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落書き帳

荏原郡

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[35654]2004年12月10日
hmt
[35664]2004年12月10日
EMM
[35668]2004年12月11日
KMKZ
[35725]2004年12月13日
hmt
[82041]2012年11月2日
hmt
[83708]2013年7月21日
hmt
[83714]2013年7月23日
伊豆之国
[85278]2014年4月16日
hmt

[35654] 2004年 12月 10日(金)20:07:14hmt さん
昔は広かった「荏原」
[35649]じゃごたろ さん
羽田空港に向かう際に、モノレールの中からふと外を見ると、荏原製作所の大きな工場
かつて東京には「荏原郡」があった

荏原製作所といえば渦巻ポンプ。井口博士の発明品を製造した「ゐのくち式機械事務所」を1920年に承継して、東京府荏原郡品川町に設立された会社です。1938年に現在の羽田に移転した時には、東京市蒲田区になっていましたが、ここも元は荏原郡羽田町。(この部分[35650]と一部重複)

「荏原」の地名は、現在では品川区の中原街道沿いの町名として残るだけですが、35区時代には「荏原区」がありました。品川区と合併した際に、当用漢字でなかったことが災いして採用されなかったのでしょうが、「荏原郡」は、現在の東京南部に広がる伝統ある地名でした。

旧品川区の品川町・大崎町・大井町、旧荏原区の荏原町、目黒区の目黒町・碑衾町、旧大森区の馬込町・東調布町・池上町・入新井町・大森町、旧蒲田区の矢口町・蒲田町・六郷町・羽田町、世田谷区の世田ヶ谷町・松沢村・玉川村・駒沢町という「荏原郡」の領域を振り返ると、縮小してしまった「荏原」に同情します。
芝区(→港区)になる前の白金村も荏原郡だし、歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だったのでしょう。

「荏原」の由来と考えられるのは荏胡麻(えごま)。
胡麻とは違うシソ科の植物ですが、古来から油料作物として広く栽培されていました。
斎藤道三が油商人から身を起こして美濃一国の国主になったことは「国盗り物語」で有名ですが、彼が売り歩いた油は荏胡麻の油です。

江戸時代になってから、新たな油料作物の「あぶらな」が普及し、菜種油が荏の油に代って使われるようになりました。
風景としての「荏原」の消滅は、地名の縮小よりも前に進行したわけです。

田園都市線の「江田駅」(横浜市青葉区荏田町)に至っては、字まで変えられてしまいました。
[35664] 2004年 12月 10日(金)23:42:06EMM さん
荏原いろいろ
ああっ!晩飯喰ってる間に話が進んでるっ!

[35649] じゃごたろさん
[35650] N-Hさん
[35654] hmtさん
[35656] まがみさん

じゃごたろさんの記事を見て、私もすぐにエバラ食品のHPを見に行ったのですが、会社案内を開いたら沿革が書いてないためすぐに諦めていました。
まさかそんなところに由来が書いてあろうとは。

話が変わりますが、荏原製作所の社名は「株式会社荏原製作所」で、通称が「荏原(EBARA)」となっています。
ところが紛らわしいことに、「株式会社荏原」という会社もあったりします。
荏原製作所とは直接関係ないようです。
(書いてても紛らわしいのでこれ以降は(株)荏原のほうは商標のEBACで示します。)
EBACは所在地が目黒区なんですが、沿革を見ると途中で所在地が移転しています。
移転前の所在地は書いてないですが、設立当初の社名が「荏原設備」ですので、地名から来てそうな感じがします。
でも現在位置からは地名の荏原と結びつかないような気がしていたのですが、hmtさんの記事に書かれたエリアを見ると問題は無いような。

参考までに、荏原製作所はポンプ屋さんですが、EBACは冷凍機屋さん。
この会社の存在を知ったのは、現在いる部署で超低温のフリーザーを買うことになり、取り扱っている会社を調べていたら行き当たりました。
見つけてしばらくは荏原製作所と勘違いしており、全然関係ない別の会社だと気づいたのは半日後でした。
[35668] 2004年 12月 11日(土)05:10:24【1】KMKZ さん
荏原町の町民、平塚村の村民
[35649] じゃごたろ さん
かつて東京には「荏原郡」があった

関東大震災の前年の1922(大正11)年生まれで品川区出身の母、子供の頃の住所は荏原郡荏原町だったと良く話していました。通っていた小学校は平塚小学校だったそうなのですが、この小学校の現住所が品川区荏原ですね。

IssieさんのHPで荏原町の変遷を調べると、
1889(明治12).5.1合併で荏原郡平塚村成立
1927(昭和2).4.1町制施行で平塚町に
1927(昭和2).7.1平塚町を荏原町に町名変更
1932(昭和7).10.1東京市に編入され荏原区に
1947(昭和22).3.15旧品川区と合併し新品川区に

[27871]白桃 さんによれば平塚村は「1925年(第2回国勢調査)で72,256人を記録した、国勢調査の時点で最多人口の村で恐らく過去で日本一人口の多かった村」なのだそうですね。
また[25193]TN さんによれば荏原町の1930年(第3回国勢調査)の人口は132,108人で過去で日本一人口の多かった町らしいですね。
人口が多かったので平塚村の村域=荏原町の町域がそのまま区になって荏原区になったわけですね。

母は1922年生まれなので日本一人口の多かった村の村民であり、日本一人口の多かった町の町民だったのかな。

# 荏原町の変遷中、旧品川区と合併した年が間違っていたので修正
[35725] 2004年 12月 13日(月)15:40:56hmt さん
もっと昔はもっと広かった「荏原」
[35654] hmt
歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だった

かまくら道探索というページに、中世の江戸湊周辺、後の千代田城付近のことを記したエッセイがあり、荏原郡に関係した記載があったので、それを引用しながら補足します。

律令制度の時代には、この海岸線に沿って旧官道(古東海道)が通っていた。街道を見下ろす場所に関所があり、高台には荏原郡を管轄する郡衙があった。そこから武蔵国府に連絡する国府路も通じていた。

ここにあった漁村・芝崎村の鎮守が神田明神で、ここに首を埋められた平将門が祭神になった。神社が湯島台に移された後も度重なる変事が起き、その祟りを恐れて武家屋敷地となっていた元の場所、当地に奉るようになった。――という趣旨のことも書かれています。

これは、大手町1丁目にある平将門首塚のことと理解されますが、この地に首塚を祀ったのはどの時代でしょうか。
“武家屋敷地となっていた”とあるように、江戸切絵図では酒井雅楽頭上屋敷の真中、明治の地図では大蔵省で、いずれも首塚らしい気配はありません。余談ですが、電車唱歌[33135]の【2】番で歌われた“大手町には内務省”は、この大蔵省の南隣にありました。
関東大震災後に、大蔵省を建て替えようとしたら大蔵大臣?を始めとして関係者に変事があったということが伝えられていますから、おそらくこの時に祀られたのでしょう。

鎌倉期には、平川が豊島郡と荏原郡の郡境であった

「かまくら道」は「ときわばし」[33433]から西へ進み、平将門首塚の前を通り、平川沿いに現在の内堀通りを竹橋へ。そこから国立近代美術館・国立公文書館の前を北桔橋(きたはねばし)門へと登る紀伊国坂付近が太田道灌の城の正面だったらしく、ここから西に通じる国府路(こうじ→麹町)、西北の清戸道・川越道、北に向かう岩槻道と主要道が整備されたことが図示されています。

このように、現在の皇居の大部分は、中世には荏原郡だったように思われますが、検地によって土地制度が変った近世には、豊島郡の領域とされることになったようです。

この “皇居は荏原郡か豊島郡か” という問題は、約2年前に八幡和郎さんが提起されたことがあります。Issieさんとの問答は、既に元の掲示板では消えてしまっているのですが、八幡和郎がニュースを解説の中に転載されていました。ご参考まで。
[82041] 2012年 11月 2日(金)20:27:34hmt さん
東京市15区を包囲した5郡
[82040] 白桃さん
New Taipei Cityのことを聞いて、これと対比したくなったのが、80年前、つまり 1932年の編入 より前に 「東京市15区を包囲」 していた5郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)です。

1930年国勢調査データを使うと、5郡の人口は合計 2,899,926人で、東京市の人口 2,070,913人の1.4倍ありました。
これが 1920年国勢調査のデータでは、1,177,429 / 2,173,201 = 0.54倍と、東京市の人口にはとても及ばなかったのです。
なお、5郡と東京市15区との面積比は、469.614km2 / 81.235km2 = 5.78倍でした。

この 10年間に何があったのか、ご存知ですね。そうです、1923年の関東大震災。
[46290]
今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です。
これにより東京市 15区の人口はやや減少し、それを取り囲む郡部の人口は2~3倍に急増しました。

これが東京市 15区を 35区へと大拡張させた主な原因になりました。
面積拡張については[78504]で記していましたが、人口データに触れていなかったので、今回補足します。

白桃マガジンの特集タイトル 日はまた昇ってほしい に合せて、東京市と5郡との合計人口を確認してみました。
震災前 1920年の 3,350,630人から、震災後1930年の人口は 4,970,839人と、1.48倍になっています。

1920年から1930年への10年間には、全国の人口も 55,963,053人から 64,450,005人へと1.15倍になっています。
このことを考慮しても、大震災後の東京の復興ぶりを窺うことができます。

東京以上の被害を受けた横浜市の人口も、1920年の 502,413人から 1930年には 620306人と 1.23倍になりました。
[83708] 2013年 7月 21日(日)18:16:47【1】hmt さん
東京府荏原郡平塚村
[83699] 白桃 さん
1925年【国勢調査の「村」人口】1位 平塚村(東京) 72,256人
○平塚村→平塚町→荏原町→東京市→品川区
その荏原町も、前回の平塚村と並んで歴代国勢調査を通じてのトップ[83695] に輝き 二冠達成。
1930年【国勢調査の「町」人口】1位 荏原 132,108人

1930年人口13万人の「町」・荏原町の記事は[37411][37397]にもありました。1925年平塚村についても [27871]で言及されていました。

1889年の町村制で誕生した平塚村が「史上最大の人口」を持つ村であったとなると、気になるのが、ランキング入り前の人口です。同じ地域のまま名称が変った東京市荏原区と併せて戦前20年間の人口を列挙してみました。
1920年 東京府荏原郡平塚村  8,522人
1925年 東京府荏原郡平塚村 72,256人 
1930年 東京府荏原郡荏原町 132,108人 面積 1,753,895坪[8132]
1935年 東京府東京市荏原区 161,863人 面積 5.80km2[74308]
1940年 東京府東京市荏原区 188,100人

1920年からの人口増。これは、当時の東京市近郊5郡の町村にある程度共通するものでしたが、中でも5年間に 8.5倍近い値を記録した平塚村は、特に急激なものでした。[35704] BEAN さん
この時期は、どのような時代であったのか?

市制町村制制定当時と比べ、日本の産業構造は大きく変化していました。
ところが、その変化に伴う都市化の進行に見合った行政区域の修正は、ともすれば遅れ勝ちです。
それでも 大阪市では 1925年に区域の大拡張が行なわれ、伏見市など隣接部を編入した京都市(1931)、省令指定都市になる前を含めた名古屋・横浜・神戸の3市も隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
大都市の市域拡張が最も遅れていたのは、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入しただけの東京市でした。

そこに起きたのが、1923年9月1日の関東大震災です。住まいを失った東京市民が、郊外に求めた住居。
その有力な選択肢として、大地震の半年前に開業したばかりの目黒蒲田電鉄沿線があったと思います。
目蒲線は 平塚村の北西境界近くを通り、府立第八中学校(現小山台高校)の近くに 武蔵小山駅が開設されていました。この駅から南東に行くと中原街道との交差点「平塚橋」に至ります。

1930年の東京日日新聞附録復興完成記念 東京市街地図 の 南西端近くを拡大してみると、現在の地図との対応関係がよくわかります。武蔵小山駅・平塚橋間の小山本道にも、五反田から来る中原街道にも、建設中の新道(破線)が並んでいます。

「平塚橋」交差点の南側に町役場が記され、荏原警察、荏原電話局[55694]や郵便局も含めて、この付近が 平塚町>荏原町 の中心地であったことを示しています。同潤会住宅【表参道ヒルズで言及[67594]】の文字も見えます。

この地図には、震災後に開通した 池上電気鉄道の延長部分と 目黒蒲田電鉄大井町線も姿を見せており、この町が、目黒だけでなく 五反田・大井町・蒲田など各方向に電車が通じる 便利な町になったことを示しています。

現在はすべて東急の路線ですが、目蒲線の「小山」に加えて、池上線の戸越銀座・荏原中延、大井町線の荏原町・中延・戸越公園【蛇窪から改称[77004]】・下神明【戸越から改称】と、たくさんの新旧町名・大字名が 駅名に使われています。
「旗の台」は源頼信旗揚げの地ですが、大字中延にあった字旗ヶ岡に由来します。さすがに「平塚駅」はないようです。

戸越銀座と言えば、全国各地にある 「○○銀座」 の元祖とも言える存在です。Wikipediaによると、関東大震災後に銀座の瓦礫を運び、低地を埋め立てたことからの命名とか。311の瓦礫処理からも、何か新しいものが生まれることを期待したいです。

震災による旧市街の消失による東京市民の移動は、時宜を得た電車開通に恵まれた荏原町をして「史上最大の人口を持つ町」たらしめました。それが 独立した都市圏を持つ町 ではなく、東京都市圏の一部にすぎないことは、言うまでもないのですが。

現実に都市化したが 財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。これを救済するための東京市域拡張計画。三部経済制度廃止と組み合わせることにより、旧市域住民の負担増につながるという反対論を抑え、1932年10月1日に ようやく 隣接5郡の一括編入 が実現したことは [74867]に記しました。

荏原郡荏原町は単独で「荏原区」になりました。瀧野川区も北豊島郡瀧野川町から単独で区になった仲間ですが、さすがに この2区は 新設20区の中で面積最小の仲間です[8132]
足立区は南足立郡10町村まるまる、板橋区も9町村です。新設20区の中で面積格差は 15倍以上に及んでいたのでした。

平塚村>平塚町>荏原町>荏原区の範囲をはみ出しますが「荏原」についての 記事集

「荏原」という地名は、菜種油が普及する前の油料作物 エゴマ(荏胡麻)由来でしょう。
武蔵国には都筑郡荏田村(現・横浜市)という地名もありました。田園都市線の駅名は「江田」になっています。
[83714] 2013年 7月 23日(火)21:28:06伊豆之国 さん
Re:東京府荏原郡平塚村
[83708] hmt さん
平塚村→平塚町→荏原町→東京市→品川区
本日、その「東京府荏原郡平塚村」…品川区平塚界隈へ社用で行ってきました。
この「平塚村」の変遷に関して、「朝日新聞社会部編「東京地名考」上巻(昭和61年)」(→[76006])に関連記事が載っていましたので引用させていただきます。

明治22年の町村合併で戸越、中延、小山、上・下蛇窪([77004],[77015] hmt さん)の5ヶ村が平塚村となり、昭和元年<注:下記参照>に平塚町に昇格した。しかし郵便物を初め神奈川県の平塚町(平塚市)との混同がひどく、昭和2年には荏原町と改称。この荏原町がそのまま荏原区となったのだ。戦後の22年、荏原・品川区が合併して現在の品川区となる。ややこしいが、これで荏原の地名は消えたわけではなく、昭和16年に中延・戸越・小山各町の一部で荏原という町名ができていた。この荏原を主体に地域を再編成したのが、現在の荏原の街である
注:町制施行日は西暦1926年4月1日なので改元前であり、正しくは大正15年

荏原郡平塚町が町制施行からわずか1年3ヶ月で郡名を名乗る「荏原町」に改称した(改称期日は昭和2年7月1日)理由は、やはり上記引用記事の通り「神奈川県(中郡)平塚町(市制施行は昭和7年)との混乱防止」と見てよいのでしょうか。
目蒲線の「小山」に加えて、池上線の戸越銀座・荏原中延、大井町線の荏原町・中延・戸越公園【蛇窪から改称[77004]】・下神明【戸越から改称】と、たくさんの新旧町名・大字名が 駅名に使われています。
「旗の台」は源頼信旗揚げの地ですが、大字中延にあった字旗ヶ岡に由来します。さすがに「平塚駅」はないようです
この地域の東急線内の駅には、いずれも近県にある同字異音の駅と区別するために旧国名を冠した「武蔵小山」(目蒲線→目黒線、大正13年に「小山」から改称)、「武蔵新田」(目蒲線→多摩川線、同年に「新田」から改称)があるので、たとえば平塚村の中心に近い現在の「戸越銀座」駅については、「武蔵平塚」といった駅名は使えたのでしょうが、池上電鉄による駅の開業(昭和2年8月)に際し、所在地近くの地名「戸越」が既に前月に別会社の目黒蒲田電鉄により開業した大井町線の駅名に使われていたこともあり、急遽、各地の「○○銀座」の先駆けとなった「戸越銀座」を採用したのでしょうか。なお、「戸越」の駅名は、大井町線の「戸越」駅が昭和11年の元日に現在の「下神明」に改称された後、32年余りの時を経て、昭和43年11月に都営浅草線の西馬込への延長に伴って場所を変えて復活しています。
[85278] 2014年 4月 16日(水)19:52:05hmt さん
「市」になる要件
[85269] Shouta さん
【人口10万人を超えていた町が】なぜ市にならなかったのか疑問
[85271] 白桃 さん
ざっくりいえば、人口要件以外に都市的要素(中略)を満たしてはいなければならない

Shouta さん はじめまして。hmtマガジンの特集 市と町の違い を編集した hmt です。
この特集や、アーカイブズ 「市」になる要件 の記事をお読みになれば、「市」になるためには人口以外の要件を満たすことが必要であることがお分かりになることと思います。
この記事では 法令に記された要件や その解釈という観点から、少々フォローしておきます。

現在の地方自治法は、その第八条第一項で 市となるべき自治体が具えるべき要件を規定しています。
そこには、5万以上という人口要件(第一号)に加えて、中心市街地要件(第二号、しばしば連たん要件と呼ばれる)・業態要件(第三号)・都市的施設要件(第四号)が求められています。後の3要件は都市要件と総括してもよいでしょう。

今回のような戦前【正確に言えば、地方自治法施行前】の話になると、法律も変りますが、前記マガジンの特集に収録された むっくん さん の記事3件を参照すると、制度の変遷がわかります。
基本になるのは、「市」という制度を誕生させるにあたり明治21年に制定された 「市制町村制理由」の記載[62749]です。リンク文書右頁19行。
今此市制を施行せんとするものは三府其外人口凡二万五千以上の市街地に在りとす

数字や、具体的な都市要件など細かい規定の違いはありますが、基本的に 人口と市街地、この2つを要件とするという考え方は、現行法の 人口要件と都市要件 に引き継がれていることがわかります。

1930年当時に施行されていた 明治44年市制 という法律の第1条に記された“市は従来の区域に依る”も、明治21年の法律の基本的な考え方を踏襲する方針を示しています。

昭和戦前(1930年頃)の「市」は、建前上は この 明治時代に決めた制度から 変っていません。
しかし、日本の産業構造は 19世紀から20世紀へと変化しており、「市」の範囲にも 本来の市街地に加えて周辺部が加わり、広域の市域が形成されつつありました。[79563]で示した人口密度から見た旧富山市の変遷は、その実例です。
M22-H15の旧富山市人口リストは、リンクが切れていますが、WARPを辿れば、到達することができます[84569]

富山市の事例は、「市」の範囲が 「市制町村制理由」に記された“市街地”そのものだけではなく、市街地を核とする 都市圏 へと拡大したことを示しています。
つまり、昔ながらの“人口2万5千以上の市街地”は“市の核”として必要ではあるが、その周辺には市街地でない郊外部を含むことが 許容されるようになりました。

本来ならば このような実態をふまえて、法律「市制」を改正すべきであったと思われます。
しかし、実際には 都市要件を成文化した規定は、ずっと後の 昭和18年内務省発地第三六號 市制施行詮議内規[83139] として現れています。
人口5万人以上で都市的形態を具備するものと認められること
そして、これが現行法の第8条第1項第1号(人口要件)と第2~4号(都市要件)の起源と思われます。

関東大震災後の人口急増で出現した荏原町[83708] 等の新興住宅地の自治体。
これが「市」になれるのか? という問題に戻ります。
郊外にできた住宅地は、あくまでも東京都市圏の一部にすぎない存在である。市の中心市街地たる“核”が東京都心と 別個に存在するとは認められない。これが荏原市否定論の根拠でしょう。
渋谷になると、単独で市になる構想もあった[35674]ようです。
しかし、誕生後2年で京都市に編入された伏見市(1929-1931)のように、現実的ではありません。

1930年当時 東京市の周辺にあった 東京府5郡の町村が 「市」にならなかった【なれなかった】理由は、法律・市制の下での「市」という存在の捉え方に起因するのだと思います。

[64148]では「中心市街地」について記しました。
しかし、その捉え方は法律・市制の時代(戦前)と現在とでは変化しているようです。

背景が東京市の周辺町村とは異なりますが、1941年に大規模な戦時合併で誕生した相模原町。
この町は、中心市街地を欠く という理由で 「市」になることができませんでした[64153]
その後も 中心市街地がどこなのかは 定かでない状態が続いていたと思いますが、とにかく昭和大合併時代の 1954年には「相模原市」が誕生しました。

この間には 法律も 市制から地方自治法へ と変り、相模原町自体の発展もありました。
しかし、決定的に変ったのは、「都市圏の中心市街地」についての要求だったのではないでしょうか。
戦前・戦中までは市に対して厳しく求められた 都市要件が 戦後の政策変化により緩和されました。
平成合併では、平成17年施行の合併新法第7条で、一時的とはいえ都市要件が不要になった時代もありました 参考資料
これは極端な緩和の事例です。しかし、それよりもずっと前の昭和合併の時代から 匙加減により都市要件の緩和は進められてきました。そして、これにより多くの市が生み出されたものと思われます。


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