[73119]ニジェガロージェッツ さん
ところが,岡山には隠密の偽ニジェ[72972]が現れて一騒動起こしたらしく,わたくしのもとに抗議メールが寄せられて困っています。
じゃぁ、あの人はニジェガロージェッツさんではなく、二ジェガロージェッツさんだったのだ。(カタカナの「ニ」ではなく漢数字の「二」)
それはともかく、
小早川秀秋は二十歳そこそこの若くして亡くなっていましたが,孫がいたんですか!
まあ,子さえ作っておけば後の時代に孫が出来てもおかしくないのですが,本当ですか?
また、
[73098]伊豆之国さん
そもそも光圀公は関東一円しか歩いておらず、岡山にやってくるはずなどあり得ないのですがね‥
等々、史学科?を一応卒業している白桃に対してボッケェ疑りマナコ。(笑)
ま、少々のつじつま合わせを兼ねて続編「刺客-小松帯刀の秘密の巻」を・・・
小早川秀秋(「関ヶ原」後は「秀詮」)は関ヶ原戦後、岡山に栄転(55万石)となるが、東軍に寝返ったという自責の念からか精神不安定となり、1602年に20歳ちょっとで亡くなったということです。子はなかったとされておりますが、一説には、秀秋死後に生まれた「羽柴秀行」という側室の子がおり、叔父の木下勝俊(備中足守藩主)に預けられたとのこと。
以上、ここまでは史実と言えないまでも、全くのデタラメは言っておりません。
・・・中断(アルコール入る)・・・
さて、木下家に預けられた秀行ではあるが、肝心の木下家が改易(ここまでは、まだ史実)となり、幼少の秀行は路頭に迷い、結局、西大寺(会陽-裸祭りで有名)に行くことになる。この頃すでに、姓を小早川(羽柴)から小松原に変えていた秀行ではあるが、やがてfutsunoおじ、いやfutsunoお坊さんになり、慈円を名乗ったのである。(聡明な読者なら、ここいらから全くデタラメの白桃ワールドに突入していることはお判り頂けると思います)
慈円はfutsuno修行生活をしていたのであるが、西大寺の人口を一人増やしたことから、話がややこしくなるのである。その子(つまり、小早川秀秋の孫)帯刀は僧侶になることを嫌い、岡山城下で無頼の輩となる。そしてその頃、小松原から小松に苗字を変える。(一説には「加賀小松」、「河内松原」、「相模小原」のうち、当時人口が多かった「小松」を選んだという)この小松帯刀に目をつけたのが、今回の十番勝負でしぶとく完答を果たした岡山藩国家老、神山油天と加賀屋なのである。(ウワー、十番勝負もうヒントが出てる!)
小早川家再興、という油田、いや油天と加賀屋の甘いエサにつられた帯刀が、ご老公を襲うという暴挙に出るのであるが、ニセ格さん、ニセ助さんの活躍で失敗するのである。その後の帯刀の消息は知りません。(風の又三郎の噂では、摂津・灘で杜氏となり、ラガービールを造るのに成功したとか・・・、なお、ちょくちょく薩摩に姿をあらわしたという風聞もあり、幕末・維新で活躍する同姓同名の人物とあながち関係ないこともないのかもしれません)
お話はこれで全て終わりなんですが、ついでです。
格さん、助さん、黄門様もみんな偽物だったとか・・・
「格さん」:日生沖の鹿久居(かくい)島出身の牛窓の船大工、手先が器用で印籠も作り、行商セールスも行っていた。
「助さん」:備中高松で助郷をやっていたという。ニセ者ということがばれた後、心いれかえ八十八箇所詣を行ったことは超有名な話。
「水戸黄門」:御野(みの)郷の中納言(岡電、東山線の停留所に名を残す)に住んでいた正真正銘のご隠居さん。みのの中納言、中納言の唐名は黄門であり、みののこうもん→みとこうもん、とシャレたらしい。
十番勝負、問二のアナグラム解けない・・・
訂正箇所:摂津松原→河内松原