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落書き帳

須賀

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[77623]2011年2月9日
伊豆之国
[77630]2011年2月11日
hmt
[77631]2011年2月11日
hmt
[77667]2011年2月14日
ぺとぺと
[77673]2011年2月15日
hmt
[77851]2011年4月1日
千本桜
[77855]2011年4月1日
hmt

[77623] 2011年 2月 9日(水)22:20:07伊豆之国 さん
Yokosuka Story
今日は、社用で横須賀市へ。残念ながら名物グルメは味わえず‥。

さて、この「横須賀」という地名。明治になって軍港の町として繁栄してきた、この三浦半島の横須賀ばかりが全国的に知られるようになったのですが、そのほかにも各地にこの地名が見られます。私がすぐ思い浮かんだところだけでも

千葉県松戸市横須賀
静岡県掛川市横須賀
愛知県東海市横須賀町、高横須賀町
愛知県幡豆郡吉良町上横須賀、下横須賀(4/1より西尾市)

遠江(掛川市)の横須賀には、戦国末期に横須賀城が築かれ、江戸時代には横須賀藩が置かれて繁栄してきました(掛川市HPより)。江戸時代には数ある「横須賀」の地名の中では最も有名ではなかったかと思います。三河・吉良の横須賀は、名作「人生劇場」の舞台としても知られています([67600] )。

「横須賀」という苗字もあります。全国に4千数百人いると推定されますが、その過半数が茨城県に集まり、中でもひたちなか市と水戸市に密集し、ひたちなか市では市内15位に入っています。ひたちなか市民の大龍エクスプレスさんには、大変身近な苗字ではないかと思います。
[77630] 2011年 2月 11日(金)14:14:24hmt さん
横須賀製鉄所から海軍工廠へ
[77623] 伊豆之国 さん
明治になって軍港の町として繁栄してきた、この三浦半島の横須賀

川越・八王子・横須賀・豊橋・福知山・姫路・下関。
都道府県庁所在地以外で、自治体コードが「**201」となっている市です。

市の変遷 では、川崎どころか 新参の相模原にまで先を越されて 4位に甘んじていますが、市制施行(1907)は 神奈川県では 横浜に次ぐ2番目で、それなりの歴史があります。
市域は 海軍さんの力が強かった戦前戦中の 1933~1943年に三浦半島の大部分に及びましたが、強制合併[37931][37958]された逗子は、戦後に分離独立しました。

現代の横須賀市域を基準に考えると、近世以降の日本歴史における 横須賀の初舞台は、嘉永6年(1853)でしょう。
でも、歴史年表を見ると、“浦賀沖にペリー艦隊来航”とあり、横須賀の名が全国的に知られたわけではありません。
江戸幕府の機関も「浦賀奉行所」であり、浦賀は 1943年まで横須賀とは別の町だったのですから、当然でしょうね。

横須賀という地名が使われた政府機関が登場したのは、慶応元年(1865)に 幕府が建設を開始した 「横須賀製鉄所」 であろうと思われます。
当初の名は 造船所でなく 「製鉄所」でしたが、もちろん近代国家として必要な 西洋式の海軍の創設 を視野に置いた施設でした。
この施設を推進した 幕府の実務責任者は、小栗忠順でした。彼は1860年に日米修好通商条約批准の使節の一員として渡米した際の工場見学により、西洋の先進的な技術を認識したとされます。

政局の先行きが不明な中で、造船所計画に必要な莫大な出費に対して、幕府内での反対論が無論ありました。
“幕府がつぶれて、家(政権)を明け渡すようになっても、土蔵付売家にしておけば、価値がある。”
これが 仕分人(?)に対する 小栗の答えだったそうです。島田三郎懐舊談

小栗が技術援助先として選んだのは、(陸軍も同様ですが)ナポレオン三世時代のフランス[44237] でした。
造船所の立地として、浦賀水道観音崎より内側の入江が候補になり、小栗はフランス公使の ロシュらと共に実地検分して、ツーロンに似た天然の良港で、江戸にも近い横須賀を選んだと言われます。
hmtの出身地・津久井に 慶応3年に現れたフランス人技師は、この横須賀製鉄所建設業務に関係するものでした[54415]

慶応4年に小栗は落命しますが、横須賀造船所の工事は 新政府に引き継がれ、明治4年(1871)に完成しました。
造船所の管轄は 工部省から海軍省に移り、明治17年(1884)に 東海鎮守府[29190]が 横浜から横須賀に移転して 横須賀鎮守府と改称されると、海軍造船所もその所管となりました。

日露戦争前年の 1903年には、横須賀海軍工廠という名称になり、1921年完成の 戦艦陸奥など多数の軍艦が建造されました。
1923年の関東大震災の際には、巡洋戦艦として起工した天城を 航空母艦として完成させるための工事中でしたが、これが船台上で大破するハプニングもありました。写真

第二次大戦後の横須賀は、米国海軍の基地になり、第7艦隊所属艦艇の事実上の母港になっています。
造船所での艦艇建造はなくなりましたが、修理工場として機能していると思います。

造船所を中心に横須賀を振り返ってみましたが、最後に横須賀線について一言。

東京-横須賀間は 62.4km(JR)。これは千葉(39.2km)よりもずっと遠く、熊谷に近い距離です。
今日でこそ、「首都圏」や「東京近郊区間」として東京の事実上の範囲が拡大していますが、そんな言葉のなかった時代において、横須賀線は 早くから電化され(1925)、二等車(現在のグリーン車)を連結した長距離電車が運転されました(1930)。
このような特殊な状況を生み出した背景には、鎌倉付近に在住した富裕家族の存在もあるでしょうが、海軍さんの存在も大きかったと思われます。
[77631] 2011年 2月 11日(金)19:03:32hmt さん
須賀とは 土砂が堆積した場所
[77623] 伊豆之国 さん
三浦半島の横須賀ばかりが全国的に知られるようになったのですが、そのほかにも各地にこの地名が見られます。

横須賀に近代技術による造船所[77630]と軍港が作られる前の相模国では、馬入川(相模川)の河口にある須賀湊(地図)が知られていました。平塚の「ツカ」は 「スカ」に由来するという説 もあるようです。
「スカ」とは「洲(ス)」+「処(カ)」で、海や川の土砂が積もってできた高地、砂丘、砂地などを意味するとされます。

ウオッちずで「須賀」を検索すると、全国の地名がヒットし、読みは「スカ」と「スガ」があります。
横須賀という地名は、[77623]に挙げられた4ヶ所の他にもいくつかありましたが、茨城県に5ヶ所もあったのは、やはり苗字に横須賀さんが多いことと関係しているのでしょうか。

横に広がる砂洲 や 砂洲の横 が「横須賀」でしょうが、同様に接頭語の付く須賀地名も多く見られます。
平塚の須賀湊より少し東の茅ヶ崎海岸には浜須賀があります。
東海道五十三次の宿場には白須賀(湖西市)がありました。

長須賀・高須賀・平須賀などは、白須賀と同様に、砂洲の様子を表します。
中須賀(西日本に多数)、北須賀・東須賀・西須賀・上須賀・下須賀など位置的な接頭語も使われます。
人名として有名な蜂須賀も、尾張の地名にあるのですね。
梅須賀・鎌須賀も尾張、赤須賀は伊勢、竹須賀・先須賀が阿波、貝須賀が上総と、面白い接頭語を拾ってゆくときりがありません。

須賀に接尾語が付くグループでは、須賀川が市の名前になっており、横須賀と並ぶ双璧です。
須賀川の風景 には、阿武隈川の中流にあって、釈迦堂川との合流地の 砂堆地の写真が掲載されています。
福島県以外にも、北海道・宮城県・栃木県・群馬県・愛知県・島根県・愛媛県と多数の須賀川があります。

須賀地名の中には、須賀神社(須我神社)由来の地名があるようです。
新宿区須賀町は、まさにその例で、東京四谷18ヶ町の鎮守様である須賀神社に由来します。
ヤマタノオロチを退治した素戔男尊を祀る神社ですが、「素鵞」とも書かれる「スガ」は、これまで記してきた「洲処」とは別のようです。
須我神社 のある 島根県雲南市大東町須賀は、川が砂を堆積する場所のようには思われません。
[77667] 2011年 2月 14日(月)23:23:10ぺとぺと さん
海軍火薬廠
[77630]hmtさんの横須賀市の発展にまつわるお話、興味深く拝読いたしました。それに便乗して地元平塚市の宣伝を少しばかりさせてください(笑)
市の変遷 では、川崎どころか 新参の相模原にまで先を越されて 4位に甘んじていますが、市制施行(1907)は 神奈川県では 横浜に次ぐ2番目で、それなりの歴史があります。
日露戦争前年の 1903年には、横須賀海軍工廠という名称になり、1921年完成の 戦艦陸奥など多数の軍艦が建造されました。
巷ではあまり知られていませんが、横須賀市、川崎市に次いで、神奈川県下で4番目に市制施行したのは、藤沢市でも茅ヶ崎市でも鎌倉市でもなく平塚市です。そして、これもあまり知られていないのですが、横須賀市と同様に“海軍の町”として発展を遂げてきた歴史があります。
もっとも海軍といっても軍港ではなく、無煙火薬を製造する「海軍火薬廠」でした。この「海軍火薬廠」の前身は、1905(明治38)年に日本政府が英アームストロング社などと合弁で設立した「日本火薬製造会社」です。平塚が建設地として選ばれた理由としては、もともと平塚周辺には中原御殿([77012][77025]参照)を中心とする江戸幕府直轄の広大な「御林」があり、この大半が明治政府(林野局)に引き継がれ広大な遊休地が存在したこと、横須賀から近かったことなどがあげられます。
また、神奈川県高等学校教科研究会社会科部会地理分科会の記事によると、hmtさんが[77631]で触れられている平塚の“砂丘地形”も選定理由のひとつだったと推定しています。以下にその記述を引用します。
その中でも火薬廠が平塚に置かれたのは、砂丘が何列もあったからで、砂丘と砂丘の間にある低地ごとに工場の各部門を設置すれば、万が一爆発事故が起きても砂丘が天然の防護壁の役割を果たして、被害が工場全体に及ぶことを防ぐのに有効であると考えたからだという説が有力である。
「海軍火薬廠」が現存していた頃の貴重な写真がこちらのページに掲載されています。また、前述の参照記事にもあるとおり、現在でも市内各所に「海軍火薬廠」の痕跡を見ることができます。ただ、地図上で確認できるとなると、東海道本線から通じる引込線の跡(不自然に弧を描いている道がそうです)くらいでしょうか。
[77673] 2011年 2月 15日(火)15:29:45hmt さん
“火薬の紙”の思い出
[77667] ぺとぺと さん
無煙火薬を製造する「海軍火薬廠」

これで思い出したのが、1946年に厚木中学校に入学した際に出会った“火薬の紙”です。
あらゆる物資が不足していた 敗戦直後のこと。
学期末試験に使う 答案用紙の入手も ままならなかったのですが、ピンチヒッターとして 登場したのが“火薬の紙”でした。
その出所は、もちろん 廃止された 平塚の海軍火薬廠。
やや厚めの純白の紙なのですが、インクで書くと滲んでしまい、鉛筆専用。

中学1年生には“火薬”と“紙”との関係が理解できなかったのですが、今になれば説明できます。

無煙火薬に使う硝化綿(硝酸セルロース)の製造工程では、硝酸+硫酸と反応させるために、精製リンター【注】を 紙の形状に加工して 使うのでした。

私が化学会社に入った頃は、まだ硝化綿用の製紙工場があり、「ティッシュペーパー」を製造していました。
純粋の「セルロース組織のみからなる紙」ということで、筆記用の紙と違い、インクの滲みを防止するサイズ剤や不透明にする填料などを添加していません。
その後、1964年に スコッティーやクリネックスの顔拭き用ティッシューペーパーが登場しました。
用途と紙の厚さこそ違いますが、組成的には“火薬の紙”に近い紙と言えるでしょう。

【注】
リンターとは、綿花から綿繰り機で長い繊維を取ったあとの種子に残っている短い繊維のことです。
リンター精製までは無煙火薬と共通する キュプラ繊維 の製造工程を、参考までにリンクしておきます。
[77851] 2011年 4月 1日(金)20:40:07千本桜 さん
亘理町荒浜の高須賀
[77841] hmt さん
宮城県岩手県の沿岸部を主とした 浸水範囲概況図 が、国土地理院HPに発表されています。
浸水範囲概況図11を見て亘理町高須賀集落の状況に感じるものがありましたので書込みます。単調な海岸線が続く宮城県南部も津波で大きな被害を受けました。亘理町では海岸から5kmほど内陸にまで津波が押し寄せた様子が図から読みとれます。そのような中、赤く塗られた浸水区域にぽっんと着色していない区域があります。浸水を免れた高須賀集落です。高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
この高須賀は藩政期の自治村で、高須賀村と呼ばれていました。阿武隈川河口の港町荒浜を端郷にかかえていましたが、いつしか荒浜の方が大きな集落になり、明治22年の町村制で荒浜村に改名してしまいました。江戸期には「高須賀村の中の荒浜」だったものが、明治22年以降は「荒浜村の中の高須賀」に逆転したわけです。
[77855] 2011年 4月 1日(金)23:30:18hmt さん
Re:亘理町荒浜の高須賀
[77851] 千本桜 さん
高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。

[77792] 白桃 さん の記事により、ご無事なことは知らされていましたが、落書き帳への復帰も果たされ、安心しました。
しかも、最近話題にした「須賀地名」[77631][77667]関連で。

震災1ヶ月前の2月11日に、[77631]のための調査で、高須賀という地名が、全国の地形図で7ヶ所あることを知りました。
宮城県には、石巻市桃生と亘理町。岩手県岩泉町にもありました。

今回の、思いもかけぬ災害で、図らずも
「スカ」とは「洲(ス)」+「処(カ)」で、海や川の土砂が積もってできた高地、砂丘、砂地などを意味するとされます。
と書いたことが実証されてしまったことに、複雑な思いを抱いています。

リンクしていただいた写真、阿武隈川に沿った微高地に、湊神社のある細長い高須賀集落が作られ、水没を免れている状況の詳細が写し出されていますね。


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