先週に第5回落書き帳オフ会が行なわれた奥羽国境・湯瀬温泉の北25kmにある小坂町。
ここには、鉱山町のかつての繁栄を窺わせる素晴らしい文化遺産がありました
[67381]。
この地をルーツとして、日本の各地に花開いた産業に思いを寄せながら、
このシリーズ を綴っています。
政界とのコネを利用して明治17年に「
小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、数年間採掘を続けている間に、「土鉱」の埋蔵量が次第に涸渇してきました。銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。
この頃、久原房之助という青年がいました。藤田伝三郎の実兄・久原庄三郎
[67425]の息子です。慶應義塾を出た後、陶磁器などを輸出する森村組(ノリタケカンパニーリミテドの前身)に入社。ニューヨーク勤務の機会をつかんだと思ったら、突然、井上馨に呼び出されました。
“藤田3兄弟の跡取りが外国などとんでもない。小坂に行け。”…鶴の一声には逆らえず、明治24年 藤田組入社。
日清戦争で景気は上向き、水力を利用した自家発電によって電化した鉱山は、ある程度操業合理化が進みましたが、根本的な問題である資源の涸渇は解決していません。
追いかけて明治30年に「金本位制」が採用されました。銀価格の暴落に見舞われ、小坂は赤字に転落してしまいました。
この頃、所長心得として采配をふるっていた久原青年が考えた小坂の起死回生策は、「銀から銅へ」の大転換でした。
原料も涸渇した「土鉱」に代えて、豊富な「黒鉱」を使う。もちろん不純物の多い複雑硫化鉱である「黒鉱」の精錬は困難で、これを利用するためには、技術革新が必要です。
実は 1896年にタスマニア島のライエル鉱山で pyritic smelting という技術が生まれていました。これは、鉱石中の硫黄分・鉄分の酸化熱を利用して溶融させる製錬法であり、久原はこの情報を早くも入手したものと思われます。
日本では生鉱吹、自溶炉とも呼ばれるこの新技術を小阪の「黒鉱」で実用化するための体制作りとして、久原は技師長も変えました。佐渡金山の技師だった仙石亮から大森銅山の武田恭作にしたのです。
武田恭作の経歴は、
旧小坂鉱山事務所の誕生 の一番下をご覧ください。
# 鉱山技術者・仙石亮という名から、私は 鉄道技術者・
仙石貢 を連想しました。彼らが兄弟か否かは知りません。
# 武田の前任地・大森鉱山は、藤田組が明治19年に手に入れ、銅を主とする再開発を試みた山です。
考えてみれば、長州萩出身の藤田伝三郎にとって、戦国時代に 尼子・大内・毛利の争奪対象だった石見大森の鉱山に対しては、特別の思い入れがあったのかもしれません。
この落書き帳では、世界遺産になる前から、
石見銀山 の名が、市名候補で話題になっていました。
冶金については門外漢ですが、推測を交えながら技術開発の大筋を記してみます。
基本的には硫化物鉱石の酸化に伴なう発熱によって溶融状態とし、還元剤として加えた炭素により銅に結合した酸素を除く。
酸化鉄などは、珪酸分と結合したスラグ(からみ)にして浮かせ、取り除く。
小坂町郷土館で得た情報によると、「黒鉱」だけでなく「黄鉱」つまり黄鉄鉱の添加も一つのポイントでした。発熱量を確保し、炭材を節約するためでしょう。
炭材投入位置についても、「羽口炭の投入」という独自の技術改良を加えています。
低品位の金鉱石・銀鉱石も、自熔精錬に必要な珪酸分として役立つので、金・銀・銅の合併精錬に適合しています。
そのほか、武田の経歴に記されているような溶鉱炉の開発も行なわれ、資源として豊富な「黒鉱」を使うため、採算性のよい回収率の設定が可能など、小坂に適合した技術が生まれました。
およそこんな筋書きで、明治33年(1900)には、「黒鉱」を処理する技術の開発に成功しました。
小坂における銅の生産量は、明治26年に 90トンであったものが、明治35年に自熔精錬法による本格設備が稼動した後は 4800トンを記録し、その後の日露戦争による銅価格の上昇もあり、小坂は宝の山になったのでした。
国の重要文化財に指定されている「
小坂鉱山事務所」
[67381] が建築されたのは、まさに小坂が繁栄期に到達した時代、明治38年(1905)7月のことでした。この事務所は1997年まで使用され、2001年
現在地に復元 されました。