都道府県市区町村
落書き帳

洲崎

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[10716]2003年3月8日
ペーロケ
[10805]2003年3月9日
ken
[14798]2003年5月6日
Issie
[24746]2004年2月11日
Issie
[25132]2004年2月21日
Issie
[34571]2004年10月28日
hmt

[10716] 2003年 3月 8日(土)13:29:46ペーロケ[utt] さん
都電路線一覧表
[10710]よりもっと分かりやすい表を見つけましたので、
太白さまの[10345]方式の練習も兼ねて。。。

都電系統所属庫運転区間主要代替機関備 考
1三田品川駅前-銀座四丁目-上野駅前浅草線(新橋)銀座線,
2三田三田-神田橋-東洋大学前三田線末期には朝夕各2往復まで減便。
3三田品川駅前-虎ノ門-飯田橋四92:品川駅-四谷駅(泉岳寺-赤羽橋間迂回),
4目黒五反田駅前-金杉橋-銀座二丁目反96(古川橋/一ノ橋)都06浅草線が概ね並行
5目黒目黒駅前-馬場先門-永代橋黒10:目黒駅-東京駅南口,
6青山渋谷駅前-六本木-新橋都01:渋谷駅-新橋駅霞町(現西麻布)経由
7広尾品川駅前-天現寺橋-四谷三丁目四97:品川車庫-四谷駅,
8広尾中目黒-桜田門-築地概ね日比谷線,
9青山渋谷駅前-桜田門-浜町中の橋茶81(麹町二)都03(築地三)錦11当初三宅坂経由,後に赤坂溜池経由,さらに神谷町経由で行先を新佃島に変更。
10青山渋谷駅前-九段上-須田町半蔵門線当初三宅坂経由,後に市ヶ谷見附経由。
11大久保新宿駅前-半蔵門-月島都03:新宿駅西口-晴海埠頭,
12大久保新宿駅前-市ヶ谷見附-両国駅前茶81:渋谷駅-順天堂病院,
13大久保新宿駅前-飯田橋-水天宮前秋76(秋葉原駅東口/秋葉原)日比谷線,
14杉並新宿駅前-鍋屋横丁-荻窪駅前丸の内線1963年に廃止。狭軌線。
15早稲田高田馬場-小川町-茅場町東西線,
16大塚大塚駅前-上野広小路-錦糸町駅前都02:大塚駅-錦糸町駅,
17大塚池袋駅前-文京区役所-数寄屋橋都02乙(文京区役所/春日)三田線末期は,池袋駅前-文京区役所前に短縮。
18巣鴨志村坂上-巣鴨車庫前-神田橋三田線財政再建計画に先だって廃止。
19駒込王子駅前-万世橋-通三丁目茶51:王子駅-お茶の水駅/駒込駅南口-東京駅北口,南北線が一部並行
20神明町江戸川橋-神明町車庫前-須田町上58:早稲田-上野松坂屋,
21三ノ輪千住四丁目-御徒町駅前-水天宮前草43(三ノ輪)日比谷線,
22南千住南千住-浅草橋-新橋東42甲:南千住-東京駅八重洲口浅草線が概ね並行
23柳島福神橋-本所吾妻橋-月島門33:亀戸駅-豊海水産埠頭,
24柳島福神橋-本所吾妻橋-須田町門33(十間橋/本所吾妻橋)平23乙,
25錦糸堀西荒川-小川町-日比谷公園錦27(亀戸/緑一)草28,
27荒川三ノ輪橋-王子駅前-赤羽都電荒川線(王子駅)南北線,
28錦糸堀錦糸町駅前-洲崎-(旧)都庁前東22:錦糸町駅-東京駅北口,
29錦糸堀(旧)葛西橋-水神森-須田町草28:葛西橋-神田駅,
30柳島東向島三丁目-本所吾妻橋-須田町草39:金町駅-上野松坂屋,
31三ノ輪三ノ輪橋-浅草橋-(旧)都庁前草42(駒形橋)東42甲,
32荒川荒川車庫前-大塚駅前-早稲田現存,
33広尾浜松町一丁目-六本木-四谷三丁目橋86(赤羽橋/中ノ橋)田70(虎ノ門五-六本木間迂回),
34広尾渋谷駅前-天現寺橋-金杉橋都06:渋谷駅-新橋駅,
35巣鴨巣鴨車庫前-神田橋-西新橋一丁目三田線
36錦糸堀錦糸町駅前-森下町-築地錦11:錦糸町駅-築地駅
37三田三田-外神田二丁目-千駄木二丁目三田線(日比谷/大手町)千代田線
38錦糸堀錦糸堀車庫前-境川-日本橋都07:錦糸町駅-門前仲町
39早稲田早稲田-伝通院前-厩橋上69(伝通院/上野広小路)都02
40神明町神明町車庫前-須田町-銀座七丁目
41巣鴨志村橋-志村坂上-巣鴨車庫前財政再建に先立ち,1966年廃止。

(参考)http://www.bh.wakwak.com/~ando/trolley/kyoto/japan/toden.html
[10805] 2003年 3月 9日(日)03:22:09ken さん
RE:都電路線一覧表
[10716] utt さん
太白さまの[10345]方式の練習も兼ねて。。。

エクセルに取り込んだときに「列幅に合わせて折り返し」をはずし、備考欄はこの掲示板の横幅に収まらないのであきらめる、か別表にすると、一系統=一行になるので、もう少し見やすくなるのかも。

都電系統所属庫運転区間主要代替機関
1三田品川駅前-銀座四丁目-上野駅前浅草線(新橋)銀座線
2三田三田-神田橋-東洋大学前三田線
3三田品川駅前-虎ノ門-飯田橋四92:品川駅-四谷駅(泉岳寺-赤羽橋間迂回)
4目黒五反田駅前-金杉橋-銀座二丁目反96(古川橋/一ノ橋)都06
5目黒目黒駅前-馬場先門-永代橋黒10:目黒駅-東京駅南口
6青山渋谷駅前-六本木-新橋都01:渋谷駅-新橋駅
7広尾品川駅前-天現寺橋-四谷三丁目四97:品川車庫-四谷駅
8広尾中目黒-桜田門-築地概ね日比谷線
9青山渋谷駅前-桜田門-浜町中の橋茶81(麹町二)都03(築地三)錦11
10青山渋谷駅前-九段上-須田町半蔵門線
11大久保新宿駅前-半蔵門-月島都03:新宿駅西口-晴海埠頭
12大久保新宿駅前-市ヶ谷見附-両国駅前茶81:渋谷駅-順天堂病院
13大久保新宿駅前-飯田橋-水天宮前秋76(秋葉原駅東口/秋葉原)日比谷線
14杉並新宿駅前-鍋屋横丁-荻窪駅前丸の内線
15早稲田高田馬場-小川町-茅場町東西線
16大塚大塚駅前-上野広小路-錦糸町駅前都02:大塚駅-錦糸町駅
17大塚池袋駅前-文京区役所-数寄屋橋都02乙(文京区役所/春日)三田線
18巣鴨志村坂上-巣鴨車庫前-神田橋三田線
19駒込王子駅前-万世橋-通三丁目茶51:王子駅-お茶の水駅/駒込駅南口-東京駅北口
20神明町江戸川橋-神明町車庫前-須田町上58:早稲田-上野松坂屋
21三ノ輪千住四丁目-御徒町駅前-水天宮前草43(三ノ輪)日比谷線
22南千住南千住-浅草橋-新橋東42甲:南千住-東京駅八重洲口
23柳島福神橋-本所吾妻橋-月島門33:亀戸駅-豊海水産埠頭
24柳島福神橋-本所吾妻橋-須田町門33(十間橋/本所吾妻橋)平23乙
25錦糸堀西荒川-小川町-日比谷公園錦27(亀戸/緑一)草28
27荒川三ノ輪橋-王子駅前-赤羽都電荒川線(王子駅)南北線
28錦糸堀錦糸町駅前-洲崎-(旧)都庁前東22:錦糸町駅-東京駅北口
29錦糸堀(旧)葛西橋-水神森-須田町草28:葛西橋-神田駅
30柳島東向島三丁目-本所吾妻橋-須田町草39:金町駅-上野松坂屋
31三ノ輪三ノ輪橋-浅草橋-(旧)都庁前草42(駒形橋)東42甲
32荒川荒川車庫前-大塚駅前-早稲田現存
33広尾浜松町一丁目-六本木-四谷三丁目橋86(赤羽橋/中ノ橋)田70(虎ノ門五-六本木間迂回)
34広尾渋谷駅前-天現寺橋-金杉橋都06:渋谷駅-新橋駅
35巣鴨巣鴨車庫前-神田橋-西新橋一丁目三田線
36錦糸堀錦糸町駅前-森下町-築地錦11:錦糸町駅-築地駅
37三田三田-外神田二丁目-千駄木二丁目三田線(日比谷/大手町)千代田線
38錦糸堀錦糸堀車庫前-境川-日本橋都07:錦糸町駅-門前仲町
39早稲田早稲田-伝通院前-厩橋上69(伝通院/上野広小路)都02
40神明町神明町車庫前-須田町-銀座七丁目
41巣鴨志村橋-志村坂上-巣鴨車庫前
[14798] 2003年 5月 6日(火)21:52:53【1】Issie さん
本郷もかねやすまでは江戸のうち
[14611] special-week さん
[14722] ありがたき さん

「江戸の範囲」については,タイトルのような有名な川柳があります。
「かねやす」というのは当時有名な商店の名前で,1986年当時も化粧品・小間物屋として営業中だったそうです(平凡社『アトラス東京 -地図でよむ江戸~東京』,1986年)。だいたい,現在の本郷3丁目交差点のあたりですね。
一般的な認識としては,中山道口の「かねやす」に加えて,甲州街道口の「四谷大木戸」(現四谷4丁目交差点),奥州街道口の「小塚原」(骨ヶ原;現大関横町交差点=地下鉄三ノ輪駅付近),東海道口の「高輪大木戸」(札の辻=現三田3丁目)あたりが「江戸の極まり」というところだったのではないでしょうか。

江戸時代の行政機構というのは,近代以降の行政システムとは根本的な部分から違う原理で営まれていたので,現代の「東京都」なり「23区」なりと同じ感覚で「江戸の範囲」を規定することはできません。
さしあたり,江戸の「町人町」の区域は「(江戸)町奉行」の管轄,郊外の農村部は「勘定奉行」の管轄,という区分があるわけですが,このあたりの線引きは必ずしも体系的ではない。場合に応じて,かなりの異同があったようです。
「江戸」の市街地内でも,お寺や神社の境内は「寺社奉行」の管轄であり,旗本・御家人屋敷は「目付」の支配,大名屋敷は大名自身を介して「大目付」の管轄,というわけで,一体的・一円的な行政が行われていたわけではありません。
「町」というのは本来,町奉行支配下の町人町の区域での「自治」単位の呼称でした(だから,町人町ではなかった武家屋敷地区には「町名」がなかったのです)。
そのようなわけで,「江戸の範囲」というのは時により場合により,さまざまに変動するものでした。

…といっても,それではあまりに不便なので,江戸時代後期になると「江戸の範囲」をある程度確定しておこう,という動きが生じます。
そうして指定されたのが [14722] で ありがたき さんが紹介されている「朱引き内」であり,「墨引」という線でした。
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています(*印は現在の地名)。

芝札の辻~麻布三之橋~麻布仙台坂~*日赤病院下交差点~*青山学院大学キャンパス~*青山通り~*外苑前交差点~*神宮外苑西縁~*新宿御苑東縁~*市谷富久町交差点~*靖国通り~*市谷住吉町交差点~*地下鉄若松河田駅~*大久保通り~*牛込若松町交差点~*地下鉄早稲田駅~*都立新宿山吹高校~江戸川橋~護国寺外縁~*不忍通り~*千石2丁目バス停~*白山下交差点~*白山1丁目交差点~*日本医大病院南縁~*藪下通り~*団子坂上交差点~*谷中小学校角~*日暮里駅~*下谷柳通り交差点~*千束1丁目交差点~*西浅草3丁目交差点~*浅草馬道交差点~*東浅草1丁目交差点~山谷堀~吾妻橋~北十間川~横十間川~小名木川~大横川~仙台堀川~富岡八幡宮外縁~永代橋

…というわけで,品川宿や内藤新宿(新宿)はもちろん,巣鴨や駒込,新吉原(千束)や洲崎(東陽町)の遊郭や岡場所までもが「江戸の外」なのですね。佃島や石川島も「朱引き」の外なのですが,ここは別扱いだったのでしょう。

江戸,というよりも「東京」の範囲がある程度確定するのは明治維新後,「大区・小区制」を経て1878(明治11)年の郡区町村編制法で「東京15区」の範囲が定められてからのことです。
このときの「15区」の外縁は,1889(明治22)年の「市制・町村制」施行による「東京市」の外縁よりもかなりの凹凸のあるものでした(「15区」の外縁は概ね“朱引き線”よりも外側を通過しています)。
たとえば,市制施行後の「東京市深川区」は横十間川をもって南葛飾郡下の亀戸・大島・砂各村に境することになるのですが,それ以前の「深川区」は竪川や小名木川に沿って東へ延びる区域がある一方,横十間川の西側にも「南葛飾郡」に属する村が存在していました。
下谷の根岸や谷中,牛込と早稲田,青山と渋谷の境界や麻布の外縁についてもかなりの出入りがありました。
したがって,「東京市」の各区を編成するにあたって,旧15区の範囲がそのまま継承されたわけではなく,“郡部”に属していた村々の一部が「東京市○○区」に編入される一方で,「東京市」の範囲からはみ出た「旧○○区」の一部は反対に周辺の郡部各町村に編入されています。

そのような意味では,「東京」の範囲が明確に固定化したのは,ようやく1889年の市制施行時点ということになるのかもしれません。
[24746] 2004年 2月 11日(水)18:54:47Issie さん
大正後期の警視庁警察署
…というわけで,麻布の図書館に行ってきました。
意外にも警視庁の沿革を扱った資料が少なくて,たとえば戦後の「自治体警察」時代の警察署名を列挙したものはすぐには見つかりませんでした。

で,見つけたのは東京府・警視庁関係の例規集。奥付には「大正9(1920)年」と書いてあったのですが“加除式”となっていて(今は製本されていますが)各条例・規則の“沿革”には1923(大正12)年の改正分まで記載されているので,内容は関東大震災のあった1923年当時のものと思われます。

以下は,その例規集に収録されていた「警察署及警察署分署位置」大正2年警視庁告示第59号(1913年6月)によるものです。
*「別表」記載順にタテに配列してあります。

麹町麹町警察署赤坂表町警察署本所相生警察署王子警察署京橋築地警察署大島分署
麹町日比谷警察署赤坂青山警察署本所太平警察署板橋警察署(同)新島分署
神田錦町警察署四谷警察署本所原庭警察署南千住警察署(同)八丈島分署
神田西神田警察署牛込神楽坂警察署本所向島警察署(同)日暮里分署(同)小笠原分署
神田外神田警察署牛込早稲田警察署深川扇橋警察署千住警察署
日本橋久松警察署小石川富坂警察署深川洲崎警察署(同)寺島警察署
日本橋堀留警察署小石川大塚警察署東京水上警察署亀戸警察署
日本橋新場橋警察署本郷本富士警察署品川警察署小松川警察署
京橋築地警察署本郷駒込警察署(同)大崎分署八王子警察署
京橋北紺屋警察署下谷上野警察署(同)大森分署(同)町田分署
京橋月島警察署下谷坂本警察署(同)世田ヶ谷分署府中警察署
芝愛宕警察署下谷谷中警察署淀橋警察署(同)田無分署
芝三田警察署浅草象潟警察署(同)戸塚分署青梅警察署
芝高輪警察署浅草日本堤警察署(同)中野分署(同)五日市分署
麻布鳥居坂警察署浅草南元町警察署渋谷警察署
麻布六本木警察署浅草七軒町警察署巣鴨警察署

警察署名は所在地によるものです。
特に,「麹町麹町警察署」から「東京水上警察署」までが東京市内(隣接5郡編入以前の旧市内15区)ですが,水上署以外の「深川洲崎警察署」までは 「区名+所在地」 というフォーマットであるようですね。

これとは別に,1927(昭和2)年に内務省警保局(現在の警察庁に相当)が編纂した「庁府県警察沿革史」に,1893(明治26)年編纂の「警視庁史稿」が収録されているのがあって,ここに掲載されている警察署の沿革を見ると,東京市内の警察署は移転をするたびに律儀に名称も改めています。

隣接5郡を編入して東京市が拡大した後の「昭和14(1939)年版府勢要覧」には,警察署を列挙した記述はないのですが(代わりに本庁内組織が詳しく記述されていて,思想警察を担当した「特別高等課」の担当区分など興味深いものがあります),警察署の統合・新設等があるけれども「おおよそ変化はない」旨の記述がありました。

東京府(都)警たる警視庁に限らず,警察組織にとって最も大きな変革期は何よりも戦後の「自治体警察期」で,1954年に現行の「都道府県警察・警察庁」体制に再編される過程で警察署にも大きな異動があったと思われます。
ただし,特に23区の区域は「自治体警察」の時代も「警視庁」の管轄(正しくは順序が逆。「23区」の区域で設置・運営された「自治体警察」が「警視庁」という呼称であった)であったので,警察署の配置・名称に大きな変化はなかったかもしれません。

ともかく,それらの沿革を踏まえて,現在の警察署があるのですね。
[25132] 2004年 2月 21日(土)17:49:13Issie さん
京成電車で初詣
…というCMソングもあったわけで,

[25123] faith さん
関西…会社名+「電車」 (例:「南海電車」)

というのは,必ずしも東京では行われない,というわけではないようです。
戦前には「城東電車」という呼び方もあったのではなかったかな(城東電気軌道は後に東京都電に編入。錦糸町・洲崎以東の路線)。
「玉電」(玉川電気軌道),「王電」(王子電気軌道)なんてものもありましたね。
[34571] 2004年 10月 28日(木)22:31:00hmt さん
相模野に 林間都市 の夢を描いた 利光鶴松
[34440]で、「野」は「原」よりも広範囲で、見渡しを遮る平地林があってもよいのではないかという説を述べ、武蔵野と相模野の例につき語りました。
日本国語大辞典を調べたら、古代は 「はら」が広々とした草原などを指すのに対して、「の」は 低木などが茂った山裾・高原・台地状のやや起伏に富む平坦地を指して呼んだと思われる とありました。やはり、「原」の方が見通しが良さそうです。
「はら」は、「ひら」・「ひろ」と同源だそうです(白川静:「字訓」による)。広くて平たいのが原っぱ。

また、日本国語大辞典には次のような説明もありました。
「原」は、上代は地形・地勢をいう語ではなく、日常生活から遠い場所(古代的な神の地)を指す語であったと考えられる。「野」が日常生活に近い場所をいうのと対照的。しかし、上代末・平安初期頃からこの区別は曖昧になった。
そのような目で地名コレクションを見ると、「高天原」をはじめとして、神様の居そうな「原」が目立ちます。

さて、もっと人間くさい「野」に戻ります。
人の作った楢の林[34440]が描かれている相模野の地図を眺めていて 想い出されるのが、小田急の創業者利光鶴松です。

大分県から上京し、星亨の懐刀として政界で活躍した利光鶴松は、「街鉄」と呼ばれた東京市街鉄道[33135]の創立に参画し、引き続き3社合併した東京鉄道を経営しました。

この路面電車事業は 1911年に東京市に買収されることになるのですが、利光鶴松は鬼怒川の電源開発を始め、1912年末に下滝発電所を完成させ、初の本格的鉄塔による送電線(125kmは当時最長距離)で 東京の尾久変電所に送電しました。主な売込先は 東京市電気局で、彼が手がけた東京の路面電車を動かす動力として使われました。
関東大震災(1923年9月1日)では、東京付近の発電所が停止し、鬼怒川から送られる電気が帝都を暗黒から救ったと伝えられています。
下滝発電所は、現在は東京電力鬼怒川発電所に造り替えられています。
特急電車スペーシアが鬼怒川温泉への客を運んでいる東武鬼怒川線は、下滝発電所への資材運搬線(軌間762mm)からスタートした下野軌道が前身です。

この鬼怒川水力電気は彼の事業の中心になり、ガスや地下鉄計画にも手を広げます。地下鉄の免許は震災後に取り消されますが、その延長線として免許された小田原急行鉄道が1927年に開業し、鬼怒川の電力ユーザーになりました。小田急以外の電気鉄道も計画し、大井町-世田谷-杉並-中野-板橋-滝野川-千住-小松川-砂町-洲崎という環七に近いルートの環状線は実現しませんでしたが、帝都電鉄(現・京王井の頭線)は1933年に開通。
その小田急、長距離の路線を最初から全線複線で建設したことからも、彼の大計画主義がうかがわれます。

利光鶴松は、小田急の本線から分岐して南に向う江ノ島線(1929年開通)沿線に、数千戸の住宅からなる「林間都市」を構想し、遷都論(現在の用語では首都機能移転?)までブチ上げました。林間都市は、もちろん英国人ハワードらの田園都市論の影響を受けたものでしょう。
既に渋沢栄一・五島慶太により田園調布が開発され、販売開始翌月の関東大震災にも無事で、「今回の激震は田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!」という宣伝がされました。
戦後にも、東急の多摩田園都市、南海高野線の林間田園都市と、同様の名を付けたニュータウンがあります。

東林間都市・中央林間都市・南林間都市という駅名は、この林間都市構想に基づくものですが、現実には林間都市の建設はいっこうに進まず、都市とは程遠い「林間」のままでした。[3868]で 企画倒れ駅名として紹介されています。

利光は 最後には中国山東省での金山経営に失敗し、電力事業の国家管理が強化された1941年には、小田急の経営も、東横の五島慶太に譲って引退しました。
「林間都市」の夢も実現せず、駅名からは「都市」が削られました。
かくて、これらの駅名に由来する「中央林間」等の不思議な地名が生まれることになりました。
皮肉にもその後都市化した現在は、「林間」と言えるでしょうか?


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