都道府県市区町村
落書き帳

立科のくびれ

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[10070] 2003年 3月 1日(土)02:30:44ペーロケ[utt] さん
細長い国、市町村
[10063]startさま
しかし南西諸島も含めるとものすごいことになります。
こう書いたら沖縄の人に申し訳ないのですが、孤島を入れるのであれば、
ニューカレドニアを領有するフランスが、ものすごく細長い国になってしまいます。
うーん、それで[10044]で書いたとおり、長い都道府県に東京としたくなかったのですけどね。
(沖縄は沖縄本島だけでも結構レベルの高い細長さと判断できますけどね)
どの島を入れてどの島を入れない、う~ん、難しいですね。

ところで、本当の2位は、アフリカのガンビアかトーゴのどちらかだと思うのですけど。。。
う~ん、微妙。。。

そして、細長いコンテスト、市町村部門、
山口県東和町と、愛媛の佐田岬3町のどれかでしょうか。。。

個人的には細長い市町村かどうかは不明ですが、形の美しさでは、
特別賞として長野県の立科町を推薦しま~す!!
[39882] 2005年 4月 15日(金)21:56:40ペーロケ[愛比売命] さん
日本の地理(チリ)
[39831]ふぁいんさん
来年には「日本のチリ」もできますよ!!
来年3/1に合併して出来る新・甲府市です。
[39835]トライランダーさん
日本のチリといえば、静岡市ですね。

 かつて拙稿[10117]の中で計測したことがありますが(この頃の市町村もだいぶ合併してなくなりましたが),静岡市よりも甲府市のほうが若干細長いんですよね。残念ながら合併してしまいましたが,かつての新魚目町はまさに芸術でした。今は伊方町が一番細長いのかな??一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。一度ごらんあれ。
[39936] 2005年 4月 17日(日)14:36:41【2】ふぁいん さん
昭和25(1950)年沖縄県人口の謎&明治12(1879)年主要都市人口について
[39935] 白桃 さん

沖縄県がHPで発表している市町村別の国勢調査人口を齟齬が生じないように慎重に入力しております。
ただし、1947年はありません。
ただ、占領時下に沖縄でも国勢調査は行われていたのですかね?
記録があるから、間違いではないと思いますが・・・

やはりそうですか。私も沖縄県のHPを参考にしてデータを作成しています。
しかし、沖縄県発表の昭和25(1950)年のデータがどうもしっくりいかないのです。
各年代・国勢調査報告第1巻の付表2 都道府県の市区町村の推移によれば、

昭和25年の沖縄県
市区町村数:86
市数:6
町数:12
村数:68
県人口:914,907人
となっています。

沖縄県発表の場合は、66市町村・698,827人です。

残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁと・・・・
そのため全国の合計人口も合わないし。
戦後の一時期のみ、他にも沖縄県を名乗っていた地域があったのだろうか。
とても不思議に感じております。

白桃さんは、このことにお気づきだったでしょうか?


[39897] 両毛人 さん
これは私からもリクエストいたします!
[39896] ken さん
またそれは、金沢が4位だった時のデータについても、可能でしょうか?

残念ながらありません。おおよその人口位しかわかりません。
金沢の人口を「約」12万人としたのもそのためです。
少なくとも明治4(1871)年の調査までは、金沢には約12万人いたそうです。
その他、富山が当時全国9位。

注:[39658] では、明治維新以後、国内の都市で人口ベスト10入りしたことのある都市として、
22都市あげておりますが、富山が抜けておりました・・・

この年代についても、可能な限り調査したのですが、詳細なデータらしきデータが全くなかったのです。
私が明治中期・明治初期・江戸後期の詳しい都市人口を知りたいのは、このためなんです。。。

明治12(1879)年の主要都市の人口のデータなら持っていますので記載します。
(私が現在所有する最古の人口データとなります)

東京 761,335
大阪 291,565
京都 232,683
名古屋111,783
金沢 107,876
広島 76,589
和歌山62,080
仙台 55,035
横浜 46,187
福岡 45,480
熊本 45,032
神戸 44,368
新潟 36,591
岡山 33,028
長崎 32,815
赤間関26,502
函館 22,088
伏見 22,011
札幌 8,782

その他、
富山 約55,000~60,000
堺 約40,000
福井 約40,000
松江 約35,000
鳥取 約32,000
位となります。
上記5都市は様々な資料を参考・調査した結果の推測人口です


[39882] 愛比売命 さん
一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。

へぇ~~~~これはすごい。ホントに見事なまでに道路一本でかろうじてつながっていますね
最も細いところで、東西約100mといったところでしょうか・・・・
どのようにして、このような町域になったのか経緯が気になりますね・・・
ということで、少し調べてみました。

長野県北佐久郡立科町(全国市町村名変遷総覧・日本加除出版より)
S30.4.1 北佐久郡芦田村・横島村・三都和村の3村が合併し、北佐久郡立科村となる
S33.10.1 町制施行
S35.4.15 北佐久郡望月町(大字茂田井の一部)を編入


芦田という地名が立科町北側にある(町役場も立科町芦田ですし・・・)ので、そこらへんが旧芦田村かな?と思ったら、
なんと南側の白樺湖付近も「芦田」八ヶ野という地名が・・・・
横島、三都和という地名も既に現存しておらず、ここでギブアップ。

旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
おそらく、北側が旧芦田村域で間違いないと思うが。
[39942] 2005年 4月 17日(日)15:42:19【2】むじながいり さん
立科町
[39936] ふぁいん さん
旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
昭和初期の地図をみて、フリーハンドで大雑把ですがこんなかんじです。一応境界変更とかほとんどされていないならば、旧横鳥村=大字牛鹿・宇山・山部、旧三都和村=大字桐原・藤沢・塩沢、旧芦田村=大字芦田・芦田八ヶ野、望月町からの編入=大字茂田井です。昭和初期地図との比較ではほぼ一致するとみてよさそうです。というわけで、経緯は町村制施行以前に遡ってしまうかと(汗)。

道路一本でつながっているといえば栃木市のここなんて一体どんな由来なんだろうか。
[72001] 2009年 9月 20日(日)08:42:09【2】オーナー グリグリ
美上下
今年の夏は三回も蓼科方面に行きました。初夏の蓼科高原から車山高原に美ヶ原(ビーナスライン)、盛夏の白駒池に野辺山、晩夏の白樺高原です。長野県は良いですねぇ、見所ばかりで。ところで、三回目の訪問時は、佐久のコスモス街道経由で県道40号から立科町に入りました。そのときに目についた地名が「美上下」。このあたりです。読みはそのまま「びじょうげ」。印象的な地名だったので帰宅してからネットで探索してみましたが、由来など全く分かりませんでした。かろうじて、このようなサイトが見つかりました。「上下」地名を集めた地名コレクションのようなページです。「上下」地名の由来にはアーカイブ地名における「上」と「下」での議論にもつながるところがあると思いますが、それにしても美上下の由来が気になります。どなたかご存知でしょうか。
[72002] 2009年 9月 20日(日)15:26:45hmt さん
美和石沢という渓流に沿った上下2集落?
[72001] オーナー グリグリ さん
佐久のコスモス街道経由で県道40号から立科町に入りました。そのときに目についた地名が「美上下」。
美上下の由来が気になります。

土石流危険渓流 (佐久建設事務所)によると、芦田川の下流から、荒井戸・中尾・中尾上・美上下という地区が存在することがわかります。
美上下関係のデータ。
水系名 信濃川、河川名 芦田川、渓流名 美和石沢、渓流所在地 美上下、保全対象 2戸・6人

地形図を見ると、“美上下”という注記付近だけでなく、もっと南(上手)にも人家があります。
「美和石沢」という渓流沿いの上下2集落をまとめて、「美上下」という名の「字」になっているのではないかと想像します。

県道40号。5kmほど南に行ったところ(長門牧場付近)にある「立科町のくびれ」[39882][39936][39942]を通過されたわけですね。
[72003] 2009年 9月 20日(日)18:02:34オーナー グリグリ
立科町のくびれ
[72002] hmt さん
「美和石沢」という渓流沿いの上下2集落をまとめて、「美上下」という名の「字」になっているのではないかと想像します。
さっそくのふぉろ~をありがとうございます。上下2集落をまとめたのではないかとの推理ですね。美和石沢の「美」由来。なるほどねぇ。すばらしい調査分析力です。それにしても美和石沢はなんて読むのでしょうねぇ。検索してみましたが、そのまま検索したら石沢美和さんが引っ掛かりました。""でくくっても土石流危険地域の情報のみですね。「びじょうげ」の読みと合わせると「びわいわさわ」か「びわいわざわ」と普通に読むのかな。

県道40号。5kmほど南に行ったところ(長門牧場付近)にある「立科町のくびれ」[39882][39936][39942]を通過されたわけですね。
そうです。そこを通過しています。それにしても過去記事をすぐに引っ張りだされるとはすごい記憶力ですね。またまた感心しました。そのくびれ付近にある長門牧場に立ち寄りました。長門牧場はくびれを越えた長和町です。広々とした牧場に秋の気配の青空が映えてのんびりできました。カフェテリア形式のレストランでピザや新鮮なヨーグルトをいただきました。ソフトクリームも美味しかったです。長門牧場の南にある蓼科山や蓼科牧場を見渡せる県道40号沿いに昨年秋に整備された「朝日の丘公園」も、白樺の遊歩道や東屋などが整備されており、とても気持ちのよいところでした。
[72008] 2009年 9月 20日(日)22:50:06hmt さん
2つの美和石の謎 と 立科町のくびれの謎
[72005] 右左府 さん
「西塩沢の美和石という地籍」という記述があります。西塩沢とはこの辺りのことでしょうか。

グリグリさんが佐久のコスモス街道から蓼科高原へと向かったルート(県道40号)の途中にあった「美上下」という地名。
そして、その由来と推察した「美和石沢」。いずれも、昭和合併で立科村になる以前は、中山道から南の広い地域を占める芦田村だった地域です。
それに対して、西塩沢は中山道よりも北の三都和村だった地域です。

立科町避難所位置図 でいうと、9番の少し南に「美上下」がありますが、西塩沢はずっと北の34番です。

南北に約8km離れた2つの「美和石」。これは偶然とは思えません。
リンクした図を見ると、「塩沢堰」という文字が両方の近くにあります。「美和石沢」と「西塩沢の美和石」とは遠く離れていますが、水路で結ばれた関係で、同名を名乗っていると推察します。

この図でよくわかるように、立科町は、雨境峠(左右の図を分けているAA'線)の狭隘部(くびれ)を持つ特異な形状をしています。
実は、昭和30年よりも前、芦田村の時代からこんな形だったのです。

その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

[39936] ふぁいん さん の記事では解けていなかった謎を、一応説明しておきます。
[73235] 2009年 12月 8日(火)15:58:45じゃごたろ さん
蓼科神社
こんにちは、じゃごたろです。

立科町のくびれについて関係ありそうな「蓼科神社」に関するサイトがありました。これによりますと、蓼科山頂には「奥社」が、そして芦田の地に「里宮」があるそうです。里宮は集落よりも南の曹洞宗南嶽山光徳寺の近くだそうです。

つまり芦田村は古くから蓼科山との結びつきがあるわけでして、芦田村は小諸藩から蓼科山の管理を命じられていたという記述も他に見ました。つまりくびれの部分を含んだ道が長ーーーーーい参道もしくは管理用の道と考えれば、くびれの部分が芦田村、現在の立科町に属していてもおかしくはないのではなかろうかと思います。
[73238] 2009年 12月 8日(火)23:17:44hmt さん
長-----い参道
[73235] じゃごたろ さん
立科町のくびれについて関係ありそうな「蓼科神社」に関するサイトがありました。

最初に、見事な「立科町のくびれを皆さんに認識していただけるように、立科町HP内にあった 地図 をリンクしておきます。
ご覧のように、本来の集落は北側部分だけにあり、南側にある建物は観光施設などです。関係記事

つまりくびれの部分を含んだ道が長ーーーーーい参道もしくは管理用の道と考えれば、くびれの部分が芦田村、現在の立科町に属していてもおかしくはない

落書き帳の中から、社寺参道に関する主な記事 をまとめてみました。
地図上で特異な形のものを主体にしており、「表参道」のような地名は対象外です。
取り上げた参道:○○道バス停、矢田の阿麻美許曽神社、越前町の越知山神社、久御山町の雙栗神社、飯豊山神社、不忍池弁天社、栃木の出流山満願寺、蓼科神社
[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73295] 2009年 12月 14日(月)16:54:01hmt さん
かつては水に不自由した台地を 豊かな農地に変えた 塩沢堰
[73286] oki さん
「立科のくびれ」に関連した情報をありがとうございます。蓼科神社だけでなく、塩沢堰を含む全体像が見えてきたようです。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。

この裁許状が「立科のくびれ」の南側が立科町の領域と確定した直接の根拠なのですね。
裁許理由 の第1として挙げられたのが塩沢堰です。八重原は現在の東御市(<北御牧村)。いずれも雨量の少ない扇状地。農業に欠かせない用水の確保のため、蓼科山に目を付けました。
明暦三年・万治三年麦草近所より小諸領 塩沢村 八重原村、堀水二筋掘り取り候ところ諏訪領異論に及ばず

[72008]で塩沢堰に言及した時には、くびれより北側に記された文字しか認識していなかったのですが、okiさん の記事により、六川長三郎勝家が17世紀に開発した蓼科山を源流とする大用水路であることを知りました。

調べてみると、その源泉の1つは弁天神湧水(本堰源泉)でした。「女神湖」という名は、この弁天様由来と納得。
もう1つは水出湧水(和見堰源泉)。棒道近くで、武田軍が馬に水を飲ませた言い伝えを聞いた長三郎が利用したとか。

「ふるさとの用水・塩沢堰を考える」町民歴史公開講座には、蓼科山から北の受益地域に至る 塩沢堰全図 が展示されていました。この図にも「くびれ」がありますが、現在の立科町とは少し形が違います。

疏水名鑑 によると、寛永18年から正保3年(1641~1646)を費やして延長約55kmの塩沢堰が完成。これにより、未開の台地が美田へと変わりながら次々に集落が形成されたとあります。前記延宝の裁許理由に記された年代よりも15年ほど前になっています。

裁許理由の第2は芦田村による深沢川架橋、第3が神主の芦田村居住です。
且又立科山叢祠の神主芦田村居住の条、旁々以て小諸領理運也

蓼科神社里宮が 現在地 に移ったのは 享保期 とのことですが、日本三代実録が記録する元慶年間(平安時代初期)から芦田村古町[73286]付近に存在したのでしょう。

このような理由で諏訪方は敗訴し、裁許状付属の絵図面に境界の黒筋を引かれたのでした。
即ち小諸領申す所の屋しが峰境これを定めおわんぬ、向後諏訪領の者境越し立科山の内へ入るべからず

[73286] oki さん
戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由
(江戸時代の村人たちが)入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。
本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削
現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。

古代の蓼科神社参道から出発し、中世末には武田信玄の軍用道路(棒道)、近世の産業道路(採取した干し草・薪炭の運搬)と多目的の役割を果たしてきた「くびれ」を通る道。
私財を投じて塩沢堰を建設した六川長三郎の後裔により、近代に至り、またもや県道40号の基礎が作られ、蓼科山の水を生かした現代の観光地開発は、この道に観光道路の性格を持たせることになったのですね。
[73450] 2009年 12月 30日(水)09:53:35オーナー グリグリ
Re:「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73286] 2009 年 12 月 13 日 (日) 18:00:36 oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
素晴らしいですね。私見と言われていますが、立派な見識だと思います。非常に読み応えもあり、地名の関連性についての距離感に対する知識を深めることができました。なかなか奥が深いですね。ありがとうございました。

そう言えば、この話題のそもそもの発端が「美上下」でしたね。hmtさんの考察[72008]も素晴らしかったです。「美」の付く地名はたくさんあると思いますが、郡山市に「美名美(みなみ)」という地名がありました。これも気になりますね。「南」を美しい漢字に置き換えただけかもしれませんが。

それと、市区町村変遷情報へのとても有益な提言をありがとうございます。88さんに任せっきりで私は何も役に立てていないのですが、来年は少しでも時間を確保して、変遷情報のページ構成やプログラム改善などできるようにしたいと思います。まずは、明治の市町村制が始まって移行の情報のベースがほぼできつつありますので、その情報を生かした見せ方を工夫して行きたいと考えています。


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