[86439] みかちゅう さん
鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。
京浜間の電車で 何度となく通過した経験があるはずの踏切です。しかし、「生見尾」という地名は 記憶にありませんでした。
聞き慣れない合成地名に惹かれて、この踏切や付近の地名について調べる気になりました。
この付近は「生麦」という、一度聞いたら忘れられない地名で知られています。
それを差し置いて 読み辛く書き難い「生見尾(うみお)」が踏切の名称に採用されたのは、どのような事情があったのか?
生見尾の由来は、橘樹郡に存在した村名以外は考えられない。このことから、命名時期は 1889年~1921年の間になります。
これが踏切のできた時期か? 私の推察は No! です。1872年に
日本初の鉄道 が開通するより前から東海道筋の漁村として栄えていた生麦村には、自然発生的な【無名の】踏切道が 最初から存在したであろう と思われます。
しかし、時代が進んで 鉄道と道路との交通量が増加した明治中期以降になると、鉄道企業としても 遮断機など防護施設を整備する 必要が生じてきました。こうなると、鉄道管理の対象設備の一つなので名前が求められます。
その時期が、たまたま橘樹郡生見尾村を名乗っていた時代だったので、生見尾が踏切名に採用されました。
これが、なぜ「生麦踏切」でなく「生見尾踏切」なのか? という疑問から発して巡らした想像の解答です。
当っているでしょうか?
その後の地名は、橘樹郡鶴見町大字生麦から横浜市鶴見区生麦町へと変化しましたが、踏切名は「生見尾」のまま現在まで使われました。
意図したわけではないが 旧自治体名を後の世に伝える機能 を発揮することになったわけです。
JRと並行する京急にも踏切があります。こちらは1905年に京浜電気鉄道として開業した当初から生麦駅が設置されており、踏切の名も生麦第一踏切だと思います。
私鉄の競合線が誕生した後の国有鉄道は、対抗して 1914年京浜間の 省線電車専用線 を開業しました
[39140]。
昭和初期には 品鶴線経由の貨物線 も開業しました
[63856]。
戦後の 1980年からは このルートが旅客用に転用されて 横須賀線電車が走るようになりました。
横須賀線と湘南電車との分離【SM分離】対応して増設された 横浜羽沢経由の貨物新線は 踏切の手前で地下に潜ったので、生見尾踏切道は3複線【注】のまま維持されました。しかし、その横断路は距離が40mもあり、路面には高低差もある状態です。
【注】
踏切道を通るのは東海道本線・京浜東北線・横須賀線ですが、その他に地下貨物線【上記】と高架でこの地点を通過する高島線
[82973]とがあり、京急を含めると合計6本もの複線鉄道が並行する鉄道輻輳地帯になっています。
2001年以降の湘南新宿ラインを含めて通過する列車数は増加しており、生見尾踏切は「開かずの踏切」になってきました。
踏切道が開く時間は、歩行者の速度 5km/h を想定して計算されているということで、長い踏切道は 足弱の人にとり かなりの難所です。
近くには歩道橋も併設されていましたが、2013年8月には 5km/h の速度に足がついて行けない老人の 死亡事故発生という事態になりました。
そして 横浜市は 生見尾踏切を廃止し、大型エレベーター付きの歩道橋を新設する方針を決めました(
神奈川新聞)。
その一方で、生活道路として利用している地元からは踏切の存続を望む声も多く、生見尾踏切問題は安全確保と地域分断とのジレンマで揺れているようです。
参照
踏切事故ではないのですが、その50年前 1963/11/9【偶然ですが 三井三池炭鉱爆発事故と同日】には もっと大規模な
鶴見事故 がありました。
その現場は 生見尾踏切から少し先の 神奈川区との境界である滝坂踏切付近でした。下り貨物線で 脱線した貨車が 隣の東海道本線に障害を及ぼし、進入してきた横須賀線上下線電車との多重衝突を起した事故です。死者161、重軽傷120。