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トカラ

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[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。
[40005] 2005年 4月 18日(月)19:34:45【1】hmt さん
沖縄・奄美・トカラ・上三島
[39936]ふぁいんさん 昭和25(1950)年沖縄県人口の謎
216,080人はどこに行ってしまったのかなぁ

大筋としては、[39953] 229 さん の「奄美諸島」関係説で正しいと考えますが、細かく言うと、トカラ列島を含む「当時の奄美群島」が関与しているようです。

総務省統計局の時系列データでは、昭和25年の沖縄県人口として914,937人が掲載されています。
しかし、昭和25年当時「沖縄県」が存在している筈がないので、これは本質的に誤りですね。昭和30年~昭和45年についても同様。「沖縄返還」は昭和47年(1972/5/15)です。

となると、琉球独自の“国勢調査”[39962]紅葉橋瑤知朗さん による人口が正しいと思われます。
そこで [39965]Issieさん に教えていただいた、琉球政府公報を探したのですが、何故か該当文書はpdfで白紙が現れて確認できず。

それはともかく、[39936]ふぁいんさん にある“沖縄県発表の698,827人”に、[39962]紅葉橋瑤知朗さん の“奄美諸島人口(216,110人)”を加えると、統計局の数字 914,937人ピッタリになります。

というわけで、前記の統計表では明示されていなかった 914,937人の根拠を推察することができたと思います。
しかし、「存在しなかった沖縄県」を「現在の沖縄県に相当する地域」と解釈しても、鹿児島県に属する奄美の人口を含んだ数字なので、二重の誤りと言えます。
総務省統計局がこの有様では、後は「白桃都市人口研究所」に期待するしかないか。

ところで、この“奄美諸島人口(216,110人)”の意味する地理的範囲が曲者です。

実は、北緯29度以南の「奄美群島」本体が復帰する前の1951/12/5(実質的には1952/2/4か)に日本に戻ってきた、北緯29度から30度の間にあるトカラ列島(下七島)[24278]太白さん[24282]hmtの存在を考慮する必要があります。
昭和25年国勢調査は、「トカラ復帰」よりも前のことでした。だから、前記“奄美諸島人口 216,110人”には、トカラ列島の人口が含まれていると考えられます。
【補足】トカラ列島を含むという推測は外れていました。[40026]参照

総務庁「日本長期統計総覧」による男女別人口の昭和27年の注を見ると、
昭和26年12月に復帰した鹿児島県大島郡十島村(トカラ)の人口2,968人(男1,449 女1,519)を含む。
とあり、更に昭和29年の注には、
昭和28年12月に復帰した鹿児島県奄美群島の人口201,132人(男93,269 女107,863)含む。
とあります。こちらの「奄美群島の人口」は、トカラを含んでいない数字ですね。
この統計表の注記を見ると、人口統計もいろいろなことを考慮しないといけないことがわかります。

[39953] 229 さん
1950年の国勢調査の鹿児島県のところを見ると大島郡には十島村しかありません。

当時の大島郡「十島村」(じっとうそん)は、現在の鹿児島郡十島村(としまむら)=下七島ではなく、鹿児島郡三島村(みしまむら)=上三島ですね。
【補足】
現在のデータの十島村人口は、上三島の人口に復帰前の下七島の人口が加算されている可能性があります。[40026]参照

上三島の硫黄島と竹島は、縄文時代に起こった鬼界カルデラ大噴火[24108]の跡です。
上三島は、戦前はトカラ列島(下七島)と共に「十島村」を作っていましたが、種子島北部と同緯度のため、1946年に日本の統治から外された特定外周領域[24269]にはならず、3島だけで「十島村」として日本に残りました。
約6年後「トカラ復帰」は実現したが、北緯30度線で分断されていた村は「南北統一」せず、三島村と十島村になりました。
両村共に鹿児島市に村役場があることは、[357]以来 度々話題になっています。1973年には両村共に大島郡から鹿児島郡に変更。やはり、奄美ではないようです。

ところで 「奄美諸島」か「奄美群島」か。
現在の地図では「奄美諸島」という表記が多いように思いますが、「奄美群島復帰」(1953/12/25)当時以前には、「奄美群島」の方が普通のようです。
例により、帝国書院の「復刻版地図帳」[25914]により記載状況を調べてみます。1934年版は「奄美群島」、1973年版では「奄美諸島」。そして、問題の1950年版はというと、アジアの図に初登場の南西諸島[38249]が小さく出ていますが、奄美はありません。
この時代の中学・高校生( hmt自身)は「日本でなかった奄美群島」について学習していなかったのでした。
[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[56242] 2007年 1月 15日(月)22:32:21hmt さん
十島村(じっとうそん) と 十島村(としまむら)
日本は、第二次大戦に敗れた 1945年の秋に「進駐軍」に占領されました。
年が明けた1946年になると、マッカーサー司令部から発せられた覚書 SCAPIN-677 によって、日本の施政権が及ぶ範囲は、 “四主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬、大隅諸島を含む約1千の隣接小島嶼” に限定されることになりました [56190]

実は、この文中で“大隅諸島”と書いた部分は、原文では“北緯30度以北の琉球(南西)諸島”なのですが、種子島・屋久島などのことを“琉球諸島the Ryukyu (Nansei) Islands”扱いにしている原文は誤解しやすく、かつ冗長なので、あえて原文に使われていない“大隅諸島”を用いました。

日本の施政権から外された地域には、沖縄、小笠原、竹島、千島などの他に、東京都の伊豆諸島と、奄美諸島、それにトカラ列島(鹿児島県十島村)の北緯30度以南が含まれていました。

屋久島と奄美大島との間に位置するこのトカラ列島。1889年に「町村制ヲ施行セサル島嶼」として指定された当時は「鹿児島県管下薩摩国川邊郡」であり、「川邊十島」という呼び名もあるのですが、1897年に奄美と同じ「大島郡」に編入されました。同時に「大隅国」に変更されたようです。
戦後の1973年には鹿児島郡に所属変更。この時は国界変更はない筈ですから、大隅国のまま鹿児島郡。

郡の境界付近で、新羅(新座)郡→入間郡→(新座郡統合後の)北足立郡→入間郡 と出入りを繰り返した針ヶ谷[41711]を紹介したことがありますが、同じ土地が 川辺郡→大島郡→鹿児島郡と、全く異なる3郡(2国)を渡り歩いたのは、珍しい事例だと思います。

郡の話はさておき、トカラの島々は、1908年の島嶼町村制による十島村(じっとうそん)を経て1920年に「本土並み」の村になっていたわけですが、前記のように、思いがけず村内の「北緯30度」に境界が引かれることになりました(1946年)。

このために、境界線よりも北の「上三島」(硫黄島、黒島、竹島)は日本に残り、北緯30度以南の「下七島」(口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪ノ瀬島、宝島)は奄美などと共に日本から切り離されました。
村外で起こった政治力学の影響により、十島村は完全に分断されたわけです。

5年余を経た 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されましたが、この条約 第3条の信託統治条項により、北緯29度以南はそのまま日本から分離されることになりました。
しかし、北緯29度と北緯30度の間のトカラ列島「下七島」だけは、日本に復帰することができたのです。

「下七島」の日本復帰にあたり、1946年以来、実質的には「上三島」だけになっていた「十島村(じっとうそん)」では、旧十島村を復活させるか、分村するかの議論になり、住民投票の結果、圧倒的多数で分村することになりました。出典

こうして従来の「十島村」と、「下七島」復帰により新たに生まれる「十島村」。
この「2つの十島村」は、どのような経過で現在の「三島村(みしまむら)」と「十島村(としまむら)」になったのか?

実は、この件に関しては、1946年に一時的に日本から切り離された伊豆諸島の復帰を 3年前に話題にした際 に触れたことがあります。
[24269] では、「奄美群島日本復帰50周年」の年表 に基づいて、連合国最高司令官(SCAP)覚書による1951年12月5日の日本復帰で、「2つの十島村(じっとうそん)」ができ、翌年2月10日に現在の「三島村」と「十島村(としまむら)」になり同名が解消されたと書いたのですが、[24278]太白さんから、“十島村HP の年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日”とのご指摘がありました。

今回、市区町村変遷情報の「十島村」 を調べてみると、1952/2/4はポツダム政令(昭和27年政令第13号)の官報告示日であり、“変更日 1952年2月10日”となっています。
# 十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和26年政令第380号)も存在します。
見ていないのですが、便宜上「南十島村」と呼ばれていたとか。(1951/12/5から正式復帰する1952/2/10までの間?)

確認のために、変遷情報の「三島村」 を見たら、なんと! “従来の大島村の境界”を北緯30度以北とする変更と、「三島村」への名称変更を内容とする総理府告示第132号の日付が“1952/5/14”と、3ヶ月も後になっているではありませんか。

もっとも、“変更日 1952年2月10日”となっているので、告示が遅れただけで、2月10日に正式復帰した「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」は「三島村」に改称し、「2つの十島村」は同時には存在しなかったものと思われます。

# 官報告示には読み仮名が付いていないようですが、この時に「じっとうそん」から「としまむら」に変わったと考えるのが自然でしょう。

# 1952/5/14の告示では、“従来の大島村”と記されていますが、もちろん“従来の十島村”の誤記と思われます。
[56250] 2007年 1月 16日(火)16:36:00hmt さん
海賊キッドが財宝を隠した宝島
「2つの十島村」[56242]を話題にしたついでに、トカラに関するトピックスを少々。

[56242]で記したように「川邊(かわなべ)十島」=「上三島」+「下七島」ですが、後者に含まれていた臥蛇島(がじゃじま、4km2)は、生活環境の過酷さから1970年7月に全島民が集団移住し無人島となり、現在の十島村では「有人七島」(口之島,中之島,平島,諏訪之瀬島,悪石島,小宝島及び宝島)と称しているようです。入れ替わりに七島の仲間に昇格したのは1km2の小宝島。

鹿児島県離島の概要 を見ると、早くも明治18年に奄美大島の「金久支庁所管の下七島」と種子島の「西之表出張所所管の上三島」とに分離され経歴をもつようです。 十島村略年表pdf によると、川辺郡のまま大島の金久支庁の管轄になったとのこと。
生活圏としては、昔から南北に分離していたのでしょう。

上三島に属する硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した 鬼界カルデラ の北縁にあたります。
6300年前に起こった大噴火は、南九州の縄文早期文化を壊滅させました。
この「鬼界ヶ島」は、平家物語に登場する流刑地(卒塔婆流し・俊寛)と推定されている地の一つであり、平安時代には「日本の南端」[49028]でした。

下七島に移ると、北緯30度線にかかる口之島の南の中之島が最大の島(35km2)で、1956年に鹿児島市に移転するまでは、村役場がありました。なお、村役場を鹿児島市に移したのは、現・三島村の方が先です。旧・十島村役場のあった中之島が切り離されたので、仮役場を鹿児島市に設けたのですね(1946)。八重山の竹富町役場(石垣市所在)と共に有名な存在です。

中之島の南西にある諏訪之瀬島は、日本有数の活火山です([23902] [23960]の106)。1813年(文化10年)の噴火では、溶岩流に襲われ、全島民が避難して無人島になりました。彼等は結局島に戻ることなく、奄美大島や県外からの移住者が再入植したのは明治になってからでした。

その次が悪石島ですが、2009年7月22日の11時前の皆既日食に際して、皆既継続時間6分30秒という好条件で注目されていることが、最大のトピックでしょう。ここのメンバーで訪れる方もあるのでしょう。
過去には、1944年8月に沖縄から長崎に向かう学童疎開船「対馬丸」が、悪石島の北西で撃沈された 事件 がありました。

悪石島と小宝島の間の海底には、「トカラギャップ」と呼ばれる深い谷があります。これは、大陸の長江の川筋から連なる海底谷で、氷河時代に海面が低下した時代に大陸と地続きになった琉球と日本との間に河口を開き、動物が行き来することを阻んでいました。
奄美にいるバブは日本に侵入することができず、ニホンジカは琉球に渡れなかった。
生物地理学上では「渡瀬線」と呼ばれている有名な境界線ですね [5943]

トカラ列島最南の有人島は宝島です。
この島の歴史には、[24278]太白さんが紹介されている文政7年(1824年)「イギリス坂の戦い」なんてのもありますが、ここでは17世紀の海賊、 ウィリアム・キッドが隠した宝のありかというお話をしておきましょう。
1936年にアメリカの雑誌に掲載されたキャプテン・キッドの地図と現代の宝島の地形図とを並べて示した ページ をご覧ください。
2006年、日本テレビ系列恒例の24時間テレビでの宝探し。キッドの財宝は未発見に終わりました。まだ埋まっているのかもしれません。
[58582] 2007年 5月 20日(日)19:44:29【2】役チャン さん
十島村のレントゲン船
鹿児島県十島村の有人7島にすべて上陸して来ました。

十島村については[56242] [56250]でhmt さんが紹介されていますので改めて説明する必要はないと思いますが、村営船であるフェリー十島が、普段は夜鹿児島港を出て翌朝から順に7つの島に寄航し夜名瀬に着き、折り返し南から各島に寄り鹿児島に戻る形で週2往復しています。ところが年に1度、各島に約2時間づつ停泊し島民のレントゲン検診をし、このときは途中の島に停泊し3日がかりで名瀬に行く、レントゲン船というのが運行されます。
鹿児島港近くにある十島村役場には私は3年前に行っており、公共交通機関による全国市町村役場めぐりのルール上は公式訪問として問題なく、1件としてしっかりカウントしているのですが、せめて島影だけでも見ておきたいと予てから思っており、奄美に行くならこの船で行こうと思っていたのでした。

別の地理的チャレンジをしている友人3人と一緒に乗船したのですが、医療関係のスタッフの他この機会を逃すまいと、電力会社の人や島に設置した防災機器を点検する技術者、学校の視察なのか教育委員会風、保健所風の人達、それに一般の旅行者などで定員200人の船には150人ほどの乗船客がありました。郵便貯金が目的の人も20人くらいいました。

まず5時15分に最初の口之島に着くと、埠頭にはレントゲン検査を待つ島民が集まっていました。2台のレントゲン・バスを船から降ろし島民の検査が始まります。上陸したい客は名前を書いて下船します。島中の車が全部来たのではないかと思われるほど軽自動車が集まっていて、用事のある人はそれに乗って夫々の目的地に仕事をしに行きます。我々のような遊びに来た者は急坂を歩いて島内見物をするだけです。この時間はまだ郵便局は開いていないので郵チャンもすることがありません。停泊予定時間は概ね2時間となっていますが、検査の進行状況によって変動するので出航の30分前に長声2笛が鳴ります。船に戻ったら自分の名前にチェックを入れます。前年には置いてきぼりを食った客がいたそうで管理を強化しているそうです。

このようにして順に7つの島を巡るのですが、最初からどんどん時間が繰り上がり次の中之島では郵便局がオープンした9時に汽笛がなり,港から歩いて15分ほどの郵便局では時ならぬ大勢の貯金客の対応で大変なようでした。しかし局側もこの日のために訓練でもしていたのか、大変手際が良かったとのことです。

その後平島、諏訪瀬島と寄航した後、当初は翌日の予定だった小宝島へ明日は天候悪化が予想され接岸できなくなるかも知れないとのことで繰り上げ寄航、その後悪石島に逆行するような形で行き本日はここに停泊しました。小さな温泉が大混雑となりました。船で寝れば宿賃も浮く旅でした。
再度小宝島に寄航したった一人の客を降ろした後宝島へ行き、名瀬には13時半頃着きました。
私は主に役場の支所や出張所、学校、発電所を見たいと思っていたのですが、悪石島以北はいずれも火山島でどこへ行くにも急坂を登らなくてはならず、平島などは最初から行く気をなくすような光景でした。小宝島以南は隆起島だったので、比較的楽にそれらを見ることができました。なお郵便局があるのは口之島、中之島、宝島の3島だけです。

人口が50人から100人台の島ばかりで、どこも過疎なんていう生易しいものではない、いつまで有人を続けられるのだろうかと正直思ったものでした。いろいろデータも入手できたので、いつかまとめたいと思っています。

私はこの後未訪問だった奄美大島から更に徳之島まで行き島歴、港歴を大幅に更新するとともに、役場の累計も平成の合併前基準で2258まで伸ばしました。

離島に興味があり、長期の休みが取れる方にはお勧めの十島村レントゲン船です。
[65126] 2008年 5月 15日(木)03:52:53【2】むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村
[65108]88さんのご説明を読んで、鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。


最初に、本論に入る前段階として、十島村が三島村と十島村に分離するまでの沿革を紹介します。

十島村は第二次世界大戦後、
(1)昭和21年1月29日の連合国覚書「特定外国領域の行政分離に関する件」(南西諸島などは日本政府の行政権から分離)
(2)昭和21年2月2日「連合国覚書宣言」(二、二宣言)(北緯30度以南においては日本の行政権は及ばなくなる)
(3)昭和21年2月28日内務省告示第22号(十島村のうち竹島、黒島、硫黄島の3島が正式に鹿児島県管轄となる)
の3段階を経て、十島のうち三島のみで十島村を形成することになります。

その後、(4)昭和26年12月5日付け「連合国最高司令官覚書(若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件)」で北緯29度から30度間の十島村のうちのいわゆる下七島も日本に復帰することになります。この覚書に関連して、鹿児島県大島郡十島村の区域に適用されるべき法令の暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)が公布され、昭和26年12月5日から適用されます。
さらにその後、(5)昭和27年2月4日の政令第13号(ポツダム政令)で、北緯29度から30度間のいわゆる下七島が(新)鹿児島県大島郡十島村となり、地方自治法が適用されることになります。
そして(6)昭和27年2月10日に、いわゆる上三島は三島村となり、いわゆる下七島が十島村となります。


さてここからが本論なのですが、三島村と十島村とに分裂したときの経緯が以前の議論でははっきりしていなかったような記憶があります。鹿児島県市町村変遷史(著:鹿児島県総務部参事室、出版:鹿児島県、1967)110頁に、昭和27年2月4日の政令第13号(ポツダム政令)から同年2月10日までの経緯が載っていましたのでここに紹介します。
ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、その手続としては、昭和二十七年二月七日、分村及び村の名称変更の条例を制定、知事に許可を申請して、二月九日知事はこれを許可し、昭和二十七年二月十日から「三島村」として発足した。
と書かれています。(注:原文では“この政令”とあるのを引用者がポツダム政令と改めた)

この記載はまさしく
(2) 当該地方公共団体は条例で定める(第3条第3項)
(3) 当該地方公共団体は条例制定(または改廃)後、直ちに都道府県知事に変更後の名称及び名称を変更する日を報告(第3条第5項)
にあたります。


最後に補足説明です。
(4)と(5)の間について、鹿児島県市町村変遷史109頁には
事実上、大島郡十島村が二つ存在することになったが、下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。
と説明されています。

以前、名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」記載の年表[24269]hmtさん)と十島村HPの年表([24278]太白さん)の食い違いが問題となっていましたが、おそらく(4)の解釈が原因で相違が生じたのでしょう。
[65138] 2008年 5月 16日(金)12:22:22hmt さん
村の中に「国境線」が引かれてしまった十島村
[65126] むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。

本論に入る前に、88さんに連絡。
明治41年内務省令第1号により、沖縄県及島嶼町村制が 鹿児島県大島郡に施行された結果 誕生した 大和村、名瀬村… 十島村(じっとうそん) の16ヶ村は、長崎県対馬国の13ヶ村と同様に「市制町村制施行時の情報」として記載されるべきものではないでしょうか。ご検討願います。

それはさておき
大正9年(1920)に「本土なみ」の「町村制による村」になった十島村(トカラ列島)ですが、敗戦後の1946年になると マッカーサー司令部覚書 によって、思いがけず村の中を通る北緯30度に「国境線」が引かれてしまいました。
当然のことながら、村は 奄美と共に日本の施政権から外された「下七島」と、鹿児島県に残された「上三島」とに分断されました。

1951年9月調印のサンフランシスコ平和条約では、北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)のアメリカによる信託統治を受け入れざるを得ないことになりましたが、29度と30度の間にあったトカラ下七島の日本復帰が決まりました。
平和条約に基づくトカラ復帰の具体的な手続きは、[65126]で(4)として記されたSCAP覚書と暫定措置に関する政令で行なわれ、とりあえず昭和26年(1951)12月5日に、変則的な「自治体でない十島村」が誕生しました(鹿児島県市町村変遷史109頁)。
下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。

2ヶ月後には 鹿児島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令(昭和27年政令第13号) が制定され、1952年2月10日から施行されたので、変則的な制度はごく短期間で終りましたが、この約2ヶ月は、「自治体でない十島村」(下七島)と「自治体である十島村」(上三島)と、異なる制度の下の2つの「じっとうそん」が共存していたのですね。

参考までに、小笠原諸島復帰に伴う暫定措置により、「自治体でない小笠原村」が設置されたのは 1968年6月26日 で、こちらは議員と村長の選挙により「自治体たる小笠原村」が実質的に発足した 1979年4月22日まで10年以上も変則的な状態が続きました[53248]

ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、

ポツダム政令というのは、“「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官(SCAP)ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ”法律事項であっても緊急勅令などの命令で定めることを可能にした占領下の特別な制度の一種でした。
リンクした条文
この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿児島県大島郡十島村となるものとする。
から明らかなように、…暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)により置かれた「自治体でない十島村」が、その区域(下七島)のまま、自治体の「十島村」になるという内容であり、上三島が“自動的に分村”するということではありません。

[56242]でリンクした 《特定外周領域》の淵源とその系譜 には、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
「新たに分村」という言葉を使っていますが、既に1946年に強制的に分離させられた村が「元の鞘に戻らない」という意味ですから、「分村」の適切な用法ではありません。

分村及び村の名称変更の条例を制定
と鹿児島県市町村変遷史に書かれているそうですが、条例で制定したのは、新しい自治体として生まれる下七島の「十島村」と同じ字になることを避けるために「三島村」にする名称変更(2月10日実施)だけでしょう。
「分村」を村条例で定めるのは手続きとしておかしいし、以前から存在している自治体なのだからその必要もないと思われます。

下七島の「十島村」も、新発足にあたり、「としまむら」と呼ぶように変えました 十島村HP
旧・十島村(じっとうそん)と区別するためでしょう。

最後に、トカラ列島に関するトピックスを記した過去記事を一つ紹介[56250]
皆既日食も1年少し後に迫りましたね。
[65152] 2008年 5月 17日(土)14:24:08むっくん さん
十島村
[65138]hmtさん

私も昭和27年政令第13号を読んで
上三島が“自動的に分村”
との表記はおかしいのではないかと思いました。本来的には、上三島が“事実上分村”と書くべきところなのでしょう。
#「分村」という言葉の適切な用い方ではないことは私も分かってはいますが、「分村」以外の適切な語が思い浮かばなかったのでここでは「分村」という言葉を用いています。

しかしながら、この記載の若干前には、その前の昭和26年政令380号を受けて
事実上、大島郡十島村が二つ存在することになったが、下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。
との記載があります。この“事実上、大島郡十島村が二つ存在することになった”との表記との関係上やむを得ずこういう表記をしたものと考えました。


次に、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
ということに対しては賛同できません。住民投票はあくまでも“参考”だと思います。

もしも「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたなどと言うと、住民投票という直接民主制で決めたことになります。これは現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。
おそらく当時の「自治体である十島村」においても、住民の代表機関であり、議決機関でもあるのは十島村議会のみであり、住民の代表者からなる議会においては住民の意思の発動と思しき住民投票には一切拘束されずに決定されたものと推測します。
もちろん法的拘束力のない住民投票の結果を見て自らも心情的に納得し、自らの意思で分村に賛成した村議会議員が大半なのでしょうが。

この住民投票に関して、鹿児島県市町村変遷史(著:鹿児島県総務部参事室、出版:鹿児島県、1967)109頁では
二十六年七月二十日近く下七島の日本に復帰する情勢もみえたので、三島においては、この際分村すべきであるとの声があったので、参考までに住民投票を行った結果、分村票が多数を占めていた。
と、“参考までに住民投票を行った”と記述しています。
[65174] 2008年 5月 18日(日)14:24:56hmt さん
直接民主制
[65152] むっくん さん
現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。

今更言うまでもないことですが、日本国憲法は直接民主制の考えを否定しているわけではありません。
日本国憲法の改正の国会発議は、国民投票による過半数の賛成による承認を必要とすることがよく知られています(憲法96条1項)。
また、一の地方公共団体のみに適用される特別法は、住民投票による過半数の同意を得なければ制定することができません(憲法95条)。

地方自治について言えば、“普通地方公共団体の議会が議決すべき事件”は地方自治法96条において限定的に列挙されており、“法的効力のあること” の「すべて」ではありません。

「合併しない」ことを住民投票により決めることは、普通に行なわれています。

2001年の 第153国会衆議院総務委員会会議録 に、市町村合併と直接民主主義の問題に関する質疑応答(重野委員)があったので、ご参考までにリンクしておきます。

この中にも出てきますが、町村議会そのものを置かずに、町村総会を設けることもできます(地方自治法94、95条)。
その実例が 東京都宇津木村(八丈小島)[35748]いっちゃんさん でしたが、1955年の八丈町への合併により直接民主制村政は挫折しました。
なお、合併後、八丈島との格差が拡大した八丈小島は、1969年に集団移住によって無人島になりました。

2005年には 長野県木曽郡王滝村議会に、村議会を廃止し代わりに「村民総会」を設置する条例案が 議員提案 されましたが否決されました。

トカラ列島の件について言えば、当局(鹿児島県?)は、返還される下七島を含めた十島(他に無人島)を一つの村として復活させる意向であったと思われます。返還される下七島に「七島村」でなく「十島村」という名を付けたのが、その何よりの証拠です。

“参考までに住民投票を行った”(鹿児島県市町村変遷史)結果、上三島の数百人の有権者の圧倒的多数が示した「下七島と合併しない」という意思表示は、当局にとっては予想外の結果だったのでしょうね。
住民投票の実施は“参考まで”だったかもしれませんが、その結果に反する合併は強制できず、合併議案を出しても十島村議会を通る筈がありません。

十島を一つの村として復活させる意向だった当局者としては、合併拒否がわかっていたならば、返還された下七島を直接に鹿児島県大島郡(1951年当時)十島村に編入するテもあったのにと思ったかもしれません。
しかし、変則的な鹿児島県知事(国の機関)の直轄行政期間を設ける暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)の準備も既に進んでいるなどの事情もあり、変更するわけにはゆかなかったのでしょう。
[65194] 2008年 5月 20日(火)16:34:59むっくん さん
Re:直接民主制
[65174]hmtさん
御教示ありがとうございます。
中央政府においても地方自治においても、あくまでも間接民主制は原則であるだけで、直接民主制も例外として認めていることは承知していました。(e.g.国民審査(憲法79条2項)長の公選制(憲法93条2項)長の解職請求(地方自治法81条)議会の解散請求(地方自治法76条)議員の解職請求(地方自治法80条)

しかしながら、hmtさんが挙げられた議決事件(地方自治法96条) 町村総会(地方自治法94条) 町村総会に町村議会の規定の準用(地方自治法95条)の存在を完全に失念していました。

というわけで[65152]拙稿での
現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。
との記載は誤りと断ぜざるを得ません。


さて、私が失念していた地方自治法94条、95条の直接民主制の規定に関連してです。

地方自治法94条、95条の規定は、人口がわずかしかいない神奈川県の芦之湯村や東京都の宇津木村などを念頭に置いて制定されたもののようです。(参考
地方自治法施行されてから現在までに、地方自治法94条、95条の規定が使われた自治体としては、昭和20年代の東京都宇津木村及び鳥打村の2例があるだけのようです。
その後、有名無実化していた地方自治法94条、95条の規定は、
2005年には長野県木曽郡王滝村議会に、村議会を廃止し代わりに「村民総会」を設置する条例案が議員提案
されることで再び日の目を浴びかけました。しかし王滝村議会で否決されたことで、これら規定は従前通りの有名無実化した規定のままです。
果たして、これら規定に再び日の目を浴びる日が来るのか、それとも廃止されてしまうのかは、今後も注視する必要があるのかもしれません。


最後に本来の十島村についてです。
上三島の数百人の有権者の圧倒的多数が示した「下七島と合併しない」という意思表示は、当局にとっては予想外の結果だったのでしょうね。
第二次世界大戦前の時点で、上三島で一つの経済圏をなし、下七島で別の一つの経済圏をなしており、十島村全体で一つの経済圏をなしていたわけではありませんでした。そのため下七島の日本への復旧にあたり、十島村が2つの村に分離する可能性がゼロでないとは当局も把握していたことでしょう。
とは言え、原状復旧する方向ではなく2つの村に分離する方向に賛意を示す上三島の住民が圧倒的多数にのぼった事は、やはり当局にとり想定外の事態だったものと思われます。
[82237] 2012年 11月 22日(木)19:28:59hmt さん
トカラ列島 2つの十島村から十島村と三島村へ
[82235] YT さん
トカラの人口についての記事を拝見しました。

可能性としては、確定人口が公表された1952年10月13日の時点で十島村は本土復帰をしており、国勢調査の結果表から欠落してしまったということでしょうが、こんなところにも国勢調査の穴が生じているとは予想外でした。

なるほど。1950年の国勢調査結果が掲載されているのは、調査の翌々年 1952年に発足した琉球政府の 公報第27号であり、この約2年間は日本独立という外交上の激変時期であったことを hmtマガジン 米国統治下の沖縄 の前書に記しておいたのですが、このような影響があったことは意外でした。

人口と無関係なものも含まれていますが、ご参考までに トカラに関する主な過去記事 を提供します。

事実と違う記述について、一応指摘しておきます。

[65126]でむっくんさんが触れられているように、昭和21年10月3日付でトカラ列島北部の三島が「十島村」として本土復帰し、

トカラ列島北部の3島(「上三島」 = 硫黄島、黒島、竹島)は、北緯30度よりも北にあります。
従って、1946年1月29日付のマッカーサー司令部覚書(SCAPIN-677[56190]によって“日本の範囲から除かれる”と指定された
北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)
には含まれません。

なお、この覚書(指令)は2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表されたので、日本側では「二、二宣言」と呼ばれており、むっくんさんの[65126]でもこの言葉が使われています。

マッカーサー司令部によるこの指令の結果、元々鹿児島県管轄であった 鹿児島県大島郡十島村(じっとうそん) の領域(10島)から「下七島」が除かれ、前記「上三島」だけに限定されることになりました。
このことを公示したのが、昭和21年2月28日内務省告示第22号であると考えられます。

もちろん[65126]には「本土復帰」とは記されておらず、日付も違っております。

遅れて昭和27年2月10日付でトカラ列島南部が十島村として本土復帰します。その際に先に復帰した十島村は「三島村」となります。

前段:サンフランシスコ講和条約の結果、トカラ列島「下七島」(北緯29度と北緯30度の間の島々)が日本に「復帰」したこと、
後段:統合か分村かの議論の末に分村という結論になったこと。これについては、[56242]に記しました。

変遷情報鹿児島県 の「1952(S27).2.10」には三島村と十島村とが記録されています。

変遷情報の記載について。>88さん
1952年の三島村(みしまむら)は、「上三島」を領域とする十島村(じっとうそん)からの「改称」だけであり、領域の変更は 前記告示に従って 1946(昭和21)年2月28日と記録すべきではないでしょうか。

もっとも、そのようにすると、日本の行政管轄を離れて 連合軍統治下に置かれていた「下七島」の十島村(じっとうそん)が脱落してしまうことになります。

1946年に 北緯30度線で分断されてしまった 「2つの十島村」[56242][65138]が存在したことは事実であり、その記録は必要です。
分断後の「下七島」については、例えば「十島村(北緯30度以南)」のような説明を付して記録(1946.2.28)したらどうでしょうか。
変更種別としては、「分割」かと思いますが、それで統一基準に合致するでしょうか?

さしあたり、1952年復帰時の記録は「じっとうそん」から「としまむら」への改称になります。
本当は本土復帰と記録したいところですが、ここに足を踏み入れると、奄美・小笠原・沖縄と影響するところ大。
連合軍統治下では「郡」は使われていなかったと思われるので、「大島郡十島村」という表記も問題かもしれません。
これを言い出すと、連合軍統治下で名瀬市になった「大島郡名瀬町」など、修正すべき箇所が 他にも多数出現することになるので、とりあえずこれも留保しておます。
[93971] 2017年 10月 9日(月)22:12:39【1】ekinenpyou さん
簡単なクイズ、明治時代の変遷記録についてなど
あまり問題を作るのは得意ではないのですが、ご挨拶を返していただいた
お礼という事で今回のみ若い方向け?で簡単なクイズを1問だけ出題しておきます。
([93748]白桃さん他のご指摘もあるため、以後クイズ投稿は慎みたいと思いますが)

問題:【A】【B】にあてはまる適当な語句をお考えください
===============================================
現在の大阪市内には多くの鉄道駅がありますが※、市制が施行された
明治【A】年4月1日時点で、市内に存在していた(開業済みの)駅は【B】だった。
===============================================

※若干古いですが、近年どの程度の駅数があるかなどはこちらが参考になります。

ヒントはありませんが掲示板の過去ログをご覧になられている方でしたら解答は比較的容易に出せると思います。
【B】の駅は大阪市に市制が施行された当時のエリア(境域)内でお答えください。
[93849]むっくんさんで示していただいた境界付近にあったもの(自治体越えの鉄道駅)でも可とします。

なお、関連する内容(クイズではありません)で後日次回の投稿を予定しておりますので
解答者無しでも全く問題ありません。

以下、書き込みへのコメントです。
[93947]hmtさん
早速のコメントありがとうございました。

「分属」とは、実質的に複数の「編入」を意味しているものと理解することができます。
中略
私の関心がそそられたのは、「分裂」という言葉が使われていたことでした。

「分属」「分裂」ともにあまり見かけない表現ですが確認してみたところ、明治期に少し使用例が見つかりました。

「分属」(上段真ん中:茨城県那珂郡 六箇新田を廃止して中根村外四箇村に編入)
「分裂」(3コマ右側:長崎県東彼杵郡 大村の一部から大村町を新設)

この他、右上隅の雑事:合村及改称
地所幾分ヲ裂キ
とありますので「裂」は「割」と類似の意味だったのかもしれません。

また縮小再置ではないのですが、実態として従来の境域を縮小し分立したものに
戦後の三島村・十島村(鹿児島県)の例がありますが、特殊な経緯※のため
廃置分合も慣用的な手続きとはならず、境界変更などで一村が成立するという特異なものでした。

1952(S27).2.10
境界変更/改称 大島郡 三島村 大島郡 十島村の一部
村制 大島郡 十島村 大島郡 十島村の一部

※ご存知の方も多いと思いますが詳細は
トカラ・十島村の「格差」と地域の政治(15コマ下部あたり)をご参照ください

少し話が逸れるのですが、三島村は地方選挙への関心が高く投票率が極めて高いということでした。

※URLを直接記載せずテキストリンクへ訂正、以後原則テキストリンクを使用するようにします。


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