外国の連称地名に目を向けてみます。最初は国名から。
「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という接続詞入りの国名は、日本でもよく知られています。
外務省のサイト では「英国」の後に括弧書きで記され、普通に使われている「イギリス」は使われていません。
「United States」や 「United Ntions」は 複数形なのに、「United Kingdom」は単数形です。
複数の王国の連合体ではなく、連称両地域に及ぶ単一の「連合王国」であるという意味なのでしょう。
「連合王国」という存在自体は、それまで同君連合関係にあったイングランド王国とスコットランド王国とが 1707年に統一されてできた グレートブリテン王国 に遡るのでしょうが、連称国名という形で使われるようになったのは、1801年のアイルランド王国合併以来です。
「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」からは、1922年にアイルランド自由国が独立し、現在の「…及び北アイルランド…」という国名になりました。
3地域(ウェールズは無視されている)を表す3つの十字を組み合わせた国旗(ユニオンジャック)も、国名と同様に一体化した連合王国を象徴しています。
深刻なのが第一次大戦後に誕生した「チェコスロバキア」で、正式国名もハイフンなしになったり、ハイフン入りになったり。
ナチス・ドイツに併合され、第二次大戦後にハイフンなしで復活しましたが、東西冷戦時代は東側の体制に組み入れられました。
「ビロード革命」と通称される社会主義体制崩壊後の 1990年に「ハイフン戦争」と揶揄された大論争に発展。
結局のところ、ハイフン記号でなく 接続詞を用いた「チェコ および スロバキア連邦共和国」になりました。
ところが、今度は 正書法では大文字で始まるチェコに対して 小文字で始まるスロバキアの反発が出て、例外的に 単語の先頭を大文字にした国名 になったそうです。
このように苦心の作品である連称国名ですが、1993年から連邦制が解消され、別々の国になりました。
バルカン半島の
「ボスニア・ヘルツェゴビナ」 を有名にしたのは、残念なことに、ユーゴスラビア連邦解体後の 1992~1995年の紛争によるニュースでした。
この国での対立は、複雑な民族や宗教の分布がもたらしたもので、両地域の対立という単純な図式ではありません。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、第一次大戦後には、セルボ・クロアート・スローヴェン王国の一部でした。
この3連称国名は、チェコスロバキアと共に 落書き帳の初期から登場しています
[3250]。
翌2003年にも記事
1934年に アガサ・クリスティが発表した『オリエント急行殺人事件』は、もちろん密室の列車内を舞台にしていますが、その列車が豪雪のために立往生していたのは この国でした。
【追記訂正】
ユーゴスラビア王国と改称されたのは、この小説よりも後のことと思っていたのですが、調べてみたら意外に早く、1929年でした。
従って、列車がいた事件現場(ベオグラードの南の山中)は、既に長い連称名の王国ではなかったことになります。
日本の南、赤道を越えた先にも 連称国名があります。その名は、
パプアニューギニア独立国。
世界第2の面積を持つ大きな島は、19世紀の植民地時代に東西に分割され、島の東半分は 南側の英領パプアと 北側のドイツ領ニューギニアとに分割されました(1884)。
ビスマルク諸島など周辺の島を含む旧ドイツ領は、第一次大戦後に オーストラリア委任統治領になりました。
第二次大戦では 日本軍が ラバウルのあるニューブリテン島(九州とほぼ同じ面積)などの一部地域を奪いました。
しかし、ニューギニア攻防戦では、両軍共に苛酷な自然に苦しめられたそうです。
戦後の 1949年、オーストラリア統治時代に 南のパプアと北のニューギニアとが統合され、「パプアニューギニア」という行政単位が生れました。1975年独立。日本よりも広い国です。
なお、パプア島の西半分はオランダ領東インド(蘭印
[40148])からインドネシア領になり、西イリアン→イリアンジャヤと呼ばれていました。「イリアン」の元の意味は「東」らしいので、「西イリアン」は奇妙な言葉? 現在はパプア州・西パプア州と改称。
あまり話題になることはありませんが、小さな島国で、主要な2島の名を連ねた国名があります。
アフリカでは、赤道直下ギニア湾の火山島で
サントメ・プリンシペ民主共和国。
小さな島国が たくさんある カリブ海の小アンティル諸島では、北の方に
アンティグア・バーブーダ と
セントクリストファー・ネーヴィス。南の方に
セントビンセント及びグレナディーン諸島、そしてベネズエラ沖とも言える位置に
トリニダード・トバゴ共和国。