都道府県市区町村
落書き帳

欧米人との出会い

… スポンサーリンク …



[78725] 2011年 7月 7日(木)22:27:15【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (6)オランダ人は 最初に小笠原群島を見つけたが…
1856年に出版されたペリーの『日本遠征記』は、(ハワイからの移民の存在を知りながら) 「無人島」として放置していた幕府に 小笠原の価値を教える結果になりました。

幕府老中安藤信正は、文久元年(1861)に外国公使たちに対し「小笠原回収」を通告[78720]
我が南海属島 小笠原島(中略)追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。

安藤が意識した“貴国人”とは 米国出身でハワイから来た移民のことで、この件については、米国公使ハリスから事前の了承を得ていたと思われます。ハワイ王国と日本との国交はなかったはず。

この 1861年というのは、アメリカで南北戦争が始まった年であり、既に開国の要求を受け入れた日本との間で、太平洋の小島の領有を争う気が起こらない、今から思うと絶妙のタイミングでした。

米国が争わない以上、やるべきことは 咸臨丸で現地に渡った 外国奉行水野越後守忠徳が、住民の代表セボリーに会って、日本統治の根拠を説得することです。
水野は、米国公使館書記官ポートマンからのセボリー宛書簡も持参し、日本に対する米国の好意的態度も証明しています。

この時に、通訳として同行したのが中浜万次郎。井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』で知られる彼は、少年時代に土佐国中浜村から漁に出て、鳥島に漂着。救助された米国捕鯨船の船長に可愛がられ、米国で学んだ後に捕鯨に携わったが、やがて自力で小舟を購入して 琉球経由で帰国した という経歴を持ちます。

31年前の セボリーたちの入植と、更にその3年前の 英国領有宣言に対しては、186年前に 日本がこの島を発見・調査した[78669]という事実を伝え、今後は 日本人の移民も 島に送ることにするが、先に入っている住民の 既得権は保護することを説明しました。

この時に、水野が ついでに 持ち出したのが、文禄2年の小笠原貞頼伝説[78720]です。
こんな 詐欺まがいの話を わざわざ持ち出したのは、『三国通覧図説』などを通じて 欧米にも知られていた話 であることと共に、幕府が 最大の拠り所とする 1675年の探検よりも 早い時期の発見 に対抗する手段として 活用する目的があったのではないかと思われます。

南蛮人が 日本近海に現れた記録として 有名なのは、ポルトガル人による 天文12年(1543)の種子島 鉄砲伝来ですが、同じ年に フィリピンから北に進んだ スペイン船サン・ホアン号のトーレ船長が、日本の近海域 北緯25度あたりで 火山島を発見したとされます。硫黄島と思われるこの島は、探検されませんでしたが、広い意味では 「小笠原諸島」の最初の発見です。

スペイン船は、フィリピンとメキシコとを結ぶ海域をよく通っていたはずです。
しかし、結果的には火山列島(硫黄列島)を発見しただけ。スペインは小笠原群島発見の機会に 恵まれませんでした。

南蛮人に次いで現れたのが紅毛人です。ユトレヒト同盟から 1581年に独立宣言したオランダ。驚異的な勢いで海外進出し、1602年に設立された オランダ東インド会社 VOC は ジャカルタを本拠地としました。日本との出会い 第1号は リーフデ号の漂着(1600)[77689]

1639年7月21日、オランダ東インド会社の クワストとタスマンによる 北太平洋探検船は、新しい島を発見し、2人がそれぞれ指揮した船の名から、エンゲル島とグラフト島と 名付けました。
船を停泊させる場所を見つけられず上陸しなかった とのことですが、これが母島と父島であったと伝えられます。

よく探せば、良港(父島の二見港)があったのに、詰めが甘く、オランダは小笠原を確保することができませんでした。

もっとも、このタスマンという探検家。1642年に発見した島により、その名が知られていますが、タスマニアも後にイギリス領。
更に東に航海して発見した ニュージーランドも、2つの大きな島であることを認識できず。
オーストラリア大陸で 最も豊かな南東部も 見逃したままで、イギリスのキャプテン・クック[45308] の手柄になりました。
オランダとイギリスの 国力の違いもあるのでしょうが、どうも詰めが甘く、結果的には イギリスに してやられた という印象です。

小笠原回収の時代に戻ると、上陸・探検こそしていませんが、オランダ人による小笠原発見(1639)は、1675年の幕府探検よりも明らかに前です。
オランダ人の話を持ち出された場合、これに対抗するのは、文禄2年(1593)の小笠原貞頼伝説しかない。
こう考えて予防線を張ったのが、水野の真意だったのではないでしょうか。
[81097] 2012年 7月 14日(土)10:20:11【1】Issie さん
武士の都は土の下
[81095] 白桃 さん
”かがわ”より「な」のある”かながわ”の一部である相模国で、「鎌倉」の名が見当たらないのも不思議ですが、当時は総称としてではなく、区画された街の名称を用いられることが一般的だったのでしょう。

一言でいえば,当時の鎌倉に「町」と呼べる集落など存在しなかったからです。総称されるほどの町でもなかった。
「明治13年共武政表」で鎌倉郡の項目をみると,格段に戸数が多いのは東海道沿いの 戸塚駅 (郡役所所在地)と 腰越村 でそれぞれ400戸あまり。
せまい意味での「鎌倉」にあるのは,表の中では 長谷村・坂ノ下村・雪ノ下村・大町村 がそれに当たります。山ノ内村 は,切通しを越えた現在の北鎌倉付近。いずれも100戸台で,4村を合わせても千戸には満たないですね。
文部省唱歌に「鎌倉」という歌があります。1910(明治43)年の作品ですが,その最初の2節めと3節めは以下の通り。

 極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おはします
 由比の浜辺を右に見て/雪ノ下村過ぎ行けば/八幡宮の御社

すでに行政上は町村制施行により 西鎌倉村(長谷村・坂ノ下村ほか)・東鎌倉村(雪ノ下村・大町村ほか) を統合して1894(明治27)年に「鎌倉町」となっているのですが,それ以前の状況を知ってこの歌を聞くと,まだ「村」が散在しているような印象を受けます。

鎌倉時代,もちろん鎌倉は「武士の都」で,相模だけでなく関東を代表する“都市”でした。幕府が京都に移った室町時代も,その前半は鎌倉には「鎌倉府」が置かれて引き続き“東の中心都市”としての役割を持ちました。ところがその鎌倉府の主である 鎌倉公方 と 関東管領 との対立,さらに公方の足利氏,関東管領の上杉氏それぞれの分裂と抗争によって関東は一足早く“戦国時代”に入り,戦乱の中で都市・鎌倉は衰退してしまいました。
やがて関東を統一した後北条氏が拠点を置いた 小田原 が相模,そして関東全体の中心都市となります。そしてその後北条氏が滅ぼされると徳川家康が入封した 江戸 が関東の,そして頼朝以来の「武士の都」の地位を獲得するわけです。
江戸に近い相模東部は幕府によって徹底的に支配が細分されたので,相模国全体を代表するような都市は発達せず,西部・小田原藩の城下町の小田原が首位に立つのみでした。幕府は江戸湾入口の 浦賀 に奉行所を置いて,防衛と物流管理の拠点としました。ペリー来航の地を「浦賀沖」と表現するのはこのことによります。
 ※ちなみに,徳川家康は浦賀を長崎に代わる海外貿易の拠点としようとした,という話があります。しかし,これは日本側,そしてスペイン・ポルトガル双方の事情で実現しませんでした。

[81089] hmt さん
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。

…に浦賀が入っているのも,このことによるのでしょうね。

こうして衰退してしまった鎌倉には江戸時代,鎌倉時代以来の寺院は引き続き散在しても,“都市・鎌倉”は存在しませんでした。松尾芭蕉は平泉を「つはものどもが夢のあと」と詠みましたが,鎌倉も全く同じ状況だったのでしょう。江戸時代後期になり,物見遊山の旅が庶民に広く浸透するようになると,大山詣でや江の島詣でを組み合わせた周遊ルートに鎌倉の古寺も組み込まれ,多くの参詣客を集めるようになります。長谷観音や大仏の前の長谷村や,鶴岡八幡宮前の雪ノ下村は,そのような門前町としての機能を持つ集落ですね。
それでも前述のとおり,1889(明治22)年の町村制施行の段階でも,鎌倉は 西鎌倉村 と 東鎌倉村 のそれぞれにまとめられただけ。「全鎌倉」として統合されるのはそれから5年後のことです。
今,私たちが目にしている“都市・鎌倉”は,明治後半になって保養地として注目されたことと,軍港・横須賀の後背地として海軍の高級将官の邸宅地とされたこと,そして1889(明治22)年に横須賀線が開通して東京および横須賀と直結したこと,…によって成立・発展してできあがった“新しい都市・鎌倉”です。鎌倉町の市制施行は1939(昭和14)年。横浜,横賀,川崎,平塚に続く県内では5番目のことですが,ずいぶんと遅い印象を受けませんか。

つまり,今ある「鎌倉市」と「頼朝の鎌倉」は都市としては連続していません。その点,応仁の乱以降の戦乱で都市構造が根本的に変わっても“千年の都”であり続けた 平安京(京都) や,平城京全体は衰退して消滅しても「南都」興福寺の門前町として生き続けた 奈良 と違うところです。
「明治13年共武政表」に鎌倉が見えないのは,こうした“2つの鎌倉”の間のすき間,ここに“都市”も“町”も存在していなかった時期にちょうどあてはまるものであることによるのだろうと思います。
[80226] 2012年 1月 30日(月)15:15:09hmt さん
東京臨海部の陸地化 (7)江戸幕府による天下普請などで埋立地造成
入府早々の文禄元年(1592)には、従来の江戸城【現在の皇居東御苑】の南側に 「西の丸」の築城工事が行なわれました。
この時の上げ土を利用して 東側にあった日比谷入江北部を埋立てたのは 当然の成り行きです。
江戸時代には「西の丸下」と呼ばれた地域で、大きな大名屋敷が立ち並ぶ武家地として使われました。現状の代表的な景観は、二重橋【西の丸大手門】前に拡がる「皇居外苑」です。

少し後、慶長8年(1603)からの第2次天下普請では 江戸城北部の台地(神田山)を切り崩し、日比谷入江南部の一帯(日比谷公園・新橋周辺)を埋め立て、武家屋敷地帯が造成されました。
慶長年間の埋立により江戸城と江戸前島との間は完全に地続きになりました(1606年頃完成)。
埋立を行う一方、江戸城防衛のためには、江戸前島の中央を走る尾根筋 沿いに外濠【現在は東京駅八重洲口の外堀通り】を掘削しました。この掘削土も、もちろん埋立に使われました。

慶長埋立工事プランは、リーフデ号で漂着し、ウィリアム・アダムスと共に徳川家康の信任を得たオランダ人ヤン・ヨーステン[35062]によるものと言われます。
彼の屋敷があった地に「ヤヨス」に当てた八代洲という地名ができ、明治になって「八重洲」になり、場所を少し変えながらも、地名は現在に伝えられています。
オランダの土地造成技術[66906]は、明治の干拓[67436]や八郎潟[37037]でもお手本になりましたが、こんな昔から関係していたようです。

この慶長8年からの埋立は、江戸前島の東側「豊島洲崎の埋立」にも及んでいます。
こちらは港湾整備の意味があり、江戸前島の東岸(江戸湊側)に何本もの舟入堀と八丁堀とが建設されました。

『寛永9年江戸図』とも通称される『武州豊嶋郡江戸庄図』は、江戸古地図の代表作です。全体図は 東京都立図書館 [56610]
細部を見るには、「中央区の変遷」所載のスクロール式拡大図があります。
京橋編 の右下を見ると、日本橋の左に何本もの舟入堀が並んでおり、楓川を隔てた下側に八丁堀を見ることができます。

八丁堀の更に下に見える島には、霊岸寺と越前松平家の屋敷が見えます。
霊岸寺は浄土宗の霊巌和尚による新興の江戸に寺院を建立したいという志が信徒の寄進や協力により実現したものです。寛永元年(1624)埋立開始。
霊岸島の南の葭原を造成した越前屋敷も寛永年間。現在の町名は中央区新川ですが、旧町名は 「霊岸島」と「越前堀」でした。

霊岸寺そのものは、明暦大火後に深川に移転しましたが 地名は残りました。
ここに設けられた「霊岸島水位観測所」は、日本近代測量史の上で重要な地位を占めています。

すなわち、この検潮所での観測値がA.P.(Arakawa Peil)のゼロmで、これから全国の高さの基準である東京湾の平均海面(T.P.0m)も決められました。日本水準原点の高さもこれに基づいて決められたものですが、現在の観測機能は霊岸島から油壺に移っています。中央区文化財・霊岸島検潮所

これまでに埋立主体として登場したのは、幕府以外では社寺と大名ですが、庶民が自力で作った埋立地が佃島です。
摂津国西成郡佃村の漁師が江戸に移り、慶長年間から将軍の鮮魚を供し、余った魚を日本橋のたもとで売ったのが魚河岸の起源と伝えられますが、それよりも半世紀後に佃島の造成が記録されています。
正保2年(1645)に摂津佃島の漁師が大川河口の干潟の一部を拝領し、自力で百間四方の小島を造成。住吉神社を祀り、佃島とした。石川島と一体になったのは18世紀末のこと[33148]。現在の町名は「佃」。

築造した土地をそのままが町名になっている 「築地」は、主として明暦大火(1657)後の埋立地です。
浜町にあった西本願寺を移したのが事実上の築地の草創。その後武家地も多数。

筆が進んで、少し先の時代の話に及びましたが、本筋に戻ると、江戸前島は慶長の埋立によって半島先端の汐留が芝浦と地続きになったわけです。

中世以来高輪の台地上を通っていた東海道は、慶長6年(1601)に海岸沿いに下ろされ、芝を起点とする五十三次の幹線道路整備が行なわれたとされます。
そして江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)になると、東海道は 増上寺前面の海岸埋立地を経由して地続きになった江戸前島の中央を通り、新たに架けられた日本橋[58642]まで延長されました。
先に挙げた『武州豊嶋郡江戸庄図』の京橋編により、右端の日本橋から左端の増上寺前まで 東海道をたどることができます。

日本橋は幕府の整備する五街道【つまり国道】の起点になり、現在でも「日本国道路元標」が路面に埋め込まれています [63949]
[88874] 2015年 10月 9日(金)20:02:10【1】hmt さん
東京駅の改札口 (2)東京駅東口から八重洲口へ
東京駅は、大日本帝国の威光を示すように 宮城【注】の正面に作られました。1914年のことです。
そのため、千代田城に面した西側が表で、中央区【35区時代は日本橋区と京橋区】に面した東が裏側になっています。
【注】宮城
江戸城(千代田城)は明治維新後に東京城や皇城になった後、1888年 明治宮殿落成後は「宮城」と呼ばれました。
言わずもがなですが、読みは「きゅうじょう」です。「みやぎ」と読まないでください。
戦後の1948/7/1からは「皇居」と呼ばれるようになっています。

東京駅の所在地は「千代田区丸の内一丁目」ですが、丸の内側の駅前には丸の内二丁目があり、更に鍛冶橋通りの南【新宿に移転する前の都庁所在地】に 丸の内三丁目があります。3つを合わせた「丸の内」の範囲は、西の日比谷通りと東の外堀通りとの間にあり、元々は 千代田城の内壕と外壕とに囲まれた 大名屋敷地帯でした。

明治になってから付けられた町名は、北側が東京府麹町区永楽町、その南が八重洲町で、東京府庁・東京市役所の所在地は有楽町の一部でした。
その後東京市麹町区時代の1929年に「丸ノ内」になりました。現在は「丸の内」です。千代田区 町名由来板

丸の内二丁目の昔の町名が「麹町区八重洲町」だったと聞くと、現在の東京駅八重洲口前にある「中央区八重洲」との関係が気になります。
「八重洲」という地名が、東京駅を挟んで北東に約1km離れた、別の区に引っ越してしまったのは何故か?

実はこの件、[35062]でちょっと触れたのですが【北東を北西と誤記】、八重洲口を記す機会に 新たな材料を加えて再論します。

中央区の町名由来にあるように、ヤン・ヨーステンの邸は内壕沿い【千代田区】でした。では、外壕沿い【中央区】に「八重洲」という地名が生まれた「きっかけ」は?

それは、明治17年に外壕に架けられた 初代 八重洲橋 でした。
日本橋・京橋の市街地から、内壕沿い丸の内にある「麹町区八重洲町」に行くための橋という意味だったのですね。
日本橋から出発して京都に通じる東海道の最初の橋は「京橋」、次の橋は芝への入り口なので「芝口橋」【後に新橋[74436]】と命名されていました。八重洲という地名を内壕から外壕に移動させた そもそもの原因は、行先の地名を付ける流儀で命名された橋の名だったのでした。

それはさておき、明治の中央停車場計画には裏口がなく、駅の東側は車両基地として使われることになりました。
こうなると、八重洲橋は撤去して部外者の立ち入りを防ぐ方がよい。…当局はそう考えたのでしょう。
人文社の資料により明治の地図を調べると、『明治41年調査 麹町区全図』に描かれていた【初代】八重洲橋は、明治45年の『最新番地入り 東京市全図』では消えています。

外壕沿いの八重洲【麹町区・日本橋区・京橋区の境界地帯】が動き出すのは、関東大震災後の復興事業です。
日本橋区と京橋区の境界に広い八重洲通が作られ、外壕には面目を一新した【2代目】八重洲橋が新設されて、日本橋・京橋と東京駅とを直結することになりました。

東京駅南側の乗車通路から 長い木造跨線橋を仮設して 「東京駅東口」が開設されたのは1929/12/16でした。
もっとも、東口で発売する切符は電車区間のみというローカル駅で、いわば東京駅開業前に存在した呉服橋駅[35062]復活の形ですから、今日の姿とは比べものになりません。
東口跨線橋は 1939年から北口通路接続に変更された後も仮設の木造で、1952年まで使用されました。

「東京駅東口」という名は、牛込に住んでいた頃[41218]に 青バスの行先表示で覚えた記憶があります。
1952年に大学生として上京した時には、既に「八重洲口」の名が使われていたように記憶していました。
しかし、鉄道歴史地図 都電土橋線を用いて 駅前の停留所名を調べたら、1952年までは東京駅東口で、1953年から東京駅八重洲口となっていました。

戦後になると、戦災瓦礫処理により呉服橋の外壕が埋め立てられ、1951年に戦後初の高層ビルである第一鉄鋼ビルが完成するなど、新たな動きが出てきました。
それより前、1948年には東京駅八重洲口新駅舎ができて、木造2階建ながら好評を得たいたのですが、失火により半年で焼失しています。

1952年は鉄道創業80周年で、その記念事業として 高層ビルによる八重洲口新駅舎が推進されることになりました。
百尺という高さ制限の存在した時代ですが、規制緩和を見越して計画されたのが 地上12階の鉄道会館です。
1954年に6階までが完成し、上層階には大丸百貨店などが入居しました。
駅施設と民間施設とが同居する民衆駅の「はしり」になりました。
第2期工事で12階になったのは1966年です。
このビルは、八重洲口の再開発に伴って2008年に解体されました。
[15604] 2003年 5月 20日(火)20:51:23Issie さん
おろしゃ
[15467] KN さん
[15545] ニジェガロージェッツ さん

考えてみれば,なぜ「ロシア」なの?ってのは結構謎かもしれませんね。

英語(アングル語,イングランド語)では Russia,「ラッシャ」ですね。聞きようによっては「ロシア」に聞こえないこともない。文字をそのまま読めば「ルシア」ですが。
参考までに,近代の日本語に影響を与えそうな英語以外の言語での呼称を確認すると,
 ドイツ語: Russland (ルスラント) --- ss は“エスツェット”
 オランダ語: Rusland (ルスラント)
 フランス語: Russie (リュスィ)

外にスペイン語やポルトガル語が日本語に影響を与えそうですが,この両国が圧倒的な影響力を持った16世紀末から17世紀初めにはロマノフ朝はまだ成立せず,広域地名としての「ロシア」が日本語に入ってくることはなかったでしょう。ロマノフ朝成立当時のオランダ文書でも「むすこうびあ=モスクワ大公国」と呼んでいるわけですから。
やっぱり,モンゴル経由の「おろす」「おろしゃ」という呼称が日本語に既に入っていたせいがあるのではないでしょうか。
そもそも,江戸幕府がロシアと接触したのは,アメリカよりもずっと古いのですよね(イギリスとは,家康の時代の三浦按針[ウイリアム・アダムズ]を通じた接触があったけれども,家光以降は断絶していますから)。
[77689] 2011年 2月 17日(木)23:12:08【1】hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (1)ピョートル1世に謁見した大坂の伝兵衛
[77647] ニジェガロージェッツ さん
この教科書の「極東地域」の冒頭には日本との国境の形成の推移について,その概説が書かれている
[77655] オーナー グリグリ さん
事実を淡々と記述していることに驚きを感じました。

この機会に、日本人とロシア人との出会いを記してみます。紹介していただいた教科書の日露国境形成史の前段階です。

歴史年表を見ると、“天文12年(1543)ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝える”とあります。
倭寇などの形で海外進出していた一部の日本人は例外として、この漂着事件が 日本にとり 西洋人と出会うきっかけになりました。鉄砲には 猟銃としての用途もありましたが、何と言っても戦争のやり方を一変させた武器であり、その後の 日本国内の統一に 大きな役割を果しました。

「西洋」から来たのに「南蛮人」とは方角違いですが、ポルトガル人の東南アジアにおける拠点は、日本から見て南【正確には南西】にある マラッカ(マレー語ではムラカ)でした。
「紅毛人」来日も、その第1号は リーフデ号 漂着(1600)でした。独立後間もないオランダは、小さな国ながら驚異的な勢いで海外進出し、1602年に設立されたオランダ東インド会社VOCはジャカルタを本拠地としました。
新大陸アンデス原産の「じゃがいも」も、ジャカトラとも呼ばれたこの南の港から日本にもたらされました。

そして、1853年の黒船騒ぎとなるわけですが、ペリー艦隊[15871]も 上海・沖縄経由で南から日本に来航し、太平洋の基地としては小笠原[26683]も使いました。

でも、西洋人が日本を訪れたのは、南からだけ ではなかったのでした。
「元文の黒船」という事件がありました。元文4年(1739)に 仙台湾と安房沖とに現れた異国船。
日本側としては、正体不明の相手に 強硬な措置を取らず、静観しました。異国船は、船員が上陸したものの 間もなく退去。
幕府は、現地住民から食料などを買った銀貨を 長崎のオランダ商館長に照会し、ロシア船であったことを知りました。
政府間交渉はなかったものの、この事件により、幕府はロシア帝国の存在を公式に確認することになりました。

ロシアと言えば、遠いヨーロッパの国。そのロシア人が東方に進出していることは、長崎のオランダ人から聞いてはいましたが、現実にロシア船が 北の海から現れたことは、8代将軍吉宗にとってもショックだったと思います。

では、当時のロシアはどんな状況で、日本の事情にどの程度通じていたのか?

ロシア人の シベリア進出のさきがけとなった イェルマークは、大雑把に言えば織田信長の同時代人です。
そして、江戸幕府より少し遅れてロマノフ朝が成立した 1613年には、ロシアの版図は およそイェニセイ川の線まで広がり、17世紀を通じて更に拡大を続けました。

彼等は何を求めて この極寒の大地に 領域を広めたのか?
大航海時代に 海の道を切り開いた人たちが 最初に狙った スパイス に相当する「お宝」は、毛皮だったのではないでしょうか。
ロシアの版図は、1689年に清国との間で結んだネルチンスク条約により 南限だけは定められました。
無制限の東側は 既にオホーツク海を越えてベーリング海岸のアナドィリ砦に達し、18世紀になると、アレウト列島からアラスカに及びました。

コサックの隊長アトラソフは、1696年にアナドィリ砦から出てを南西に進み、この大きなカムチャツカ半島を征服したとされます。
この過程で、現地人部落の中に 大坂の商人 伝兵衛 という漂流民が発見されました(1697)。
伝兵衛はシベリア政庁のあったヤクーツクを経てモスクワに送られ、1702年にピョートル1世に謁見しています。
伝兵衛は、皇帝に対して帰国を嘆願したのですが許されず、ペテルブルグに作った日本語学校の教師として働くことになりました。

ロシアとしても、オランダなどからの情報等を通じて聞くだけでなく、1678年に北京に派遣したスパファリーの報告書により、日本の事情を調べていました。
そして ここに至り、日本人漂流民という重要な情報源を手に入れることになりました。
切支丹・海外渡航・長崎以外での外国交易などの禁止事項も伝兵衛から聞き出したはずです。
そして、日本との交渉に備えて必要になる通訳養成の手がかりも得ました。

このようにして、日本とロシアの接触は、日本の漂流民をロシアが拘束し、情報源 兼 日本語教師として利用する 第一段階から始まりました。
東北アジア研究第2号に、日本の漂流民とロシアの対応に関する講演原稿(平川新)が掲載されており、伝兵衛に続く同様の事例も紹介されています。
[77693] 2011年 2月 18日(金)19:43:58【1】hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (2)シュパンベルク、ラクスマン、レザノフ、…
日露国境形成交渉に至る前段階として、日本人とロシア人との出会いを追います。
前回[77689]の末尾に紹介した 東北大学の 平川論文 では、17世紀から19世紀の日露関係を 四段階に区分しています。

第一段階は、ロシアが 伝兵衛を始めとする漂流民に出会い、日本に対する関心を深めていった時代です。
平川論文の 5/12コマには、シュパンベルグ【注・追記】が、ロシア政府から 日本航路開発と通商可能性調査を命じられ、1738年から 1742年にかけて 三度の日本遠征を試みたことが記されています。
【注・追記】
Martin Spanberg の千島・日本探検は、Vitus Bering の第二次北方探検と同時期に行なわれました。なお、ベーリングの 第一次探検では ベーリング海峡が 再発見されています(1728)。Bering も Spanberg も デンマーク生まれのロシア海軍大尉でした。
ところで、ヨーロッパの北の方の国の 難しい発音は、落書き帳の話題 になったことがあります。デンマーク語では BERG は ベアになるそうです。例えば ホルベア組曲
今回の投稿をした際に、最初は平川論文に従って「スパンベルグ」と書いたのですが、ロシアでの表記[77695] Issie さん を参照して、「シュパンベルク」に改めました。

シュパンベルクは 第2回の探検で日本に到達しました。これが日本側に記録された「元文の黒船」[77689]です。
こうして日本への航路を開拓したロシア。漂流民送還をエサに、日本との通商を求めてくる第二段階の構図が見えてきました。

第二段階では、井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」などで有名な漂流民 伊勢白子の 大黒屋光太夫 が登場します。
彼が 1783年に漂着した場所は アムチトカ島です。この島が属する アレウト列島(Aleutian Islands)に ロシア人が来たのは1741年。1867年にアラスカの一部として米国に売却するまでの 126年間は ロシア領時代でした。
この天明3年(1783)には、アイスランドのラキ山と 日本の浅間山とが噴火[24108]しており、海難は 全地球的な異常気象と 関係があったのかもしれません。

光太夫は カムチャツカ、ヤクーツク、イルクーツクと連行され、帰国の嘆願書を出しましたが 実現せず、お定まりの日本語教師を命じられます。
しかし、ここで博物学者のキリル・ラクスマンが 救いの手を差し伸べてくれました。彼に伴われてペテルブルグに赴き、女帝エカテリーナ2世に直訴した結果、帰国の許しが出ました。日本への航路を手に入れたロシアの方針は、漂流民送還を通商交渉に利用するように変ったのですね。

日本への使節は、キリルの次男である アダム・ラクスマンで、光太夫は通訳として従い、1792年に根室到着[45234]
船は函館に回航して 松前で交渉。松平定信時代の幕府は、これまで認めなかった帰還民を受け入れ、長崎入港の許可証を与えます。これは ロシア側に 通商交渉へのゴーサイン と受け取られました。

ラクスマン来航により 北辺防備の必要性に気がついた幕府は、寛政11年(1799)に東蝦夷地を幕府の直轄領とし、天文方として出仕していた津和野藩士 堀田仁助に命じて、蝦夷地への航路開拓と測量をさせました。政徳丸による 品川湾[42889]から厚岸湾まで 3ヶ月の測量航海は、伊能忠敬に先んじる成果として生かされました。

ロシア船に対する 長崎への入港許可は、ラクスマン自身ではなく、次に漂流民を届けた レザノフにより 行使され、文化元年(1804)に 通商交渉が再開されました。
レザノフは ロシア領アメリカ(アラスカ)の毛皮を扱う 露米会社を設立した人物ですから、本国から遠く離れた この地域への 食料供給基地として、日本との交易に期待していました。

しかし、松平定信が失脚して保守政権になっていた幕府の対応は、レザノフの期待を完全に裏切るものでした。
ロシア使節を 半年も待たせたあげく 通商を拒否し、食料も底をついたロシア船を 日本から追い出してしまったのです。
独占状態を続けたいオランダなど、既存の利権集団の陰謀?が あったのかもしれませんが、ロシアは憤慨。
こうして日露両国が衝突する第三段階へと進みます。

第三段階は 1806年に始まりました。レザノフの部下 フヴォストフが、樺太や択捉島などで日本人を襲撃。
和暦では 文化3年にあたり、「文化露寇」と呼ばれます。
1811年になると、今度は国後島の測量に来たゴローニンを日本側が捕縛。
ロシアは 捕虜交換でゴローニンを救おうとしたが、日本が応じないので、国後沖で 高田屋嘉兵衛を捕虜にしました。
このような両国の緊張状態は、1813年にようやく解決しましたが、その背景には、自分自身が捕らえられながらも、日露両国を説得して誤解を解き、人質解放を実現した高田屋嘉兵衛の努力がありました。
[77711] 2011年 2月 22日(火)19:51:04hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (3)オランダの忠告、アメリカ艦隊登場
日本人とロシア人との出会いの歴史は、17世紀末に カムチャツカで発見された 伝兵衛に始まりました[77689]
18世紀末には 最初のロシア使節が 日本に派遣され、19世紀初頭にかけて 日露両国の 公式な接触が行なわれたものの(平川論文 の第二段階)、通商合意に至らなかっただけでなく、外交上の不手際もあって、襲撃事件やその報復という、不幸な第三段階を招きました。[77693]

ゴローニンと 高田屋嘉兵衛とが 釈放されて、こじれた紛争が 一応解決した 文化10年(1813)から 40年後、1853年の プチャーチン来航により、日露関係は ようやく新たな段階を迎えます。
しかし、第四段階に入る前に、日露関係が停滞していた この40年間に 大きく変った世界の情勢、日本の環境を認識しておく必要があります。

…というわけで、本筋のロシアから少し離れます。

日本との通商を求める働きかけは、イギリス人ゴルドンの 浦賀来航(文政元年=1818)など、ロシア以外の欧米諸国からも ありました。しかし、幕府は 通商拒否の姿勢を崩さず、1825年には 異国船打払令を出します(葵文庫)。
1837年に 漂流漁民を連れて浦賀に来航した アメリカの貿易船モリソン号も、砲撃により 追い払ってしまいました。

このような 世間知らずの行動をしていた日本に対して、忠告してくれた国があります。
17世紀以来、欧米と日本との貿易を独占していた オランダです。
レザノフによる通商交渉[77693]の時代には、長崎のオランダ商館長による 通商特権継続の請願を出して、まだ日本市場独占体制を 維持する方針であった オランダですが、19世紀も半ばになると、国際協調へと舵を切りました。

今爰ニ 観望シカタキ一大事起レリ、素ヨリ両国ノ交易ニ拘ルニ非ス、貴国ノ政治ニ関係スル事ナルヲ以テ、未然ノ患ヲ憂ヒ、始テ殿下ニ書ヲ奉ス、伏テ望ム此忠告ニ因リテ其未然ノ患ヲ免レ給ハン事ヲ

オランダ国王は、目先の日蘭貿易の利益を捨て、日本に対して 諸外国との通商を開くように忠告する国書 を送り、世界情勢は変った、日本が鎖国を続けることは 無理であると説き、清国の二の舞にならぬようにと 戒めてくれました。1844年のことです。

“今ヲ距ルコト三十年前、欧羅巴ノ大乱治平セシ時”つまり ナポレオン戦争終結後の ヨーロッパが 産業革命の時代に入ったこと、清国は アヘン戦争(1840-42)に敗れ、“国人数千戦死シ、且数府ヲ侵掠敗壊セラルヽノミナラス、数百万金ヲ出シテ火攻ノ責ヲ贖フニ至レリ”と説き、“今亦此ノ如キ災害ニ罹リ給ハントス”る貴国も、“異国人ヲ厳禁スル法ヲ弛メ給フヘシ”と忠告しています。

幕府は 天保13年(1842)に、異国船打払令を 少し緩和して、薪水供給だけは認めていました。
しかし、その水野忠邦も 既に力はなく、阿部正弘政権の日本は、折角のオランダの忠告にもかかわらず、諸外国に対して 通商の門戸を開くことには 踏み切れませんでした。
弘化3年(1846)の アメリカのビッドル艦隊浦賀来航 の際も、拒絶の姿勢を保ち、なんとか当座をしのぎました。

ここで 対日外交に新たに登場した アメリカ合衆国。
ビッドル来航の 1846年に始めた メキシコとの戦争で カリフォルニアを獲得し(1848)、引き続く ゴールドラッシュにより 太平洋岸の人口が急増してゆき、海の彼方の 日本への関心も 一段と深くなってきます。
そして、日本開国については、1846年の失敗経験をふまえて 更に準備を整え、7年後 ペリー艦隊の成果に結びつけたのでした。
[77717] 2011年 2月 25日(金)19:58:21【2】hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (4)プチャーチンが来日して、日露和親条約を結ぶ
嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に黒塗りの外輪蒸気船を含む4隻の外国船が来航。いわゆる黒船です。
その正体は、マシュー・ペリーの指揮するアメリカ東インド艦隊で、相模国三浦郡の久里浜に上陸して、日本の開国を要求する国書を浦賀奉行に手渡しました。日本側は、将軍(12代家慶)の病気を理由に、1年間の返答猶予を求め、ペリーは翌年の再来航を約して、6月12日に浦賀を離れました。

ペリーが去った翌月、嘉永6年7月18日に長崎に入港したのが、これも4隻のロシア艦隊です。指揮官のロシア使節は、エフィム・プチャーチン。皇帝ニコライ1世からの国書に記された目的は、樺太・千島の日露国境を定め、日本との交易を開くことでした。

ここで、ちょっとお断りしておきますが、シリーズのタイトル“北から訪れた異国人との出会い”は、必ずしも正しくないのです。
シュパンベルク探検隊[77693]の根拠地は オホーツクですが、その後の外交使節の 出発地は首都のペテルブルクです。
もっともアダム・ラクスマンの経由地はシベリア経由オホーツク。レザノフは南米回り、カムチャツカ。
でも、今回のプチャーチンは、首都を 1852年に出て、喜望峰回り 小笠原経由で、南から日本を訪れたようです。

ペリーの時は将軍の病気を理由に返事を先送りしましたが、今度は 13代将軍家定に代替わりしています。
幕府は、応接掛として 筒井政憲・川路聖謨らを長崎に派遣して、12月から交渉させました。
翌年正月4日まで行なわれた協議で、択捉は日本領、樺太は実地調査の上、再協議するという日本の主張が通りました。
通商条約については、当面締結を拒絶するが、日本が他国と通商を結んだ場合は、ロシアにも同条件で許すということで合意が成立し、ロシア船は 一旦日本を去りました。

さて、対米交渉は1年間待たせたつもりでしたが、アメリカの軍艦は 嘉永7年正月早々から集結し始め、合計9隻もの大艦隊になりました。
ペリーが前年訪れた 浦賀や久里浜は 江戸湾の湾口より外側ですが、今回は 日本の領海深く 江戸湾内に侵入しました。
2月6日から 林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜[54351]の初舞台になりました。

アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。
力ずくで鎖国の扉を こじ開けた成果である、神奈川条約第2条の主文を写しておきます。
伊豆下田松前地箱館の両港は日本政府に於て亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本にて調候丈は給候為メ渡来之儀差免し候 尤下田港は約條書面調印之上即時にも相開き箱館は來年三月より相始候事

さてロシアですが、以前から続いていたトルコとの争いはエスカレートして、トルコの同盟国のイギリス・フランスから宣戦布告されてしまいました。クリミア戦争です。東洋でもイギリス・フランスの軍艦に攻撃されるおそれもあります。
プチャーチンは3隻を沿海州に残し、自らは新しい旗艦のディアナ号単独で再び来日します。最初はペリーが開港させた箱館に行ったものの、そこでの外交交渉は拒否され、結局は下田に回されて、江戸から来る川路聖謨らと交渉することになりました。

英仏とのトラブルも心配でしたが、災難は別のところからやってきました。日露協議が始まって間もなく、11月4日(1854/12/23)に突然の大地震と津波に襲われたのです。この災害については別稿に記します。

突発的な災害による一時中断はありましたが、プチャーチンは、地震の9日後には外交交渉を再開させ、安政元年12月21日(1855/2/7)には 日露和親条約 の締結に成功しています。フーチヤチン、筒井・川路の名を 画像 により確認することができます。

日米和親条約との最大の違いは、第2条で国境について取り決めていることです。
今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に屬す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし

先に[77647]で ニジェガロージェッツ さんが紹介してくれたロシアの教科書の記述はこれに基づいています。
1855年,初めての露日条約《通商と国境について》【中略】において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。

【中略】=(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功) について。
ニジェさんは、“日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの”と評しておられます。
これは、「下田条約を調印した 1855年の 時代背景の説明」と 単純に理解すれば よいのではないでしょうか。
「1855年は クリミア戦争中で、ロシアにとって 外交的に不利な時代であった。」
それだけのことで、日本との関係や、極東でのイギリスとの覇権争いにまで言及したものと、深読みする必要はないと思われます。

日付について。
ペリーとプチャーチンが再来日した嘉永7年(1854)は、異国との応接に慌ただしい年でしたが、4月には京都大火・内裏炎上、11月には巨大地震と津波に襲われ、災異が続いた年でもありました。そこで、嘉永7年を改めて安政元年と為す という宣下(11月27日)により、改元が実施されました。
日露和親条約は改元後ですから、もちろん安政元年12月ですが、日米和親条約や地震のような改元宣下よりも前の事象も、歴史記録としては嘉永7年でなく安政元年になります。だから安政東海地震。

ところが、日露和親条約が調印されたのは安政元年も押し迫った 12月21日なので、年初の決め方の異なる太陽暦では 1855年になってしまいます。政府が好んで使う「グレゴリオ暦換算」[49122]による表示では、1855年2月7日。
これが、「北方領土の日」[77647] を「2月7日」とする根拠です。
当時のロシアが使っていたのはユリウス暦で、グレゴリオ暦との差は12日ですから、1855年1月26日という勘定になります。ところが、条約の前書には「魯暦第一月廿七日」とあります。なぜ?
[77726] 2011年 2月 26日(土)23:49:14hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (5)ディアナ号の遭難と ヘダ号の建造
[77717] hmt
【嘉永7年、下田に来たプチャーチンは、】11月4日(1854/12/23)に 突然の大地震と津波に襲われたのです。

「安政東海地震」【注】の名で歴史に記録されている巨大地震です。ディアナ号は大津波に翻弄されて大破。
辛うじて沈没だけは免れたました。
【注】
「安政地震」とされる理由は、「嘉永七年を改めて安政元年と為す」という改元詔書のためです[75457][77717]
翌日の安政南海地震も、「稲むらの火」 の物語で知られる津波を伴いました[36355][57891]

津波に依る混乱の中でも、プチャーチンは日本人を救助し、医療支援を申し出るなどして、好感を持たれたようです。
もちろん、大破したディアナ号の修理をする必要がありますが、下田では 敵国(英仏)の船にみつかる危険があります。

修理用の立地を探した結果、伊豆西岸の戸田(へだ)村の砂浜が選ばれ、日本側の許可を得て 20里ほどの距離を多数の漁船・荷船で曳航することになりました。ところが、不運にも曳航中に強風で駿河湾の奥に流され、田子の浦沖で沈没。今度は日本側が 脱出したディアナ号乗員の救助をして、500人全員が救われました。富士市 ディアナ号の錨

ディアナ号の遭難については、既に[62450] ニジェガロージェッツ さん の記事がありました。
1854年に下田で結ばれた日露和親条約とその顛末ですが、その時のロシア側の全権代表はプチャーチン提督(Е. В. Путятин)で、安政の大地震の津波により大破し、その後沈没した船はフリゲート艦ディアナ号(фрегат Диана)でした。

さて、ディアナ号が失われた後、どうするか。
プチャーチンは、日本側の協力を得て、戸田村で代りの船を建造することにしました。
もちろん、ディアナ号 2000tのような 大型船は無理ですが、幸い 100t程度の小型洋式帆船の設計図を持っていたので、日本側から提供された 材料と船大工とを使って 建造することになりました。幕末造船秘話

これは日本にとっても、西洋の造船技術習得の機会でした。
戸田造船郷土資料博物館 には、プチャーチンが願い出た代艦の建造を、勘定奉行川路聖謨や老中阿部正弘が積極的に支援し、現場の監督として、韮山代官の江川太郎左衛門を任命したとあります。

江川家は、代々太郎左衛門を名乗る世襲の代官で、時の当主(名=英龍、号=坦庵)は、日本のミケランジェロ(Newton 2007年5月)にも擬せられる 驚くべき多芸多才の行政官・政治家・科学技術者で、武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐に及ぶ 50万石以上の天領を管轄しました。

最初の黒船が去った後、幕府が直ちに始めたのが 江戸前の砲台、つまり「御台場」工事ですが、その築造計画や 大砲の製作を一任されたのも 坦庵でした。韮山にその跡が残る 反射炉は、大砲鋳造に必要な鉄の融解を目的としたものです。
砲術訓練用に日本語の号令を作ったり、農兵隊を組織したのも、彼の海防技術の一部です。

津波で大破したディアナ号の修理地として 戸田(へだ)を選んだのも、おそらく伊豆に詳しい坦庵でしょう。
そして、代艦の建造を通じて洋式帆船を造る技術の 日本への移転を図った このプロジェクトの 真のプロデューサーは、坦庵だったのではなかろうかと推測されます。
残念ながら、彼は 船の完成を見ずに 安政2年正月に病死しました。過労死?

地震津波から約4ヶ月後の 安政2年3月10日、約100日の工事で代替船は完成しました。
感謝したプチャーチンは、この船を「ヘダ号」と命名しました。
もちろんディアナ号 500人の乗組員を全部乗せることはできませんが、約 50人が乗船して ロシアに帰還しました。

洋式帆船建造について、坦庵の役目は プロデューサーであり、“現場の監督”という言葉がふさわしいのは、むしろ 上田寅吉 と思われます。
ヘダ号の後で、幕府は、彼に同型船を6隻作らせました。
そして、長崎海軍伝習所、オランダの造船所への留学を通じて 技術を習得させました。
明治3年に、明治政府は 海軍横須賀造船所[77630]の初代工長に 上田寅吉を任命しました。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示