都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[10531]2003年3月6日
ken
[24052]2004年1月23日
ペーロケ
[24072]2004年1月23日
みやこ♂
[69172]2009年4月10日
hmt

[10531] 2003年 3月 6日(木)13:16:43ken さん
飯豊山の福島県境
[10123]uttさん
[10516]ぷりぷりさん

[10516]ぷりぷりさん
飯豊山の福島県境は気になりますよね。
詳しい方がいらっしゃったらご教示ください。
たしかに、異様ですよね。
Googleで、飯豊山_福島県_県境で検索をかけたら、
http://www.town.yamato.fukushima.jp/yamato_history/heso.html
こんなページ見つけました。
ご教示、ではありませんが、何故あの形になったか、このページで経緯はわかります。
私も今まで知りませんでしたが、結構面白い話です。
[24052] 2004年 1月 23日(金)00:43:24ペーロケ[愛比売命] さん
惜しい「四叉路」
[24027]太白さん
また、旧国名(明治初年以後)だと、陸中国と陸奥国の「国境」で、陸中国の飛地部分(小坂)と陸中本体が点で接していて、境界部分が陸中2つ+陸奥+羽後の交差点になっているように見えるのですが、いかがでしょう。
 八幡平(はちまんだいら、ではありませんよ)ですね。私もここは思い浮かびましたが、惜しいんですよね。市町境界が旧国界と一致するかどうかは詳しくないので分かりませんが、(ここは確かずれてますよね?)、仮に一致するとすれば、安代町(陸奥国)と田沢湖町(羽後国)が接していて、両・陸中は離れているのですよ。すなわち、完全な「飛び地」なのです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=140%2F51%2F24.908&pnf=1&size=500%2C500&nl=39%2F57%2F16.542

 そうそう、惜しい例を他にも見てきましたが、一番感動した場所は飯豊山。細長くせり出した福島県山都町がさりげなく新潟県新発田市に接しているのです。なお、飯豊山の細長い境界の経緯については、[10531]にてkenさんがさりげなく紹介されているサイトに詳しいです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=139%2F41%2F05.278&pnf=1&size=500%2C500&nl=37%2F50%2F38.104

[24035]今川焼さん
岡山県東部の、吉井町、佐伯町、英田町、柵原町の4町が300メートルほどずれていますが接しています。
 西宮市と伊丹市が接している場所にも似た風景ですね。
[24072] 2004年 1月 23日(金)12:38:11みやこ♂[みやこ] さん
G.J.転じて「四叉路」
[24052]愛比売命 さん  飯豊山は,「盲腸」の先端,三国岳付近が「四叉路」のようですね。1こ増えました。ここの「登山道の幅だけ福島県」の例は,登山者の間ではけっこう有名なのですが,その先までは気づきませんでした。毎度ながら脱帽です。
今回,皆様にお尋ねするまで「たくさんありそうだけどなかなか無くて,にもかかわらず全く無いわけではない」という感じでいました。全国で2~30カ所くらいかなぁ,と。しかし,既に10カ所近く「発見」されたことを思うと,もっとありそうな感じですね。
仮に50カ所くらいあるとすると(予想外に標高の低いところに多いようですし),「日本百名山完登」みたいに「日本四叉路全カ所伏寝!」なんて人がでるかもしれません(そんなわけないか)!かえって低い方が「ここを境にしましょうね」とし易かったのかもしれませんね。那須の三本槍岳みたいに(もっともこれは高山だし,3つの藩ですが)。
ところで「精度」の話ですが,これを突き詰めていっても厳密な規定は無理ではないかと思うのです。実際に公図は字や大字単位ですから,市町村を跨げば一枚の図面に収まっていないはずです(昔,字Aの図面ではレンコンみたいに穴がいっぱい空いていて,そこに周辺の字B,Cの図面の離れ小島がはまり込む状態なのを見たことがあります)し,山の上の方では延びが大きくて形状も現場に合致しません。
ですので,通常目にする1/2.5万図や1/1.0万図などで,作図者が「意識してずらしている」もの以外は「四叉路」と「認定」すべきなんだろうな,と考えています。
ただ,後方羊蹄山【しりべしやま:後方(しりべ)+羊蹄(し)+山】の場合には明確な人の意志が働いているように見えますので「認定」するまでもない希有な事例なのでしょう。

それにしても,パラパラマンガで明治以来の市町村合併を見てみたいものです!ある出版社にその旨投稿したのですが,ボツみたいです。
これに関連してちょっと話は変わりますが,ヨーロッパでの各国領土変遷のソフトが市販されていますよね。西暦1000年から1997年までを1年10枚の歴史地図で(約10000枚!)表現した,「CENTENNIA」というソフトです。すごく楽しい。1000年前のポーランドが,現在とほぼ同じ位置・形状で出てきたのにはびっくりしました。WWⅡの後,大きく西に移動したことしか知りませんでしたから(リンクがうまく行かなかったので,ご興味のある方は,お手数でも「チェンテニア」又は「CENTENNIA」で検索してみてください.)。

蛇足:過去の書き込みの訂正
[24039]で「みかも市」を安易に「三毳市」としましたが,藤岡町の西北部はかつて「三鴨村」でした。よもや「三鴨市」なのでは?
ちなみに三毳山というのは,佐野藤岡ICから佐野SAあたりまで,東北自動車道と並んでいる細長い山です。ショッピングモールからもよく見えます。そう書けば,「あ,見たことある」という方も多いのでは?線の柔らかい,いい山です。ICのあるあたりは今でこそ佐野市(もうすぐ消え去る旧・安蘇郡内)ですが,大昔は都賀郡だったそうです。
[23985]の海山列ネタで「神武・綏靖・・・大正・明治」と書きましたが,もちろん,「・・・明治・大正」ですよねぇ。何回かチェックしたつもりでしたが。恥ずかしい限りです![24062]月の輪熊 さん,これは地理ネタですよね。
[69172] 2009年 4月 10日(金)14:07:24hmt さん
飯豊山に奇妙な県境が誕生するまで
福島・新潟・山形の3県が境を接する飯豊山。そこにある奇妙な姿の県境は、この落書き帳にこれまで何回も登場してきました。
またかという気もしますが、NHK教育テレビ「県境の謎」(火曜日朝05:35に再放送)にもちょっとだけ登場した機会[69164]をとらえ、「登山道の幅だけ福島県」[24072] という県境誕生の過程を記しておきます。

最初に、現在の地図を出しておきます。Mapion
画面中央付近の三国岳の南東側が福島県の本体で、陸奥国(明治以後は岩代国)でした。ここから三尺幅の登山道が北西に伸びて、画面上部の飯豊山神社奥宮に達し、山頂から更に西の御西岳に至ります。

約8kmもある臍の緒のように細長い尾根の周辺だけが福島県喜多方市の領域で、南西側の谷は新潟県東蒲原郡阿賀町、北東側は山形県西置賜郡小国町という3県の境界地帯。更に御西岳の西側、喜多方市の臍の緒の先端では新発田市と僅かに接しているので、4市町の点接触(グレートジャンクション)もどき [24052]

futsunoおじさんの 「県境の交通路」コレクション 07福島県-15新潟県 で確認すると、始点は喜多方市・新発田市・小国町の3県境点で、新潟県はすぐに(0.0km)阿賀町に移ります。三国岳までの臍の緒県境の距離は 8.1km。

「国界」が示されている 20万分の1地勢図で確認すると、福島県だけでなく、岩代国も越後と羽前の間の稜線沿いに伸びています。つまり、臍の緒の南東端の三国岳では、越後・羽前の両国は隣接しておらず、三国境ではないということのようです。みやこ♂さんの 「三国」コレクション においても、地名を尊重して三国岳の地図をリンクしながら、“厳密には御西岳”という注釈が加えられています(#3)。

落書き帳で、6年前にこの奇妙な県境を最初に持ち出したのは、自称ビジュアル系のペーロケ[utt]さんでした[10123]
これに答えた ken さんの記事[10531] には、福島県耶麻郡山都町のHPがリンクされており、そこには、このような県境が生まれた経緯が記されていました。
しかし、残念なことに2006年に行なわれた 合併 に伴なって、このサイトは閉鎖されてしまいました。

リンクが切れてしまった現在、この県境が福島県庁の郡山遷都騒動に端を発していたとことは、落書き帳の中では、[10575]に名残を留めるだけになっています。
というわけで、旧山都町が残してくれた情報を埋もれさせないためにも、この県境誕生の概要を、改めて記しておくことにします。

飯豊山信仰は、会津だけでなく、中通り・置賜・東蒲原の各地に及び、神仏習合の時代から信者獲得のためには、熾烈な管理権争いもあったようです[10575]。白山を巡る対立抗争史[68519]を思い出しました。

明治6年以来、飯豊山神社は若松県の郷社として、麓宮(拝殿)のある耶麻郡一ノ木村(山都村を経て喜多方市)の管理下にありました。地図をスクロールさせて少し下を見ると、鳥居のマークと一ノ木という注記が見えます。

飯豊山神社のあった若松県北部は、岩代国耶麻郡の西にある越後国東蒲原郡をも領域としていました。明治9年に福島県・磐前県と統合した後もその状態は続き、巨大な福島県の県庁所在地である信夫郡福島町は、現在以上に偏った位置にありました。

そんなこともあり、明治16年(1883)になると、県庁を県の中心に近い安積郡郡山町に移転する建議が福島県会に提出され、明治18年には可決されるに至りました。
しかし、遷都反対派は猛烈な運動を展開。遂に内務省を動かして、福島からの県庁移転を阻止しました。

その決着の際、越後国東蒲原郡は新潟県に移管されたのでした。明治19年勅令第43号
どのような経過を経て、県庁移転を東蒲原郡移管にすり替えることができたのか興味のあるところですが、詳細は知りません。
福島県の枠組みを変え、県庁所在地の偏りを是正するとでも強弁したのか?

鬼県令と呼ばれた三島通庸が福島県令だったのは明治17年までですが、いずれにせよ福島県がまだ完全な地方自治体でなく、内務官僚による強圧的な地方支配が行なわれた時代であったと理解しています。
参考までに、東蒲原郡移管は、三多摩移管[33700] [54421]の7年前のことでした。

こうして、福島県庁移転問題に端を発した動きが、東蒲原郡の新潟県移管という思わぬ展開を見せた結果、明治初年から耶麻郡一ノ木で収まっていた飯豊山の領有争いが再燃しました。

すなわち、新潟県になった東蒲原郡実川村(明治22年から豊実村)は、早速明治20-21年に飯豊山の領有と山頂の飯豊山神社を東蒲原郡郷社にする願いを出したのです。
これまで飯豊山神社を管理していた耶麻郡山都村一ノ木も、負けているわけにはゆきません。
証拠文書を集めて反論。拝殿のある麓宮から山頂の奥宮までの登山道(巡礼道)を境内地に編入することを願い出て(明治31,33年)、明治38年には内務大臣の編入許可を得ています。

このように既成事実を作りながらも、主張と証拠の応酬が20年も続けられ、その結果、明治40年に現地査定が行なわれ、引き続き査定報告と協議の会合が開かれました。
協議会には、当事者である一ノ木と実川の総代、山都村と豊実村の役場組合長、福島県耶麻郡と新潟県東蒲原郡の郡長代理、宮城と長野の大林区署【注】が出席し、飯豊山頂の境内地と登山道が福島県側の山都村一ノ木に帰属することが認められました。

明治19年の東蒲原郡移管以来続いていた「境界未定」の状態に、ようやくピリオドが打たれ、奇妙な姿の福島県境が確定したのでした。

臍の緒のような形の県境は、地図で見る形だけでも興味をそそりますが、その背後には、県庁移転問題・東蒲原郡移管・一ノ木と実川の領有争いという20数年に及ぶ一連のストーリーが存在したのでした。

【注】大林区署とは、国有林の管轄者だと思います。現在は福島県も新潟県も関東森林管理局管内です。


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