご苦労様。
広島市HP収録の「広島市永年防空計画」と国立公文書館の「種村文書」とに、同じ和文通話表があったことがよくわかりました。

「種村文書」は、戦前に全国警察行政全般を統轄・指揮していた旧内務省警保局の理事官であった故種村一男氏が、戦後に警察大学校に寄贈した内部文書です。
この文書は警察大学校の学生寮の一室に保管されていたものが、国会で明るみ出たのをきっかけに、1998年に国立公文書館に移管され、翌年公開されたものだそうです(私立PDD図書館の警保局の項目)。
「地方長官・警察部長会議」と共に昭和戦前期の内務省行政を具体的に示した史料であり、国立公文書館で「警察庁公文書」として公開され、出版 もされています。

種村文書第68集には50件の文書があり、うち21件は昭和14年、昭和15年が3件、12年2件、11年1件で他は日付なし。
「通話表」も日付なしですが、昭和14年頃、つまり広島の防空計画と同じ頃に使われたものと考えて間違いないでしょう。

本格的に米英との戦争に突入する直前で、「兵士のヘ」がふさわしい時代すが、「平和のヘ」「英語のエ」なんですね。

昔の電話帳に通話表が出ていた時代の件、確かな記憶ではありませんが、1950年代、東京又は大阪付近かな?

【追記】
誤記訂正のついでに、「鉤(カギ)のあるヱ」ですね。
「お終のン」は、「おしまいのン」と読むのでしょうか。
[68789] 2009年 3月 8日(日)22:33:01hmt さん
「飛び地」の魅力 (5)隠れた飛び地
[68767]の末尾で、“大阪国際空港は、氷山の一角にすぎないのかもしれない”と書いたら、早速水面下に隠れた飛び地の実例に関するレスがありました。

[68778] EMMさん からは、金沢市の住宅地図地籍版の実例などにより、予想を越えて存在している「隠れ飛び地」の可能性を示していただきました。

[68783] Issie さんからは、習志野市誕生の直前に行なわれた総理府告示の但し書きにより、農地の所有関係から生じた飛び地の実例を示していただきました。
# 実は、“…所有する小作地”が如何なるものなのかを、農地法第2条第2項の定義(「小作地」とは、耕作の事業を行う者が所有権以外の権原に基いてその事業に供している農地をいう)にてらして理解することが、私にはよくできないのですが。

1970年代末までには両市の間で“領地交換”が何度も行われて,

習志野市例規集 行政区域の変更 にある 10件の境界変更告示のうち最初のものは千葉市への長作・天戸の“返還”。これと船橋市との境界に関する2件を除く7件(うち交換3件)が千葉市との間の飛び地処理でしょう。昭和46年が最後となっていますが、これで飛び地が解消したのかな?

水面下の飛び地を示唆する未確認情報が、5年前の落書き帳にもありました。
[23945] みやこ♂ さん
今度合併して佐野市になる葛生町,それの飛び地が「栃木市の向こう」にあるわけですが,これの中に実は栃木市の飛び地があって,さらにその中に一筆,葛生町があったような記憶があります。

出流山満願寺が下都賀郡(現・栃木市)ということで、その参道[39952]1本によって安蘇郡葛生町仙波(現・佐野市)の本体から切り離された飛び地。その中に二重・三重の飛び地があるという情報です。

然るべき役所へ行けば確認することができるでしょうが、このように、普通に流布している地図で公表されていない飛び地が、各地に存在する可能性はたしかにあります。

隠れた飛び地を詮索し始めたら、きりがないのかな?
[70109] 2009年 5月 13日(水)23:03:48【1】hmt さん
★祝★ 70000件達成記念 落書き帳の軌跡(2)新たなる長文メンバーの登場
この記事の末尾に示したものは、登録メンバーの累計書込文字数の1記事あたりの平均値を、過去と最近とで対比した長文ランキングです。過去データとのバランスから、最近のランキング35位までの方を対象としています。データ出所は次の通りです。
記事番号15000(2003/5/9)まで:[15020] 太白 さん
記事番号30038(2004/7/3)まで:[30058] SANUKI-Impact さん
記事番号70056(2009/5/11)まで:最近の書込ランキング

短文ランキング[70088]に大きな影響のあった十番勝負は、毎回の終了後に長文の感想文も生み出していますが、こちらは件数が限られているので、統計に直接影響するほどではないでしょう。

記事番号30038の時代よりも後に、長文ランキングを大きく変えたのは、新たなる長文メンバーの登場です。
特に、YTさん・ okiさん・88さん・むっくんさん 4人のお名前を挙げておきます。

2007年以来、okiさんとYTさんの登場により、ニジェガロージェッツさんの長文記録は大幅に更新されました。
okiさんは、藩政村など 幕末から明治にかけての地方資料を紹介されました。昨年6月以来はご無沙汰です。
YTさんは、明治から幕末にかけての人口統計を中心としたデータの書込により、デビューの昨年10月にいきなり書込文字数の首位になりました。3月までの半年間で10万字を越えた書込文字数は、新人としては記録的なペースでしょう。

このお2人よりも早いが、書込数30038の時代よりも後の2005年にデビューしたメンバーである 88さんは、皆さんご承知のように、1年後の2006年3月から市区町村変遷情報(当時は市町村合併情報)を担当されています[49915]
変遷情報関係を含む 88さんの記事は平均959文字で、長文7位となっています。文字数RK自体も13位と、古参メンバーが顔を並べる上位に進出しています。

むっくんさんは、2006年のデビューで、長文の12位、文字数RKの18位につけています。
むっくんさんが発掘した古い資料による情報は、88さんにより詳細に検討されており、このやりとりにより、過去の市区町村変遷情報は、ますます信頼性を高めてきています。

登録メンバーの累計書込文字数の1記事あたりの平均値【文字数と書込件数のRKを追記】

メンバー最初の書込記事番号15000記事番号30038記事番号70056長文RK(現在)字数RK件数RK
oki[57484]17621101203
YT[66911]1629265152
ニジェガロージェッツ[2342]14101243116331129
矢作川太郎[50286]1137486164
hmt[19388]83110925512
蘭丸[3764]100110001000680148
88[38512]95971325
三丁目[9453]100494394383363
音無鈴鹿[191]83493695899
スナフキん[11520]942915101222
MasAka[36527]90311107165
むっくん[48851]899121840
seahawk[7927]923921882135997
雪の字[49359]85814164217
ezekiel[53554]85615132182
スピカ[58428]839166195
花の東京都民[16617]8298291776131
Issie[54]7587738171815
BerryBlossom[25274]78680719127174
夜鳴き寿司屋[1156]801806791202237
伊豆之国[58915]780215483
役チャン[42077]7752283133
神田川博士[6706]81576323195242
太白[9921]904806761241931
たもっち[37111]749252749
桜トンネル[50124]744262541
またーり[17910]81474427148189
ペーロケ[6671]82884273528811
TGRS[12441]7377262987132
hiroroじゃけぇ[51470]701305073
佐賀県[30288]6863172108
EMM[13319]7796843247
みかちゅう[22400]733672332126
熊虎[392]7337646673479
リトル[58739]6663590121


長文記事の後に付け加えるのなんですが、落書き帳書込ランキングの軌跡として、「荒らし」による大量書込によって、一時的にとんでもない数字(書込文字数、なんと 1000万以上! を目撃)を表示したことがあったことも、記録に留めておきます。

[57066] 2007 年 2 月 27 日 オーナー グリグリ さん
大変残念なことですが、本日だけでなく最近、ある特定の人による荒らし行為が行われています。

私たちが、日常的にこの広場での会話を楽しむことができる陰には、その都度適切な対処によって、悪質な荒らし行為から「落書き帳」を守ってくださる オーナーの努力が存在する ことを忘れてはなりません。
[70715] 2009年 7月 4日(土)23:08:34hmt さん
茅の輪くぐり と 祇園祭 (1)祇園祭の「鉾」は 昔の避雷針?
既に“六日の菖蒲”になった「茅の輪くぐり」に、7月の「祇園祭」をからめて季節行事の話題。

[70668] むっくん さん
本日は6月30日。1年もはや半年を過ぎようとしています。
京都では本日、夏越祓(なごしのはらえ)という、1月から6月までの半年間の罪や穢れを払い、残り半年を無事に過ごせるようにと祈願する神事が、各神社で執り行われました。
[70669] EMM さん
私は6月30日でイメージするのは大祓の茅の輪くぐりですね。
[70689] inakanomozart さん
当地では、「輪くぐりさん」という場合が多いようです。

夏越の大祓・輪くぐりさんという行事には、広島県に転勤した際に、初めて出会いました。
調べてみると、茅の輪くぐりは、釈日本紀が伝える「備後国風土記逸文」の蘇民将来伝説に基づくものとのこと。

茅の輪による疫病よけを蘇民将来に教えた武塔神は、「吾は速須佐能神なり」と名乗り、スサノオの神は、神仏習合により牛頭天王(ごずてんのう)と同一視されます。
牛頭天王は、頭に牛の角が生えたインドの神様で、疫病神なのですが、お釈迦様のいた祇園精舎の守護神になりました。
[59676]でリンクした飯能の竹寺HPには、中国人民有志寄贈によるブロンズ像牛頭天王の写真があります。

さて平安京。わが国最大の都市では、夏になると疫病が流行し、大問題になりました。
御霊会は、非業の死をとげた政争の犠牲者の怨霊を鎮めるために始まりましたが、やがて、人々は疫病神そのものをお祀りしてご機嫌をとり、大暴れしないように願うようになりました。
疫病神の牛頭天王を祀った社が「祇園社」であり、そのお祭りが「祇園御霊会(祇園会)」です。

八坂神社 によれば、貞観11年(869)に疫病が流行したとき、平安京の神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を祭ったとあります。
先の尖った鉾には神が依り憑くので、祟り神をここに集めて無害化処理します。要するに、昔の避雷針です。

神輿などの巡行は10世紀からで、旧暦の6月に行なわれました。山鉾巡行は中世14世紀。応仁の乱で中絶した 祇園祭 も、1500年には復活。禁門の変での大火「どんどん焼け」(1864)でも多数の山鉾が焼失。

明治になり、それまで混淆状態だった神仏を分離して、国家目的に沿った神道振興政策が採用されました。
仏教系の「天」である牛頭天王を祀った祇園社も、神道系の素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする 八坂神社 に衣替えし、祇園会も祇園祭になりました。

明治10年には、巡行日程が新暦(太陽暦)の7月に移されました。お盆と同類の「月遅れ」行事です。
17日の山鉾巡行だけでなく、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたり各種の神事・行事がくり広げられます。

ここで、太陽暦7月末日の「疫神社夏越祭」が出てきましたが、これは「月遅れ」ですから、本来は旧暦六月晦日(みそか)だったわけです。
これは、正月からちょうど半年が経過した暦の節目であり、古くから半年の間に積った穢れを祓う夏越祓の神事(延喜式)が行なわれていた日です。

「茅の輪くぐり」の行なわれる6月30日には、旧暦六月晦日を「月遅れ」にせずに、そのまま現代の太陽暦に移した結果だったのです。
[70843] 2009年 7月 16日(木)22:57:43hmt さん
「富来」と「西海」
[70838] EMM さん
富来漁港がどこかは調べればすぐに分かりますが、これまた千本桜さんを惑わすにふさわしい代物なのです。
[70841] 千本桜 さん
まったく想定外でした。風無・風戸に西海ではなく富来をもってくるとは石川県農林水産部もなかなか大胆(笑)。地元ではそれほど違和感を感じないネーミングなんでしょうね。

2000年に西海漁協と西浦漁協とが合併して「石川とぎ漁協」になったそうです。
この時に、当時の自治体名に由来する「とぎ」を漁協の名に選んだのはともかく、領家漁港や七海漁港をさしおいて、「富来漁港」 を名乗ったのだとしたら、たしかに大胆(笑)。

その後、2006年の県内27漁協合併で、石川とぎ漁協は、石川県漁協「とぎ支所」になりました。
しかし、地元には「西海」へのこだわりがあったようで、翌2007年6月1日から「西海支所」に名称変更。

漁協の名称変更は、北國新聞 によりましたが、漁港の名については、触れていませんでした。
[73413] 2009年 12月 27日(日)12:43:14【1】hmt さん
用語論・「藩政村」「近世村」
[73410] Issie さん
どうも私は「藩の支配域」との縁が薄いようです。
という所に住んでいると,「藩政村」という表現がしっくり来ないのです。(中略)だって,「藩」の支配なんか受けたことないもん!
だから私は少しは「中立」に聞こえる「近世村」という語を使うことにしますね。

実は、私も「藩政村」という用語について、[55523]で次のように記していました。
青山村のような「天領」の民の子孫としては、いささか引っ掛かるものがあります。

もっとも、藩政村は「幕藩政治体制下の村」の省略形ともとれるので、近代を含めて使われる「令制国」に比べたら、こちらの方がずっと「まし」という趣旨の発言をしたこともあります[59173]

直前の[73411]
平成合併の結果「美波町」になり、町内の住所の表示が町村制施行より前の村の名に戻った
と書いたのも、“藩政村の名に戻った”とするに抵抗があったためです。
美波町の場合は、徳島藩支配下の「藩政村」でも不都合はなかったのだろうとは思いますが…

【追記】
[55501]で88さんが使った「藩政村」という用語に対して述べた上記の意見[55523]に対しては、次のレスをいただいています。

[55568] 88 さん
「藩政村」の表現は、こちらやこちらでも使用されています。だからといって絶対正しいものでもなく、「天領村」(造語です)があったのも事実でしょうし。江戸期の「町村」にあたる一般名詞で、いい表現があればそれを使いたいのですが。
「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1)」の「序」では、『江戸時代の幕藩体制下の町村』という表現があり、『藩政村』なる表現は出てきません。また、「町」については(中略)。私の頭の中 & 私の手持ち整理データでは、現在のところでは「城下町」と「藩政村」という2種類の区分に便宜上しております。

[73410] Issieさん が提示された用語「近世村」の、この落書き帳の中におけるの使用事例を調べてみました。
「近世村落」を除くと、やはり Issieさん が最初ですが、[68741]ですから 今年のことです。
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
平凡社の日本歴史地名大系でも「近世村」が使われているようで、[72222] EMMさん にその引用があります。

「藩政村」や「枝村」の 実体論 については、前記 okiさん のシリーズ以前から、88さん・むっくんさん・矢作川太郎さん などによる記事がありますが、今回は 用語論 に限定して書いてみました。
[74963] 2010年 4月 17日(土)16:41:19hmt さん
利賀川ダム(水無ダム)と利賀ダム(豆谷ダム)と、もう一つの利賀ダム
[74962] EMM さん
地名コレクションとは無関係の反応ですが、リンクされた「利賀川ダム」の Yahoo!地図。その表記は「水無ダム」。
ダム便覧 によると、“利賀川(とががわ)ダム [別名] 水無ダム”とあるので、これでよいのですが、ダム名が「水無」でよいのか? と余計な心配。

旧村名由来と推察できますが、いつも頼りにしている変遷情報には未集録なので、[69698]むっくん さんから 1889年富山県礪波郡利賀村成立時の旧村名 を調べると、確かに「水無村」がありました。

富山県の最南端付近にあり、地図を見ると、山を越えた西の庄川本流は、飛騨白川郷。
昔は「水無」と呼ばれた村が、どうしてダムサイトになったのか?

北流する利賀川をたどると、利賀盆地とおぼしきあたりを過ぎた先に、紛らわしい名の「利賀ダム」。
ダム便覧で調べると、上流の利賀川ダム(水無ダム)の事業者は富山県で、利賀ダム(別名 豆谷ダム)は関西電力。
更に紛らわしいことに、少し下流にもう一つ、工事途中の「利賀ダム」(北陸地方整備局)がありました。国のダム事業見直しで、どうなるか?
[75031] 2010年 4月 26日(月)13:38:39【1】hmt さん
境界にまたがる施設
[75024] EMM さん
「その所在地の住所を規定しているものは何だ?」
それを規定しているのが鉄道事業免許なのか、あるいは不動産登記なのか、他に何かあるのか…

境界線の両側にある土地や建物を用いた一体的な施設は、鉄道駅に限らず多々あることと思います。
これは公共施設や事業所のような大きな施設だけでなく、個人住宅でもあり得ることです。

その極端な例として、オランダとベルギーの国境にまたがるバールレの住宅を紹介したことがあります[45832]
個人住宅の場合は、日本でも西洋でも玄関のある側を住所としているようですね。

土地と建物の不動産登記について、普通には一つの施設内に、別々の所在地として登記されている複数の物件が存在しても、特に問題を生じることはないと思います。
[26811]は、一つの建物が管轄法務局の異なる土地にまたがるという特殊な場合については、建物登記手続に際して指定手続が必要ということを教えています。

鉄道駅所在地は、事業免許や法人登記の問題というよりも、国土交通省への届出における選択ではないかと思われます。
その場合、「当該事業者が駅を代表する所在地として選択した地」が認められ、それは駅長室(もちろん存在する場合ですが)所在地の場合が多いのではないでしょうか。

日本鉄道[61225]が赤羽と官鉄の品川を結ぶために山手線を作った明治18年(1885)。
当時の角筈村(淀橋区を経て新宿区)に新宿駅開業[38388]。次第に充実してきた貨物施設が作られたのは、甲州街道や玉川上水の南側の土地で、こちらは千駄ヶ谷村(渋谷区)でした。
貨物駅は南側にあっても、新宿駅の所在地としては、北側の地名が一貫して使われていたと思います。

【追記】
[38388]では、清水靖夫「地図が語る新宿駅周辺」が収録された書名を失念していましたが、「鉄道と街・新宿駅」(大正出版1989)という本のp.122~でした。補足しておきます。

新宿と同じ山手線開業時からの駅という輝ける歴史のある板橋駅(現在は赤羽線)は、板橋区・豊島区・北区の境界線上にある駅で、落書き帳の過去記事[41457]もあります。
開業当時はぎりぎりながら板橋町の中に納まっていたのかもしれず、駅の正式所在地は板橋区になっています。
南側に延長されている現在のプラットホームは、豊島区部分が長いでしょう。東口(滝野川口)は北区にあります。

駅ではありませんが、施設の主要部分の移転に伴い所在地が変更された事例が、東京都立新宿高校です[48626]
府立六中時代の校舎は東京市四谷区。これが新宿区の新宿高校になってからの 1969年に、隣接地(元は新宿御苑の一部だったグランド)に新築した校舎に移り、住所はその所在地の渋谷区に変更。
2004年にまたグランドと校舎が入れ替わり、3度目の新校舎の所在地により、学校の住所も新宿区に復帰。

玄関か中枢かは別として、格別の定めがなければ「当事者が施設を代表すると考えて選んだ場所」を住所としてよいものと思われます。

[64362] 逆太郎 さんの記事には、利根川の流路変更で群馬県佐波郡境町の対岸(利根川の南)に取り残された島村地区に所在する文化財が紹介されています。
国指定文化財等データベース で「島村」を検索すると、日本基督教団島村教会島村めぐみ保育園本館(群馬県伊勢崎市境島村)と、日本基督教団島村教会島村めぐみ保育園別館(埼玉県深谷市横瀬字聖天)とが別々に出ます。

「保育園の住所」には 本館所在地の伊勢崎市 だけが使われていると思いますが、「登録文化財」となると、本館と別館とは別々の所在地として登録されるのでしょう。
[75121] 2010年 5月 16日(日)17:01:27hmt さん
「本土化」した孤島型自治体 平成の大合併がもたらした変化(2)
「日本の○○」の中で、シンガポール[24207]、マダガスカル[39773]、スリランカ[64654]、台湾などに例えられる孤島型の市町村関連で、平成の大合併がもたらした変化を記した[75108]の続編です。

このタイプの自治体の数は、平成合併後には 7市19町22村。2008年に [64459] futsunoおじ さんが列挙してくれました。
# 上関町と直島町(イギリス型)[75096]は、除外しました。

[75087] k-ace さんは、平成の大合併により生じた孤島型自治体の変化を調査してくれました。
すなわち上記 48市町村のうちの第1群(変化無し)の1市11町22村は、以前から存在した小型の孤島型自治体です。
私は[75108]で “真の孤島は、合併することもできず、小さな自治体のまま放置” と書いたのですが、変化なしは結果論であって、k-ace さんの続編記事[75118]に紹介されているように、当事者によるそれなりの協議努力はありました。

[75087]の第2群(平成の大合併による該当自治体)は、平成合併により島内の市町村が合併して境界が消えた6市7町です。
佐渡市や対馬市のような大型の1島1自治体から、久米島のように島を2分していた自治体の統合まで規模はいろいろあり。
その他、島内合併でなく、複数の孤島の合併で生まれた孤島群島型が 1例(愛媛県上島町)だけありました。

[75087] では、更に第3群(平成の大合併による消滅該当自治体)として、1市21町6村を挙げてくれました。
# 周囲が海ではなく 内水である秋田県大潟村は、「孤島型」から除外しました。

以上、平成合併の前後を問わず孤島型に分類された8市40町28村を、離島度の大きい 伊豆小笠原から 本土に近接した瀬戸内海などに至る5地域に分けて、平成合併のもたらした変化を探ったのが[75108]でした。

離島自治体はここで対象とした「隣接数ゼロ」だけではないのですが、それらが平成合併に対応した道は、およそ3つに分けられるでしょう。第1は変化せず。第2は島内合併。第3は本土自治体の一部になる道。

第2の道である島内合併を協議したが整わず、結果的には第1の道である変化せずとなり、「隣接数ゼロ」のテーマとは無関係となっている徳之島の事例[75118]のように、意図と結果とは必ずしも一致しませんが、大勢としては、3つの道は前記の3群につながります。

村上市他との合併協議をした新潟県粟島浦村のような不成立事例はさておき、孤島型自治体が第3の道を選んで「本土化」したプロセスを、長崎県北松浦郡生月町を例として、眺めてみましょう。

生月町はもともと1島1町で、地名コレクションの先陣・辰ノ瀬戸[18471][18791]、別名生月瀬戸[24186]を挟んで隣接する平戸市も 1島1市でした[18190]。生月島と平戸島との間の架橋(有料道路)は 1991年開通。その平戸島と九州本土にある田平町との間(平戸瀬戸)は、既に1977年に平戸大橋が開通していました。

平成の大合併では、2つの橋で九州本土と結ばれた1市2町に、更にもう一つ、離島の大島村を加えて 新設・平戸市 になりました。
この平戸市の形を日本のデンマークに見立てた AB さんの[75078] が、今回のスレッドの発端になりました。

余談ですが、この北松浦郡大島村は 長崎県最後の村 [29503]でした。各地に多数あった大島村(町)ですが、この村の由来である 的山大島 の「的山」を「あづち」と読むのは、なかなかの難読地名です。[28781] 倉田昆布さん
この的山大島の神浦は、かつての遣明船の寄港地であり、重要伝統的建造物群保存地区[67172] に選ばれています(2008)。

島伝いの架橋で本土化した島の代表は、1966年に天草五橋が開通した熊本県の天草です。
九州本土宇土半島の先端である三角ノ瀬戸から 天門橋を渡った 大矢野島は、2004年までは大矢野町でした。
この大矢野町が天草上島東部の3町と合併して 上天草市 になった結果、名目的な「孤島型」から脱して「日本のイギリス」に変ったのでしたが、架橋による実質的本土化は、もちろん合併よりもずっと前のことでした。

島伝いの架橋をもう一例挙げておくと、長崎県西彼杵半島北西の大島町と崎戸町があります。
半島と大島(正確には寺島)との間の呼子ノ瀬戸に架けられた大島大橋は 1999年開通。
大島の西にある蛎浦島(かきのうらしま)は、昔は沿岸捕鯨、その後は崎戸炭鉱で栄えた島ですが、大島との間が中戸大橋で結ばれ、これらの島々は九州本土からの陸路が確保されています。
2005年、大島町・崎戸町は半島にある3町と合併して西海市になり、行政上も本土自治体の仲間に入りました。

この調子で孤島自治体を見てゆくとキリがないので、本土自治体の一部になった町村を、架橋の有無で分けて列挙しておきます。
[47152] EMM さんによると、本土架橋によるこんな影響もあるそうです。
「橋ができるまでは島内の家々は鍵をかけてある家なんて無かったが、橋ができてから島外から泥棒が来るようになってしまったので鍵をかけざるを得なくなってしまった」

本土架橋あり【架橋先、合併先】
石川県鹿島郡能登島町【七尾市】、広島県安芸郡下蒲刈町【呉市】、蒲刈町【呉市】、沼隈郡内海町【福山市】、愛媛県越智郡伯方町【今治市】
架橋先と合併先とが別の県になっている3島(3町村)は、[69998]など何回か話題になっています。
愛媛県越智郡関前村(岡村島)【架橋先は広島県呉市、合併先は松山市】、長崎県北松浦郡鷹島町【架橋先は佐賀県肥前町、合併先は松浦市】、福島町【架橋先は佐賀県伊万里市、合併先は松浦市】、

本土架橋なし『合併先』
兵庫県飾磨郡家島町『姫路市』、広島県佐伯郡宮島町『廿日市市』、愛媛県温泉郡中島町(忽那諸島)『松山市』、福岡県宗像郡大島村『宗像市』、長崎県北松浦郡宇久町『佐世保市』、長崎県西彼杵郡伊王島町・高島町『長崎市』、熊本県天草郡御所浦町『天草市』

以上は、合併前の自治体が「隣接数ゼロ」だったものに限定していますが、倉橋島や芸予諸島の島々など、自治体境界があった島で、合併により本土自治体の一部になった市町村もあります。
[75427] 2010年 7月 1日(木)15:16:17【1】hmt さん
hmtマガジンに特集「夏の行事」登場
7月1日です。

[70669] EMM さん
[42735]以降、毎年必ず7月1日前後には何らかの形で氷室饅頭の話を書いている…と思ってましたが、再確認したら2007年だけその時期の私の書き込みの中に饅頭の話が出てきませんでした。

この記事に敬意を払い、hmtマガジンに「季節行事」というテーマを立ち上げ、その第1号特集 「夏の行事」 の冒頭に [42735]を収録しました。

[70668] むっくん さん
本家・京都でも氷室由来の行事は未だ脈々と受け継がれています。

世界的なブランド 「オムロン」 の由来になった「御室」ですが、遡れば 仁和寺の裏山に氷室(ひむろ)があったのでした。
[75432] 2010年 7月 2日(金)18:48:52hmt さん
お盆と灯籠
[75428] EMM さん
金沢では7月1日の氷室→7月の新盆→8月の旧盆…と夏の行事が続きますが、能登の夏と言えばあちこちの集落でそれこそ日替わりで毎日のように行われる「キリコ祭り」。

能登の「キリコ」も「切籠」に由来するものと考えます。
盂蘭盆会には多くの宗派で盆提灯を使いますが、浄土真宗では「切籠灯籠」という 仏具 を使います。

その盂蘭盆会の由来と伝えられるのが、餓鬼道に堕ち 逆さ吊り にされた母の姿を目にして悲嘆にくれた目連の話。
釈迦の助言を受けた目連は、7月15日に、夏安居を終え懺悔に集う僧たちに馳走して、亡き母親を供養しました。
盂蘭盆 = ウラバンナ とは「逆さ吊り」の意味の梵語で、「切籠灯籠」の形がこれを表しているそうです。参考
「キリコ」の「コ」 = 籠は、ひげこ や「はりこ」の「コ」ですね。張籠(はりこ)のことを「ぼて」とも言いますが、これは梵天に由来するらしいと書いてあります。

落書き帳内で「キリコ」を検索すると、金沢の墓参用キリコに関する[38847] EMMさん が初出で、グリグリさん の[53251]もありますが、その直後に、能登にある別の「でっかいキリコ」が登場します。
[53254] EMM さん
能登でキリコというとこれがまた全然違うものになります。

これは、北日本各地にある一群の 巨大祭り灯籠 の仲間ですね。

富山県魚津・たてもん祭り、福野・小矢部の夜高祭り、高岡市・伏木曳山祭り、新潟県直江津の祇園祭り、新潟市七夕祭り、佐渡一宮弥彦神社の灯籠神事、秋田竿燈まつり、能代ねぶ流し、弘前ねぷたまつり、青森ねぶた祭……

リンクしたサイト の紹介文を読むと、京都の祇園祭と関連のあるお祭りでした。

ここには、疫病対策で祇園社から牛頭天王を勧請という由来が記されており、日付も「七日」ではありません。
しかし、青森「ねぶた」など巨大祭り灯籠は、(月遅れ8月の)「七日」に行なわれ、七夕祭りの灯篭流しの変形とされているようです。参考
京都祇園祭の宵山でも山鉾に提灯を飾りますから、祇園祭と全く無関係でもないのでしょうが。

[53292] にまん さん
うちのいなかの夏祭りで、切籠(きりこ)が使われています。(中略)こっちは七夕飾りとして使用しています。
お盆の行事も取り込まれているのではないかという気もしてきました。

下関市長府の 数方庭祭 も 8月7日です。現在の形が整ったのは元禄年間で、従来の矛や薙刀の代りに竹竿幟と切籠を使うようになったとか。

旧暦の七夕は上弦、盂蘭盆会はその月の満月で、1週間の違い。
切籠灯籠が使われる2つのお祭りは無関係ではないように思われますが、よくわかりません。 地蔵盆は更に1週間後の下弦。
[78207] 2011年 5月 10日(火)18:11:54【1】hmt さん
地名コレクション「希少地名」について
[78200] しんちゃん さん
342127 1340554(高松市)に「獅子の霊巌」と云う展望台があります。(中略)希少地名にいかがかしら。

しんちゃん さんは、[77828]から上記の[78200]まで、47日間に16件の書き込みをしています。
その大部分が地名コレクション情報です。
新たな筆者が落書き帳に参入することは結構なことなのですが、落書き帳の常連から見ると、せっかくの書き込みが、流れにしっくり馴染んでおらず、ミスリードと思われているフシもあります。[77957]参照

地名コレクションの担当ではないのですが、横からちょっと 口をはさみます。

最初に、当然のことですが、落書き帳ガイドライン を守りましょう。
書込便利機能 も大いに活用しましょう。
地名コレクション情報においては、地図リンクが大いに役立ちます。

さて、地名コレクションですが、情報提供にあたっては、まず 地名コレクショントップページ と、自分の提案に対する関係者のレスとを熟読されることをおすすめします。

例えば 平成橋の情報へのレスとして書かれた[77878] k-ace さんの記事を理解されたでしょうか?
この中に、“地名コレクショントップページより”として
なお、情報提供に関してのお願いが落書き帳[41496][43107]にありますので、投稿前にご一読ください。
が紹介されています。

[41496] EMM さんの記事を見れば、最低限必要な情報、できれば付けて欲しい情報(地図リンク)、必要に応じて付けて欲しい情報が記されています。

最低限必要な情報として、ここに挙げられているのは、「対象となる地名」と「その所在地」です。
EMM さんは自明のこととして挙げなかったのだと思いますが、実は、しんちゃん さんの書き込みを見ているうちに、これに「地名コレクション名」を加えてほしいと思うようになりました。

例えば [77872] 夜鷹原の記事を見ると、夜コレクション、動物名コレクション群、原コレクションのいずれについての情報なのか、すぐには判断しかねます。みやこ♂さん【注】という編集者名によって、夜コレクション だということがわかるのですが…
【注】他人の名を間違えないように注意しましょう。

できれば付けて欲しい情報の最たるものは地図リンクです。しんちゃん さんは、ウオッちずを利用して経緯度を記載しているものと推察しますが、それならば経緯度の数値よりも、ウオッちずの直リンク で情報提供してくれた方が、編集者にとって好ましいというわけです。

次に、「獅子の霊巌」の情報が提供された「希少地名」について。

地名コレクショントップページにに書かれているように、「半島」など「地形名」から出発した地名コレクションの集録対象は、現在では「町名系」、更には“地形などにこだわらず何らかの共通点がある”地名にも広がっています。
しかし、「地形名」コレクションは、現在でも 152コレクションの約半分を占めています。

当然のことですが、どのコレクションに情報を提供する場合にも、最初にその説明文やリストの構成を熟読し、そのコレクションのポイントを理解する必要があります。

「希少地名 (一般)」コレクション の冒頭には、
希少地名コレクションは、(中略)山なのに山っぽくない名前だったり、と「その地形としては特殊な地名」を集めたコレクションです。
(「地形として希少なもの」の名と勘違いされた方があり、YSKさん命名により現在の名称となりました。)
と明記され、リストを見ると「地形の種類」欄があります。

つまり、このコレクションの対象は「地形名」の一種であることが、理解の第一歩です。
そして、このような場合、「地形の種類」のようにリストにある項目も、提供する情報に含めるのが好ましいと考えます。

ミスリードなどのトラブルを防ぐため、地名コレクションへの情報提供にあたって注意すべき点が主となりましたが、ここで、「獅子の霊巌」についての私の見解を記しておきます。

「展望台」は地形名とは言い難いので、コレクション対象の「地形の種類」は、この場合、弘法大師修行と伝えられる「岩」でしょう。
つまり、「岩」の名称として、「獅子の霊巌」が特殊なのか? ということになります。

「巌」は「岩」と同義・同音の文字と思われるので、「獅子の霊巌」は、“その地形としては特殊な地名”つまり“岩なのに岩っぽくない名前”には該当しない。
これが私の判定です。編集者のご意見は?

余談
「獅子の霊巌」所在地である「屋島」は、「山」でありながら 「山」とは一応別の概念とされている「島」の名が付けられているので、「希少地名 (山)」コレクション に収録されています。
逆に 「島」でありながら 「山」という名で呼ばれる事例が 「金華山」[27481]です。
これは、最初は「特殊地形名コレクション」[27782]という名だった希少地名コレクションの発祥に関わる地名だったようです。

金華山も島の名であると共に山の名ですが、屋島も(本来は)島の名でもあったはず[32295]という問題点はあります。
このように集録するか否かは、結局は編集者の判断に任されます。
[78708] 2011年 7月 4日(月)15:49:53hmt さん
南加賀・能登のあばれ祭り
[78706] EMM さん
もし私が書くとしたら、加賀市のことを指す場合は「加賀市」、小松市や加賀市をまとめて言うのであれば「南加賀」となります。
江沼郡自体消滅してしまった事もあり、これを手取以南の総称とするのはかなり苦しい。
正直なところ、「加賀」の用法は石川県内でもかなり入り乱れているのが実情です。

上記の説明は、よくわかります。
現在「加賀地方」といわれる「河北郡津幡町・かほく市以南」の一部には能登国羽咋郡であった地域が含まれ、正確には「加賀国」とは一致しないとのご指摘も、現実的な取り扱いとして理解できます。

よくわからないのが、
加賀地方の金沢市以外を指す場合

東京になぞらえれば、「23区と三多摩」という感覚で、「金沢と加賀」という対比があるのでしょうか?

[78705] EMM さん
宇出津のあばれ祭りについての考察、ありがとうございます。

今回の記事のきっかけは、“祭りの内容の違いから関連性はあまり高く無い”と言う旨の投稿への反論だったようです。
しかし、私の記事[75432]は、祇園社から荒ぶる疫病神である牛頭天王[70715]を勧請したことも 認めており、祇園祭と「あばれ祭り」との関連性を否定するつもりなど、全くなかったのです。

今回の記事を hmtマガジンに収録するにあたり、祇園祭関連ならば 夏の行事1 になりますが、昨年の記事が 既にキリコ(灯籠)関連で 夏の行事2 に収録されているので、そちらに追加しました。ご了承ください。
[78719] 2011年 7月 6日(水)17:35:29hmt さん
適切な地名がなかった>了解
[78713] グリグリ さん
適切な地名がなかったのが実態です。
父方の実家は決して加賀とは呼びません。

自分のことを省みても、言いたい内容を表す適切な地名がなく、現在の行政地名で代用してしまうことがあります。
[78698]で使われた「加賀」が、加賀市発足よりも前のことに関するものであっても、「現在は加賀市域になっている ある場所」を意味しているであろうことは、私にも文脈から推察することができました。
“金沢って「加賀」ではなかったのか?”などと一応はすねてみましたが、基本的には了解です。

ただし、私自身は非常に気持ち悪いと思いながら使っています。

「南加賀」も「加南地方」も、あまり熟した地名ではないようなので、今回のケースについて言えば、[78706] EMM さん の発言にあるように、「加賀市」と書いたらよかったのではないでしょうか?
加賀市発足よりも前のことなのに「加賀市」と書くのも“気持ち悪い”かもしれません。
しかし、それこそ、文脈から「現在の加賀市域」とわかると思います。

いただいたレスに対する、私の感想 その1
“現時点でもまったく揺るぎない”[59238]での説明
加賀は加賀市を特定する場合にはまず使いません。
に則して、加賀市の「市」という字を 安易に省略してほしくなかった。

感想 その2
ただ、今回のような場合を想定すると、加賀を加賀市の意味で使う用法も少しずつ広がりつつあるのかなとも思いました。

これが事実とすると、言葉だけの「僭称地名」にとどまらず、現実に地名の混乱を招く傷口になります。
加賀市だけでなく、国名を名乗る他の市についても 起りそうな問題と思われます。
[79651] 2011年 11月 20日(日)17:37:09hmt さん
「県民の日」と「学校の休日」
「県民の日」が設けられているのは 11県。それに類する記念日を含めても 18都県と、47都道府県の中では少数派でした[79643]
「県民の日」は、関東地方で始まったことが、地理的分布から推察されます。

日付の由来は、明治4年の府県再編成と それに続く統合分離にちなむ日が大部分(15県)ですが、落書き帳では、学校の休日扱い に関する話題が多数を占めていました。

条例制定日では、1952年東京都条例第75号「都民の日条例」が最初と思われ、これは大正11年(1922)10月1日に定められた「自治記念日」遡ることができます。三市特例法によって「市」としては有名無実の存在であった「東京」が、市会によって選ばれた市長をもつ自治体として誕生した記念日(明治31年)[53890]です。
従って、名称は類似しているものの 「都民の日」は、「明治前期の府県誕生」を記念した「県民の日」とは 性格が異なります。

「県民の日」としては、昭和43年茨城県条例 が最初のものではないかと思われます。「明治百年」と呼ばれて、明治初期の歴史が世間の話題になった 1967年の翌年です。
これに続いて「明治4年の府県再編成」 100周年にあたる 1971年に 埼玉県も「県民の日」を制定しました。
この2県の学校が休みになり その様子が近県にも伝わり、波及効果で 千葉県(1984)・群馬県(1985)・栃木県(1985)・山梨県(1986)など続々と「県民の日」が作られるに至ったのは、それから 10年余を経た 1980年代でした。
静岡県となると 1996年制定とずっと後になり、しかも夏休み中の8月21日です。

休校となるケースの多い関東地方の中では、「県民の日」が休校日でない栃木県と、「県民の日」そのものがない神奈川県とが異色の存在に見えますが、全国的には「県民の日」にかこつけて学校を休むことの方が例外のようです。

蛇足?
「県民の日」がない神奈川県には 立庁記念日 というものがあるそうです。
たぶん一般の神奈川「県民」にとっては無関係な存在と思われますが、神奈川県庁の「中の人」にとっては どういう存在なんでしょうか?
“神奈川県の始まりはいつなのか?”という疑問に答えて、“幕府から新政府へという「体制の変化」こそが始まり”という見解を 「立庁記念日」という言葉で『県史』に記してあるだけ なのかもしれませんが。


ところで、学校の休校。実施している県においては、これが「県民の日」存在の周知につき、絶大な効果を発揮していると思われます。

しかし、少なくとも現行法では 「県民の日」だからと言って、「都道府県独自の休日」を勝手に作れるわけではありません。
この点について、[65454] EMM さんの発言があり、上記の記事集「学校は休み?」の末尾に収録してあります。
それによると、平成11年12月22日付で改正されている 地方自治法第4条の2の第3項によるものだそうです。

静岡県 県民の日に関するQ&A も、これを裏付けており、「自治体単位の一斉休日」は困難とのこと。
Q8 「県民の日」は休日にできないのですか。
A 地方公共団体が独自に休日を定める(地方自治法第4条の2第3項)場合。この場合は、特別な歴史的、社会的意義があって、住民がこぞって記念することが定着しており、その地方公共団体の休日とすることについて、広く国民の理解が得られる日であることが必要です。「盆、祭、市制記念日等」は、これに該当しないとされています(平成3年4月自治省行政課長通達)ので、「県民の日」を休日とすることは、現在のところ困難です。
なお、現在、沖縄県及び県内市町村の「慰霊の日」(6月23日)と広島市の「平和記念日」(8月6日)が、地方公共団体の休日となっています。
[68720] EMM さんも、「市民の祭礼の日」などが自治体独自の休日だったのが 取りやめになっている所が出ているようである と伝えています。

都道府県市区町村単位で、一斉に公立学校が休校なんて自治体はどこかある(あった)んでしょうか?

これは [68700] ただけんさん の疑問なのですが、「自治体単位の一斉休日」ではなく「自治体単位の学校休日」ならば、市町村の教育委員会規則などで決められるようです。例:皆野町
「埼玉県内一斉休校」のように見えるのは、市町村単位の処置が 「たまたま?」一致した 結果なのでしょう。

東京都の場合は、都民の日を休日にするか否かを 学校単位の裁量 で決めることができ、“教育委員会に届け出たら、かなり渋い顔をされましたが受理された”という報告もありました。出典2番目
[82265] 2012年 11月 26日(月)16:42:49【1】hmt さん
第9回落書き帳公式オフ会(岐阜オフ会2012) (2)助けてもらいながら 金華山と木曽三川公園へ
岐阜オフ会の第2日。前日に集合時刻を決め、早出の方もいなかったおかげで、20人が揃って朝食の席に着くことができました。
小さなことですが、これはオフ会史上初?

第2日は「成り行き」ということで、帰路名古屋からの「ぷらっとこだま」以外のスケジュールなし。
濃尾平野で行ってみたいところ。前々から漠然と考えていた所は、木曽三川です。
もちろん 長良川は宿の眼前に見えているのですが、もっと下流。人々が自然の力の脅威を感じながらも治水技術を積み上げて、日本有数の沃野を作り上げてきた地帯を目にしたいのです。

ところが、地図で眺めてもかなりの広がりのあるこの地域。ピントを絞ることができないままに、今回のオフ会参加となりました。

朝食の席で、こんな漠然とした希望を述べたところ、EMMさんが金華山の後で海津に行く予定とのことだったので、この海津行きEMM号に同乗させていただくことになりました。

金華山の麓までは、徒歩の海津行のグループとは別に、菊人形さんが車を出してくださいました。
ロープウェイの山上駅からは、予想されたことながら、足の弱い hmtには かなり困難な階段道の連続。
菊人形さんや 中島悟さんには ずいぶん気を使わせ、助けていただきましたが、手摺を掴みながら、どうにか 岐阜城往復を歩くことができました。単独行だったら、昨年帰路の龍王峡[79718]のように、途中で安易にギブアップしたところです。

菊人形さんには「すぎ山」まで送っていただき、ロビーで海津行EMM号・ラガー号を待ちます。ここで、新幹線岐阜羽島駅の時刻を調べておいたのが、後で役に立ちました。

EMM号には星野彼方さんと同乗。岐阜の市街地からは少し外れた岐阜県庁[81195]の近くを過ぎて、木曽三川と共に南下。
大きな岐阜県の中で見るとそんなに離れていないようですが、実際に走ってみると 岐阜県最南端の海津市までは かなりの道程があることを実感しました。

帰ってから調べて 気がついたのですが、ML00048号(2012/11/18)に“EMMのやぼう(笑)”が記されていました。
どうしても次の場所に行ってみたいから。空中写真リンク
東側に名鉄、西側に養老鉄道の駅がありますから、電車で岐阜に行くことになった場合でも行く気は満々なのですが、やはり場所的に車の方が行きやすそうです。

国営木曽三川公園のアクセスマップによると、公共交通機関は“養老鉄道石津駅より海津市コミュニティバス「木曽三川公園」下車”ですが、時刻表を見ると石津駅 9:42発の1本だけしかありません。タクシーを使えば、養老鉄道多度駅 or 名鉄尾西線佐屋駅から行くことができそうですが、基本的に自動車を使わないと行けない場所のようです。
帰宅後に知った情報ですが、オフ会朝食の時に希望を述べなければ、一生涯 hmtの行けそうもない場所だったのでした。

国営木曽三川公園は、3県にまたがる国営公園で、北は岐阜県各務原市、東は愛知県江南市、南は三重県桑名市に及ぶ 11の施設 があります。
中心的な施設と思われる「木曽三川公園センター」の位置。東側の木曽川と背割堤を介して並流する長良川。そこに西側から揖斐川が近づく地点で、岐阜県の最南端・海津市海津町油島という地名です。

ところで、ここから南は、並流する揖斐川と長良川とを分ける背割堤で、治水神社から宝暦治水碑までの間、1km余は千本松原と呼ばれる見事な景観になっています。この 「油島千本松原」 が、EMMさんの目的地でした。

センターで合流し昼食をすませた6人は、水と緑の館の展望タワーに登りました。
360度広がる木曽三川の眺めは、まさに この地ならではの絶景で、堪能しました。1階には 展示室 もあります。
なお 入場料には「JAF割引」があり、やはり自動車で来る所のようです。

施設の南に出ると、すぐに 治水神社。ここから始まる千本松原は、宝暦治水工事 【5/7コマ】の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に植えた千本の「日向松」の苗が、二百年以上の年輪を積み重ねて成長したものと伝えられています。
5人は松林の中をどんどん進みますが、hmtは これに追従できずに落伍しました。
一本道ですから、戻ってくるまで待てば はぐれる心配なし。先に治水神社に戻って待ちました。
後で聞けば、5人は松原の終る 宝暦治水碑 まで行ったとのこと。ここが正真正銘の岐阜県最南端で、東側の長良川水面上が 岐阜・三重・愛知の「三県境」(28番)になります。

足の弱い hmtが参加したために、皆さんのペースを落してしまったようです。
センター北側の駐車場で ラガー号の3人(小松原ラガーさん、かすみさん、まなちゃんさん)と別れたEMM号。
岐阜羽島駅も結構遠く、ホームに上ると同時に、予定した列車が入ってきました。
EMMさんと星野彼方さんには 気を揉ませてしまったことと思いますが、岐阜羽島・名古屋と順調に乗り継ぐことができ、無事に帰ることができました。

多くの方に助けられましたが、とても楽しい岐阜オフ会になりました。ありがとうございます。

【誤記訂正あり】 誤変換に気づかず、失礼しました。
[82382] 2012年 12月 26日(水)22:57:01【1】hmt さん
都道府県の並べ方
[82381] EMM さん 石川県の次が岡山県
しかし、アマチュア無線の県番号、改めて見返しても並び方の基準が今イチ分からない…。
追記:
もしかして、過去に各省庁が独自に決めてた県番号が今でも関連業界で生き残っている…って可能性はないでしょうか???

「各省庁」単位であるかどうかはともかく、過去の制度が生き残っている可能性は大であると思います。

無線通信に関係する総務省総合通信局の管轄地域 を例示します。
総合通信局毎に並べた都道府県の順番は、15山梨、16新潟、17長野、18~20北陸3県が普通のコードと違ってきます。

[34066]に示された県ナンバーでも問題のありそうな 中部地方を見ると、関東に属する山梨県、信越2県、北陸3県、三重県を含む東海4県の番号は、10~17、08~09、28~30、18~21となっており、順番こそ違うものの、現在の管轄地域毎にまとまっています。

日本アマチュア無線連盟は86年もの歴史を持つ団体であり、都市の番号については 基準 に従って変更しているものの、都道府県については 昔の順番のままなのでしょう。

総合通信局の昔の順番が 北海道、東北、信越、関東、東海、近畿、北陸、中国、四国、九州、沖縄の順であったという推測の裏付けは得ていませんが【追記参照】、平成16年総務省告示第859号 5/29コマを見ると、関東、信越、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州、東北、北海道、沖縄の順で、8年前と現在との違いがわかります。
なお、告示の 7/29コマを見れば、都道府県コードについては 15新潟県以下のJISコードが使われています。

疑問の発端になった全国高校駅伝選手のゼッケン番号[82378] [82379]
下の表はJISコードとは異なる高校駅伝のゼッケン番号ですが、国体では熊本県・大分県の順がJISと同じみたいです。

国民体育大会は「日本体育協会、国及び開催地の都道府県の共同開催」であり、国の定めたコード順になっている。
そして、日本陸上競技連盟主催の 全国高校駅伝 では、まだ従来の番号が使われている。
これが、私の推測するところです。

【追記】
北海道、東北、信越、関東、東海、近畿、北陸、中国、四国、九州、沖縄の順
上に書いたこの順番、よく考えたら 思い出したのが 電話の市外局番 でした。

都道府県庁所在地の市外局番を番号順に並べると次のようになります。
北海道(11札幌)、東北(17青森 18秋田 19盛岡 22仙台 23山形 24福島)、信越(25新潟 26長野)、関東(27前橋 28宇都宮 29水戸 3東京 43千葉 45横浜 48さいたま)、東海(52名古屋 54静岡 55甲府 58岐阜 59津)、近畿(6大阪 73和歌山 742奈良 75京都 77大津 78神戸)、北陸(76金沢 76富山 776福井)、中国(82広島 83山口 852松江 857鳥取 86岡山)、四国(87高松 88徳島 88高知 89松山)、九州(92福岡 952佐賀 95長崎 96熊本 97大分 985宮崎 99鹿児島)、沖縄(98那覇)

甲府が東海の中に、金沢・富山・福井が近畿の中に、那覇が九州の中に入り込んでいたり、地域内の県の順番が合わないなど、[34066]の県ナンバー順と完全に一致するわけではありません。
しかし、信越や北陸の特徴的な位置に、共通点を見ることができ、アマチュア無線の県ナンバーと、市外電話局番とが 互いに近い時代に付与され、その結果 類似した順番になった ことを推測させます。
[83639] 2013年 6月 26日(水)14:59:05hmt さん
「富士」 (3)富士山遠望ポイント
プノンペンで開催中のユネスコ世界遺産委員会。審議最終日の今日、19の新規遺産(自然遺産5+文化遺産14)が一覧表に正式に記載されます。これで総数は 160の国・地域にわたる 981になります。

「信仰の対象と芸術の源泉」という長い副題が付けられた富士山[83630]については、「(歴史上の重要な段階を物語る)景観」という 評価基準 (iv) を満たすものとは 認められませんでした。
しかし、その秀麗な姿は 富士山の重要な要素であり、市町村名[83633]などの地名に使われ 人々に親しまれることにも寄与しています。

江戸時代に流行した「富士見十三州」[59419]という言葉は、現代に置き換えると静岡・山梨・長野3県と関東地方、合計 10都県になります。
田代博さんの作成した 富士山可視マップ を見ると、この 10都県外にも遠望ポイントが広がっており、特に伊勢湾を隔てた三重県も広い範囲で富士山が見え、紀伊山地の奈良県・和歌山県に及んでいることがわかります。
富士山が見える都府県 は、全部で 20(但し、京都は証拠写真なし)あり、富士山可視圏の面積(2万8千km2)は国土の 7% 余ですが、人口は 30%以上に及ぶとのことです。

富士山可視マップを見ながら、ふと思い出したのが [34785] EMM さんの記事にあった 白山のわらじと言う昔話
白山と富士山の間には木曽山脈があって 見通しが効かないのですね。

落書き帳アーカイブズ 富士山への憧憬 を見ると、富士山を遠望することができる地点 に関する記事があります。
北限は福島県岩代町【現・二本松市】の日山[11140]。西限は和歌山県那智勝浦町の妙法山(直線距離322.6km) [11143]
[11149] 遠望限界地、[40284] 大雲取山 を含め、関係ページへのリンクは すべて切れています。
なお、南は八丈島の三原山、東は銚子。 これが 富士山の見える限界地のようです。
富士山可視マップによると、琵琶湖西側の比良山付近に富士山の見える場所があるようですが、奈良県・和歌山県の遠望ポイントの方が西でしょう。

和歌山県那智勝浦町が設けた富士山遠望の解説ページ・富士山が見える最遠の地 の要旨

 以前は 奈良県大台ヶ原が南限の地とされていたが、熊野古道から「富士山が見えた」との言い伝えがあった。
 1995年12月、楠本弘児氏が那智勝浦町大雲取山から富士山(距離320km)の撮影に成功。
 1997年1月には妙法山から富士山を撮影。1999年元旦、日本テレビで妙法山からの富士山の映像がテレビ放映。

ところが、21世紀になってから、妙法山の最長記録320.6kmを上回る記録が出ていたのですね。

2001年9月18日 富士山最遠望撮影成功が報じられた日
京本孝司さん・仲賢さんの2人が、田代博さんが計算で求めた最遠の地・和歌山県那智勝浦町口色川の小麦峠で距離322.9キロの富士山遠望撮影に成功。

なお、上記日本テレビのページに示された富士山の画像は、この撮影によるものではないようです。
最遠望写真の画像は、田代さんのページ でご覧ください。
地球が丸いので、熊野灘・志摩半島の先に見える富士山は、標高約2800mから上の山頂部だけであることがわかります。
登山口により相違があるようですが、およそ富士山七~八合目から上の姿でしょうか。

撮影地点の地名について。
先に紹介した日本テレビのページを締め括る言葉。
2人が撮影した小麦峠は、本日の放送を以って、小麦峠改め「色川富士見峠」に変えられる。
これを見て、「テレビ放送が 勝手に地名を変えて 良いのか?」と気になりました。

田代さんのページに掲載された地形図にも、「色川富士見峠」という地名が書き込まれていました。
しかし、ウォッちず には そのような地名の記載はありませんでした。

おそらく「色川富士見峠」は、富士山遠望撮影の関係者が 仲間内で使い始めた「地名」であろうと思ったのですが、既に 和歌山県 がこれを使っていますね。
富士山遠望地として この名が世間に広まれば、従来の地名「小麦峠」は廃れて、事実上改称が実現してしまいます。地名とはそんなものなのかもしれません。
[84218] 2013年 10月 12日(土)19:05:45hmt さん
再登場する 特急「かがやき」
[84208] EMM さん
東京~金沢間の速達タイプが「かがやき」
[84210] ぐりゅん さん
かつての〈かがやき〉は長岡で上越新幹線に接続する特急でしたから、東京行き速達列車にふさわしいネーミングです
[84215] グリグリさん
1988年~1997年に金沢-長岡間で運行されていた「かがやき」は、私にはまったく馴染みがなかったのですが、元々名前には加賀を引っ掛けているんですかね。

「かがやき」の加賀由来説。言われてみれば「なるほど」。

1988年の「一本列島」 ダイヤ改正で登場した上越新幹線連絡特急「かがやき」は、同時に登場した東海道新幹線連絡特急「きらめき」と 対になる名称 であると受け止めていました。

いずれも、同区間を走る「北越」や「しらさぎ」・「加越」などに比べて停車駅を少なくした速達列車として登場しました。

2往復で始まった「かがやき」は、好評だったとみえて 5往復まで増えました。
しかし、1997年3月22日に 北越急行「ほくほく線」が開業すると、上越新幹線東京方面と北陸地方との間の列車は、越後湯沢で連絡する特急「はくたか」にその座を譲ることになり、「かがやき」は 9年間でその役目を終えました。

2015年春の北陸新幹線長野・金沢間開業開業時に、「かがやき」が 18年ぶりに再登場し、東京-金沢間を 約2時間半で直結することになるのですね。

余談ですが、「きらめき」は、その後 停車駅が増加し、1997年には「加越」に統合されて名称も消えました。
その「加越」も、現在は「しらさぎ」に統合されています。
JR西日本が使わなくなった「きらめき」の名は、現在では JR九州の特急として使われています。
[84493] 2013年 12月 1日(日)10:51:30hmt さん
出雲への旅(1)松江オフ会2013へ
[79711] hmt
(会津オフ会2011の席における)近況報告で、「hmtは 80歳になってもオフ会に元気で出席したい」 という短期目標を宣言。
この約束を果たす時が来ました。

第8回会津オフ会 の時は、往路は長距離路線バス、帰路は 田島まで JOUTOU車便乗→野岩鉄道・東武のルート。
第9回岐阜オフ会の足は新幹線主体になりますが、往路は大垣に立ち寄り、帰路は“EMMのやぼう”に同行。
2台のクルマに分乗した6人が国営木曽三川公園のセンターから「油島千本松原」 を目指しました。
しかし、足の弱い hmtは 松原の途中で落伍。岐阜県最南端に行き着くことができませんでした。

さて、今年の松江は 少し遠いことでもあり、身体的負担が軽いと思われる空路を選択。
オフ会の翌日にも出雲で1泊することにして、2泊3日の旅程[84019] を計画。

11月23日は天候に恵まれ、空からの眺めも堪能することができました。
津久井湖・宮ヶ瀬湖・相模湖の姿から、hmtの出身地の位置を確認することもできました。
山中湖を経て、世界遺産に登録された富士山の姿も美しく見えました。
空の旅をするときに感じていたのは、海岸線・湖岸線や川など水系はよく認識できるのに、立体感の失われた山岳の姿はもう一つということでした。
しかし、今回の旅では 適度の雪化粧した赤石山脈などの 立体的な造形に魅了されました。

着陸態勢に入ってから、米子空港のすぐ近くを通り過ぎ、中海・宍道湖を空から眺めながら 出雲空港到着。
手荷物で少し待たされ、多客のこととて 連絡バスは補助席になりました。
このバスに乗り込む際にデスクトップ鉄さんと顔を合わせたらしいが、面識がなかったので気づかず。
松江しんじ湖温泉駅前で下車したら白桃さんと顔を合わせました。
これも羽田から一緒だったはずですが、ここまで気づかず。目的地の「すいてんかく」に同行。

一次会の席で、グリグリさんから 80歳記念の 「お誕生日新聞」 を いただきました。
二次会の回覧で披露したように 1933年の誕生日[43700]、落書き帳デビュー[19388]の日付、今年80歳の誕生日 この3つの日付が指定され、それぞれの先頭面と最終面とが収録されていました。
1933年の東京日日新聞【注】の先頭面は、頁番号がなく A と記載された専用広告面(出版物等)であることに驚いた方もいると思います。
【注】東京日日新聞
明治5年創刊の東京最初の日刊紙だが、明治44年に大阪毎日新聞に買収された。東京日日新聞と大阪毎日新聞との題字が「毎日新聞」に統合されたのは、戦時中の1943年。

せっかくなので、1933年の新聞の最終面(11頁)に記されたニュースを紹介します。
前日亡くなった関東軍司令官武藤信義元帥と、後任の菱刈隆大将とが主役でした。
hmtの「t」は本名からですが、この人物に由来する命名とか。
「都道府県市区町村」と関係がある当時の地方行政制度に言及しておくと、この2人は、「関東長官」を兼任していました。
「関東長官」と言っても、日本の地方行政制度の中で占める地位がわかる人はいないでしょうね。
遼東半島先端の租借地「関東州」[38110][35703]の民政を司る「関東庁」の長官です。
「関東地方」とは無関係です。(笑)
[84546] 2013年 12月 16日(月)17:27:06hmt さん
御母衣・分水界・美濃馬場
岐阜オフ会2012の記録ページ に、2012/11/22 EMMさん撮影による 国道156号 沿線の写真8枚が 番外編 として 掲載されました。
内訳は、御母衣ダム付近の庄川上流域が3枚、ひるがの高原の分水嶺公園が3枚、長良川源流域の白山中宮長瀧(美濃馬場)が2枚です。
落書き帳には ご本人の旅行記がなく、昨年のメーリングリストにも あまり記されていなかった ようです。
そこで、勝手ながら 写真の3テーマに関連する 落書き帳過去記事に言及する形で、この地域について 少し記してみることにしました。

この地域を縦貫している国道156号は、高岡から岐阜へと本州中央部を結ぶ国道で、今回の3地域を含め、主として岐阜県内を通っています。
水系で言うと、日本海斜面は 庄川が富山湾に注ぎ、太平洋斜面は 長良川が伊勢湾に注いでいるのですが、2つの水系の分水界が 飛騨国(大野郡荘川村)と 美濃国(郡上郡高鷲村)との境界付近にありました。
ウォッちずで見ると、国道156号の最高点は 875m地点 のようです。2004年合併後の地名は、郡上市高鷲町ひるがの。
「高鷲」は「たかす」と読み、「ひるがの」は、以前は「蛭ヶ野」と書きました。
今回の写真で紹介されている『分水嶺公園』は、この付近の国道添いに作られました。ウォッちずには表示されていない「川」ですが、「太平洋←・→日本海」の標石がある(おそらく人工の)水路が 公園内に設けられています。
過去記事[37940]で紹介した写真はリンク切れです。

分水嶺公園が先になりましたが、今回の写真で 最初に登場するのは、白川郷から庄川を遡る区間の3枚です。
この地域については、今年の夏に登場した「母衣コレクション」関連で、 御母衣ダムや荘川桜をテーマにしたシリーズ を記しました。
最初の写真・『帰雲城址』は戦国時代の白川郷で勢力を持った内ヶ島氏に関係する遺跡ですが、天正大地震により 城も人も 一夜にして壊滅した謎の存在。[84010]で言及。関心のある方のために、詳しいサイト をリンクしておきます。
次の写真は現代のピラミッド。石を積み上げた御母衣ダムです。日本最初の大規模ロックフィルダム[84010]でしたが、現在は徳山ダムなど更に大規模なロックフィルダムが誕生しています[78150]
3枚目は、移植されて生き残った荘川桜。字が小さいが「光輪寺」とすれば、移植前の姿と 対比することもできます。

この関係を書きながら気がついたこと。それは、白川村・(旧)荘川村からなるこの地域は、地図の上では 白山のすぐ東にあるのに、信仰の面では 浄土真宗地帯になっている ことです。
おそらく登山道との関係で、地図上の距離的は近くても、加賀馬場・越前馬場・美濃馬場と並ぶ 飛騨馬場?が成立しなかったということなのでしょう。

最後の2枚は、白山信仰の拠点である三馬場の1つ・「美濃馬場」の白山中宮長瀧寺と白山神社です。
記事集 美濃馬場 には、美濃馬場と関係の深い越前国大野郡石徹白(いとしろ)村に関する記事も加えました。
この石徹白村は越前国の領域にあるので、以前は福井県に属していました。しかし、古くから美濃馬場から入る白山信者による経済的恩恵を受けていたこの村は、桧峠で隣接している岐阜県白鳥町と関係が深く、昭和大合併の機会を捉えて、白鳥町編入を成功させたのでした。

写真集の見出しには、「国道157号線沿線」とありました。
危険、落ちたら死ぬ!! の「国道157号」と違うことは、先刻ご承知のことでしょうから、単純誤記と思われます(笑)。

写真を 公開版に移していただければ 有難いと思います。ご検討願います>グリグリさん
[84638] 2014年 1月 2日(木)17:58:43【1】hmt さん
昔の町村名、大字名の「読み方」調査資料
[84636] グリグリ さん
駒形の地元読みと一般読みの違いは、米原(まいはら・まいばら)、白尾(しろお・しらお)と同類のようですね。

参照としてリンクされた EMM さん の記事[75344]を見たら、次のように書いてありました。
…と、ここまで書いていて、ふと「歴史的にはどうだったんだろう」と気になりました。
で、角川日本地名大辞典で「白尾」を探したら「しろお」で出てきました。あれ?

2004年の合併で 石川県かほく市白尾になった 河北郡七塚町白尾。
変遷情報 により、町村制施行前は「白尾村」であったことがわかります。
町村制施行時の石川県令M22-23号も、[76874] むっくん さんのリストによって容易にアクセスすることができます。七塚村
この県令に付けられたフリガナによって すべての新町村の「読み」がわかります。【不明瞭ですが、七塚はナツカ?】
しかし、残念ながら、旧町村は漢字表記だけなので、問題の「白尾」の読みがわかりません。

このような事情は、石川県に限ったものでなく、多くの府県に共通することであると思います。

多くの府県では、明治の町村制施行時の合併によって消滅した町村名は、大字として残されました。
それは、[37482]で紹介した山県有朋内務大臣の訓令を根拠とするものです。
実務としては、例えば、石川県令M22-28号には、次のように記されています。
本年4月1日より 本県下に於いて 市町村制施行に付 各町の内 従来小町名を公称したるものは 其全市街を1団体となし 金沢市街は従来の小町名を公称せしめ 其他各町及分合に係る旧町村の名称は 大字として之を存置す。

…というわけで、大正12年(1923)に刊行された 小川琢治編『市町村大字読方名彙』という本は、明治合併前の旧町村の読み方を知る有力な手がかりになります。
この本を最初に紹介した[35703]の時点では、まだ図書館で利用する状態だったのですが、その後 近代デジタルライブラリーに収録されていることがわかり、[80304]などでリンクしています。

実例を示す機会に、利用の便を図り、この本【注】の 第二編「町村大字名彙」 について、府県別コマ数リストを掲載しておきます。
【注】
『市町村大字読方名彙』大正14年(1925)発行の増補版
編者・小川琢治の本職は地質学でしたが、第1回国勢調査の行なわれた1920年当時は、京都帝国大学文科大学教授で地理学講座担当でした。
小川芳樹(冶金学)・貝塚茂樹(東洋史学)・湯川秀樹(物理学)・小川環樹(中国文学)という学者4兄弟の父親でした。

例:白尾(しろお)の読み方
下記リストから、石川県が182コマから始まることがわかるので、URLの末尾をこの数字にしてください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/985917/182
石川県内で2コマ進めば河北郡になり、七塚ナナツカ◎【◎=村】の中に「白尾シロヲ○」【○=大字】を見出すことができます。

北海道256--茨城県118--新潟県156--静岡県146--奈良県200--徳島県226--長崎県245
青森県98栃木県124富山県171愛知県151和歌山県203香川県225熊本県247
岩手県101群馬県127石川県182三重県195鳥取県216愛媛県228大分県235
宮城県106埼玉県137福井県187滋賀県191島根県219高知県232宮崎県251
秋田県103千葉県130山梨県137京都府80岡山県207福岡県238鹿児島県253
山形県109東京府77長野県167大阪府84広島県212佐賀県243沖縄県255
福島県112神奈川県88岐阜県178兵庫県91山口県222
[85784] 2014年 7月 1日(火)12:35:44hmt さん
7月1日
早くも今年の半分を経過し、2014年も後半に入りました。
[85782] EMMさん に記された“気ぜわしい状態”。
例年のパターンにより 7月1日頃の EMM さん から連想したのは、夏の行事1 関連でした。
しかし、グリグリさんの推測[85783]によると、「氷室の節句」は 全くの方角違いであったようですね。
[86400] 2014年 9月 23日(火)15:28:04hmt さん
海と島 (20)島と架橋との関係
日本には多数の島があります。
海上保安庁が 1986年に外周0.1km2以上の島を数えた結果は 6852島でした[86234]
しまっぷ統合版 には 岡山・広島・山口【瀬戸内海のみ】・香川・愛媛各県に属する 909島が収録されています。
「九十九島の数調査研究会」による調査で確定した植物の生育が認められた島の数(2001)は208でした[29533]
最近では、総合海洋政策本部により 領海の外縁を根拠付ける離島の名称決定作業が行なわれており、「ソビエト」など 158島が命名されました[86180]

こんな具合に、無人の小さな島嶼のすべてを対象にすると「きりがない」ことになります。
「しまっぷ」には 夏目漱石『坊つちゃん』に登場するターナー島[67135]のモデルである 四十島も 面積315m2と出ていました。趣味的には面白いのですが、一般的にはこんな小さな無人島を詳細に調べる必要は少ないでしょう。

島と人々の暮らしとの直接的な結びつきを表すものに 有人島・無人島という区別があり、シマーズで有人島とされた島の数は、地続きになっている香焼島などを含めて 433島でした。

今回は、島に暮らす人々が その生活にとり必要なものとして作り出した架橋について考察します。

架橋は 費用対効果が検討されて実現するものなので、短い橋ならばちょっとした出作目的での無人島架橋も実現する反面、大型自動車の通れる長い橋が必要ということになると 有人島であってもなかなか実現しないケースもあります。

島を本土から隔離して島たらしめているものは、人々が日常利用している陸上交通を阻む海です。
架橋と直接関係はないのですが、[53818]EMMさんの 記事に使われた“金沢が陸の孤島”には注目しました。
現在の金沢港というのは、昭和38年のいわゆる「三八豪雪」の際に道路・鉄道が寸断されて金沢が陸の孤島となったことから、金沢へ直接海路補給するための拠点整備を求める声を受けて建設されたものです。

船を使えば海上輸送も可能である。しかし、それなりの設備を必要とし、小回りの効く点では自動車に及ばない。
離島振興法により指定される離島が、本土との間が架橋で結ばれていない有人島に限られているのは、このような見地からして「もっともなことである」と理解できます。

例を挙げると、2008年に豊島大橋[82870]で上蒲刈島と豊島との間が繋がった結果、広島県の豊島・大崎下島それに愛媛県の岡村島までが本州からの島伝いの陸上交通可能になり、3島は離島の指定から外れることになりました。

同じように「架橋島」と言っても、その道路が本土【5大島】にまで通じているか否かで、その経済的価値は大きく違うようです。
本土に通じていない架橋は 離島間を結びつけることで地域経済の規模を拡大し、港湾設備などの共用も可能にします。
しかし、その道路が本土まで通じることにより、「離島」を脱して 事実上の本土化が実現したと扱われているようです。

島への架橋については、グリグリさんによる集大成が[82809]で示されています。
この中にも短い橋が収録されているかもしれませんが、その後で[82820]k-ace さんにより示された 佐世保市小佐々町の 前島 と本土とを結ぶ道路橋は、拡大した地理院地図から僅か数mの長さと思われます。
僅か数mの橋ですが、[82820]にリンクされた写真によると前島と、それに隣接する鼕泊島(とうどまりじま)までが 自動車通行可能な状態になりました。2島合せて約1000人の住民の暮らしは、この短い架橋により支えられていることが推察できます。
余談ですが、九州本島の西端である 神崎鼻(こうざきはな) の付近には多数の島が散りばめられており、九十九島と呼ばれています。観光地としては佐世保に近い南側が有名で、『美しき天然』は ここをイメージした名曲[29533]とされています。
前島と鼕泊島とは北九十九島の中で数少ない有人島です。

[82823][82877]EMMさん、[82831]白桃さん、[82827]グリグリさんなどによるレスなど見ても、短い橋があったり、細い橋があったりして、その扱いは なかなか難しいようですね。
私としては、統一的に整理して結論をまとめることができていなくても、せっかく集めたデータをいろいろと展示してもらえば、それなりに楽しみ、利用することができます。

[82877]の線引で前島と対比された架橋は 坂井市三国町、岬の先端の無人島・雄島にある大湊神社への参道と思われる 長い歩道橋。こういう両極端が同居しているのも楽しいのではないでしょうか。

グリグリさんによる離島架橋一覧[82809]と言えば、その先頭を飾っている島が根室市の春国岱です。
hmtが国土地理院の島リストにも出ていなかった奇跡の島・春国岱[85822]に気がついたのは、離島架橋一覧がきっかけでした。

架橋と防波堤道路との関係
架橋についての私の基本的な考え方は、島の人々が利用する交通手段です。従って架橋と防波堤道路との区別は不要という立場です。
しかし、グリグリさんの離島架橋一覧は、最初の動機が第三十六回十番勝負問四に関連するもので、大竹市阿多田島と猪子島を結ぶ堤防道路の類は除外されています[82800]

この点に関して[82759]で発表された共通項を確認してみると、意外にも
■陸続きではない二地点(人工島を除く)をつなぐ海上架橋または湖上架橋がある市
となっていて、堤防道路排除についての明確な言及がありません。
他の方の記事中には すべて問四の共通項として
■本土と本土、本土と島、島と島をつなぐ橋が架かる市(堤防道路、桟橋、人工島は除く)
が明記されているので、こちらが正しかったのではないかと思いますが、どのような事情で不一致なのか不思議に思いました。

なお、[82809]を見れば、一部が橋になっている海中道路(うるま市)や中海堤防道路の橋ならば収録対象になることがわかります。
漁生浦島~有福島間は堤防道路…とあるのですが、よく見ると2ヶ所ほど堤防が切れていて橋になっているような…要精査
などの指摘[82877]も出ており、堤防道路排除は事態を徒に複雑にしているように見受けられます。

「島と橋との関係」を論ずるにあたり、堤防道路とを橋と峻別すること。
第三十六回十番勝負問四における扱いは別として、これは果して必要なのでしょうか?
[86697] 2014年 11月 19日(水)19:45:33hmt さん
津の守坂 (1)美濃高須藩
丸ノ内線が通る新宿通を四谷三丁目から少し東に進むと「津の守坂入口」という交差点があります。
北の合羽坂下に向う道が途中から下り坂になり、その西側が 松平摂津守の上屋敷跡 であったことに由来する地名です。
その地点から一つ東側の通りにある新宿歴史博物館で開催中の特別展 高須四兄弟 新宿荒木町に生れた幕末維新 を先週見てきました。

高須四兄弟については、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県まで に収録した 記事 の中で、次のように紹介しています。
余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

「津の守」と呼ばれた大名の家に生まれ、それぞれ別の大名の家督を継ぎながら幕末の動乱期を生きぬいた兄弟。
落書き帳の過去記事と関連させながら、関係する地名を交えながらこの記事を書いてみます。

松平摂津守、末尾を取れば「津の守」ですが、何故に摂津の略称が「津」なのか? Issieさんの解説[21549]をご覧ください。
もちろん江戸時代の難波の津は大坂奉行管轄下の幕府直轄領であり摂津守の領地ではありません。参考[72856]
では松平摂津守とは いかなる大名で、領地はどこだったのか?

徳川家康が天下を取った後で、この国の支配権を自分の子孫に確実に伝える仕組みの一つとして、後継者の予備軍である御三家の制度を作ったことはよく知られています。徳川御三家の筆頭が尾張家ですが、尾張家としてもその役目を確実に果すためには血統を伝える分家が必要になります。このようにして尾張家にも3つの分家が作られました。それぞれの江戸屋敷の所在地【いずれも現在の新宿区内】から、四谷家・大久保家・川田久保家と呼ばれましたが2家はスペアの役割を果して消滅し、幕末期に尾張本家以外に残っていたのは四谷家だけです。

この四谷家の当主には 松平摂津守として信濃国に3万石を与えられ、元禄13年(1700)に 本拠が美濃国高須に移されました。
「高須」は岐阜県海津市役所の所在地で、約60年前の昭和合併で海津町になる前は海津郡高須町でした。
# 播磨坂に名を残す松平播磨守は水戸藩の分家で常陸府中(石岡)2万石の殿様とか[72799]

展覧会の主役は江戸四谷にあった高須藩江戸上屋敷とその地で育った4兄弟であり、美濃高須藩の所領には殆ど触れられていなかったのですが、折角の機会なので美濃国の南端である高須輪中について少し記しておきます。

高須という地名は、横須賀関連で話題にした 須賀地名 の仲間で、河岸や海岸に土砂が堆積して形成された微高地に由来します。
木曽三川が作った濃尾平野に住みついた人々は、毎年のように繰り返される洪水被害に遭いながらも、自然堤防や人工堤防を利用して水利用を進めてきました。鎌倉時代中期の文献に高洲阿弥陀寺などの記錄があります。

現在高洲輪中の中央を流れている大江川は 木曽川・長良川の旧河道でしたが、天正14年(1586)の大洪水の結果、ほぼ現在に近い東寄りの流路に変ったとのことです。
江戸時代になると、名古屋を居城とする尾張徳川家の御囲堤が慶長14年(1609)に完成。これにより尾張側は保護されたものの 美濃側の洪水は一層深刻な状態になり、水害対策に財政破綻した小笠原氏は転封を願い出る事態になりました。

木曽三川については、木曽川下流河川事務所が発行している『KISSO』という刊行物があり、1991年の創刊号から最新号(92号)まで閲覧することができます。バックナンバーリスト
歴史ドキュメントや歴史記録の長期連載もあり、読み応えのある資料ですが、その56号p.10を見ると、60余万石の美濃国のうち約20万石が幕府直轄領、約15万石が尾張藩領で、残る約25万石が大垣藩・高須藩など10藩の大名領と70余の旗本領とに細分され、錯綜状態であったと記されています。高須藩領は図示された海津町域に限っても34%に過ぎません。

美濃高須藩は3万石の小藩であり、木曽川の治水を自力で遂行できる財力も、複雑な利害関係をまとめる力もなく、幕府の力に頼らざるを得ません。
幸いなことに 幕府領になったこの地に美濃郡代として着任したが、見沼代用水[67644]でも登場した 井沢弥惣兵衛為永でした。彼は 将軍吉宗の命を受けて、享保20年(1735)笠松陣屋着任後の短期間に綿密な現地調査に基づく三川分流計画を立案しました。

この建言は為永の在世中直ちに実施されるには至りませんでしたが、1747年には奥州二本松藩による第1回の木曽川改修御手伝普請が実施されました。
二本松藩は多数の藩士を現地に派遣したものの、既に幕府により請負業者が配置されており、工事期間2ヶ月。

第2回の御手伝普請が薩摩藩による有名な 宝暦治水工事(1754-1755)です。
この時は地元農民を雇用して施工する「村方請負」が指定されました。
薩摩藩は難工事箇所を町方請負とするよう請願したが数箇所しか認められず、派遣された薩摩藩士947名、現地雇用を含めて2千人とも伝えられる大工事になりました。工事期間は2期にわたり 1年3ヶ月(実質10ヶ月)。

1766年の第3回(萩藩・岩国藩・若狭藩)工事では過酷だった宝暦の事例を踏まえた反省から、町方請負や幕府が施工する「お金御手伝」が取り入れられ、更に第4回から第16回まで続いた御手伝普請は、藩が直接施工せず費用負担だけを求めれれる方向に変質して行ったとのことです。16回の普請で御手伝(1~4回)を求められた藩の合計は48藩。
資料をリンクしておきますが、細かい字で判読困難な部分があります。56号 p.10-12, 57号 p.9-14

対象が本題の高須藩から少し拡大してしまいましたが、高須輪中付近の江戸時代の治水事業について記しました。
江戸時代の藩は独立国のように扱われる一面がある反面、美濃のような複雑な地を水害から守るためには、幕府の権威による「御手伝普請」という強制的な経済協力制度も必要でした。
江戸時代初期、金鯱の名古屋城造営の時とは制度が変っていますが、豊かな田園に恵まれることになった美濃高須藩の姿を見ると、親藩大名を優遇する政策という点では類似するように思いました。

美濃高須藩より後の時代になりますが、明治以降も国営の治水工事が引き続き実施されました。
この木曽川改修工事の時期は、1889年に全国で実施された 町村制施行と重なっていました。
これが、他の府県で行なわれた「明治大合併」を 岐阜県では同時に実施できなかった一因であろうと思われます[79347]
更に濃尾地震・日清戦争もあり、とうとう明治30年の「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]にずれ込みました。

岐阜県には、この明治30年再編成で、海西郡と下石津郡に由来する新郡名として「海津」 が誕生しました。
この地名は 昭和大合併での海津町に引き継がれました。
海津町誕生当時の「高須輪中」は、東の木曽川・長良川と西の揖斐川とに挟まれた“陸の孤島”に近い状態でした。
しかし、1980年以降に木曽三川の長大橋が相次いで開通し、この豊かな穀倉地帯は陸上交通も便利になりました。
鉄道は通っておらず、私には行けない場所だったのですが、2年前岐阜オフ会の翌日に EMM号に同乗する機会を得て、この地域を訪問することができました[82265]

平成大合併で市になる際に、一旦は「ひらなみ市」[9775]が選定されました。
落書き帳でも賛否両論ありましたが、結局は海津市に落ち着いた[28842]ことは、みなさんの記憶する通りです。
[86788] 2014年 12月 12日(金)23:49:42【1】hmt さん
明治村
[86786] EMMさん
[86754]で試しに検索した「地名」は「明治」でありました。【引っかかったのが 3952件】
細かく見てはいませんが、使用事例のかなりの割合が年号としての使用だと思われます。

改めて「明治村」で検索すると 69件でした。うち「博物館 明治村」が8件あり、博物館が省略されている記事もあります。
更に『正保・元禄・天保・明治村高比較表』も8件あるので、地名としての使用事例は 実質 50件以下?

それはさておき、この機会に hmtマガジン特集 明治村・大正村・昭和村 を作りました。
市町村雑学 年号の入った市町村 に記されている記事集の増補版といったところです。

【念の為に追記】
[86786] EMMさん
大正と昭和は条件1で除外されるため【以下略】

“条件1”は [86750]白桃さん に記されています。
1.現役の都道府県市区町村の名称に使用されていないもの(×の例:東京、渋谷、博多)

例示された福岡市博多区のように、政令指定都市の行政区に使われた地名は、今回のクイズの対象外です。
従って 今回のクイズでは、大阪市大正区の「大正」や 名古屋市昭和区の「昭和」は除外されます。

一方、市区町村変遷情報が対象としている「自治体」は 「市」の中に設けられた行政区を含んでいません。
東京都の特別区と違い、区議会がない区ですから 当然の扱いと思われます。
変遷情報では全く無視されているわけではなく、例えば昭和7年【大正ではない!】に行なわれた 大阪市大正区の設置 が記録されています。しかし、自治体名は あくまでも大阪市であり、変更内容欄が“港区から大正区が分区”となっています。

雑学年号の入った市町村は、このような変遷情報検索に基いて作成されているので、大阪市大正区、名古屋市昭和区が含まれていません。
このような事情により、大阪市大正区が 現存市区町村を示す太字で記載される状態になっていない ことをご承知ください。

なお、むじながいりさんの パラパラ地図 は 行政区も対象としており、大阪市大正区が「大正」の唯一の生き残りであることが示されています。
[88640] 2015年 8月 14日(金)12:27:55hmt さん
浦安にいる農業従事者
[88639] 白桃 さん
ご存知のことと思いますが、EMM さん の記事[56616] を リンクしておきます。
国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う。それだけの問題だと思います。
[88837] 2015年 9月 29日(火)11:57:36hmt さん
山王台地・星が岡
[88830] EMM さん
国会議事堂の西側に山王日枝神社がありますが、この日枝神社がある付近の高台のことを「山王台地」または「星が岡」というようです。

「星が岡」という名は、古き東京の名所として記憶に残されていました。
明治時代の政界人・財界人の社交場となった「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)。元々は 日枝山王社の境内地であり、街の明かりで東京の星空が失われてしまう前には、小高い岡の上から星空の美しい景勝地だったのでしょう。

明治10年代後半の社交場というと 政府が作った洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)[49243] が知られていますが、同じ頃に三井などの民間資本で作られた和風の高級サロンが 星岡茶寮でした。

鹿鳴館は西洋式のパーティーや社交ダンスを通じて外国要人に文明化した日本の姿を伝え、条約改正[54388][62517]を実現しようという狙いでしたが、星岡茶寮の方は、国内の要人が「赤坂の料亭で 飲みながら 腹を割って話し合う」という伝統的な交渉の場として使われたものと思われます。

デジタル標高地形図を見ると、鹿鳴館の位置は千代田城の南・現在の日比谷公園東側で 内幸町と記されています。
一方、星岡茶寮のあった山王台地は お城の西側の麹町台地が 南に続く先端で、日枝神社の文字が読めます。
内幸町の鹿鳴館と星ヶ岡との距離は、東西に1.5kmほどでしょうか。

山王台地の下は濃い緑色になっています。元々この地にあった溜池は 東に流れる汐留川の水源でしたが、明治10年に干上がって湿地化し、後に埋め立てられました[33199]。東京高速鉄道(後の銀座線)は このような過去を持つ土地の地下を 戦前(1938)から通っていましたが、溜池付近には 60年近くも 駅がありませんでした。
1997年南北線延伸によって、銀座線と交差するこの地に 開設された駅の名は、溜池低地側の港区と 山王台地側の千代田区と 双方の顔を立てた「溜池山王駅」になりました。

星岡茶寮に戻ると、関東大震災後の北大路魯山人による料亭を経て 1945年に空襲で焼失しました。
戦後は五島慶太による東京ヒルトンホテルが作られ、ホテル内に「スターヒルズ」というレストランがあったように記憶します。
そのホテルも老朽化し、21世紀になってから建て替えられました。[88830]の写真6。

キャピトル東急内の 中国料理「星ヶ岡」 は、この地を記憶する名を 今に伝えていました。

参考までに、大森駅前にも 日枝神社 があり、その付近も 山王台地 と呼ばれるようです。
[89249] 2015年 12月 5日(土)16:13:35hmt さん
越中国射水郡(3)新湊
昔の氷見には「布勢水海」と呼ばれた広い潟湖があり、大伴家持もしばしば訪れて遊覧したり、都人を接待したりしたようですが、新田開発・乾田化などに伴って水系も変り、現在は 十二町潟水郷公園として一部に痕跡を残すのみとなっているようです。

…というわけで、オフ会第2日の遊覧船は氷見漁港です。
強風のため短縮された港内コースでしたが、みなさんと共に楽しむことができました。

下船後に集合写真。その後は海王丸見学組ということで、EMM号に乗車。
特にお願いしたわけではありませんが、伏木港を経由していただいたようです。
同じく富山新港を目指したラガー号は先に到着し、3人は既に海王丸でした。

地図を見ると、戦時合併とその解体で話題になった高岡市牧野地区[15592][74310][79475][80421]も近くでしたが、こちらは経由していないようです。

係留されている海王丸の見学も、船内のあちこちを上下しながら巡り、充実したものでした。
その後、今回の旅行では特に意識させられた斜張橋の中でも最大規模の新湊大橋へ。タンカーが橋の下を通って入港する様子を眺めることもできました。

この富山新港、正式名称は「国際拠点港湾 伏木富山港(新湊地区)」だそうです。
2011年の法律で特定重要港湾から改められた国際拠点港湾は、国際戦力港湾の5港【京浜3、阪神2】に次ぐランクで、全国で18港が指定されていますが、本州以北の日本海では新潟港と伏木富山港との2つだけです。

富山新港は、オフ会でスナフキんさんから紹介のあった昭和32年(1957)の地形図に見るように、昔は 浅い【深度最大1.5m、平均0.5m】放生津潟でした。
ここに港を作る計画は大正時代にもあったようですが、第一次大戦後の不況で実現せず。昭和戦前の大築港計画も技術上の問題と戦争で挫折。戦後の高度成長期になり、1960年に運輸省の承認が得られ翌年着工、1968年に開港し、工業港湾として整備されています。

戦後にできた新しい港だから富山「新港」でよいのですが、その場所が「新湊市」となると 文字づかい が気になります。
1889年の町村制から1951年の市制までの間は 射水郡新湊町で、その前身にも新湊放生津町・新湊六渡寺村など「新湊」の付く町村がありました。要するに「新湊」というのは、庄川と小矢部川とが合流していた時代、古代から左岸にあった伏木港に対して右岸に作られた「新しい湊」を意味するのでしょう。現在の地図でも庄川河口右岸(射水市港町)を見ると漁港があります。

それはさておき、掘り込み式の富山新港建設に伴い、港口の航路になる越の潟・堀岡間の陸地は分断され、道路および鉄道の代替として1967年11月から富山県営渡船、通称 越ノ潟フェリーがが運行されました。1986年からは地元住民だけでなく、一般客も無料化しています。今回のオフ会で この県営渡船の乗客になったのは グリグリさん1人だけではないかと思います【ML00132】。
2012年の 新湊大橋 開通後も、渡船は健在なんですね。

渡船の説明に「道路および鉄道の代替」とあるように、海岸経由で富山と高岡とを結んでいた富山地方鉄道射水線も分断されました。
高岡側の越ノ潟-新湊【現・六渡寺】間は、高岡軌道線・伏木線を営業していた加越能鉄道に譲渡され、1980年に万葉線の愛称が付けられました。2002年からは第三セクター鉄道の会社名にもなっています。
乗客の半減した富山側の鉄道は 廃止されました(1980)。
[89260] 2015年 12月 8日(火)18:24:53【1】hmt さん
あいの風
氷見オフ会については 事前記事[88176]の後、およその旅程に沿って高岡[89247]、氷見[89248]、新湊[89249]をテーマにした記事を並べました。
今回も他のメンバーの行動に便乗しながら動いています。22日はJOUTOU号に同乗[89157]
23日の氷見漁港-富山新港間はEMM号、その前後はラガー号に乗せていただきました。
[89148]で海王丸パークでの昼食後拉致された人質(笑)は3名で、hmtは YASUさんと共に 高岡駅で開放されました。
[89249]の訂正です。越ノ潟の渡船の乗客になったのは グリグリさん1人 という推測は違っていました。
熊五郎さん[72972]は、 富山ライトレール、バス、県営渡船、万葉線の乗り継ぎで 高岡入りをしたとのこと。[ML00088]

それはさておき、ラガー号で高岡駅まで送っていただいたので、帰路の新幹線までに余裕時間ができました。
高岡には 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 山町筋 と 金屋町 とがあります。私の好みからすれば、高岡の町を散策しながらそこまで行くのが筋でしょう。
そう思いながらも 体力不足で実現できませんでした。

高岡市立博物館常設展だけでも覗いておけば よかったのかもしれませんが、それも実行せずに 高岡駅から乗車して富山駅に向かったのが 「あいの風とやま鉄道」です。

JR北陸本線の富山県内区間が、北陸新幹線の 並行在来線として分離され、富山県、市町村、経済団体が出資する第三セクターで運営されることになったのは、ご承知の通りです。

「あいの風とやま鉄道」の路線図を[87384]で追記した際に、区間の表示が境界駅に及んでいないことに疑問を投げかけました。
しかし、よく見るとそこでリンクしたのは運賃表示目的の路線図であり、会社情報>路線についてでは別の図が示され、管理駅数19駅(石動駅~越中宮崎駅)と表示されていました。この表示ならば妥当です。

実は「あいの風」という言葉も知らなかったのですが、社名の由来に説明がありました。
「あいの風」とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等「幸せを運ぶ風」として県民に親しまれています。

局地風を指す言葉と解ったので調べてみたら、だんな さん の記事 があり、落書き帳アーカイブズに収録されていました。おなじみ、大伴家持の作品で、「東風」に万葉仮名の注釈を付けて「あゆのかぜ」と読ませています。高岡市万葉歴史館

さわやかな風というよりも、日本海を吹く激しい風のようですね。
家持の歌にも「いたく吹くらし」とあります。
菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」は「こち」と読み、春の到来を告げる風ですが、「あいの風」は夏の季語になっており、東風と言っても別のようです。

いしかり市民カレッジ講座13によると、「あい風」は 北海道から山陰まで日本海の各地にある局地風です。
海陸の温度差が原因になって発生する海陸風である「あい風」の風向は、地域により 北、北東、東と違います。しかし、西廻り航路の上り【上方行き】船にとって順風であることは共通するようです。
なお、下り船は対馬海流によって蝦夷地に向うことができます。

北前船の時代は終わりましたが、「あいの風」は、氷見の漁業にとって、現在でもブリなどの豊漁をもたらす恵みの風なのでしょう。
[89541] 2016年 1月 9日(土)14:43:33【1】hmt さん
「新湊」の由来
[89540] EMM さん
「新湊」は単独の港を示しておらず、複数の港町を統合するために明治初期に新造された瑞祥地名と言えるものである

オフ会で訪れた際に記した[89242]では、古代からの伏木港との対比から「新湊」と呼ばれたものと思っていました。
落書き帳では、既に2011年の記事 [78880] EMM さん によって詳細に説明されていること。
明治4年という意外に新しい時代に作られた地名であること。
明治前期の「新湊」は 伏木までを含んでいたこと。
3つの重要なポイントを指摘していただき、ありがとうございました。

せっかくの機会なので、当時の資料における「新湊」の記載状況を確認してみました。

最初に、幕末の状態を記録した
旧高旧領取調帳データベース により、越中国射水郡に存在した村名を検索。
確かに「新湊」は検出されず、江戸時代には「新湊」という港の名が無かった[78880]ようです。
六渡寺村, 放生津村, 伏木村, 古府村は出るが、国府は出ません。高岡の金屋村は出るが、馬出は出ません。氷見町は出るので、「町」は出ないということではないようです。

明治8年12月共武政表
越中国射水郡に「新湊」が存在することを確認できます。
「湊」という文字は、高岡駅の「駅」や氷見町の「町」に対応する言葉でしょうか?

明治12年12月 郡区町村一覧 富山県越中国射水郡の記載
右ページ最後付近などを列挙。小矢部川左岸らしき「新湊町元伏木村」などの町名に注目。
…中伏木村, 中伏木新村, 六渡寺新村…新湊町元六渡寺村…新湊放生津町…新湊放生津新町…新湊町元伏木村…新湊町元古府村,新湊町元古国府【その他にも新湊町◯◯村あり】…高岡◯◯町(68)…氷見◯◯町(18)…

[78880] EMM さん
地名大辞典の地名編と地誌編のところで合併した町村の名が違っているのは気になりますが

地誌編には伏木を合併したと記してあるのに地名編では脱落。しかし明治12年の町名を見れば、少なくとも郡区町村編制法施行の時点では小矢部川左岸の伏木地区まで新湊になっていたことは確かなようです。

明治19年1月 地方行政区画便覧
この便覧は、伏木町が新湊町から分離する直前です。
富山県越中国射水郡の記載中から戸長役場所在地単位で記すと、小矢部川左岸の新湊伏木村, 新湊古国府【町村がついていない】は、氷見中町, 氷見御座町と同じ 389コマに記されています。
そして、その後に高岡の戸長役場所在地である高岡片原町, 高岡御馬出町, 高岡木町が記され、小矢部川右岸にある新湊六渡寺村, 新湊放生津新町, 新湊放生津町は 390コマと、既に離れて記されています。

庄川の河口を小矢部川河口と分離して現在の位置に移した工事は明治末期と思われますが[89248]、明治19年の便覧や伏木町分離は、それを先取りしているようです。

最後に、変遷情報に記録されている町村制施行時点での新旧町村名をリンクしておきます。
富山県射水郡 新湊町、同 伏木町
[91561] 2016年 10月 4日(火)18:44:47hmt さん
杖立オフ会(1)杖立への道
熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)。ここが今年のオフ会開催地の有力候補として グリグリさんから提示されたのは 2016/6/6、メーリングリスト[off12:00162]によるものでした。
熊本大分地震被災地支援の目的で、開催地を被災地にしてはどうかという話が出ました。

私としては 杖立温泉は その名を聞いたことがあるという程度で、2県に跨る「ひぜんや」の名も初めて知ったのですが、被災両県の県境にある宿での開催については もちろん大賛成。当選確実を信じて さっそく自分なりに調べた情報も落書き帳に書き込みました。

これが 杖立オフ会事前書き込み の第1号なのですが、正式のアンケート告示[90573]よりも先走った記事になってしまいました。

[90564]
「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

既に和倉温泉の加賀屋については、[73144]白桃さん:能登にあるのに加賀屋とはこれいかに・・・
[73164]EMMさん:創業者が加賀国の出身
という問答がなされており、その逆の組み合わせである粟津温泉「のとや」旅館にも言及されています。
今回、現地で「ひぜんや」の由来を尋ねていませんが、この疑問は解けているのでしょうか?

落書き帳の過去記事に「ひぜんや」が登場するのは、10年以上前の [47510] 有明つばめ さん が最初でした。
「熊本館」「大分館」…はて、どちらの建物に泊まったかいな…その辺がよく思い出せません。

オフ会開催地としては、「今年はとは言わないですが」と断りながらも、早くも 2009年に 熊虎さん[69927]が提案。

余談ですが、2009年オフ会は 岡山市の政令指定都市移行を記念して苫田温泉・乃利武で開催。
斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造[73356]の温泉大旅館でしたが、MasAkaさん[91459]により その後を知り、再び驚愕。
乃利武の公式サイトを探そうと思ったら、何と2013年に自己破産申請により閉館していたことが判明。嗚呼……)。

2009年オフ会では、有志9人による「岡山県石島・香川県井島 県境踏破」もありました。落書き帳のスターである この「県境の島」も 2011年8月の山火事で被災[79053]。過去のオフ会を振り返ることにより、改めて歳月の経過を実感しました。

そう言えば、岡山オフ会では、落書き帳の歴史に残る名作・グリグリ劇場も誕生しています。

岡山のことはさておき、今年の計画に戻ると、アンケートの結果、圧倒的な支持により杖立に決定。
時期は例年より早い9月18日支持が多数票となり、「ふっこう割」が利用できることになりました。
会場近くの国道通行止めに伴う迂回ルートとか、台風シーズン只中などが心配のタネ。
グリグリさんにとっては 準備や対策に大変だったことと察しますが、こちらは成り行き任せ。

独り暮らしご隠居の身は、日程の自由度が大きいのですが、それでも大まかな計画を立てます。
九州応援の趣旨を込めて、往復共にスターフライヤーの福岡空港便を利用。先ず航空券を確保。
杖立の後、九州のどこかで一泊となると、やはり唯一宿泊していない佐賀県を選択することになります。
体力の衰えを自覚し、欲張らずに旅をすることにしましょう。

福岡から日田・杖立・黒川温泉を結ぶ高速バスは、結局のところ杖立経由の本来のルートで運行することができませんでしたが、片側交互通行ながら、乗用車とローカルバスの通行が可能な状態にまで復旧し、広域農道経由の迂回ルートに頼らないで済むことになったのは 幸いでした。
こちらが「杖立への道」確保に気を揉んでいた割には、当の旅館側は 公共交通機関の運行事情のことなど あまり心配せず、悠然と客を待っていたようですね。

オフ会開催の9月18日。羽田からの飛行は順調。但し窓から見えたのは雲だけでした。
現在では専ら「福岡空港」と呼ばれているようですが、九州とは縁の薄い私でも、1972年に米軍から返還される前には「板付基地」と呼ばれていた飛行場であったことを覚えています。

「板付」の名は、弥生時代を主とする遺跡の存在でも知られていますが、板付遺跡は 飛行場から少し離れた南の方にあるようです。板付基地のあった場所は、1933年に福岡市に編入する前は【席田(むしろだ)郡[91558]>】筑紫郡席田村で、1944年(戦時中)に陸軍が作った「席田飛行場」が前身だそうです。街ネタ 福岡空港
#
厚木も横田も基地から少し離れた「よその地名」[22152]でしたが、板付も同類のようです。

それはさておき、福岡空港からは日田行きの高速バスがほぼ定刻に発車。しかし、間もなく豪雨の洗礼。
いよいよ台風16号の影響と直面することになりましたが、旅程が飛行機でなくバスに移ってからだったのは幸いでした。九州道から大分道とずっと大降り。
杷木で高速道路外に出て停車。ここでデスクトップ鉄さんと同じバスに乗車していたことに気がつきました。

大雨もこの頃になると収まっています。日田から同乗をお願いしてあるスナフキん号は16時頃なので、1時間以上の余裕がある。日田市内を少し見ることができるかと思っていたのですが、鉄さんのアドバイスに従い下車は取りやめ。
通信手段を持たないhmtは知りませんでしたが 鉄道が遅れており、日田駅を先発するJOUTOU号に変更することになり、かすみさん、鉄さんに加えて、3人目の同乗者として杖立に向いました。
報知されていたように工事中の区間もありましたが、それでも「ひぜんや」に早く着き、ゆっくり入浴することができました。
これも、鉄さんに出会い、JOUTOUさんに乗せていただいたおかげと感謝しております。

オフ会の都度、皆さんのクルマに同乗させていただいているhmtですが、JOUTOUさんには会津[79711]、石和[86778]、氷見[89247]、杖立と4回もお世話になりました。ありがとうございます。
[91562] 2016年 10月 4日(火)18:56:29hmt さん
杖立オフ会(2)ひぜんや・杖立から日田へ
「ひぜんや」の館内案内に、杖立川右岸に立ち並ぶホテルの写真があります。このページの一番下にある立面図と対比すると、写真左中程の玄関のある階が5階で、立面図は山を背にした道路側からの図【川沿いの写真と左右逆】であることがわかります。
写真の最も右側に見える建物が私達の泊った熊本館であり、高いエレベーターとその左の大分館【屋上に機械室】との隙間に、記念撮影をした両国橋があるものと推察します。両国橋の下を流れて杖立川に合流する小川が県境でしょうが、合流点の存在を推察させるものは、護岸の僅かな隙間だけです。地理院地図

この写真を見ると、入口・フロントを含む「ひぜんや」の大部分は大分県側であるように見えるのですが、ホームページに記された住所は、「〒869-2503 熊本県阿蘇郡小国町大字下城4223番地」となっています。この番地で住所検索(mapion、いつもNAVI)して地図上に示される位置に存在するのは、「ひぜんや」の上流側にある和風別館「大自然」でした。温泉街全体としては「熊本県の杖立温泉」で通用しているようであり、このことが住所表記にも反映しているのでしょう。

多忙なお仕事の中からぎりぎりの時間を作って参加された中島悟さんを含め 17人全員が揃い、大分県で宴会。
熊本県宿泊は学生時代の1954年以来62年ぶり【大分県は45年ぶり】。後に公害病で有名になった化学会社のクラブで、水俣湾の魚料理を御馳走になったことなど、近況でない報告をしたようです。

その後、熊本県に移っての二次会。デスクトップ鉄さんからJR駅三番勝負[91443]の賞品【原田勝正著:駅の社会史(中公新書)他】をいただきました。

最初に答えたのが問二の三鷹[91474]であったのは、出題駅・国分寺から出ていた東京競馬場前への支線【砂利鉄道[41599]由来】を思い出し、その近くにあり、戦後の短期間だけ存在した武蔵野競技場前への支線[75152]をすぐに連想した結果です。
もちろん、他の出題駅に関係する広島-宇品間[61378]などの条件も考慮した解答です。
…というわけで、単に鉄道路線に関する知識というよりも、その社会的背景も考察した上での 落書き帳記事に裏付けされた解答 でした。この機会に関連記事をリンクしておきました。
共通項に含まれていた「戦後廃止」とか「盲腸線」とかいう条件は、意識外のままセーフでした。

宿泊した熊本館2階からは、杖立川を間近に見ることができました。と言っても、それを実感したのは翌朝。

大分館6階の朝食の席で、ソーナンスさんに声を掛け、途中までの同乗をお願いしました。
ソーナンスさんは、個人的には阿蘇から熊本市内方面へ抜けて帰ろうかなとも思っておられたようでしたが、結局のところ hmt・デスクトップ鉄・EMMの3人が日田まで送っていただくことになりました。

前日は通過しただけの天領日田の街。町並み保存が行われている 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区に行くには、市内循環バス(ひたはしり号)が運賃100円の実験運行中。これを使って駅前から豆田上町通りに出て、北へと歩きました。小雨気味ながら、傘を使うほどでもなし。花月川まで行き、一つ下流の御幸橋から豆田御幸通りを南下。

何気なく 日田醤油の 天領ひな御殿 に入ってみましたが、三千体以上という その量に圧倒されました。
醤油屋さんが無料で公開していた展示物から、天領日田に蓄積された財力と文化を感じた次第です。但し、チラシでは有料300円となっていたので、入場無料は期間限定だったようです。

いずれにせよ、じっくり探せば いろいろな宝を見ることができる街という印象を抱いた日田です。
平成の大修理中の重要文化財 草野家住宅も、公開スケジュールと合えば見たいところでしたが、これはダメ。
バスの時刻に合わせて 天領日田資料館を出て駅に戻ります。久留米行きのDCに乗ると、YASUさんに出会いました。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[100684] 2020年 10月 21日(水)18:49:33hmt さん
「三国境」に関する質問
[100323] サヌカイト さん
あと、EMMさん。希少地名(山)コレへの情報提供。
三国境(みくにざかい・さんごくざかい) 新潟県糸魚川市|富山県朝日町|長野県白馬村 地理院地図 2751m

越後・越中・信濃の三国に関係する「三国境」は、既に 数字系「三国」コレクションの、#4に収録されています。

それとは別件で、希少地名(山)コレクションに該当すると考えての情報提供なのでしょうか?
サヌカイト さんが 「三国境」は、希少地名(山)コレ に該当すると 考えた理由。
hmtには理解できなかったので、補足説明していただけたらと思い、あえて横から質問しました。

[100650] EMM さんの「採用したい」との発言も 理解不能。「早めの追記作業」も待ったが、実現していないようです。
[100701] 2020年 10月 22日(木)15:47:00hmt さん
希少地名(山)コレの件
[100700] EMM さん
hmtの質問[100684]は、説明不足と感じた[100323]の情報提供者に対するものでしたが、ご多忙の地名コレ編集長から 早速の応答をいただき 恐縮です。
示して頂いた過去記事にあるように「三国境」については 前前から関心を抱いていた者ですが、希少地名については経験もなく、理解が不十分なままの質問であったことを お許し下さい。

改めて『希少地名 (山)』コレクションのトップを確認すると、主文には 次のように記されています。
ここでは山頂、尾根を対象として、
(1) 多くの人が山と連想しにくい類型名のもの、
(2) 通常他の地形に付けられる類型名が山頂や尾根に命名されているもの、
(3) 山・尾根を示す類型名が付いていないもの
などをコレクションしています。  【便宜上、改行・付番】

提案された「三国境」については、確かにストレートに山を名乗っておらず、(3)には該当しています。
(2)についても、「三国境」は 行政的類型名であり、地形である山を名乗っていません。

「三国境」については、futsunoおじさんが『県境の交通路』コレクションの末尾に まとめてくれています。
付録:三県境点【越後・越中・信濃の三国境は <地図19>】
それによると、44箇所ある三県境点のうち、川や平地などが 10地点。差し引き 34地点。
三県境点の大部分は「山」であるのが 日本の現実です。

このデータに基づくと、「三国境」
人によっては、山と連想しやすい類型名のもの  即ち「三国境」は【山っぽい名前】である
と判断することもできそうな気がしました。
以上 参考までに記した個人的感想です。(1)をくつがえす根拠には至らないかもしれません。
[101431] 2021年 3月 1日(月)10:50:32【1】hmt さん
月間記事投稿の連続記録
[101422] グリグリさん【白桃さんの代理投稿】
伊予伊予、二月も尾張に近づいてくると、ついに記録が途絶えてしまうのか【中略】
その記録とは、50歳でデビューした彼が有名な地理雑学会誌に論文を毎月一度は投稿し続けた連続月数で
南砺それは 220月にも及ぶ ものでありました。

2021年3月になりました。
都道府県市区町村落書き帳 記事数‌ランキング 全期間合計によると、白桃さんの記事数は 4410件でした。

2002年10月の初投稿 [4188] 「頑張れ!東かがわ市」 から
2021年1月の [101286] 2021/1/12 の記事「懼れていたこと」
※この件以上に、懼れていたことが自分の身に起こっています。
までの 18年4ヶ月= 「220月 連続」と自負【by 白桃】されていたものと理解しました。

連続記録 220月 について。

2017年3月の月間全ランキング表示記録を見ると、
白桃さんの初投稿から 連続していた月間記録は、その前月までで 途絶えていたように思われます。
その翌月にも、記事がありませんでした。

2017年3月~4月の2ヶ月は、ずっとランキングの上位を占めていた グリグリさん と 白桃さん とが 揃って姿を消した特異な月でした。
【1】参照:[92814][92815]

参考までに、月間記事投稿の連続記録は、白桃さんが 173ヶ月、グリグリさんが 2000年12月からの 195ヶ月であったと思われます。

ここで、hmt自身の月間記事投稿連続記録について記します。

約4年前に、こんな記事を書いていました。
[92668] hmt
ところが、月末になったら 別の事情に気がついて、少し慌てました。
それは、2017年1月の書き込み数がゼロということになると、2003年8月から 161ヶ月継続していた月間連続記録が中断するからです。【中略】
記録を意識して無理やり投稿する。それは褒められた行為ではありませんが、追い詰められたらやむを得ません。

…というわけで、その月末に1件投稿して記録を繋いだのでした。

hmtは、元々グリグリさんや 白桃さんのように 多数の記事を提供しているわけではありません。
記事の総数(現在)は、ほぼ同じ頃に落書き帳に参入したEMM さん にも及ばず、歴代5位です。
投稿件数では及ばないが、月間投稿の連続記録だけは続いていたので、せめてこれだけは維持したい。これが本音でした。

[101422]を契機として月間記録の長期連続に注目されたので、改めて hmt自身の記録を見直しました。
2003年8月から 2016年までの 161ヶ月に、2017年以降 この記事・2021年3月までの 51ヶ月を加えて 212ヶ月に伸びていました。

220月[101422] [101424] には及ばないものの、自分でも気付かないうちに 「200月連続」を越えていた hmtによる投稿でした。


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