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落書き帳

カスリーン台風

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[1639] 2002年 5月 26日(日)20:44:30Issie さん
利根川東遷
> 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。

人気のある神様なんでしょうね。
特に「香取」(かとり←かんどり)は「舵取り」(→かんどり)に通じますから,「戦の神様」だけでなく水運関係にも人気があるようです。

> 平将門と藤原純友の仲

この2人が本当にツルんでいれば面白かったかもしれませんが,「東西相呼応して」というのは都の貴族連中の妄想だったというのが実際のところのようです。坂東の戦乱と西海の反乱とでは性格も目的もだいぶ違っているようですからね。2人が同時に都にいた可能性は十分ありえるのですが,お互いにお友達だった証拠はないのですよね。

> 関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との
> 合流点迄が該当するのかな?

今の地図を見ているとそのように思ってしまうのですが,実際に全く新しく開削したのは栗橋や関宿のあたりのごく短い区間だけで,特に関宿以東は以前からあった水路を拡幅して少しばかり手を加えただけです。

(前にも書いたかもしれませんが,)実は関東平野の中で一番低くなっているのは栗橋のあたりで(ここがどんどん沈んでいるのです。逆に南部の東京湾岸地域はどんどん持ち上がっている),そこを荒川・利根川・渡良瀬川の3大河川が寄ってたかって埋めている最中です。
そのせいで特に埼玉県北部から群馬県南東部にかけては3つの河川の大乱流地帯となっていて,昔から流路が安定していない地域でした。
たとえば,荒川は現在では熊谷から南へ流れて川越で入間川と合流するルートをとっていますが,「元荒川」という東へ流れるルートもあるし,足立郡と埼玉郡の境界が綾瀬川であることはかつてはこれが荒川の主なルートの1つであったことを示唆しています。
これは利根川や渡良瀬川でも同じで,つまり今の北埼玉郡一帯には利根川の流路が無数にあった。それを戦国末期以来,あちこちの区間で堤防を築きながら固定されて成立したのが現在の流路なのです。
「利根川東遷」と呼ばれる大土木事業は,単に「江戸を洪水から守るための放水路」を建設するための1回かぎりの事業ではなくて,こうしたたびかさなる治水事業の総仕上げとして行われたもので,同時に房総沖の難所を避けて銚子と江戸を結ぶ内陸水路を開くための事業でもありました。
最終的に,今の地図にあるような流路が確定するのは,カスリン台風を経験した後の戦後になってからのことです。明治・大正期には,あちこちの区間で今とは違うルートが本流とされていました。
一方で,県境の方は府県制と郡制が実際に施行された明治半ば,世紀の変わり目で固定されてしまいます。流路の変更はその後も続いたわけで,そのせいでお互いのズレが大きくなってしまいました。

なお利根川が鬼怒川とつながるまでの常総地域で一番分かりやすい境界線は鬼怒川だったわけで,したがってこれが国境となっているのです(途中で国境は小貝川に移るけど,これはかつてはこちら本流だったことを示唆するのでしょうね)。古河を含む現在の猿島郡西部は旧(西)葛飾郡。後に武蔵に編入された江戸川右岸(西岸)の区域も含めて「葛飾郡」というのは,(古)利根川左岸の下総国北西境を限るたいへん広大な郡だったのです。

> 佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

実は小貝川合流点以東の区間では常総国境,そして両県の境も当初は利根川本流筋よりも北にありました。現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。このときに利根川本流→横利根川→常陸利根川というのが県境として確定したのです。

関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。海音寺潮五郎の『平将門』で一度劣勢に陥った将門がこのあたりの芦辺に身を隠す場面がありますが,それは『水滸伝』の梁山泊や「芦の陰から漕ぎ出す船…」で始まるロシア民謡の「ステンカ・ラージン」を連想させます。そんな場所だったのですね。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。

江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
この新田開発には南岸の下総側の村も利根川本流筋を越えて積極的に参加します。現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,このあたりは明治の大合併の時には利根川本流をまたいで「佐原町」や「津宮村」などの一部となります。潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。
結局は,これがそのまま現在の県境になったのですね。
このあたりに頑丈な堤防が作られて陸地と河川敷を完全に分離する事業が始まるのは大正から昭和初期,ちょうど「船頭小唄」が流行した頃。事業が完成するのは,ようやく戦後になってからです。「潮来花嫁さん」が流行した頃かな。

今のすっきりしてしまった川筋からはなかなか想像しにくいけれど,戦前までのこのあたりの様子は今とはだいぶ違っていたのですね。
[58751] 2007年 5月 30日(水)23:31:25hmt さん
水道の蛇口の向こう側(3)利根川・荒川水系
武蔵野の湧き水を水源とした神田上水、11里上流の羽村から水を引いた玉川上水を淵源とする東京の水道は、20世紀にはポンプで加圧された配水管で給水されるようになり[58728]、山梨県にまたがる多摩川水源林に守られた貴重な水をいくつかの貯水池を使いながら運用してきました[58729]

さて、[58729]で昭和30年代のことを“多摩川だけに頼っていた時代”と書きましたが、「だけ」は不適切だったので削除します。
大正15年(1926)から金町浄水場から江戸川の水が東京の東側の区域に供給されていました。現在の能力は全体の2割余です。
江戸川沿岸の都市化につれて、金町浄水場で取水する原水の水質は悪化しました。かつては金町系統の水は品質の悪いことで定評がありました。
しかし、1992年に開始したオゾンと生物活性炭による高度浄水処理によって金町の水は品質が向上しました(現在約分の1)。高度処理水はペットボトルに詰められ、「東京水」 というブランドで宣伝・販売されています。なお、朝霞浄水場など別の採水地の東京水もあります。

それはさておき、
昭和30年代に多摩川に巨大貯水池を完成させた頃には、既に次なる水源を求める努力が始められていました。それは北関東の深い山を流域に持つ利根川と、その手前にある荒川です。

もちろん、これらの川は別の県にあり、東京都独力で遂行できる事業ではありません。
根幹は昭和36年(1961)に制定された「水資源開発促進法」により、国が策定した「利根川水系及び荒川水系における水資源開発基本計画」に基づいて建設省→国土交通省や水資源開発公団→独立行政法人水資源機構によって開発が進められる事業として行なわれます。

この水系開発の概要は現況図に示されていますが、東京の水源の中心になるものは、利根川上流に造られた「矢木沢ダム」と、利根川から荒川を経由して東京に原水を導く水路です。
矢木沢ダム(群馬県みなかみ町)→利根川→利根大堰→武蔵水路→荒川→秋ヶ瀬取水堰(志木市)→朝霞水路→朝霞浄水場→東村山浄水場
ルート後半部の荒川から取水する系統は1965年、荒川に利根川の水を導く利根大堰・武蔵水路は1968年に完成しました。

矢木沢ダム計画は、古くは「東京市上水道計画」でも構想され、また奥利根電源開発計画では、尾瀬原ダムとの間の揚水発電案もありました。
治水の面では、戦後のカスリーン台風(1947)による被害をふまえた洪水対策としてクローズアップされました。
そして建設省によるダム計画が進行中に、前記のように法制度が整備され、水資源開発公団がこの多目的ダム(洪水調節・灌漑・水道・発電)建設の主体になり、1967年に完成しました。最初の計画では総貯水容量1億トン規模でしたが、事業拡大で倍増しています。

このようにして、利根川上流部からの水がもたらされた結果、現在東京都が保有する水源量は日量623万m3となっています。
その内訳は78%が利根川・荒川水系、19%が多摩川水系です。
東京の水道水源と浄水場別給水区域図 をリンクします。

通常は、利根川・荒川水系を主体に需要をまかなって、多摩川水系の小河内貯水池などは備蓄に努め、イザという時に備える運用を取っているようです。このような両水系の 原水相互融通 は、利根川・荒川水系の朝霞浄水場と、多摩川水系の東村山浄水場とを結ぶ延長17kmの「原水連絡管」によって可能になります。
通常の夏場になると、利根川水系でメインの矢木沢ダムの貯水状況が報道されていますが、小河内貯水池の貯水減少が報道されるようになったらピンチということなのでしょう。
[65862] 2008年 7月 25日(金)19:50:11【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(4)関宿の江戸川流頭部
今回のシリーズ。かつて十六島(新島 しんしま)と呼ばれた利根川下流部・水郷地帯から始め[65806][65807]、鬼怒川・小貝川に関わる改修に及びました[65861]

しかし、境界線ともからみあう利根川流路変遷の主要舞台は、なんといっても関東平野の中央部です。
今回のきっかけとなった埼玉県北埼玉郡北川辺町・茨城県猿島郡五霞町[65690]は、渡良瀬川が合流する栗橋付近であり、また江戸川が分れる流頭部は、その五霞町と関宿(千葉県野田市)との境界です。

下流から遡上してきたので、この地域も 関宿の 江戸川流頭部 から始めましょう。自治体名の 関宿町は2003年に消滅
最近では、[65693] 桜通り十文字さん が 県境と(江戸川の)流路との食い違いを取り上げた場所です。

南東に流れるのが利根川、西側を南に流れるのが江戸川(航空写真)ですが、ここに関宿水門があります。
西側の細い水路は南北2つのロックゲートで区切られた閘門です。現在はほとんど利用されていませんが、水位の違う利根川と江戸川との間を航行する船舶のための設備です。

明治43年(1910)8月の大洪水を契機として改定された利根川改修計画では、洪水時の水量のかなりの部分を江戸川に分けることできるような対策を組み入れました。
流頭部の関宿水閘門を含む59kmの江戸川拡幅工事(840→2230m3毎秒)がすべて完成したのは昭和5年(1930)で、これにより利根川から江戸川に直接分流するという現在の姿が実現しました。
なお、江戸川の流末部では、行徳の東で海に流す3.2kmの江戸川放水路が、大正8年(1919)に完成しており、また昭和22年(1947)のカスリーン台風後に更なる工事が行なわれ、関宿-野田間は40m幅になりました。

1930年に現在の流路に切り替えられる前の河道が、地図 に描かれた千葉・茨城県境なのです。

こまかく調べれば、明治時代にもこの付近の河道は多少の変更があり、それに合わせて県境も変更されているのですが、概略の流路としては 天保国絵図に描かれている河道 も、現在の千葉・茨城県境とほぼ同じです。

この河道のポイントは、関宿城の西側から北へと通じ、東向きに利根川に合流する「逆川」です。

逆川のできた年代については、寛永18年(1641)と記されている資料が多いようです。例えば前回の記事でもリンクしておいた 利根川百科事典の図pdf 。これは、関宿-金杉間の新水路(江戸川)開削(寛永12-18年)の完成年です。

しかし、寛文5年(1665)に関宿城主板倉重常の御手伝普請により、関宿から赤堀川に通じる新川・逆川が改修された(下総国旧事考)という記録があります。
寛永年間に行なわれた関宿以南の江戸川開削時に逆川の原型は開削されていたとしても、その流路はまだ不完全な状態であり、利根川を遡ってきた船が江戸へと直接下る幹川水路としての逆川が完全な機能を発揮したのは、24年後の1665年であったのではないかと思われます。

【追記】
利根川東遷と江戸川の開削(江戸川河川事務所)には、逆川開削を1665年とする記載がありました。
(工事)の後、寛文5年(1665)には、関宿に利根川と江戸川を結ぶ水路が開削されました。これにより、現在の江戸川の流れが完成したのです。
このページに掲載された図には、会の川締切・綾瀬川を元荒川から分離する備前堤・鬼怒川小貝川分離[65861]の3つの堤防と共に、逆川の位置にも堤防が記されています。
これに関する説明はありませんが、寛永年間の江戸川開削にあたり、一旦は堤防を築いて東へ流す赤堀川(利根川)と南へ流す江戸川とを完全に分離したのではないかと思われます。

下流からという原則に従って、時代的には前回記事と今回記事との間に位置する赤堀川開通に先立って関宿の話題を記したために、わかりにくくなったきらいがありますが、逆川以前の舟運は、利根川(赤堀川)を遡り栗橋から権現堂川経由へと迂回していました。
逆川により利根川と関宿との間をショートカットしたことで、関宿は最盛期には年間取引額150万両、日本随一の河港という交通の結節点になりました。

内水航路は明治にも盛んに利用され、明治10年(1877)には内国通運会社が江戸川を浚渫して、東京の深川から思川生井河岸(現・小山市)まで西洋式の蒸気船通運丸を就航させています。明治23年(1890)の利根運河通水により、関宿は銚子-東京航路から外れ、やがて内水航路自体も消滅します。

国絵図に戻ると、関宿城とその南側の城下町が見えます。城下町の一部は江戸川の西岸に及んでいます(向下河岸)。ここは粕壁方面などへの街道が分岐し、明治2年までは川関所が設けられていました。当時は文字通り川向いのこの町までが下総国の領域だったことが絵図の色分けからよくわかりますが、現在は地続きの埼玉県幸手市に属しています。
[65910] 2008年 7月 31日(木)18:49:20hmt さん
利根川と国境・県境との関係(6)再び逆川、そして赤堀川の位置付け
舟運、特に大消費地である江戸へのルートを考えると、一つの疑問が浮かびます。

常陸川を遡行してきた船は、関宿から逆川を経て江戸川へ入る。これが寛文5年(1665)から明治23年(1890、利根運河通水)までの間の内陸幹川航路です。
それ以前には、赤堀川を栗橋まで遡って、権現堂川経由江戸川に入っていました[57264]。これでも房総半島を迂回する海路に比べればだいぶ近道かつ安全な航路ですが、なぜ関宿から直接 江戸川(既に寛永18年=1641に開通)に入らなかったのでしょうか?

その理由は、常陸川の航行に必要な水量にあったのではないでしょうか。
既に1629年大木丘陵開削により鬼怒川合流点を移す[65861]などの常陸川水量確保の措置も講じられていますが、(長井戸沼など 境町・関宿周辺の沼沢群からの水だけでは、この付近までの航行に必要な水量には不足していました。赤堀川の水でこれを補給しようとしたが、まだ不足。

赤堀川通水以前、逆川の原型となる川の存在は不明ですが、ヘタをするとせっかくの赤堀川の水がここを逆流して(だから逆川?)江戸川に流出してしまうおそれもあります。
江戸川河川事務所HP掲載の図 で赤堀川の右に見える締切堤防は、この逆流を防ぐためのものではないかと推察されます。
ここを締め切ってしまえば、もちろん関宿から直接 江戸川には入れません。

では、寛文5年(1665)にこの締切を撤去して逆川を開削(復活?)することができた理由は何か?
それは、赤堀川の幅と水深を更に大きくして、給水能力を増強する対策を取ったためと思われます。

土木学会企画展pdf によると、元禄11年(1698)赤堀川は、川幅27間(49m)、深さ2丈9尺(9m)に拡張されているようです。しかし、それよりも少し前に、既にある程度の水量増加が実現している可能性があります。そうであるならば、一旦閉じた逆川を開いても舟運に必要な水量を確保できることになります。
これが寛文5年(1665)の逆川開削による銚子-江戸航路ショートカットを可能にした背景であろうと推測します。

舟運ルートの詮索から戻り、利根川水系における赤堀川の位置付けを考えます。

承応3年(1654)の通水により、赤堀川は「利根川の本流」になったでしょうか? そうではないようです。

「1654年赤堀川通水」により、利根川の水の「一部」は確かに赤堀川→常陸川へと流れました。
しかし、赤堀川の幅は狭く、いわば船の航行に必要な最小限の分水だったと思われます。
栗橋で渡良瀬川と合流した利根川の主流は、依然として権現堂川→江戸川を流れたと思われます。
そして、1665年の逆川開削より後の時代になると、利根川主流である権現堂川からの流れは、江戸川と逆川経由常陸川との二手に分かれることになります。

元禄15年(1702)下総国絵図 を見ると、渡良瀬川合流点の下流に「利根川 幅弐町四拾七間(167間)」とあり、そこから東に「赤堀川・川幅三拾弐間」が分れています。
10間幅→27間幅(1698)より更に拡張されていますが、それでも利根川の5分の1の川幅です。

権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で65間(壱町五間)、分れる江戸川が43間、逆川が赤堀川と合流した後の関宿・境町間が161間と、渡良瀬川合流後の川幅とほぼ同じ値になっています。
この数値から判断すると、栗橋で2手に分れた流れのうち、権現堂川→逆川を経由して元の常陸川筋への流れが「利根川本流」になっており、赤堀川はバイパスであったと思われます。

つまり、寛文5年(1665)の逆川開削[65862]によって東へ向かう太い流路が確保されたわけで、拡幅された赤堀川と合わせて、この時期に「銚子口への利根川東遷」が一応は完成したと見てよさそうです。

利根川が、権現堂川と赤堀川との二本立てで東へ流れる体制は、長く続きました。
文化6年(1809)、明治4年(1871)、明治45~大正6年(1912-1917)など何度もの赤堀川拡幅工事を経て、遂に権現堂川は大正14年(1925)に流頭が、昭和2年(1927)に流末が締め切らました。
現在のように赤堀川が利根川の唯一の本流になったのは、このようにずっと後のことでした。
戦後のカスリーン台風(1947)を経て赤堀川が更に拡幅され、現在は700mほどになっていることは既に記しました。[65909]

利根川東遷 は、徳川家康時代からの大計画などではなく、試行錯誤を繰り返しながら到達した結果のように思われます。
[77091] 2010年 12月 23日(木)18:20:16【2】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(10)権現堂川
総武国境を流れる川と言うと、下総国は千葉県で武蔵国は東京都・埼玉県だから、この境界を流れるのは江戸川というのが最初に出る答えです。

しかし、下総国は茨城県西部に及んでいますから、総武国境の北部は茨城・埼玉県境です。
[77081]では、主としてこちらについて記し、総武国境の最北部で古河市が旧北川辺町と隣接している渡良瀬川に触れました。
今昔地図 の最後から明らかなように、現状では、栗橋から先の総武国境には川が流れていませんが、ここは、利根川の歴史を語る上で欠かせない「権現堂川」の流路跡です。

権現堂川(栗橋・権現堂堤・関宿間)のことは、Issieさんを始めとする2003年の記事が アーカイブズ に収録されており、私も[57264][65910]など何回も言及しましたが、「帰らざる河」になってしまったこの川のことをレビューしておきたいと思います。

ウオッちずで権現堂川を検索すると、現在も1件ヒットします。しかし、その姿は 南北に細長い池で、権現堂調節池(行幸湖)という注記も見えます。南端でつながっている川を東に進んだ幸手工業団地付近も かつての権現堂川ですが、Mapionには「中川」と書いてあります。
つまり、「川としての権現堂川」は完全に失われ、西側は調節池として、南側は中川の一部として再利用されているわけです。

[11293] でるでる さん
私の周りでは、権現堂川という名称の方が、馴染んでいるような気がしますが、たいてい中川と呼んでも通じますね。
現在の権現堂川(中川)の姿からでは、かつては利根川の本流であったというのは、驚きです。

権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます(小出博:日本の河川研究 1972)。
権現堂から東に分派する流れもありました。天正4年(1576)権現堂堤で南への流れを断って以降は東流が主となり、庄内古川経由金杉以南は江戸川筋を南下したと考えられます。

この権現堂川の流れは、渡良瀬川だけでなく、利根川の主流路にもなりました。
利根川の派川・合の川が3県境地点で渡良瀬川に合流しただけでなく、もう一つの利根川主流である浅間川の水も島川経由で権現堂川に流れ込んでいました。寛永年代になると浅間川から古利根川方面への流れは 高柳地点で締め切られ、全量が栗橋経由で権現堂川に入ることになりました。
この時期、栗橋・関宿間の赤堀川拡幅工事が進行中ですが、こちらから東に流れる利根川の水はまだ少量と思われます。

利根川水系における権現堂川の地位を語るにあたっては、赤堀川[65909][65910]の状況認識を欠くことができません。
元和7年(1621)にスタートした赤堀川開削。最初は僅か7間幅で着工。拡幅だけでなく深さも掘り下げてようやく平水時の通水を達成したのが33年後の承応3年(1654)【[57264]の寛永18年は誤記】。この工事の主目的は、仙台から物資を輸送する船を江戸に導くことであったと思われます。

江戸に行くならば栗橋など回らずに、関宿から直接江戸川に入ればよいと思われます。事実 天正年代には 僅かながら逆川ルート【自然か人工か不明】が舟運に利用されていたようです。
しかし、江戸川の水位は利根川(常陸川)よりも低く、うかつに関宿での水路を繋げると、長井戸沼などから供給されていた水が流出してしまい、利根川を大きな船が遡行する水位を保てなくなるのが問題なのでした。
このような理由で、赤堀川を通じて利根川に十分な水量が供給される前には、逆川を堤防で締切る(寛永18年=1641)ことにより、水の流失を防いでいたのでした。

逆川が締め切られれば、江戸への航路は栗橋を廻らざるを得ません。こうして物流拠点となった権現堂川筋には、一時的な繁栄がもたらされました。

しかし、寛文5年(1665)には逆川の堤防が撤去され、仙台からの物資輸送船は、利根川から江戸川に直通することができるようになりました。承応3年の赤堀川通水から11年後ですから、この間に一層の水量増加対策が取られたものと思われます。
赤堀川の規模については、元禄11年(1698)に幅27間、深さ29尺(土木学会企画展)と記され、元禄15年の国絵図にも川幅32間とあります。文化6年(1809)には40間。

元禄国絵図に記された川幅[65910]からすると、権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で 65間あり、赤堀川 32間に比べて倍あります。もちろん江戸川への流出もありますが、利根川は栗橋で2手に分れ、関宿で合流という2本立ての姿を見せており、これは天保国絵図でも殆んど同じです。

江戸時代の「利根川の本流」がどこだったのか。私にはよくわかりません。
ごく初期の会の川、古利根川などは別として、利根川本流は浅間川から新川通へと移り、そして栗橋から下流の候補としては、権現堂川→江戸川、権現堂川→常陸川、赤堀川→常陸川が挙げられます。

明治の迅速測図 になっても、まだ権現堂川から江戸川と逆川とに分れ、赤堀川を含め3本立ての流路です。
赤堀川は概ね幅広になっているが、川妻村にボトルネックががあり、洪水時の処理能力には まだまだ不安あり。
青線で加筆された現在の江戸川流頭は、当時の逆川と逆向きです。

内陸水運の物流拠点が、権現堂河岸 から 関宿 へと移ってから200年以上、明治23年(1890)に利根川と江戸川とをショートカットする利根運河(ムルデル[67436]設計)が開削され、関宿も拠点の地位を失いました。蒸気船の時代になっていますが、追いかけて明治29年(1896)日本鉄道土浦線[61225](現・常磐線)開通というわけで、運河の最盛期は短期間で終りました。

権現堂川は江戸時代を通じて大河でしたが、もともと南下していた流路を東に向けただけに、権現堂堤はずっと破堤・水害の危険をはらんでいました[11541]。「行幸湖」[36976]の名も、明治9年に明治天皇が前年に築かれた堤防を視察されたことを記念しています。

河川政策が水運から水害防止に移ると、赤堀川の役目も、舟運用の水路確保から、洪水時の排水機能が重視されるようになりました。明治の大水害(1910)経験後の近代改修事業(~昭和5年)と、カスリーン台風(1947)後の戦後改修で、赤堀川は一段と拡幅されました。現在は約700m(400間)。
20世紀初頭の工事については、洪水時に足尾鉱毒が東京に氾濫することを防止する役割も狙ったものであるという指摘もあります。

水運路の確保から洪水対策へと目的は変りましたが、17世紀から20世紀へと長期間をかけての整備が進められた結果、赤堀川の比重が次第に高まってゆき、遂に昭和に入って 権現堂川は 完全に廃川になりました。
結果として、「利根川東遷」は、ここに完成したものと思われます。

拡幅を続けた赤堀川と対照的に、権現堂川の運命は、明治以降の近代改修で縮小廃止への道を歩みます。
大正14年(1925)に流頭締切、昭和2年(1927)に流末締切。そして廃川。
農業用水の水源(溜井)になっていた上流側が再整備されて行幸湖になり、下流側が中川の一部に変身していることは、既に記しました。

利根川東遷完成と言いながら、利根川の水は、江戸川・見沼代用水路・武蔵水路など多くの人工的な水路により導かれています。
また、1947年のカスリーン台風では、利根川の洪水が東京に襲来しています。
利根川と東京との関係は、東遷によって、縁が切れたということでは、決してありません。
[78468] 2011年 6月 2日(木)12:39:36【1】むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)東京府(その3)
[78467]の続きです。

●浅草区
浅草茅町一丁目, (略), 浅草新森田町, 向柳原一丁目, 向柳原二丁目, 浅草松葉町, (略), 浅草北東仲町, 浅草馬道一丁目, 浅草馬道二丁目, 浅草馬道三丁目, 浅草馬道四丁目, 浅草馬道五丁目, 浅草馬道六丁目, 浅草馬道七丁目, 浅草馬道八丁目, 浅草花川戸町, (略), 新吉原角町, 新吉原京町二丁目, 北豊島郡 地方山谷町, 地方今戸町, 地方橋場町「の一部」, 千束村, 「坂本村の一部」
は下谷区、#36との関係上もあり、
浅草茅町一丁目, (略), 浅草新森田町, 向柳原「町」一丁目, 向柳原「町」二丁目, 浅草松葉町, (略), 浅草北東仲町, 浅草馬道「町」一丁目, 浅草馬道「町」二丁目, 浅草馬道「町」三丁目, 浅草馬道「町」四丁目, 浅草馬道「町」五丁目, 浅草馬道「町」六丁目, 浅草馬道「町」七丁目, 浅草馬道「町」八丁目, 浅草花川戸町, (略), 新吉原角町, 「新吉原京町一丁目」, 新吉原京町二丁目, 北豊島郡 地方山谷町, 地方今戸町, 地方橋場町「(微)」, 千束村「(本)」, 「坂本村(微)」
ではないでしょうか。
まず、府令第25号(PDF)(M22.4.11)3コマより浅草区外より編入されたのは北豊島郡 地方山谷町, 地方今戸町, 地方橋場町「(微)」, 千束村「(本)」, 「坂本村(微)」だけだと分かります。
次に、地方行政区画便覧(編・出版:内務省地理局、M20.10.)、新旧対照市町村一覧(著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.)、現行東京府令類纂(編:東京府知事官房、出版:東京府、M31.4.25)ではいずれも向柳原「町」一丁目, 向柳原「町」二丁目で浅草馬道「町」一丁目, 浅草馬道「町」二丁目, 浅草馬道「町」三丁目, 浅草馬道「町」四丁目, 浅草馬道「町」五丁目, 浅草馬道「町」六丁目, 浅草馬道「町」七丁目, 浅草馬道「町」八丁目と「町」があり、そして「新吉原京町一丁目」についてもいずれでも記載があります。

●本所区
本所元町, (略), 本所茅場町三丁目, 本所柳原一丁目, 本所柳原二丁目, 本所柳原三丁目, 本所若宮町, 本所横川町, 本所「大」平一丁目, 本所「大」平二丁目, 南本所外手町, (略), 本所松井町三丁目, 南葛飾郡 須崎村, 北本所出村「の一部」, 南本所出村「の一部」, 押上村, 請地村「の一部」, 中ノ郷村, 亀戸村「の一部」, 小梅村, 柳島村「の一部」, 深川本村「の一部」, 八右衛門新田「の一部」, 六「軒」堀出村「の一部」
は#85、#78、#87、#86、#79との関係上もあり、
本所元町, (略), 本所茅場町三丁目, 本所柳原「町」一丁目, 本所柳原「町」二丁目, 本所柳原「町」三丁目, 本所若宮町, 本所横川町, 本所「太」平「町」一丁目, 本所「太」平「町」二丁目, 南本所外手町, (略), 本所松井町三丁目, 南葛飾郡 須崎村「(本)」, 北本所出村「(微)」, 南本所出村「(微)」, 押上村「(本)」, 請地村「(微)」, 中ノ郷村「(本)」, 亀戸村「(微)」, 小梅村「(本)」, 柳島村「(微)」, 深川本村「(微)」, 八右衛門新田「(微)」, 「六「間」堀出村(微)」
ではないでしょうか。
まず、府令第25号(PDF)(M22.4.11)3-4コマより本所区外より編入されたのは南葛飾郡 須崎村「(本)」, 北本所出村「(微)」, 南本所出村「(微)」, 押上村「(本)」, 請地村「(微)」, 中ノ郷村「(本)」, 亀戸村「(微)」, 小梅村「(本)」, 柳島村「(微)」, 深川本村「(微)」, 八右衛門新田「(微)」, 「六「間」堀出村(微)」だけだと分かります。
次に、新旧対照市町村一覧(著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.)では本所柳原一丁目, 本所柳原二丁目, 本所柳原三丁目で、本所「太」平「町」一丁目, 本所「太」平「町」二丁目となっています。
しかしながら地方行政区画便覧(編・出版:内務省地理局、M20.10.)では本所柳原「町」一丁目, 本所柳原「町」二丁目, 本所柳原「町」三丁目で、本所「太」平「町」一丁目, 本所「太」平「町」二丁目となっています。
また現行東京府令類纂(編:東京府知事官房、出版:東京府、M31.4.25)でも本所「大」平「町」一丁目, 本所「大」平「町」二丁目で、本所柳原「町」一丁目, 本所柳原「町」二丁目, 本所柳原「町」三丁目となっています。

●深川区
深川佐賀町一丁目, (略), 深川伊沢町, 深川一色「村」, 深川松村町, (略), 深川東扇橋町, 深川石「橋」町, 深川豊住町, (略), 深川富岡門前仲町, 深川山本町, 「富岡公園地」, 「深川洲崎弁天町」, 深川東元町, (略), 深川猿江裏町, 深川上大島町, 「深川下大島町」, 南葛飾郡深川本村「の一部」, 猿江村「の一部」, 「深川」毛利新田, 大島村「の一部」, 亀戸村「の一部」, 八右衛門新田「の一部」, 永代新田「の一部」, 海辺新田, 久左衛門新田「の一部」, 平井新田「の一部」, 石小田新田, 千田新田
は#87、#86、#85との関係上もあり、
深川佐賀町一丁目, (略), 深川伊沢町, 深川一色「町」, 深川松村町, (略), 深川東扇橋町, 深川石「島」町, 深川豊住町, (略), 深川富岡門前仲町, 深川「富岡門前」山本町, 「洲崎弁天町一丁目」, 「洲崎弁天町二丁目」, 深川東元町, (略), 深川猿江裏町, 深川上大島町「の一部」, 南葛飾郡深川本村「(微)」, 猿江村「(微)」, 毛利新田, 大島村「(微)」, 亀戸村「(微)」, 八右衛門新田「(微)」, 永代新田「(微)」, 海辺新田, 久左衛門新田「(微)」, 平井新田「(微)」, 石小田新田, 千田新田
ではないでしょうか。
まず、府令第25号(PDF)(M22.4.11)4コマより深川区外より編入されたのは南葛飾郡深川本村「(微)」, 猿江村「(微)」, 毛利新田, 大島村「(微)」, 亀戸村「(微)」, 八右衛門新田「(微)」, 永代新田「(微)」, 海辺新田, 久左衛門新田「(微)」, 平井新田「(微)」, 石小田新田, 千田新田だけだと分かります。
次に、新旧対照市町村一覧(著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.)では深川一色「町」で、21コマで深川石「嶋」町で深川山本町で「富岡」公園地。そして21コマで「深川洲崎弁天町」はあります。
しかし地方行政区画便覧(編・出版:内務省地理局、M20.10.)では深川一色「町」で深川石「島」町で深川「富岡門前」山本町で「深川」公園地となっています。ただ「深川洲崎弁天町」はありません。
また、現行東京府令類纂(編:東京府知事官房、出版:東京府、M31.4.25)では深川一色「町」で深川「富岡門前」山本町、405コマで深川石「島」町、406コマで「洲崎弁天町一丁目」, 「洲崎弁天町二丁目」とあります。「洲崎弁天町」はM20.5.府令第22号で深川区に編入され、M21.9.府令第47号で「洲崎弁天町一丁目」, 「洲崎弁天町二丁目」となったとも記載されています。「富岡」公園地or「深川」公園地の記載はありません。
「富岡公園地」の有無ですが、、深川区の町村数の変遷は
東京府統計書明治15年M15…92町1村
東京府統計書明治16_17年M16_17…92町1村
東京府統計書明治18年M18…92町1村
地方行政区画便覧M19.1.…92町1村
東京府統計書明治19年M19…92町1村
東京府統計書明治20年M20…92町1村
東京府統計書明治21年M21…92町1村
と変わっていません。
しかし、M20.5.4に南葛飾郡平妻新田地先海面埋立地が深川区洲崎弁天町として編入されているのに、町村数が変わらないことはありえなくて、「富岡公園地」(地方行政区画便覧では「深川公園地」)が町ではなくなったと考えられます。その後、M21.9.5に洲崎弁天町が洲崎弁天町一丁目と洲崎弁天町二丁目になったのが未反映なのは、東京府統計書明治21年での町村数が、M21.12.31現在の町村数ではなくてM21.1.1現在の町村数ということであろうと推測します。


次に東京市以外です。

15 新設/村制 荏原郡池上村 荏原郡 石川村, 雪ヶ谷村, 池上村(本), 市野倉村, 「馬込領」桐ヶ谷村, 堤方村, 下池上村, 徳持村, 久ヶ原村, 道々橋村

15 新設/村制 荏原郡池上村 荏原郡 石川村, 雪ヶ谷村, 池上村(本), 市野倉村, 桐ヶ谷村, 堤方村, 下池上村, 徳持村, 久ヶ原村, 道々橋村
として、詳細欄に「桐ヶ谷村は馬込領」と記した方がよいのではないでしょうか。東京府令第25号では「馬込領」は桐ヶ谷村の右肩に小さく記されています。
また[68442]においての
高知県の「郷」、埼玉県の「領」、全国の地域区分としての旧国名、同じく全国の行政区画の)「府藩県一般戸籍ノ法」による区(大区・小区)、この4種類はすべて「市制町村制施行前の町村名等」欄では割愛し、必要に応じ、詳細画面の「協議状況・経過等」欄に、記載する(具体的には当面は「郷」「領」のみを記載)、とする
との88さんの方針に合致します。
#「領」とは、中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」のページ1947カスリーン台風第5章利根川氾濫流の流下と中川流域(PDF)(12.8MB)5コマによると、
江戸時代、埼玉県下には大藩が置かれず、忍藩、岩槻藩などの小藩と幕府直轄地や旗本の所領が混在する地域であった。その中にあって、地域の水利と水防を基本とする地域単位として「領」が成立していた。
というもののようで、正式な村名の一部ではないように思えます。
参考:府令第25号(PDF)(M22.4.11)7コマ
現行東京府令類纂(M22.4.11)

28 新設/町制 南豊島郡内藤新宿町 南豊島郡 内藤新宿一町目(本), 内藤新宿二町目, 内藤新宿三町目, 内藤新宿北町, 内藤新宿番衆町, 内藤新宿北裏町, 内藤新宿南町, 内藤新宿添地町「(微)」
は#29、#1との関係上もあり、
28 新設/町制 南豊島郡内藤新宿町 南豊島郡 内藤新宿一町目(本), 内藤新宿二町目, 内藤新宿三町目, 内藤新宿北町, 内藤新宿番衆町, 内藤新宿北裏町, 内藤新宿南町, 内藤新宿添地町「(本)」
ではないでしょうか。
参考:府令第25号(PDF)(M22.4.11)12コマ
現行東京府令類纂(M22.4.11)

35 新設/村制 南豊島郡渋谷村 南豊島郡 上渋谷村, 中渋谷村, 下渋谷村(本), 麻布区 麻布広尾町(微), 渋谷上広尾町「(微)」, 渋谷下広尾町, 渋谷広尾町, 渋谷神原町, 赤坂区 青山南町七町目, 青山北町七町目, 渋谷宮益町
は#1(麻布区)との関係上もあり、
35 新設/村制 南豊島郡渋谷村 南豊島郡 上渋谷村, 中渋谷村, 下渋谷村(本), 麻布区 麻布広尾町(微), 渋谷上広尾町「の一部」, 渋谷下広尾町, 渋谷広尾町, 渋谷神原町, 赤坂区 青山南町七町目, 青山北町七町目, 渋谷宮益町
ではないでしょうか。
参考:府令第25号(PDF)(M22.4.11)13-14コマ
現行東京府令類纂(M22.4.11)

36 新設/町制 北豊島郡南千住町 北豊島郡 千住南組(本), 地方橋場町(本), 三ノ輪村(本), 千束村(微), 三河島村(微), 下谷区 下谷通新町

36 新設/町制 北豊島郡南千住町 北豊島郡 千住南組(本), 地方橋場町(本), 三ノ輪村(本), 千束村(微), 三河島村(微), 下谷区 下谷通新町, 「下谷三ノ輪町(微)」
ではないでしょうか。
参考:現行東京府令類纂(M22.4.11)
府令第25号(PDF)(M22.4.11)14コマでは「三ノ輪町の一部」が日暮里村の一部かもしれないことになっていますが、現行東京府令類纂の記述より南千住町の一部となったと判断しました。
#問題は「下谷三ノ輪町(微)」「三ノ輪町(微)」「三輪町(微)」のどれとしてもこれに対応する本体が不明なことです。地方行政区画便覧(編・出版:内務省地理局、M20.10.)では下谷区 下谷三ノ輪町(34コマ)or北豊島郡 三ノ輪村(37コマ)のどちらかで、おそらく前者の可能性の方が大です。現行東京府令類纂の記述では393コマor411コマに記載されていることに相当します。

次稿へ続きます。


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