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[35654] 2004年 12月 10日(金)20:07:14hmt さん
昔は広かった「荏原」
[35649]じゃごたろ さん
羽田空港に向かう際に、モノレールの中からふと外を見ると、荏原製作所の大きな工場
かつて東京には「荏原郡」があった

荏原製作所といえば渦巻ポンプ。井口博士の発明品を製造した「ゐのくち式機械事務所」を1920年に承継して、東京府荏原郡品川町に設立された会社です。1938年に現在の羽田に移転した時には、東京市蒲田区になっていましたが、ここも元は荏原郡羽田町。(この部分[35650]と一部重複)

「荏原」の地名は、現在では品川区の中原街道沿いの町名として残るだけですが、35区時代には「荏原区」がありました。品川区と合併した際に、当用漢字でなかったことが災いして採用されなかったのでしょうが、「荏原郡」は、現在の東京南部に広がる伝統ある地名でした。

旧品川区の品川町・大崎町・大井町、旧荏原区の荏原町、目黒区の目黒町・碑衾町、旧大森区の馬込町・東調布町・池上町・入新井町・大森町、旧蒲田区の矢口町・蒲田町・六郷町・羽田町、世田谷区の世田ヶ谷町・松沢村・玉川村・駒沢町という「荏原郡」の領域を振り返ると、縮小してしまった「荏原」に同情します。
芝区(→港区)になる前の白金村も荏原郡だし、歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だったのでしょう。

「荏原」の由来と考えられるのは荏胡麻(えごま)。
胡麻とは違うシソ科の植物ですが、古来から油料作物として広く栽培されていました。
斎藤道三が油商人から身を起こして美濃一国の国主になったことは「国盗り物語」で有名ですが、彼が売り歩いた油は荏胡麻の油です。

江戸時代になってから、新たな油料作物の「あぶらな」が普及し、菜種油が荏の油に代って使われるようになりました。
風景としての「荏原」の消滅は、地名の縮小よりも前に進行したわけです。

田園都市線の「江田駅」(横浜市青葉区荏田町)に至っては、字まで変えられてしまいました。
[35725] 2004年 12月 13日(月)15:40:56hmt さん
もっと昔はもっと広かった「荏原」
[35654] hmt
歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だった

かまくら道探索というページに、中世の江戸湊周辺、後の千代田城付近のことを記したエッセイがあり、荏原郡に関係した記載があったので、それを引用しながら補足します。

律令制度の時代には、この海岸線に沿って旧官道(古東海道)が通っていた。街道を見下ろす場所に関所があり、高台には荏原郡を管轄する郡衙があった。そこから武蔵国府に連絡する国府路も通じていた。

ここにあった漁村・芝崎村の鎮守が神田明神で、ここに首を埋められた平将門が祭神になった。神社が湯島台に移された後も度重なる変事が起き、その祟りを恐れて武家屋敷地となっていた元の場所、当地に奉るようになった。――という趣旨のことも書かれています。

これは、大手町1丁目にある平将門首塚のことと理解されますが、この地に首塚を祀ったのはどの時代でしょうか。
“武家屋敷地となっていた”とあるように、江戸切絵図では酒井雅楽頭上屋敷の真中、明治の地図では大蔵省で、いずれも首塚らしい気配はありません。余談ですが、電車唱歌[33135]の【2】番で歌われた“大手町には内務省”は、この大蔵省の南隣にありました。
関東大震災後に、大蔵省を建て替えようとしたら大蔵大臣?を始めとして関係者に変事があったということが伝えられていますから、おそらくこの時に祀られたのでしょう。

鎌倉期には、平川が豊島郡と荏原郡の郡境であった

「かまくら道」は「ときわばし」[33433]から西へ進み、平将門首塚の前を通り、平川沿いに現在の内堀通りを竹橋へ。そこから国立近代美術館・国立公文書館の前を北桔橋(きたはねばし)門へと登る紀伊国坂付近が太田道灌の城の正面だったらしく、ここから西に通じる国府路(こうじ→麹町)、西北の清戸道・川越道、北に向かう岩槻道と主要道が整備されたことが図示されています。

このように、現在の皇居の大部分は、中世には荏原郡だったように思われますが、検地によって土地制度が変った近世には、豊島郡の領域とされることになったようです。

この “皇居は荏原郡か豊島郡か” という問題は、約2年前に八幡和郎さんが提起されたことがあります。Issieさんとの問答は、既に元の掲示板では消えてしまっているのですが、八幡和郎がニュースを解説の中に転載されていました。ご参考まで。
[35798] 2004年 12月 16日(木)15:22:03hmt さん
税金がかからない土地は 東京の地図から消えた
[35654]で いわゆる「大東京」市(35区)発足(1932年10月1日)直前の荏原郡 17町2村を列挙して、その中の荏原町だけが荏原区になり、現在は更にその一部だけが 品川区荏原(1~7丁目)として「荏原」の地名を残していることを記しました。

遡れば、中世の豊島郡と荏原郡の郡境は平川でした[35725]
そこで、近世における荏原郡・豊島郡の境界を、伊能図により補足します。

伊能大図第90図部分の右端・東海道沿いの測地線は芝の増上寺と高輪大木戸の間で、古川(図示されず)が境界です。
図の左端には大山道沿いの境界が見えます。これは、現在の渋谷区・目黒区の境。日本地図センターの近くです。
甲州街道が玉川上水を渡る代田橋付近は、豊島郡(渋谷区)・荏原郡(世田谷区)・多摩郡(杉並区)の境界です。現在の道路で言うと、国道20号と環七との大原交差点。

この境界は、明治になってからも同じで、明治16年の五千分一を見ると、薩摩藩邸跡地[35013]にできた三田育種場付近に「荏原郡」の字が見えます。但しこの頃は同じ地図に記されている東京府「芝区」の時代になっており、荏原郡であることは有名無実であったと思われます。[33692]の後書き参照。

さて、せっかく[35654]で荏原郡の 19町村を列挙したので、その中に登場する合成地名を拾い上げ、現在の使用状況を調べました。いずれも1889年の明治合併で生まれた合成村名です。

碑衾(ひぶすま)村:もとの地名は、碑文谷(ひもんや)村と衾(ふすま)村。碑文谷は目黒区の町名として現存します。
衾町という町名は消滅しましたが衾町公園(八雲)に名をとどめています。合成地名の碑衾は完全消滅したようです。

入新井(いりあらい)村:もとの地名は、不入斗(いりやまず)村と新井宿村。現在大田区の町名には残っていないが、大森駅の南側の入新井特別出張所や小学校など公共施設名として使用されています。
旧村名の不入斗と新井宿は消滅した模様です。
この「不入斗」は難読地名です。「税金がかからない」という意味で、鈴ヶ森八幡=磐井神社の社領に由来する地名です。
不入斗という地名は、横須賀その他にもあります。

松沢(まつざわ)村:もとの地名は、松原村と上北沢村。都立松沢病院(世田谷区上北沢)は有名です。上北沢・松原は共に世田谷区の町名に残り、駅名(京王線・東急世田谷線)にもなっています。
本邦初公開(正確には7月の釧路に次ぎ2回目)の全国伊能大図展示中[35754]の日本大学文理学部の近くにも、都立松原高校と区立松沢中学があり、江戸時代からの旧村名と明治の合併で生まれた行政村名とを伝えています。

おまけ
六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もあるようですが、これは“合成”とは言えないでしょう。
伊能図にはこれらの旧村名と共に六郷川の名が見えますから、直接には川に由来すると考えます。
[35838] 2004年 12月 17日(金)17:21:39hmt さん
明治合併で生まれた合成村名関連の使用状況(豊多摩郡関係)
明治合併で生まれた「合成村名」とその旧村名に用いられた地名の現在の使用状況です。
既報[35798]荏原郡関係に続いて、今回の分を豊多摩郡関係としたのは、便宜上の区分です。
合併により合成村名が生まれた明治22(1889)年には、下記のように南豊島郡と東多摩郡でした。1896年に合併して豊多摩郡という「合成郡名」になりました。

ところで、練馬区に「豊玉〇」(〇=上,中,南,北)という町名が存在します。しかし、ここは北豊島郡だった土地で、もと豊多摩郡ではありません。
不思議に思って調べてみたら、「豊玉小学校」が由来なのだそうです。中新井村に明治9年開校という歴史のある学校で、当時は豊島郡だけでなく多摩郡からも通学していたのですね。東京市板橋区になってからの区画整理で、新井薬師のある中野区新井町との混同を避けるために改名することになり、1940年に小学校の名を取り「豊玉」の地名が生まれたそうです。

南豊島郡代々幡(よよはた)村:もとの地名は、代々木村と幡ヶ谷村。
東京博善の代々幡斎場(江戸時代は代々木狼谷の火屋)などがありますが、渋谷区の町名と駅名になっている代々木・幡ヶ谷の方が有名です。
なお、村名ではないが、同じ組み合わせで幡代(はたしろ)という合成地名もあります(幡代小学校)。京王線が地上を走っていた頃、代々木郵便局(当時は代々幡郵便局?)の前に「幡代」の駅跡(というより停留場跡)がありました。

東多摩郡和田堀内(わだほりのうち)村:もとの地名は、和田村と堀ノ内村。
杉並区の善福寺川沿いに和田堀公園。hmtが国民学校の遠足(戦時下の呼び方は「校外教授」?)で行った頃は、大宮八幡公園でした。水道局の和田堀給水所は、[35798]で触れた3郡3区境の代田橋付近(世田谷区側の方が大きい)。
「和田堀」という短縮地名は、1926年豊多摩郡和田掘町として誕生。和田と堀ノ内は共に杉並区の町名として現存します。

東多摩郡井荻(いおぎ)村:もとの地名は、上井草村・下井草村と上荻窪村・下荻窪村。
西荻窪の井荻小学校に行こうと西武線の井荻駅に降りてしまったら 3kmも歩くことになります。広くなった合併地名を、それぞれが勝手に使うと、このような問題を起すという教訓です。上井草・下井草・上荻・荻窪は杉並区の町名として現存します。
[35860] 2004年 12月 18日(土)15:33:27hmt さん
荒川放水路に消えた村
[35798]荏原郡、[35838]豊多摩郡(南豊島郡・東多摩郡)に続き、現在の東京23区内に明治合併で生まれた「合成村名」とその旧村名に用いられた地名の現在の使用状況を追跡するシリーズ、その最終回です。
北豊島郡には該当なく、残るは南足立郡と南葛飾郡です。
タイトルの荒川放水路は、1965年に荒川と改称されていますが、ここでは建設当時の名を使います。

南足立郡梅島(うめじま)村:もとの地名は、梅田村と島根村。梅田・梅島・島根共に足立区の町名として現存します。

南葛飾郡大木(おおき)村:もとの地名は、大畑村と木ノ下村。
大木村は、大正に入って古綾瀬川沿いに幅500mで掘削されることになった荒川放水路工事により大きな影響を受けることになります。多くの土地は河川敷となり、南岸に残った部分は吾嬬町に合併され、向島区を経て隅田区八広(八方広がり)という瑞祥地名になってしまいました。北岸に残った一部は本田村を経て葛飾区東四つ木。
旧地名は痕跡も留めずに消滅し、本田(ほんでん)のような新しい村名が本田警察署等に名を残すのみです。

南葛飾郡亀青(かめあお)村:もとの地名は、亀有村と青戸村。葛飾区立亀青小学校がありますが、町名や駅名になっている亀有・青戸(京成の駅名は青砥)の方がはるかに有名です。
なお、青戸の中川下流には奥戸という地名があり、その他にも 東京低地には、亀戸、今戸、花川戸、江戸など「戸」のつく地名があります。中世には青津のように「津」と書かれた場合もあり、船着き場とか「渡」場でした。

南葛飾郡松江(まつえ)村:もとの地名は、西小松川村・東小松川村と西一之江村。
旧西小松川村は荒川放水路掘削で分断されましたが、東西小松川の中心部は辛うじて直撃を避け、西小松川町・東小松川・松江・西一之江はいずれも江戸川区の町名として現存しています。分断の結果として右岸にも小松川があります。
地名や川の名よりも有名なのは、1719年8代将軍徳川吉宗の命名という「小松菜」です。

南葛飾郡鹿本(しかもと)村:もとの地名は、鹿骨村と本一色村・松本村。
鹿本橋が架かる新中川(1963完成)の両岸に江戸川区の町名として鹿骨・松本・本一色が現存します。
この地区を流れる新中川は、高砂で中川から分流して今井橋の下流で旧江戸川に注ぐ放水路で、1963完成。
もともと、中川の下流部は七曲りの蛇行でしたが、荒川放水路と同時に東側に並行する中川放水路を掘削。荒川放水路西側は旧中川になっています。かくて高砂から下流は、新中川・中川(中川放水路も改称)・旧中川の3本建て。

これで明治生まれの「合成村名」の追跡は終ります。
検体は少数ですが、おそらく合成に限らず、次の傾向があるように思われます。

1.合併で生まれた行政村名は、その後の更なる合併を経て、そのまま地名として定着できないものが多い。しかし、公共施設名として使用されたものが残っている。
2.大字になった江戸時代からの旧村名は、引き続き現在の町名として存続しているものが多い。
3.ブランド力の強い地名(荏原郡の例では大森)があると、これに圧倒された付近の地名は消滅しやすい。
4.難読、表外字が嫌われて消される場合がある。「不入斗」や「衾」、そして「荏原区」。


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