[73416] Issie さん
旧津久井郡4町については地域自治区名として引き続き使用されていた旧町名(城山町,津久井町,相模湖町,藤野町)は省かれることになります。
「日和佐」という地名が、平成合併の結果、住所の表示から事実上消えた
[73411]ことについて記したばかりですが、hmtの出身地・津久井にも、2010年4月から同じ運命が訪れることになるのですね。
4つの住所地名の挽歌を記しておきます。
「津久井」は三浦半島の津久井庄(現・横須賀市)に由来し、人名を経て相模国北部に「津久井領」が生まれ、元禄4年(1691)に「津久井県」と命名されたことは
[41805]で記しました。
「郡よりも格が低い」という意味が込められた「近世唯一の県」であったことは、特筆に値します。
明治3年2月27日の太政官布告で
「津久井郡」に昇格? しましたが、2006年と2007年に所属する4町村がすべて相模原市に編入され、自然消滅しました。
この間、1955年の昭和大合併では「津久井町」の名にも使われました。この地域に「津久井」の名をもたらした鎌倉武士の古城の所在地があるので、妥当な命名と言えるでしょう。
自治体時代の読み方は「つくいまち」でした。
これが
2006年の合併 で 相模原市の一部になったわけですが、合併協議第19号
[48391]によると、“字の区域は、原則として現行のとおり”となっています。これだけなら、「津久井郡津久井町青山」であった住所は「相模原市青山」になりそうです。
しかし、実際には「相模原市津久井町青山」という表記になりました。
その仕組みを解説してくれたのが、
[48804] suikotei さんの記事です。それによると、2004/10/26総務省からの通知により住民基本台帳の記載要領が改正され、「合併に係る地域自治区」の名を住所に記すことになったのだそうです。
旧津久井町の区域には上記の合併協議に基づき「合併に係る地域自治区」である「津久井町(つくいちょう)」が設けられたので、読みは変りながらも、上記のように「津久井」が住所に残ったのでした。
2010年4月からは、もちろん「指定都市の区」である「緑区」がこれに代って住所表記に使われることになります。
「城山,相模湖,藤野」は自治体名としては昭和の大合併で創作された“新地名”
1955年に作られた3つの“新地名”の前身を探ります。
「城山」は、もちろん 中世に三浦氏の一族・津久井為行が山城(津久井城)を築いた宝ヶ峰のことで、古くから使われた呼び名と思われます。
山体の大部分が津久井町に属する城山ですが、その姿がよく見えるという理由で「城山町」の名に選ばれたのでしょう。神奈川県が城山ダム建設を決定したのは、城山町発足5年後の1960年です。
「相模湖」は 1947年命名のダム湖
[43001]由来で、自然地名?としても戦後生まれです。
相模ダムは 戦前に着工した日本最初の本格的な多目的ダムでした。戦争の影響で工事は遅れましたが、完工式には昭和天皇が臨席されたくらいで、日本復興のシンボルとして祝福されました。「ダムはムダ」という昨今の風潮とは大違いです。
昭和合併は相模湖誕生の8年後ですが、「相模湖町」という自治体名も自然の成り行きと思われます。中央線の駅も、追随して「与瀬」から改称。2万5千分の1地形図の図幅名は、現在も原則通りの居住地名「与瀬」を続けています。
由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。
[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。
「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。
「藤野駅」は、小淵村の「淵」と隣接する吉野町の「野」とを組み合わせた「ふちの」に由来する可能性があるように思われますが、どうでしょうか。
市としては,今後も公共施設名などに残すから我慢してね,という意味のアナウンスをしていますが,実際,これらの旧町名に対する思い入れはそれほどないのでしょうかね。
自然地名の 相模湖・城山 や、駅名の 藤野 は問題ないとして、「津久井」の将来が気になります。
でも、相模原市緑区の中で、西の方にある山地の総称として、「津久井」は便利な言葉です。
旧・城山町の平地部分は文字通り「相模原」の一部として同化し、「津久井」は、山地部分だけを意味する地名として残るような気がします。