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落書き帳

生見尾=生麦+鶴見+東寺尾

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[86460]2014年10月15日
hmt
[86456]2014年10月13日
hmt
[86455]2014年10月13日
hmt
[86439]2014年10月5日
みかちゅう

[86460] 2014年 10月 15日(水)15:40:41【1】hmt さん
Re^2:生見尾踏切
[86459] みのる さん
なぜここが「生麦踏切」と名付けられなかったのかというと、実は生麦踏切は別に存在していたからなのです。

最初に、昭和18年の横浜市三千分一地形図第13号 東寺尾 を閲覧して、ご指摘の3ヶ所の踏切道の存在を確認しました。
踏切の名称は書いてありませんでしたが、この3ヶ所中で最も東京寄りの踏切が「生麦踏切」だったのですね。
踏切の南、地図の端にある「生麦国民学校」の記載が戦時中の地図であることを物語っており、もちろん鶴見区になってからの地図です。

生見尾踏切が命名された時点で、既に生麦踏切は別に存在していたのか?
踏切関係の資料は持っていないので、日本図誌大系関東I に掲載された古い地形図【明治44年総持寺移転より前】を調べてみました。

地形図1:明治14-15年【生麦村、鶴見村の頃】
鶴見停車場の南西に見える生麦村の踏切道は、花月園前踏切の次が生見尾踏切となっています。
まだ無名踏切かも知れませんが[86459]の名称で呼びます。
生麦踏切など中間3踏切の位置では 南東からの道が途絶えて 北西側に通じていません。

ケース1:
このような2踏切の状態で踏切命名がなされたのならば、生見尾踏切は「村名優先」の結果と思われます。

地形図2:明治39年【生見尾村の頃】
5本の道すべてが踏切道と認められます。

ケース2:
5踏切の状態になってから同時に踏切命名ということになったのならば、ご指摘のように東京寄りに生麦踏切の名を使われてしまった結果ということになります。

結論:地形図で示された2踏切→5踏切の変化と、踏切命名時点との前後関係がわからないので、…

【追記修正】
ここまで読み返したところで、「花月園前踏切」という踏切名[86459]が持つ情報に気がつき、結論が出ました。

結論:花月園遊園地が開園したのは1914年でした。してみると、踏切命名の時点はこれよりも後のことです。
当然5踏切時代ということになるので、「生麦の名を別の踏切に使われた」から 村名由来の生見尾踏切になった というご指摘どおりのようです。

ご教示ありがとうございます。

ついでに、[65097]で紹介したフランス式の 彩色迅速測図 も閲覧しました。
驚いたことに、モノクロの地形図と異なり既に5踏切のように描かれていました。何故食い違うのかは不明です。
[86456] 2014年 10月 13日(月)20:44:21【1】hmt さん
生麦・鶴見あたり (2)横浜市鶴見区の変遷
現在の横浜市鶴見区は、東海道の宿場で言うと川崎と神奈川との間です。
踏切名として残された生見尾[86455]を含めて、明治大合併前後の旧村名 と、この付近の 現在の地図 を示しておきます。

校歌に「生見尾の里」という言葉が出てくる東台小学校を中心にした地図を「3D風」にして眺めると、鶴見駅西口の総持寺から広がる下末吉台地と鶴見川が流れる低地とからなる地形であることが よくわかります。

そして明治大合併によって誕生した3村のうち 生見尾村は 鶴見川の右岸(西岸)であり、東海道沿いの南が生麦、東の曲流部が鶴見、その西側の台地が東寺尾という地名であることが知れます。潮田・矢向などの町田村は鶴見川の左岸(東岸)。そして、下末吉・北寺尾・獅子ヶ谷など旭村は北部です。

これらの地名の中では、やはり東海道筋に位置し 川の名でもある「鶴見」が最有力な集落で、1872年の鉄道開業当初から鶴見駅が開設されていました。1921年橘樹郡鶴見町を名乗り、1927年の横浜市編入後の区設置にあたっても横浜市鶴見区として、川崎と神奈川の間を代表する地名になっています。

台地と低地の境目には 東海道と鉄道とが 北東から南西へと通じています。鶴見の総持寺は曹洞宗大本山なのですが 永平寺のような古刹ではなく、20世紀になってから 能登の門前[58330][80281]から移転して来ました[59353]
そして、この付近から川崎にかけての海岸は、大正から昭和にかけて造成された埋立地で、浅野総一郎など実業家たちの名前や家紋由来の地名が付けられている点でも特筆に値する存在です[49270][83552]

京急の駅名で辿ると鶴見の次は花月園前駅で、大正時代から昭和戦前には遊園地でした。戦後の競輪場も現在は廃止。
次が生麦駅。もちろん 1862年にこの地で起きた英国人殺傷事件[54415]により 幕末史を語る上で欠かせない地名です。
地名の由来については [86458]を書いたので参照願います。

次の新子安になると既に神奈川区ですが、明治19年 地方行政区画便覧の頃には、生麦村の戸長役場管内4村【生麦・子安・白幡・鶴見】に属していました。
戸数1114に達していたこの4村は、明治大合併で「生麦・鶴見」と「子安・白幡」との2村に分離しました。
「明治の大合併」とは言っても、大凡300~500戸という標準は 都市化の始まったこの地域の行政規模を 戸長役場時代よりも縮小させたようです。

「下末吉」は 関東平野の地形学では ちょっと有名な地名です。
例えば東京都地質調査業協会技術ノートNo.44中央線の 図12 を見ると、新宿駅のある淀橋台は「(S)下末吉面」であることが示されています。
関東平野の段丘の中で、武蔵野面よりも古い時代に形成された段丘に「下末吉」の名が使われているのは、最初に研究されたフィールドだからでしょう。
町名としては第二京浜新鶴見橋の西側、三ツ池公園の手前までの一帯であることがわかります。明治大合併による3村時代は旭村でした。

今回の記事では横浜市になる前の生麦付近の様子を主として記しましたが、市制町村制以後の大きな流れとしては、もちろん横浜市における市域拡張の推移があります。

こちらのサイトでは 市の変遷 により 1901年から1939年まで6次に亘る横浜市域の拡張が行なわれ、1927年に初めて設置された5区から現在の18区になった経過もわかります。
しかし、この日本一の人口を持つ市の成長記錄を示す地図となると、横浜市のサイト内を探しても適切なものを見つけることができませんでした。

特集・神奈川区の人口 の 3/12コマに「市域拡張沿革図」があったのですが、モノクロで区との関係も示されておらず満足できません。
統計キッズルームの地図もいまいち。図説横浜の歴史 第4章 横浜市域拡張と区制の施行 というページがありましたが、肝心の図が見当たりません。

結局のところ、横浜市の変遷図については、つかんぼやとさんのパラパラ地図で 神奈川県 を見ることにしています。

参考までに他の大都市を探したら、大阪市神戸市の変遷図がありました。
政令指定都市以外では、WARPに保存されていた長崎市の変遷図を紹介したこともあります[86169]
[86455] 2014年 10月 13日(月)20:24:08hmt さん
生麦・鶴見あたり (1)生見尾踏切
[86439] みかちゅう さん
鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。

京浜間の電車で 何度となく通過した経験があるはずの踏切です。しかし、「生見尾」という地名は 記憶にありませんでした。
聞き慣れない合成地名に惹かれて、この踏切や付近の地名について調べる気になりました。

この付近は「生麦」という、一度聞いたら忘れられない地名で知られています。
それを差し置いて 読み辛く書き難い「生見尾(うみお)」が踏切の名称に採用されたのは、どのような事情があったのか? 

生見尾の由来は、橘樹郡に存在した村名以外は考えられない。このことから、命名時期は 1889年~1921年の間になります。
これが踏切のできた時期か? 私の推察は No! です。1872年に 日本初の鉄道 が開通するより前から東海道筋の漁村として栄えていた生麦村には、自然発生的な【無名の】踏切道が 最初から存在したであろう と思われます。

しかし、時代が進んで 鉄道と道路との交通量が増加した明治中期以降になると、鉄道企業としても 遮断機など防護施設を整備する 必要が生じてきました。こうなると、鉄道管理の対象設備の一つなので名前が求められます。
その時期が、たまたま橘樹郡生見尾村を名乗っていた時代だったので、生見尾が踏切名に採用されました。
これが、なぜ「生麦踏切」でなく「生見尾踏切」なのか? という疑問から発して巡らした想像の解答です。
当っているでしょうか?

その後の地名は、橘樹郡鶴見町大字生麦から横浜市鶴見区生麦町へと変化しましたが、踏切名は「生見尾」のまま現在まで使われました。
意図したわけではないが 旧自治体名を後の世に伝える機能 を発揮することになったわけです。

JRと並行する京急にも踏切があります。こちらは1905年に京浜電気鉄道として開業した当初から生麦駅が設置されており、踏切の名も生麦第一踏切だと思います。

私鉄の競合線が誕生した後の国有鉄道は、対抗して 1914年京浜間の 省線電車専用線 を開業しました[39140]
昭和初期には 品鶴線経由の貨物線 も開業しました[63856]
戦後の 1980年からは このルートが旅客用に転用されて 横須賀線電車が走るようになりました。
横須賀線と湘南電車との分離【SM分離】対応して増設された 横浜羽沢経由の貨物新線は 踏切の手前で地下に潜ったので、生見尾踏切道は3複線【注】のまま維持されました。しかし、その横断路は距離が40mもあり、路面には高低差もある状態です。
【注】
踏切道を通るのは東海道本線・京浜東北線・横須賀線ですが、その他に地下貨物線【上記】と高架でこの地点を通過する高島線[82973]とがあり、京急を含めると合計6本もの複線鉄道が並行する鉄道輻輳地帯になっています。

2001年以降の湘南新宿ラインを含めて通過する列車数は増加しており、生見尾踏切は「開かずの踏切」になってきました。
踏切道が開く時間は、歩行者の速度 5km/h を想定して計算されているということで、長い踏切道は 足弱の人にとり かなりの難所です。
近くには歩道橋も併設されていましたが、2013年8月には 5km/h の速度に足がついて行けない老人の 死亡事故発生という事態になりました。
そして 横浜市は 生見尾踏切を廃止し、大型エレベーター付きの歩道橋を新設する方針を決めました(神奈川新聞)。
その一方で、生活道路として利用している地元からは踏切の存続を望む声も多く、生見尾踏切問題は安全確保と地域分断とのジレンマで揺れているようです。参照

踏切事故ではないのですが、その50年前 1963/11/9【偶然ですが 三井三池炭鉱爆発事故と同日】には もっと大規模な 鶴見事故 がありました。
その現場は 生見尾踏切から少し先の 神奈川区との境界である滝坂踏切付近でした。下り貨物線で 脱線した貨車が 隣の東海道本線に障害を及ぼし、進入してきた横須賀線上下線電車との多重衝突を起した事故です。死者161、重軽傷120。
[86439] 2014年 10月 5日(日)23:31:37みかちゅう さん
高速道路の跨道橋の名称
[86436]グリグリさん
跨道橋の名称の効率的な調査方法、どなたか良い智慧はありませんか。
掲載されているか実物を確認していないのですが、とりあえず住宅地図に当たってみるというのはどうでしょうか。バスの停留所なら確実に載っているので、地方都市の30年前の路線網を復元するという楽しみ方もありますよ。路線図や系統一覧なんかも掲載されていることも。
高速道路のカントリーサインもストリートビューで現地に行かなくても見ることができるのですね。車中から見ても、知らないものが絵柄だと「何の絵なんだ?」だし、写真に撮ろうとしてもブレたりでうまくいかないことが多かったものです。そんな状態だったのが家に居ながらでも見られるようになったのは、良いことなんだか悪いことなんだか。

鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。


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