嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に黒塗りの外輪蒸気船を含む4隻の外国船が来航。いわゆる黒船です。
その正体は、マシュー・ペリーの指揮するアメリカ東インド艦隊で、相模国三浦郡の久里浜に上陸して、日本の開国を要求する国書を浦賀奉行に手渡しました。日本側は、将軍(12代家慶)の病気を理由に、1年間の返答猶予を求め、ペリーは翌年の再来航を約して、6月12日に浦賀を離れました。
ペリーが去った翌月、嘉永6年7月18日に長崎に入港したのが、これも4隻のロシア艦隊です。指揮官のロシア使節は、エフィム・プチャーチン。皇帝ニコライ1世からの国書に記された目的は、樺太・千島の日露国境を定め、日本との交易を開くことでした。
ここで、ちょっとお断りしておきますが、シリーズのタイトル“北から訪れた異国人との出会い”は、必ずしも正しくないのです。
シュパンベルク探検隊
[77693]の根拠地は オホーツクですが、その後の外交使節の 出発地は首都のペテルブルクです。
もっともアダム・ラクスマンの経由地はシベリア経由オホーツク。レザノフは南米回り、カムチャツカ。
でも、今回のプチャーチンは、首都を 1852年に出て、喜望峰回り 小笠原経由で、南から日本を訪れたようです。
ペリーの時は将軍の病気を理由に返事を先送りしましたが、今度は 13代将軍家定に代替わりしています。
幕府は、応接掛として 筒井政憲・川路聖謨らを長崎に派遣して、12月から交渉させました。
翌年正月4日まで行なわれた協議で、択捉は日本領、樺太は実地調査の上、再協議するという日本の主張が通りました。
通商条約については、当面締結を拒絶するが、日本が他国と通商を結んだ場合は、ロシアにも同条件で許すということで合意が成立し、ロシア船は 一旦日本を去りました。
さて、対米交渉は1年間待たせたつもりでしたが、アメリカの軍艦は 嘉永7年正月早々から集結し始め、合計9隻もの大艦隊になりました。
ペリーが前年訪れた 浦賀や久里浜は 江戸湾の湾口より外側ですが、今回は 日本の領海深く 江戸湾内に侵入しました。
2月6日から 林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜
[54351]の初舞台になりました。
アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で
日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約
[1805])が締結されました。
力ずくで鎖国の扉を こじ開けた成果である、神奈川条約第2条の主文を写しておきます。
伊豆下田松前地箱館の両港は日本政府に於て亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本にて調候丈は給候為メ渡来之儀差免し候 尤下田港は約條書面調印之上即時にも相開き箱館は來年三月より相始候事
さてロシアですが、以前から続いていたトルコとの争いはエスカレートして、トルコの同盟国のイギリス・フランスから宣戦布告されてしまいました。クリミア戦争です。東洋でもイギリス・フランスの軍艦に攻撃されるおそれもあります。
プチャーチンは3隻を沿海州に残し、自らは新しい旗艦のディアナ号単独で再び来日します。最初はペリーが開港させた箱館に行ったものの、そこでの外交交渉は拒否され、結局は下田に回されて、江戸から来る川路聖謨らと交渉することになりました。
英仏とのトラブルも心配でしたが、災難は別のところからやってきました。日露協議が始まって間もなく、11月4日(1854/12/23)に突然の大地震と津波に襲われたのです。この災害については別稿に記します。
突発的な災害による一時中断はありましたが、プチャーチンは、地震の9日後には外交交渉を再開させ、安政元年12月21日(1855/2/7)には
日露和親条約 の締結に成功しています。フーチヤチン、筒井・川路の名を
画像 により確認することができます。
日米和親条約との最大の違いは、第2条で国境について取り決めていることです。
今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に屬す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし
先に
[77647]で ニジェガロージェッツ さんが紹介してくれたロシアの教科書の記述はこれに基づいています。
1855年,初めての露日条約《通商と国境について》【中略】において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。
【中略】=(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功) について。
ニジェさんは、“日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの”と評しておられます。
これは、「下田条約を調印した 1855年の 時代背景の説明」と 単純に理解すれば よいのではないでしょうか。
「1855年は クリミア戦争中で、ロシアにとって 外交的に不利な時代であった。」
それだけのことで、日本との関係や、極東でのイギリスとの覇権争いにまで言及したものと、深読みする必要はないと思われます。
日付について。
ペリーとプチャーチンが再来日した嘉永7年(1854)は、異国との応接に慌ただしい年でしたが、4月には京都大火・内裏炎上、11月には巨大地震と津波に襲われ、災異が続いた年でもありました。そこで、
嘉永7年を改めて安政元年と為す という宣下(11月27日)により、改元が実施されました。
日露和親条約は改元後ですから、もちろん安政元年12月ですが、日米和親条約や地震のような改元宣下よりも前の事象も、歴史記録としては嘉永7年でなく安政元年になります。だから安政東海地震。
ところが、日露和親条約が調印されたのは安政元年も押し迫った 12月21日なので、年初の決め方の異なる太陽暦では 1855年になってしまいます。政府が好んで使う「グレゴリオ暦換算」
[49122]による表示では、1855年2月7日。
これが、「北方領土の日」
[77647] を「2月7日」とする根拠です。
当時のロシアが使っていたのはユリウス暦で、グレゴリオ暦との差は12日ですから、1855年1月26日という勘定になります。ところが、条約の前書には「魯暦第一月廿七日」とあります。なぜ?