都道府県市区町村
落書き帳

鹿角郡

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[12075]2003年3月29日
ちりたま
[12082]2003年3月29日
ペーロケ
[24028]2004年1月22日
太白
[24052]2004年1月23日
ペーロケ
[51430]2006年5月22日
矢作川太郎
[51666]2006年6月6日
矢作川太郎

[12075] 2003年 3月 29日(土)20:31:12ちりたま さん
レスありがとうございます
[12065]岩手県北民さん
レスありがとうございます。郡境の変更ひとつで地域住民や経済に少なからず影響を与えるのですね。

[11959]uttさん
確かに藩というのは現在の県とは質的に異なり、日本の領土を分割して自治するという意味合いよりも、
ただの大名の所有地といった意味合いの方が強かったようですね。
だから、大きい藩もあれば小さな藩もあり、あっちこっちで土地の売買があったり、
領主の経済力によって増えたり減ったり、あと、幕府などから「与えられた」りするので、
境界線も一定しないため、飛地として認定すべきかどうかは微妙ですが、
しかし、後の廃藩置県で、県や市町村の形の元になった事実を考えれば、
広い意味で「飛地」と言ってもいいような気がします。
それに関連する話ですが、明治元年に陸奥国が五つに分断された際二戸郡は陸奥、鹿角郡は陸中、三戸郡は陸奥となり、鹿角郡が「飛び地」的な状態になっています。これは少なくとも戊辰戦争の際秋田藩が官軍側に寝返ったことに起因していると考えられます。事実、鹿角郡はその後秋田県に組み込まれ、路線バスは大館市に本社をもつ秋北バスが運行しています。もしかすると現在鹿角市と小坂町が大館市との合併に消極的なのはそういった歴史的背景が理由(といっていいのか?)のひとつになっているのかもしれませんね。もっとも「国」が形骸化していた幕末に「飛び地」という表現は厳密なものではないとおもいますが・・。
[12082] 2003年 3月 29日(土)22:27:32【1】ペーロケ[utt] さん
南部地方
[12075]ちりたまさま
鹿角郡が「飛び地」的な状態になっています。
それ以前の鹿角郡と陸中地域の岩手県域との交流がいかに、というところが気になりますね。
二戸郡や九戸郡、久慈市付近は、地図を見る限り「~のへ」シリーズもあることより
岩手県というより八戸市との関係が密接のような気がしますね。
もし青森県の三八地方と岩手県二戸郡、九戸郡、久慈市、そして秋田県「陸中」の範囲で、
新たに県を作ったら、文化的に一体となった県になりそうですね。
あと、安代JCTでは、盛岡方面から北上して来た場合、
まっすぐ行くと「八戸自動車道」八戸方面で、「東北自動車道」青森方面が分岐している感じですね。
これは広島北JCTも「中国自動車道」を大阪方面から来た場合、まっすぐ行くと「広島自動車道」で、
ここから「中国自動車道」が山口方面へと分岐しているのと似た形なのですが、
山陽自動車道と瀬戸中央自動車道が分岐する倉敷JCTのように、
必ずしも先に開通した道路から後に開通した道路を分岐する構造になっているとは限らないことを考慮すれば、
岩手県と八戸地方が鹿角や弘前よりも文化的につながりが深い地域だからこそ、の結果としてこの形でしょうか。

八戸線と大湊線はいわばJR東日本の「飛び地」となってしまいます。
JRの飛び地(飛び線?)ではないのですが、北陸(長野)新幹線開通時に「しなの鉄道」が独立した際、
標高最高である野辺山駅を手放したくなかったのか、なぜか小海線はJRのままだったのですが、
この経緯が気になりますね。幹線ではありませんし、あまり黒字とは思えませんし。。。
[24028] 2004年 1月 22日(木)09:26:44太白 さん
日本のフォーコーナーズ
[23953] みやこさん
[24021] 愛比売命 さん
4つ以上の市町村の交差点
こんなのもありました。

香川県綾上町、綾南町、香川町、香南町(高松空港付近)
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=134%2F00%2F55.755&pnf=1&size=500%2C500&nl=34%2F12%2F27.367

また、旧国名(明治初年以後)だと、陸中国と陸奥国の「国境」で、陸中国の飛地部分(小坂)と陸中本体が点で接していて、境界部分が陸中2つ+陸奥+羽後の交差点になっているように見えるのですが、いかがでしょう。
[24052] 2004年 1月 23日(金)00:43:24ペーロケ[愛比売命] さん
惜しい「四叉路」
[24027]太白さん
また、旧国名(明治初年以後)だと、陸中国と陸奥国の「国境」で、陸中国の飛地部分(小坂)と陸中本体が点で接していて、境界部分が陸中2つ+陸奥+羽後の交差点になっているように見えるのですが、いかがでしょう。
 八幡平(はちまんだいら、ではありませんよ)ですね。私もここは思い浮かびましたが、惜しいんですよね。市町境界が旧国界と一致するかどうかは詳しくないので分かりませんが、(ここは確かずれてますよね?)、仮に一致するとすれば、安代町(陸奥国)と田沢湖町(羽後国)が接していて、両・陸中は離れているのですよ。すなわち、完全な「飛び地」なのです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=140%2F51%2F24.908&pnf=1&size=500%2C500&nl=39%2F57%2F16.542

 そうそう、惜しい例を他にも見てきましたが、一番感動した場所は飯豊山。細長くせり出した福島県山都町がさりげなく新潟県新発田市に接しているのです。なお、飯豊山の細長い境界の経緯については、[10531]にてkenさんがさりげなく紹介されているサイトに詳しいです。

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=139%2F41%2F05.278&pnf=1&size=500%2C500&nl=37%2F50%2F38.104

[24035]今川焼さん
岡山県東部の、吉井町、佐伯町、英田町、柵原町の4町が300メートルほどずれていますが接しています。
 西宮市と伊丹市が接している場所にも似た風景ですね。
[51430] 2006年 5月 22日(月)00:29:21矢作川太郎 さん
奥州街道→陸羽街道
[51425]にまんさん
鹿角と三戸って「同じ国」になりませんか?
実は違う国だと今さっきまで思い込んでた矢作です。(笑)
Wikipediaのページに有るように鹿角郡は陸中、三戸郡は陸奥とそれぞれなっています。しかし
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国を分割して設けられた。
とあります。ですので、明治元年以前には同じ国であると言えるのです。昔話の類のものが明治時代に発祥したとは考えにくく、やはり前述の通りであるといえます。

では何故、鹿角郡が陸中とされたのかについて、一つ仮説を立ててみます。多分今でも有ると思いますが、青森県(陸奥国)内において南部地方と津軽地方とは藩政期から別個の物であるという意識があるようです。当然、それぞれの主要都市である弘前、八戸への交通路は途中で分岐していたのでしょう。(東北・八戸両自動車道が分岐しているように。)八戸へ向かう際には奥州街道を道なりに行けば辿り着けます。(その延長に竜飛崎始め、東津軽郡の宿が有ることから東津軽郡も他の津軽郡からすれば違う地域だと認識されたのでは無いでしょうか。)一方、弘前へは奥州街道から大釈迦峠を越えるルートは遠回りになります。ですから、奥州街道とは別の鹿角街道(津軽街道)が利用されたのでは無いでしょうか。(そのルートは東北自動車道のルートにもなっています。)ですから、後の陸中国(盛岡を中心とする地域)にしてみれば、鹿角は弘前に向かう際の道沿いの奥の方となるので、陸中の延長と見なされたのでしょう。そして明治元年の陸奥国分割に際して陸中国と位置付けられたのでしょう。(まあ、山向こうの他の水系の最上流部がこちら側の郡或いは国に属するのは良くある事例です。)しかし、二戸郡の区域は鹿角街道(津軽街道)沿いとは認識されず、(端っこをかすめているだけだからか?)奥州街道沿い、もしくは(安比川→馬淵川)沿いと認識されたのではないでしょうか?

*タイトルの奥州街道→陸羽街道への変更は1873年(明治6年)行われたそうです。(陸奥・陸
 中・陸前だけではなく羽後・羽前にも通じている事を表したかったのか?それとも、日本海
 経由が一般的では無かったからか?悩ましい・・・)
[51666] 2006年 6月 6日(火)01:21:23矢作川太郎 さん
鹿角八幡平IC-花輪SA-十和田IC
とまあ、題名に東北自動車道のIC・SAを出してみたわけです。本文と直接は関係有りませんけど、象徴的だと言うことにしておいて下さい。

一回週末に書き込む内容を練っていましたが、どうにもまとまらなくなりましたので平日にズレ込んでしまっ・・・ああっ!!まあ御託はそれまでにして早速本文をどうぞ。(笑)

[51430]拙稿
[51472]敷守ほむらさん

確か何処かのHPに「領」には郡を細分化した地理区分であったと書いてありました。(御存知の方情報求む。)今日、学内の図書館で角川の地名辞典を引っ張り出して調べた所、昔、八戸を中心とした一帯を治めた南部藩では「通」と言う物で郡を細分化したとありました。(多分、東通村に残ったのか?これは北浜街道の別名だから違うか。)つまり、この「通」と言う物が他の地域の「領」と何らかの関わりがあると「思われます。」(←あくまで主観です。)

次に、三戸郡に関しては、江戸時代のごく初期に陸奥国糠部郡を北郡(現:上北、下北郡)・三戸郡・二戸郡・九戸郡に分割した際に成立したとされていますが、それ以前から糠部郡を細分化する際に三戸領(通?)が用いられていたのでは無いでしょうか。

一方、鹿角郡に関して戦国期以前には隣の比内郡(現:大館市の一帯)とともに陸奥国とされましたが、戦国期に比内郡が秋田郡(後の北秋田郡)編入された後は出羽国に接する様になります。それでも、津軽地方と米代川上流域とは、坂梨・矢立両峠を介して交流は盛んだったのでしょう。しかし、鹿角領と呼ばれたかは確証が持てません。

でも、それが、
昔ばなし中では、三戸と鹿角がとなりの国という表現を使っていて、三戸領、鹿角領という言い方をしていたのですが、となりの領というのをとなりの国と表現していたのかな?
という事実となって、陸奥国内でも違う地域だと認識されたのでしょう。これに関連して、何故、陸奥・出羽両国が大きいまま明治を迎えたのか。という疑問が湧いてきますが、それは、律令制の崩壊と関連します。律令制というのは、朝廷が日本国内を多数の国に分けて、そこに国司を派遣して統治すると言うものですが、荘園や武士の領有によって、律令制の国が形骸化した後は、分割して面積の差を是正する必要は無くなり広いまま単に地理区分としてしか利用されなくなりました。その後、明治新政府により分割されてゆく過程で三戸と鹿角が別の国となっていった訳です。しかし、それは、殆ど利用されず県の単位=国の単位となって自然に忘れ去られていきました。(実際に使われている事例はある。)

この中で三戸と鹿角が別の国となった経緯に興味深い記述が角川の地名辞典に有りました。それは、南部藩の影響力を削ぐ為に新政府がワザと分けたと言う物です。鹿角郡周辺は古くから鉱業が盛んでした。(尾去沢鉱山小坂鉱山など、現在廃墟フリークの聖地となっている。)それらは、南部藩の重要な財源となっていました。しかし新政府から見れば脅威と映ったのでしょうか。後に倒幕派の松代藩の手に渡っています。またその際に、「鹿角郡田山村」を「二戸郡田山村」としたそうです。これが事実であれば、鹿角郡と岩手郡が接していた事になり、そのままの状態で分けられたら陸中に飛び地は出来なかったのかも知れません。

*題名のIC・SA名と今回の合併で鹿角市に接する様に出来た(八幡平市、十和田市)の関係はとても複雑だと思われます。鹿角市が鹿角郡花輪町、十和田町、尾去沢町、八幡平村の合併によって出来た所為でしょうか。


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