福島・新潟・山形の3県が境を接する飯豊山。そこにある奇妙な姿の県境は、この落書き帳にこれまで何回も登場してきました。
またかという気もしますが、NHK教育テレビ「県境の謎」(火曜日朝05:35に再放送)にもちょっとだけ登場した機会
[69164]をとらえ、「登山道の幅だけ福島県」
[24072] という県境誕生の過程を記しておきます。
最初に、現在の地図を出しておきます。
Mapion
画面中央付近の三国岳の南東側が福島県の本体で、陸奥国(明治以後は岩代国)でした。ここから三尺幅の登山道が北西に伸びて、画面上部の飯豊山神社奥宮に達し、山頂から更に西の御西岳に至ります。
約8kmもある臍の緒のように細長い尾根の周辺だけが福島県喜多方市の領域で、南西側の谷は新潟県東蒲原郡阿賀町、北東側は山形県西置賜郡小国町という3県の境界地帯。更に御西岳の西側、喜多方市の臍の緒の先端では新発田市と僅かに接しているので、4市町の点接触(グレートジャンクション)もどき
[24052] 。
futsunoおじさんの
「県境の交通路」コレクション 07福島県-15新潟県 で確認すると、始点は喜多方市・新発田市・小国町の3県境点で、新潟県はすぐに(0.0km)阿賀町に移ります。三国岳までの臍の緒県境の距離は 8.1km。
「国界」が示されている 20万分の1地勢図で確認すると、福島県だけでなく、岩代国も越後と羽前の間の稜線沿いに伸びています。つまり、臍の緒の南東端の三国岳では、越後・羽前の両国は隣接しておらず、三国境ではないということのようです。みやこ♂さんの
「三国」コレクション においても、地名を尊重して三国岳の地図をリンクしながら、“厳密には御西岳”という注釈が加えられています(#3)。
落書き帳で、6年前にこの奇妙な県境を最初に持ち出したのは、自称ビジュアル系のペーロケ[utt]さんでした
[10123]。
これに答えた ken さんの記事
[10531] には、福島県耶麻郡山都町のHPがリンクされており、そこには、このような県境が生まれた経緯が記されていました。
しかし、残念なことに2006年に行なわれた
合併 に伴なって、このサイトは閉鎖されてしまいました。
リンクが切れてしまった現在、この県境が福島県庁の郡山遷都騒動に端を発していたとことは、落書き帳の中では、
[10575]に名残を留めるだけになっています。
というわけで、旧山都町が残してくれた情報を埋もれさせないためにも、この県境誕生の概要を、改めて記しておくことにします。
飯豊山信仰は、会津だけでなく、中通り・置賜・東蒲原の各地に及び、神仏習合の時代から信者獲得のためには、熾烈な管理権争いもあったようです
[10575]。白山を巡る対立抗争史
[68519]を思い出しました。
明治6年以来、飯豊山神社は若松県の郷社として、麓宮(拝殿)のある耶麻郡一ノ木村(山都村を経て喜多方市)の管理下にありました。地図をスクロールさせて少し下を見ると、鳥居のマークと一ノ木という注記が見えます。
飯豊山神社のあった若松県北部は、岩代国耶麻郡の西にある越後国東蒲原郡をも領域としていました。明治9年に福島県・磐前県と統合した後もその状態は続き、巨大な福島県の県庁所在地である信夫郡福島町は、現在以上に偏った位置にありました。
そんなこともあり、明治16年(1883)になると、県庁を県の中心に近い安積郡郡山町に移転する建議が福島県会に提出され、明治18年には可決されるに至りました。
しかし、遷都反対派は猛烈な運動を展開。遂に内務省を動かして、福島からの県庁移転を阻止しました。
その決着の際、越後国東蒲原郡は新潟県に移管されたのでした。
明治19年勅令第43号
どのような経過を経て、県庁移転を東蒲原郡移管にすり替えることができたのか興味のあるところですが、詳細は知りません。
福島県の枠組みを変え、県庁所在地の偏りを是正するとでも強弁したのか?
鬼県令と呼ばれた三島通庸が福島県令だったのは明治17年までですが、いずれにせよ福島県がまだ完全な地方自治体でなく、内務官僚による強圧的な地方支配が行なわれた時代であったと理解しています。
参考までに、東蒲原郡移管は、三多摩移管
[33700] [54421]の7年前のことでした。
こうして、福島県庁移転問題に端を発した動きが、東蒲原郡の新潟県移管という思わぬ展開を見せた結果、明治初年から耶麻郡一ノ木で収まっていた飯豊山の領有争いが再燃しました。
すなわち、新潟県になった東蒲原郡実川村(明治22年から豊実村)は、早速明治20-21年に飯豊山の領有と山頂の飯豊山神社を東蒲原郡郷社にする願いを出したのです。
これまで飯豊山神社を管理していた耶麻郡山都村一ノ木も、負けているわけにはゆきません。
証拠文書を集めて反論。拝殿のある麓宮から山頂の奥宮までの登山道(巡礼道)を境内地に編入することを願い出て(明治31,33年)、明治38年には内務大臣の編入許可を得ています。
このように既成事実を作りながらも、主張と証拠の応酬が20年も続けられ、その結果、明治40年に現地査定が行なわれ、引き続き査定報告と協議の会合が開かれました。
協議会には、当事者である一ノ木と実川の総代、山都村と豊実村の役場組合長、福島県耶麻郡と新潟県東蒲原郡の郡長代理、宮城と長野の大林区署【注】が出席し、飯豊山頂の境内地と登山道が福島県側の山都村一ノ木に帰属することが認められました。
明治19年の東蒲原郡移管以来続いていた「境界未定」の状態に、ようやくピリオドが打たれ、奇妙な姿の福島県境が確定したのでした。
臍の緒のような形の県境は、地図で見る形だけでも興味をそそりますが、その背後には、県庁移転問題・東蒲原郡移管・一ノ木と実川の領有争いという20数年に及ぶ一連のストーリーが存在したのでした。
【注】大林区署とは、国有林の管轄者だと思います。現在は福島県も新潟県も関東森林管理局管内です。