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落書き帳

絹の話

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[30364] 2004年 7月 10日(土)14:04:57hmt さん
関東シルクロード
[30342] KMKZ さん
1月程前に○都が話題になった時に、織都として桐生、八王子が挙げられたのに足利は忘れらていましたね。

私の頭に摺り込まれている織物の町は、“桐生、足利、伊勢崎、八王子”の4つです。1944年に「初等科地理」で習いました。
そういえば、秩父は入っていなかった。
なお、この国民学校教科書は、章のタイトルが 「帝都のある関東平野」に続いて、「東京から神戸まで」「神戸から下関まで」という調子で、その前の教科書の「〇〇地方」に比べて斬新な印象を受けたものです。
[48709] 2006年 1月 24日(火)23:23:33【1】hmt さん
市町村の区域内の「町」と「字」 (4)相模原市の「町丁字」
[48612] Issie さん
示していただいた事例により、旧軍用地に由来する麻溝台と新磯野は開拓集落の形成にあたって、そして江戸時代に開かれた大沼新田と、明治合併後に大野村の行政中心となった古淵の場合は、独立集落が新たに形成された後、かなりの時間を経た後で それらを追認する形で、いずれも相模原町時代に 「大字」が新設されたことがよくわかりました。

大沼新田は、清兵衛新田、矢部新田、淵野辺新田、溝境新田と同様に江戸時代に開拓された新田地名で、明治になってから開拓された橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開という新開地名とは時代の違いを判別することができます。昭和20年以後に開拓された麻溝台や新磯野は、また異なる命名でした。

古淵は、大野村の行政中心地だったのですか。
この地は、大野村ができてから 20年近くたって開通した関東シルクロード[30364]の一部である横浜鉄道(現・横浜線)に駅を作ってもらえなかっただけではありません。その後、更に 80年間、原町田-淵野辺間5.9km(町田になってから少し短縮)は、東京近郊では珍しく駅間距離の長い区間でした。
ここ原町田-淵野辺-橋本間には、仙石貢が武蔵野の地図上に豪快な直線を引いた甲武鉄道(現・中央線)[34522]には及ばないものの、かなり長い直線区間もあります。
1917年に、当時の鉄道院が いわゆる「広軌化」(現在の言葉を使えば“標準軌”化)のテストを実施した場所でもあります。

余談はこのくらいにして、タイトルに記したテーマを始めます。
Issie さんの[48612] によると、相模原の大字は、
○現在までに消滅
大字橋本・大字清兵衛新田・大字淵野辺・大字大沼・大字古淵・大字鵜野森
○現存 (一部省略)
・現存:大字下九沢・大字上九沢・大字大島・大字田名・大字上溝・大字下溝・大字当麻・大字麻溝台・大字磯部・大字新戸・大字新磯野

「大字」が消滅した地域には「町丁」が設けられ、相模原市内には地域区分としての「大字」と「町丁」とが共存しているという理解でよろしいのでしょうか?

町丁字別の人口と世帯数を見ると、上記の記事で「現存」とされた「大字下九沢」以下の地域も、「大字」の表記はなく、単に「下九沢」等と記されています。
つまり、相模原市における「大字」は、「町丁字という地域区分」の一種としては存在するが、「町丁字の表記」としては使われていないということになります。
「区分としての大字」地域は、上記リンクの表では「上溝(番地)」と記され、住居表示「上溝1丁目」から「上溝7丁目」までの「丁」を便宜上合計したらしい「上溝」と区別されていますが、「旭町(番地)」のような住居表示地域でない「町」もあります。
つまり、相模原市の「町丁字という地域区分」は、「大字」地域(表記には「大字○○」を使わない)と、「町(番地)」地域と、「住居表示による丁」地域との3本立てと理解しています。

準地元の ふじみ野市 の「町丁字という地域区分」を調べてみると、合併により表記から「大字」が除かれた「字」(例えば福岡)と、「町」(例えば福岡中央)という複数の種類の「町丁字」が共存することがわかりました。

[48563]で挙げた3例は、いずれも「市原市の区域内の字」、「鳥取市の町名」、「大垣市の町」のように1種類の「町丁字」に統一されていました。

しかし、相模原市とふじみ野市の例は、複数の種類の「町丁字」が同一市内に共存し得ることを示しています。
「町」と「丁」と「字」が種類としては異なるものであっても、現行法令上では、何らかの実質的な違いを持つものでなく、単に慣行の相違に由来するものであることは既に記した通りです。
[54415] 2006年 10月 12日(木)16:01:18hmt さん
神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域
[54388]では、安政条約を話題の中心に据えて、神奈川奉行所から、条約改正による居留地の消滅(明治32年)までを語りました。
今回は、その安政条約に規定されていた「外国人遊歩区域」のお話です。

米利堅合衆國修好通商條約 安政五年六月十九日
第七條 日本開港ノ場所ニ於テ亜米利加人遊歩ノ規程左ノ如シ
神奈川 六郷川筋ヲ限トシテ其他ハ各方へ凡十里
函館 各方ヘ凡十里
兵庫 京都ヲ距ル事十里ノ地ハ亜米利加人立入サル筈ニ付其方角を除キ各方ヘ十里且兵庫ニ来ル船々ノ乗組人ハ猪名川ヨリ海湾迄ノ川筋ヲ越ユヘカラス
都(すべ)テ里數ハ各港ノ奉行所又ハ御用所ヨリ陸路ノ程度ナリ
一里ハ亜米利加ノ四千二百七十四ヤルド日本ノ凡ソ三十三町四十八間一尺二寸五分ニ当タル
長崎 其周囲ニアル御料所ヲ限リトス
新潟ハ治定ノ上境界ヲ定ムヘシ

横浜開港資料館所蔵の「横浜周辺外国人遊歩区域図」 には、 DESCRIPTIVE MAP SHEWING THE TREATY LIMITS ROUND YOKOHAMA と記されており、1865-1867年というから慶応年間に作成された地図です。
横浜から半径約10里の扇形が、江戸の方角だけは、六郷川(多摩川)によって大きく切り取られている姿を見ることができます。

この遊歩区域内には、江戸市民にとっての著名な観光スポットでもある鎌倉、江ノ島や金沢八景があり、更には信仰と遊覧を兼ねて人気のあった大山参りの対象の地も含まれていました。
なお、「遊歩」とは、ウォーキングに限らず乗馬も含んでいます。上記安政条約の英文では、“Americans shall be free to go where they please”と表現しています。
横浜居留地には、外国人のウォーキング専用道路(遊歩新道)も建設されました(慶応2年)。

F・ベアトも、厚木から丹沢山地に入った宮ヶ瀬、そして関東シルクロード[30364]になる八王子・鑓水・原町田方面にも出かけて、写真を残しています。

遊歩区域は、横浜の居留地に準じた重要警戒地域だったわけですが、現実には、遊歩中の外国人がサムライの襲撃を受ける事件もありました。
最も有名なのは、川崎大師への遊歩途中の英国人力査遜(碑文の表記による)が島津久光の行列と遭遇して切り殺された生麦事件(文久2年・1862)です。
ベアトの写真にも、「リチャードソン氏殺害現場」があります。
# 生麦とは珍しい言葉ですが、生麦生米生卵でも有名。この地が麒麟麦酒の工場になっているのは「麦」の縁でしょうか。

生麦事件は正当な遊歩区域内で起きた事件ですが、時にはこの境界を越えて行動する外国人もあり、その冒険体験が、話題になっていたそうです。(J.R.ブラック 「ヤングジャパン」)。
津軽海峡のブラキストン線で有名な博物学者で貿易商の T.W.Blakiston が、旅行免状を持たずに遊歩区域外を旅行したことを問われた事件(明治7年)等を機に、遊歩境界傍示杭についての周知不足や、その距離の不正確について外国側からの苦情が出て、きちんとした測量による境界標石が建てられることになりました。

もちろん、制限付きながら遊歩区域外への旅行も実施されました。外交特権のある外交官は、富士山にも登りました。
明治2年頃からは、病気療養名目で箱根や熱海への湯治にも「内地旅行免状」が交付されました。
hmtの出身地・津久井も遊歩区域外でしたが、幕府のお雇いフランス人技師が業務出張で現れています(慶応3年)。もちろん幕府役人と同道で、横須賀製鉄所建築用材入手のための検分が目的でした。
実家に残る「仏人御林御見分ニ付立替物控」には、 hmt幼少の頃には残ってた旅館に宿泊した異国人へのご馳走品やその値段が記されています。津久井県[41805]の青山村は、幕末には小田原藩領になっていましたが、御林関係ですから幕府の御用を勤めたわけです。

後にトロイア発掘で有名になった ハインリッヒ・シュリーマン も、来日中に許可を得て江戸を見聞し、また遊歩区域内では八王子や原町田を訪れています。小野路村[33902]の記事で触れたことがあります。
[85486] 2014年 4月 27日(日)19:24:29【1】hmt さん
絹の話(1)富岡製糸場が世界文化遺産に
昨日付の 文化庁報道発表 にあるように、我が国から世界文化遺産へ推薦している「富岡製糸場と絹産業遺産群」について、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関である ICOMOS(イコモス)による勧告がユネスコ世界遺産センターより通知されました。
勧告内容は 英文資料 の9コマに記されており、「Tomioka Sik Mill and Related Sites, Japan」は 基準 (ii) 及び (iv) を根拠に 世界遺産リストに登録されるというものです。このお墨付きにより、6月にカタールのドーハで開催される UNESCO世界遺産委員会における正式決定 が確実な状況になりました。

今回認められた富岡製糸場の 普遍的価値を記述したものに、文化庁の 推薦書概要 があり、世界遺産登録基準 の (ii) 及び (iv) に照らして 説明されています。

UNESCOに提出した推薦書は 英文764頁に及ぶとのこと。前記英文勧告資料の 1~6章は、群馬県による推薦書解説資料 3コマ以下に記された「推薦書本文の概要」の 1~6章に対応しています。

この推薦書解説資料の中で、特に5コマに示された図と、その下に記された歴史的背景の記述により、今回の世界遺産登録対象が 単に日本最初の器械製糸工場であるというだけでなく、養蚕業と製糸業とが一体になった遺産群であり、それは技術移転や貿易と結びついて 世界的な影響を及ぼしたものであることが理解できます。

明治初期にフランスから富岡製糸場に導入された器械製糸技術により突破口が開かれた日本のシルク産業。
これは、先人たちの努力の成果と共に 時の運にも恵まれて、外貨の稼ぎ頭になりました。
大国ロシアを相手とした戦争を遂行することができたのも、生糸の代金でイギリスから買った軍艦があったからです。

シルク産業は、日本国内で養蚕と製糸の両方で技術革新を引き起こし、高品質の生糸を大量生産することに成功しました。
日本は、生糸だけでなく 養蚕技術や製糸技術も輸出するようになったのです。
そして、これにより、一部特権階級の贅沢品だったシルク製品は、広く世界の人々の手に行き渡るようになったのです。

良質な日本の生糸は、ロンドンやリヨンで「Mybash」「Maibashi」などの名で知れ渡り 取引されたそうです(参考)。
日本ブランドの工業製品は、現在では電気製品や自動車により世界の人々に愛用されていますが、そのルーツが 富岡で製糸されたシルクから始まったのでした。

このように考えると、今回の世界遺産登録は 極めて意義深いものであると感じられます。
[85516] 2014年 4月 29日(火)22:26:09【1】hmt さん
絹の話(2)製糸と紡績
6月に世界文化遺産に登録されることが確実視されるに至った 富岡製糸場と絹産業遺産群[85486]
これに始まる「絹の話」の第2回は、「製糸」をキーワードにします。

「製糸」を文字通り解釈すれば「糸をつくること」なのですが、「繭から生糸をとること」に限定された用法が普通です。
では、それ以外の 糸つくり工程 は何と呼ばれているのか? 
最も普通の言葉は「紡績」です。木綿や羊毛などの短繊維を撚りながら紡ぐことによりつなぎ合わせ、望みの太さを持つ長い糸(紡績糸・スパンヤーン)にします。「つむぎ・つなぐ」という意味でしょう。

蚕の繭から得られる糸は、天然では唯一 約1000mもの長さをもつ 長繊維(フィラメントヤーン)です。
従って、糸つくりの工程も短繊維の紡績とは大いに異なり 別の言葉によって区別されているのだと思います。
しかし、絹だけを指して「製糸」という言葉が使われることは、弥生時代以来の歴史をもつ 絹の先駆者的な地位を示しているようです。

明治5年の富岡もよりずっと後ですが、明治29年(1896)創業の郡是製絲[84107]も、富岡を引き継いだ片倉工業と共に 代表的な製糸会社でした。戦後にメリヤス肌着やナイロン靴下の会社になり、社名から「製絲」が消えたのは 1967年でした。
参考までに、大阪紡績の創業は明治15年(1882)で、1914年に東洋紡績となり、2012年に東洋紡に変更するまでの 130年間「紡績」の社名が継続しました。

言葉としての製糸と紡績との対比はこのくらいにして、製糸工程に入ります。
群馬県による現代の絹産業のページ には、繭から生糸ができるまでのプロセスとして6工程が記されています。
1 乾繭 繭の音読みは「ケン」で、カンケンと読みます
2 選繭 
3 煮繭 95~100℃の蒸気または熱湯により セリシンで膠着している繭糸をほぐれやすくします 
4 繰糸 30~50℃の湯の中で数個の繭からほぐれた繭糸をよりあわし1本の生糸にして小枠に巻き取ります
5 揚返し 小枠から大枠へ
6 束装 大枠から外した生糸の束「綛(かせ)」約24本を束ねて包装し出荷する

このようにして得られた生糸は、蚕が作ったフィブロインというタンパク質でできた長繊維数本が撚り合わされた糸の表面に セリシンという膠質成分が付いたままの状態で、ゴワゴワしています(参考)。光沢があり肌さわりの柔らかな絹織物を作るためには、セリシンの大部分をを取り除く「精錬」工程が必要です。

セリシンはセリンを多く含む水溶性のタンパク質です。練糸に保湿性のあるセリシンを適度に残した方が 光沢や肌ざわりに優れた結果をもたらすようです。

紬糸(つむぎいと)も絹糸の一種ですが、こちらは天然の長繊維から製糸で作られる生糸(きいと)と違い、紡績により作られた スパンシルク です。原料は繰糸に適さない繭から作られた繊維塊(真綿)や、製糸工程から副生する くず糸 です。
紬糸からつくられた紬織物は、江戸時代に奢侈禁止令が出された折にも庶民の着用が許され、やがては粋な江戸文化になりました。

上記ページ の「織物」の部分には、精錬・染色してから織り上げる先練(染)織物の工程と、先に織り上げてから精錬する後練(染)織物の工程とが示されています。
先染め織物(練り織物)の例:帯地、お召し、紬など。シャリ感があります。柄は織柄。
後染め織物(生織物)の例:ちりめん、羽二重など。柔軟性に富んでいます。柄は捺染柄。
[85527] 2014年 5月 2日(金)19:17:20【1】hmt さん
絹の話(3)19世紀までのシルク産業
富岡製糸場の世界遺産登録見込み[85463]から始めた絹の話。製糸工程[85516]に続く第3回は、枠を広げて衣服から始めます。

哺乳類は「けもの」というように保温性のある長い体毛を持つのが一般です。しかし、アフリカに住んでいたサルの仲間で、長い体毛の大部分をなくした種があります。言うまでもなく我々人類ですが、なぜ“裸のサル”になったのか?
人類が森から出て、サバンナで二足歩行を始めると、食物を得るために長距離を歩いたり走ったりする必要が出てきた。すると、今度は放熱不足で体温が上がりすぎる。そこで、毛が薄く汗が出るように進化し、効率的な水冷式ラジエーターとして作用する皮膚になった。こんな説 を聞いたことがあります。

確かに、これで運動に伴う放熱対策には有利になったものの、寒さや外傷の危険は増大しました。
それを克服し、氷河時代のアジアや欧州への進出を可能にしたのが、体を保護する衣服です。
衣服の材料は、狩猟により得られる獣の皮と思われますが、それと共に 毛皮を裁断し 縫製する「裁縫」技術が必要でした。
現生人類は、裁断のための石刃だけでなく、4万年前に精巧な「縫い針」を発明することで 衣服作りでも技術的な優位を得て、最終氷期を生き抜いたものと思われています。参考

氷河時代(更新世)に、縫い糸として最初に使われた糸は、狩猟で得られる動物の腱であったかもしれません。
しかし、温暖な後氷期(完新世)になると、もっと得やすい植物から得られる比較的長い靭皮繊維(麻)の糸が普及しました。最初はロープなどの利用であったかもしれませんが、そのうちに麻糸を縦横に組み合わせた「織物」が出現したと思われます。
古代エジプトでは紀元前1万年ごろ、既にリネン(亜麻)が栽培され、BC5千年には衣料に用いられてました。資料
別の資料 には、世界文明の発祥の地メソポタミア・エジプトの他に、先史時代のスイス湖上生活民族における麻の利用も記されています。

絹糸の利用は、おそらく麻に次ぐ古いものでしょう。
司馬遷の『史記』には「黄帝妃養蚕を愛す」という記載があり、紀元前2460年頃 落した繭を湯の中から拾い上げようとした時、糸が箸に巻きついたことから 製糸法が発見されたとか。参考
群馬県の 絹・生糸・製糸の起源 にも紀元前第3ミレニアムの遺物が記されています。
イタリアの会社のページ にも、約 4500年前頃の中国において養蚕や製糸が始まったことは間違いないと記されていました。

そのイタリアは、シルク産業と深いかかわりを持つ国です。古くはローマ帝国。1世紀の頃、中国から「シルクロード」を通ってはるばるとヨーロッパに伝えられた絹は、当然のことながら極めて高価。その贅沢品である絹を買える財力を持った国が、その頃から全盛時代を迎えたローマ帝国だったわけです。
絹の製法は門外不出とされていました。西ローマ帝国滅亡後の6世紀、ビザンチン皇帝のユスティニアニスが東方に派遣した僧侶が杖の中に蚕の繭を隠してコスタンチノープルに持ち帰り、地中海地域に養蚕が始まったとか。蚕種伝播経路と年代

イタリアに続いてフランスにも絹産業が起りました。リヨンの発展の歴史。18世紀末のフランス革命期には停滞がありましたが、19世紀になるとジャカールによりパンチカードを用いたプログラム式織機の発明などもあり、産業革命による機械工業時代を謳歌しました。
これにより、ヨーロッパは 原産地の中国をしのぐシルク産業の中心地になったわけです。

しかし、1855年に蚕の微粒子病が流行。これにより ヨーロッパの蚕飼育は打撃を受け、シルク産業は衰退しました。
1855年というと日本では安政2年ですから、まさに日本が開国する直前です。

ここで、「絹の話」を日本に移します。
3世紀の『魏志倭人伝』には絹織物を貢いでいたことが記載され、日本には 早くも弥生時代に蚕がもたらされたことがわかります。稲作と同じ頃に大陸からの移住者がもたらしたのかもしれません。先に紹介した蚕種伝播図にも1世紀に楽浪郡から伝来と記載されており、以後も百済や秦氏などによる古代の技術移転記錄があります。
古代国家の税制として租庸調が整えられる前から、女子の手になる絹布は「手末調」[83676]として位置付けられており、「調布」という地名が それを現在に伝えています。

このように日本の絹産業の歴史は長く、絹織物については撚糸技術の導入(明から)により、西陣織など高級品の生産も行なわれるようになりました。しかし、生糸の生産技術は進歩せず、高級絹織物の原料は中国からの輸入生糸で賄われたようです。
その輸入代金に支払われたのが、当時の日本で産出量の多かった銅なのですが、江戸時代には 大幅な貿易不均衡 に陥りました。
かくして、江戸幕府は生糸輸入を減らすために養蚕を奨励。諸藩も技術改良により独自の織物を生み出しました。大日本蚕糸会

このように、江戸時代後期は 日本の養蚕技術が長い停滞から脱却し、向上してきた時代でした。
そして、ペリー来航2年後の 1855年。ヨーロッパでは蚕の微粒子病が大流行し、隆盛を誇っていたシルク産業に大打撃。
微粒子病というのは、ノゼマという原生動物が蚕に寄生することによる病気だったのですが、当時はその原因がわからず、対策なし。養蚕が盛んだった南フランスの農家を救うために研究を開始したのがルイ・パスツールで、経卵感染で伝播することを明らかにして、この病気の防除に成功したのが 1870年でした。

日本と欧米諸国との貿易が始まった安政6年(1859)は、まさにこの時期。当時の日本が輸出できる代表品目と言えば、生糸と蚕種と茶くらいのもので、1865年の輸出額では生糸がが 80%近かったとか。
蚕種とは蚕の卵のことで、日本の蚕種は微粒子病に強い品種だったようです。

[85486] hmt
これは、先人たちの努力の成果と共に 時の運にも恵まれて、外貨の稼ぎ頭になりました。
という結果は、江戸時代の貿易不均衡対策から始まった養蚕技術改革、ヨーロッパの微粒子病流行、ペリー来航に始まる日本開国への動き などが重なることにより 実現したものだったのでした。
[87237] 2015年 1月 31日(土)12:26:17hmt さん
絹の話(4)養蚕技術関係の3資産
2014年春に 富岡製糸場の世界文化遺産登録を記念して、絹の話 を書き始めました。
これは、日本が近代化する過程で大きな役割を果たした絹関連産業を見据えたシリーズですが、産業構造が一変した現代の落書き帳読者に対する解説的な意味合いもあります。

…と、先輩ぶった書き方をしたのは、私が過ごした少年時代の環境には、大部分の皆さんの周囲よりも、桑の木がたくさん生えていたからです。とはいうもの、私自身も養蚕業に触れた経験はなく、受け売りの知識にすぎません。ごめんなさい。

構想だけは大きなシリーズ。3回で中断していましたが、少し書き続けます。

前回までの記事は 世界文化遺産登録が確実視される状況になった 2014年4月の ICOMOS勧告時点での紹介でした。
その後2014/6/21に Doha,Qatarで開かれた委員会において Tomioka Silk Mill and Related Sites の名で 世界文化遺産リストへの記載が正式に決まりました。

この文化遺産を構成する資産は、富岡製糸場に加えて養蚕技術関係の3資産があり、合計4資産です。

富岡製糸場【富岡市】 フランスの技術を導入した明治5年設立の官営器械製糸場。木骨煉瓦造の繰糸場や繭倉庫など。
田島弥平旧宅【伊勢崎市】 近代養蚕農家の原型になった文久3年(1863)の建物。通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」。
高山社跡【藤岡市】 通風と温度管理を調和させた「清温育」は、日本の標準的な養蚕技術として全国及び海外に普及。
荒船風穴【下仁田町】 天然の冷風を利用した蚕の卵の低温貯蔵施設。これにより1年間に何回もの養蚕が可能になった。

日本の養蚕は 古い歴史があったものの、その技術は長い間停滞していました。
江戸時代後期になると、中国からの輸入生糸による貿易不均衡を是正する必要から、ようやく技術改良が進み始めました[85527]。その成果を示す資産が「清涼育」の蚕室を具えた田島弥平旧宅でした。

幕末の黒船来航を契機とする開国で外国貿易が開始された頃、ヨーロッパにおける絹の主産地であったフランスやイタリアでは蚕の微粒子病が蔓延しました。そして清王朝下の中国も太平天国の乱などで混乱状態に陥り、蚕種や生糸は世界的な不足状態になりました。これが日本の輸出品の花形として生糸を登場させる背景になりました。

一方で日本の養蚕技術は、「清涼育」と東北地方の「温暖育」とを調和させた「清温育」により確実な繭生産が可能になりました。この技術を全国に普及させた教育機関が 高山社 でした。
高山は旧村名です。都道府県市区町村変遷情報を見ると、1889年の町村制で 緑野郡高山村等9村が 美九里村合併数地名コレクション収録済み】となり、1896年の郡統合による多野郡を経て 昭和合併時代の1954年に藤岡市になったことがわかります。

そして、荒船風穴による蚕種の冷蔵により年1回だけだった養蚕が複数回実施可能になり、増産を実現。
一代雑種(F1)の利用も 1914年に実用化しました。

このようにして、明治から大正にかけて日本の養蚕業が大発展した背景を探ると、そこに先人たちの努力があったことは勿論なのですが、時の運に恵まれたことも否定できません。
[87238] 2015年 1月 31日(土)12:42:10hmt さん
絹の話(5)官営富岡製糸場
4つの資産の中心的な存在である富岡製糸場に移ります。明治5年(1872)開場の少し前の状況から始めます。
工場の名前は 官営時代から「富岡製糸所」と呼ばれた時期が多く、民営化後もいろいろ変化しています。
この記事では、便宜上 最初の名でもあり、世界遺産でも使われている「富岡製糸場」に統一しておきます。

シルク産業は、養蚕つまり繭の生産で完結するわけではありません。農産物である繭から生糸にする製糸工程、その絹糸を更に加工する織布・染色などの工程、更には裁縫等を経て私達が日常接する製品が完成します。
幕末に輸出が急増した日本の生糸ですが、粗製濫造の結果はたちまち評価の下落になりました。
それだけでなく、旧来の座繰りによる生糸は太さが揃いにくいという本質的な欠点がありました。
生糸の付加価値を高めるためには、器械製糸への転換が必要です。

小規模ながら日本最初の器械製糸所は、前橋藩の速水堅曹により明治3年(1870)に作られました。イタリア技術の導入です。
前橋藩については、転勤大名・松平大和守をテーマにした記事で触れたことがあります[72830]
1749年に姫路から前橋に移されたものの、利根川の侵食で前橋城は崩壊の危機。幕府に頼み込んで空き城の川越に緊急避難。川越で約100年を経過して幕末・松平直克の時代になりました。

松平直克が親藩【越前分家】の藩主でありながら 政事総裁という幕府要職に就任したのは 幕末の非常体制を示しています。
その一方で、宿願の前橋城再建により、100年ぶりの前橋復帰をも果しました。前橋復帰を実現できた背景には 利根川河川改修があったのは勿論ですが、資金的裏付けとしては横浜開港後の生糸の輸出により得られた前橋商人の財力がありました。
日本初の前橋器械製糸場の開設は、このような背景から実現したものであり、前橋城再建には直克側近の速水も関わったことと思います。

前橋藩に製糸場ができた頃、明治政府も外国資本でなく、官営の模範工場を建設する方針を決めました。
そこで御雇外国人として選ばれたのが、フランス人のポール・ブリューナでした。
彼が日本側の所長・尾高惇忠と共に選んだ立地は、前橋にも近い 上野国富岡 で、ここに外国でも例を見ない、繰糸器300釜という大規模な器械製糸所が作られることになりました。

器械はもちろんフランスから輸入しますが、それを設置する建物が必要です。倉庫その他の付属建物も必要です。
短期間に主要な建物を完成させるのに役立ったのが、横須賀製鉄所[77630]の建築を担当したバスチャンの経験でした。

2014/12/10の官報で 旧富岡製糸場の建物3棟が 国宝建造物に指定されました。文化庁報道発表
群馬県は 県内初の国宝誕生 と報じています。
参考までに、近代建築で国宝になったのは 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)に次いで 全国で2件目です。

国宝になった繰糸所は 桁行 140mと 長大な木骨煉瓦造で 高い天井とガラス窓で 明るい大空間を実現しています。
東置繭所・西置繭所は繰糸所と直交する配置で、桁行104mの2階建。明治五年と記された東置繭所の要石。

建物や繰糸器械のように有形の遺産として残されてはいませんが、工場建設に何よりも重要だったのは 従業員の確保です。
その女子作業員が「工女」ですが、前例のない西洋式の大工場で働く数百人の工女を確保するのは大仕事でした。

所長の尾高惇忠の娘を始めとして、旧士族階級出身の工女が多かったようですが、その労働環境は 1日8時間の週休制。
年末年始や盆休み。福利厚生など当時としては優れたものでした。
それでも騒音など作業環境問題もあって中途退職する工女も多く、熟練工を育てられないことによる非効率は経営上の問題点になっていたようです。

経営上の問題点と言えば、御雇外国人に支払う高給も赤字の原因で、日本人だけになった明治9年度に初黒字が出ました。
[87239] 2015年 1月 31日(土)12:59:31hmt さん
絹の話(6)楫取素彦と速水堅曹
NHKテレビの連続ドラマ『花燃ゆ』に、準主役として小田村伊之助という人物が登場しています。
主役の女性とこの人との関係はドラマに任せるとして、最初に「都道府県市区町村」との関係を説明しておくと、明治9年に群馬県の初代県令になった 楫取素彦(かとり・もとひこ)の若い頃の名が小田村伊之助でした。

名前が幕末に使われた通称の「伊之助」から変っているのはともかく、姓も小田村から楫取へと変化しています。
生家は松島家であり、養子に入った時に小田村に改姓。これは養子制度が多用された昔なら 珍しいことではありません。
楫取素彦への変更は、慶応3年(1867)に藩主の側近に取り立てられた時に、毛利敬親の命によるものだそうです。
楫取は「舵取り」の意味で、小田村家の先祖の仕事。山口藩の舵取りへの期待が込められている苗字のようです。

桂小五郎→木戸孝允、村田蔵六→大村益次郎などの例もあり、長州ではよく行なわれたことなのでしょうか?

富岡製糸場は明治5年(1872)操業開始ですが、明治政府の官僚になっていた楫取素彦が 足柄県参事から上野国に転勤してきた時期は 明治7年のようです。当時の役職は熊谷県権令、つまり副知事でしょうか。
熊谷県は明治4年に設置された第一次群馬県[54888]と入間県[36047]とを明治6年に統合したものです[36081]
熊谷県は富岡製糸場に代表される絹だけでなく、狭山茶の産地でもあり、当時の代表的な輸出産業を支える県でした。

明治9年(1876)、熊谷県の北半分【第一次群馬県域】は 明治4年から栃木県に属していた3郡【山田・新田・邑楽】を統合して 現在と同様に上野国一円を管轄する【第二次】群馬県になりました。

楫取素彦は、初代の県令(知事)になり、引き続き上野国の地方行政の責任者を務めることになりました。
県庁は最初は高崎でしたが、楫取の在任中に前橋に移りました。産業振興にも尽力した彼を讃えて、「県都前橋の父」という碑 が建てられているそうです。
なお、この時に熊谷県の南半分【旧入間県域】を編入した埼玉県は、ほぼ現在に近い県域になっています。

2012年の上毛新聞ニュース に、富岡製糸場が閉場の危機に陥った明治14年(1881)に、県令の楫取素彦が 官営存続を国に強く訴えたという資料が紹介されていました。

明治初期に全国で展開した官営の模範工場。西南戦争による財政危機に見舞われた政府は、財政的負担の軽減の見地から、官営事業払下げの方針に転換しました。藤田伝三郎が小坂鉱山を手に入れたのは、少し後の明治17年でした[67425]
しかし、大規模な富岡製糸場は買い手がつかず、請願人がなければ閉場との方針も出されました。
これに反対して 楫取素彦県令が農商務省と掛け合い、官営存続となったとのことです。

振り返ってみれば、富岡に製糸技術を輸出したのは、普仏戦争の敗戦により第二帝政【ナポレオン3世 在位1852-1870】から第3共和制に移った頃のフランスでした。

時は移り 復興したフランスは、1878年にパリ万国博覧会を開きました。
日本では明治11年ですが、この時に勧農局長だった 松方正義は 富岡の生糸の品質低下をフランスから指摘されました。
そして、松方が富岡製糸場の改革を任せるべく、第3代所長に任命したのが 前橋藩士時代の 1870年に 小規模ながら 日本初の器械製糸所を立ち上げた速水堅曹でした。
かねがね速水が唱えていた民営化を含む抜本的改革に松方が賛同したわけです。

速水は、明治13年 官営工場払下概則 制定の頃に 富岡製糸場の所長を辞任して民間人となり、その立場で富岡製糸場を借り受け経営するプランを立てていたようです。
しかし、前記のように楫取素彦群馬県令の反対で実現せず、官営事業継続となりました。
日本の産業資本が未成熟の時代には、やはり民間の手に余る大規模工場だった…ということなのでしょうか。

一度は富岡を離れていた速水も明治18年(1885)には所長に復帰しました。
速水は、明治26年の民営化実現で退任した後までも、技術スペシャリストとして全国に製糸技術を指導したとのことです。


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