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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[17080]2003年6月20日
三丁目
[17086]2003年6月20日
ken
[17090]2003年6月20日
Issie
[17106]2003年6月21日
三丁目
[24685]2004年2月9日
Issie
[36207]2004年12月29日
hmt
[38292]2005年3月4日
hmt
[38314]2005年3月5日
Issie
[38354]2005年3月6日
hmt
[38371]2005年3月7日
音無鈴鹿
[38388]2005年3月7日
hmt
[38397]2005年3月8日
hmt
[44125]2005年8月13日
hmt

[17080] 2003年 6月 20日(金)19:16:05三丁目 さん
地名、懐かし編
昼休みに図書館へ行ってくるから、戻りが遅れたらゴメンナサイ、と上司に断って、出かけてきました。どこへ行ったの?と聞かれたので、角筈図書館です、と答えたら、懐かしいねぇ、と言われました。以前は、このあたり一帯は角筈だったんだよ、と教えられました。淀橋浄水場跡周辺に、現在の西新宿高層ビル群の姿が造られ、それに合わせて現在の住居表示に変わったのですね。地図を見ると、角筈という地名は、見つかりません。公共施設等で、その名が残っているだけですね。ちなみに、新宿の変遷を紹介されているURLを見つけました。
http://www.interq.or.jp/happy/walkaway/m03map/m03e_station/m03e_shinjuku/mview_shinjuku00.htm
トップページは  http://www.interq.or.jp/mars/omr/index.html です。
これを作られている方は、相当な地図好きなようですね。もしかしたら、落書き帳の中で、知己の方がいらっしゃいそうな気もしました。私にとっては非常に興味深いページで、いろいろなところを楽しませてもらいました。
[17086] 2003年 6月 20日(金)23:16:26ken さん
角筈
[17080]三丁目 さん
以前は、このあたり一帯は角筈だったんだよ、と教えられました。
角筈が西新宿に、柏木は北新宿になったのは、いつごろだったでしょうか。
中野で幼少時を過ごした私には、角筈は、歴史上の地名ではないですが、つまり、三丁目さんの上司の方と同じ世代だということなのかも。

タクシーに乗った客が「角筈まで」
運転手「ああ、西新宿ね」
客「(独言・・・寂しいなあ)」
というコマーシャルがありましたが、あれは、何のコマーシャルだったですかね。
また、客の役を演っていたのは誰でしたっけ?
[17090] 2003年 6月 20日(金)23:32:43【1】Issie さん
またも龍角散
[17086] ken さん
あれは、何のコマーシャルだったですかね。
また、客の役を演っていたのは誰でしたっけ?

これも「笑点」の時間にやっていたCMですね。「龍角散」。
漫画家の 滝田ゆう さんが嘆いていたのでした。
西口どころか,東口の紀伊国屋書店の手前までが「新宿」([しんじく]が東京方言における「正しい」読み方)で,アルタ(昔は二幸)だろうが新宿駅だろうが,全部「東京市」の外,「豊多摩郡内藤新宿町」にさえ含まれない,「豊多摩郡淀橋町」の「角筈」なんですよね。元々は。

1972年ごろの地図では,西口の方は「西新宿」になっていますが,東口の側だけに「角筈1丁目」が残っています。
[17106] 2003年 6月 21日(土)08:24:50【2】三丁目 さん
Re:角筈
[17086]kenさん
角筈が西新宿に、柏木は北新宿になったのは、いつごろだったでしょうか。
中野で幼少時を過ごした私には、角筈は、歴史上の地名ではないですが、つまり、三丁目さんの上司の方と同じ世代
[17090]Issieさんから、「いつごろ」については、簡単にご紹介頂きましたが、新宿区史、角川地名辞典、あるいは東京大百科事典でしたっけ?あたりを調べてみれば、正確な年が分かるかもしれないとは思いつつ、私の推測を書いてしまいますね。淀橋浄水場廃止の段階で、土地の譲渡先が決まっていたから?、計画的に、浄水場跡地の地番を分筆し、同時に、あるいはやや遅れて、西新宿の住居表示が設定された、くらいでしょうか。こういうことについては、推測を書くべきではないかもしれないなぁ、とは思いつつ。

なお、拙稿[17080]に登場した上司は、新潟で生まれ育ち、就職して初めて東京へ来られた方です。kenさんよりも10よりは多く年上で、自身の事務所所在地を、新宿区角筈と書いていたからでしょう。思うに「筈」という漢字を、手書きではめったに使わないから、印象に残った地名だったのではないでしょうか。

余談ですが、西新宿の高層ビル群が完成する前の状況を、あるドラマのワンシーンで目にした私は、現況しか知らないものですから、はぁ、こういう感じだったのか、と街の変貌ぶりに、驚いたものです。
[24685] 2004年 2月 9日(月)23:42:09【2】Issie さん
新宿にない新宿駅
[24682] ken さん
昭和初期の地図を見てたら、小田急の南新宿って、千駄ヶ谷新田駅、って名前ですね。

これって,1970年代半ばの小田急新宿駅再改良工事で現在位置に移転する前の,代々木駅方面へ抜ける通りの踏み切り脇の急カーブ上にあった「南新宿駅」ですよね。
この通りに沿って,現在JR東日本の本社があったりするあたりも「千駄ヶ谷町」で,玉川上水が淀橋町との境界であったようです。

戦後になって廃止されましたが,(旧)南新宿駅から問題の谷間を越えた向こう側に「(代々木)山谷」という駅がありました。一方が消えてから数十年後のことになるのですが,南新宿駅の現在位置への移転というのは,「千駄ヶ谷新田駅」と「代々木山谷駅」の統合というようにも見えます。

大塚とか、駒込とか、目黒とか、もそうなんじゃないんですか?
設置時には最寄の駅でした。という感じで。

そこまで行かなくても,お隣の「新宿駅」が…。

図らずも [24556] の続きとあいなりましたが,
「新宿駅」の所在地は1932年に編入されるまでは東京市外,そして(内藤)新宿の“外”の「豊多摩郡淀橋町角筈(つのはず)」。
編入後の35区体制の下では,「新宿」の所属する四谷区ではなくて「淀橋区」。
戦後,1947年の「22区体制」への再編でもって,ようやく「新宿区」に属することができた…。

つけくわえれば,「豊多摩郡内藤新宿町」が東京市へ編入されたのは1920年のことで,この際に「四谷区」へ編入された。だから現在,歩行者天国で伊勢丹側の交通規制を担当するのが「四谷警察署」なわけ。
旧内藤新宿町,そして旧四谷区に所属していたのは新宿通りでは(新宿駅から見て)伊勢丹の少し手前まで。三越や紀伊国屋書店のあたりは旧淀橋町,そして旧淀橋区の「角筈」に所属していて,だからこちら側は「淀橋警察署」改め「新宿警察署」の管轄になっていた,ということですね。

…この辺り,地元(「淀橋」を渡ったお隣り)の ken さん には言うまでもないことでしょうが。
[36207] 2004年 12月 29日(水)22:47:58hmt さん
渋谷タカシマヤ?
[36177]ゆう さん
でも、都庁のあたりを「新宿」と呼ぶようになったのは割と最近のことなんですよね。

ごもっとも。
宿場町時代の「新宿」は、伊勢丹付近の「内藤新宿上町」から大木戸に近い「内藤新宿下町」まで。上町・仲町・下町は玉川上水が流れる方向です。
「新宿」が西に拡大するのは、1885年 日本鉄道が赤羽駅と官鉄・品川駅との間の連絡線を建設し、宿場町から西に外れた「南豊島郡角筈村字渡辺土手際」の畑の中に、「内藤新宿駅」を設けた時からです(1887年新宿駅と改称)。鉄道による交通事故の第1号は狐の親子だったとか。1891年修正の迅速図を見ると、駅の西側、現在の都庁付近にかけて目立つのは茶畑です。

現在の新宿西口は、1986年のコレラ流行を契機として 1999年に竣工した淀橋浄水場と、1910年の専売局タバコ工場により大きく変りました。1904年から甲武鉄道に運転されはじめた電車[35062]の車庫も駅の西側に作られ、電車は甲州街道口と青梅街道口との“二つあった新宿駅”の双方に停車しました。

内藤新宿町が一足先に四谷区に編入(1920)された後、角筈村から淀橋町に変っていた西口も1932年に東京市35区の一つになりました。これが「新宿区」でなくて「淀橋区」だったこと、追分にあった京王線の駅が「四谷新宿」を名乗っていたことなどから、「新宿」のネームバリューは、まだ「四谷」よりも下だったと思われます。
1947年の22区への統合時には、四谷を押し退けて「新宿区」が誕生しており、昭和の初期に「新宿」のネームバリューが高まってきたことをうかがわせます。

そして、「淀橋」だった浄水場跡地の地名を決定的に「新宿」に変えたのは「都庁新宿移転」プロジェクトでした。
ここでは、移転前の庁舎があった地名「丸の内」に対応する地名として「新宿」が使われたわけです。「千代田区から新宿区へ」ではないのです。
同様に、現在の都庁の住居表示が「西新宿二丁目」であることも、重要ではありません。「新宿」と「西新宿」は一応別だし、仮に住居表示が「角筈三丁目」?だったとしても、東京都の都庁所在地は「新宿」なのです[36112]

宿場町として1698年に生まれた「新宿」という地名は、明治になって鉄道駅ができ、そして都庁新宿移転へと、明らかに西に拡大してきました。
たしかに
言葉は多義を持つもの。時代によって意味が変わってしまうこともあります。

ところで、タイトルの件。新宿タカシマヤの住所は東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号です。
「渋谷区内」の、任意の一部(引用原文は「新宿区内」)
であるからと、この店を「渋谷タカシマヤ」と名付けたら、下車駅を間違えた客から非難轟々でしょうね。

言いたかったことは、地名というのは、人々が時と場合(伝える相手方)により使い分け、認識するものであるということです。
自治体名や住居表示の影響はもちろん避けられませんし、戸塚に住む人が「新宿(区内)に住んでいる」ということもあるでしょう。
かくいうhmtの出身地も、「津久井」で通じそうもない相手に対しては、(「神奈川」とは違う場所なのだけど…と内心で思いながら)「神奈川県です」ということがあります。
地名の王道は自然地名ですが、行政区域名を使うのがふさわしい場合や、自然地名ではうまく通じない場合には、当局が「行政目的で作った区域名」を地名として用いることもある というのが私の考え方です。
[38292] 2005年 3月 4日(金)16:24:21hmt さん
西宮北口・新宿西口
[38275]たもっち さん
「西宮の市街地へ北からアクセスする駅」ぐらいの感覚ではなかったかと思われます。
やはり市街地への北からの入口だったのですね。
実はJRの駅(1874年開業時は官鉄、阪急開業の1920年当時は省線)に「ノ」が付いていることに気付き訂正した際に、自分でも「西ノ宮北口」の駅前駅ではないと思いました。

今は亡き西宮球場が見えますが、そのすぐ左上、鉄道が直角に交わっているところが西宮北口駅です。

有名なダイアモンドクロスも1984年に廃止されましたね。神戸線(本線と副本線の上下4線)と今津線(複線)とが8個の平面交差を作る姿は、路面電車の平面交差は見なれていた目にも、まことに壮観でした。

[38281]KMKZ さん
東京には都営大江戸線に「新宿西口」駅がありますが、こちらは単にJR新宿駅の西口の意味なのでしょうね。

忘れていました。開業から4年もたつのに、あまり利用していないもので。
開業前の資料を見ると、「12号線計画線 北新宿駅(仮称)」などと書いてあります。新宿付近にたくさんの駅ができて、名付けにも悩ましいところがあります。
この駅は、「新宿西口」を名乗るには北に寄りすぎている感がありますが、「北新宿」と言っても地名のイメージが湧かないので、ネームバリュー?のある「新宿西口」にしたのでしょう。
でも、♪新宿西口駅の前…のカメラ屋に行こうと思ったら、大江戸線の最寄駅は「新宿」駅ですね。

ついでに、大江戸線の次の駅「東新宿」も首をかしげたくなる駅名です。
この地の本来の地名を使うと、計画時の仮称「西大久保」になるのですが、残念ながらJRの大久保駅よりも東になるので不都合ということでしょう。明治通りに建設中の東京メトロ13号線の駅名(仮称)は「新宿七丁目」になっています。
続々と駅ができるのに、名付け用の「地名」が不足しているのは、急激に発展した新宿ならではの現象です。

大江戸線「新宿西口」駅に戻って、実はこの付近(青梅街道との交点)に中央線の駅があった時代があります。と言っても、独立の駅ではなく、新宿駅構内にあった「もう一つの乗降場」です。
当時の新宿駅は1906年3月に甲州街道に面して本屋が落成し、中央線の列車や山手線は、こちらだけに停車していました。
1904年から運転された甲武鉄道の電車[35062]を引き継いだ中央線の電車だけは、300mほど離れた甲州街道口と青梅街道口、双方の乗降場に停車しました。[36207]
この青梅街道口乗降場を利用したのがタバコ工場の工員です。
日露戦争の戦費をまかなう財源としてタバコが専売化され、1910年頃に専売局のタバコ工場が銀座三丁目から新宿に移転してきました。現在の西口広場からバスターミナル、小田急ハルク、新宿エルタワー付近一帯です。
[38314] 2005年 3月 5日(土)10:22:51【1】Issie さん
千駄ヶ谷新田
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが

旧区名,あるいは東京市編入以前の旧町名の1つ下のレベルの旧大字では「角筈(つのはず)」ですね。こちらも立派な地名だったのですが。
「(内藤)新宿」は本来,東口の紀伊国屋書店のあたりまでだったので,新宿駅丸ごと,東口のライバル店も含めて,住居表示以前は「角筈」だったわけで。
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。

新宿駅が南の方向へ延びていますが

小田急の「南新宿」駅は,1970年代半ばの新宿駅大改良工事以前は新宿駅から1つめの踏切を渡ったところにありましたが,開業当時は「千駄ヶ谷新田」という駅名でした。
「代々木」駅も含めて,新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
東京市に編入された1932年当時は,こちらまで「四谷区の新宿」の市街地が拡大することを予測しなかったのかもしれませんね。
甲州街道は境界として分かりやすいし,すぐ南を通過する玉川上水はおおよそ辺りの分水界を反映しているし…,
で,甲州街道以南の旧南豊島郡域をまとめて「渋谷区」,以北の同郡域をまとめて「淀橋区」。

渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
[38354] 2005年 3月 6日(日)19:30:59hmt さん
新宿・角筈・柏木・淀橋・千駄ヶ谷・代々木
駅前駅の「新宿西口駅」から発展した話題の新宿付近の地名をもう少し。

先ず「新宿」と「内藤新宿」
「新宿」の由来は、日本橋から4里も離れていた甲州街道の高井戸宿までの中間に設けられた(1698)「新しい宿場」ですが、実は江戸時代初期に江戸城の白壁に大量に使用された石灰の運搬路であった青梅街道には、それ以前から「内藤宿」があったようです。「内藤」は、この地に下屋敷があった信州高遠藩主内藤氏から。
では、元禄11年に浅草の高松喜六らが上納金5600両を幕府に納めてまで申請、獲得したものは何か。やはりビッグビジネスにつながる営業権でしょう。“民営化”による交通ターミナルの活性化。先日開港した中部国際空港「セントレア」の元禄版です。

こうして誕生した「内藤新宿」。目論見通りに繁盛したものの、20年後には「風紀の乱れ」を理由に突然廃止されます。享保の改革の一環ですが、その背景には新興勢力の抬頭に危機感を抱いた「吉原」「品川」など既存業界の思惑があったはずです。このへんのビジネス事情は現代も同じ。「風紀の乱れ」が登場するあたりは、さすが「歌舞伎町」の先達です。
内藤新宿の再開は、申請しては却下されを繰り返し、田沼意次が権力者になった後の 1772年にようやく実現しました。

「角筈」
内藤新宿の西隣が角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。まさに新宿駅と新都心とを含む「現在の新宿」そのものです。
更に詳しく、現在の新宿駅東口付近を五千分の一図で追うと、三越・大塚家具までが角筈村であったと思われます。

上野からの日本鉄道が、赤羽から山の手経由の連絡線により官設鉄道の品川との間を結んだのが、今から120年前[38325][38338]。この鉄路が角筈村の東部「字渡辺土手際」を南北に貫き、「内藤新宿」停車場が作られました。2年後に「新宿」停車場に改称。つまり、新宿駅の東も西も両方とも角筈村です。

[38314]Issie さん
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。
うーん。これは記憶にございませんが、「角筈口」では東か西かわからないように思います。
実は、hmtが「角筈」という地名から真っ先に頭に浮ぶのは、新田裏から現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って紀伊国屋の西側に入っていた東京市電13番系統(角筈―万世橋間)のターミナル、つまり東口なのです。このあたり、青梅街道の北側も角筈村(字五十人町)。

新宿駅の駅舎と乗降口も、時代と共に何回も変っていますが、西口が「青梅口」、南口が「甲州口」だった時代は はっきりと記憶にあります。この名は、乗降場が2つあった[38292]歴史から、自然のなりゆきです。

「淀橋」と「柏木」
[38294] N-H さん
住所としての「新宿区北新宿」のあたりは柏木といったほうがイメージがわきます。
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが、今では使われることはないようです。

角筈村の三角形の北西端、青梅街道が神田上水を渡るところに架けられた橋が「淀橋」ですね。明治13年測量の迅速測図では、淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
1889年に角筈村と柏木村が合併し、淀橋町となり、1932年には更に広範囲な淀橋区に出世しましたが、戦後の1947年に「新宿」に区名を奪われてしまい、今はカメラ屋により名を知られる状態になるという栄枯盛衰を味わいました。

「千駄ヶ谷」と「代々木」
[38314]Issie さん
新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
「千駄ヶ谷」と「代々木」の行政上の境界も、郡部時代の谷筋から山手線沿いへと東遷していますが、現実は、更に東の明治通りに及んでいるのでしょうね。最寄駅名の影響大。

渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
渋谷タカシマヤ[36207]だったらもっと戸惑うでしょう。

最後に、新宿関連で 復活を期待したい地名が、「十二社(じゅうにそう)」。
[38371] 2005年 3月 7日(月)01:16:48音無鈴鹿 さん
まいたうん新宿
こんばんは。音無です。

新宿ネタの皆様。角筈三丁目の音無です。
金曜日あたり地元ネタがちらほら出ているので、書き込みたいなと思いながらも仕事漬け。
遅ればせながら…って殆ど語りつくされましたが。

[38354]hmtさん
角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。
そうですね。西側はもう少し広くて現在の山手通りに近いところもいちおう角筈です。今でも角筈三丁目町会は現役でゴザイマス。北端は資料がないのではっきりとはしないのですが、浄水場の沈砂池とろ過池の間を突っ切るあたり、今なら三井ビルとか三角ビルのあたりが境界だったようです。それからいまの歌舞伎町一帯も角筈村。コマ劇場付近を水源とし戸山→早稲田を流れた蟹川の谷が境界線。むしろ都電13系統のラインといったほうが分かりやすいでしょうか?したがって青梅街道を内藤新宿から西進したときには角筈→柏木→中野となります。角筈飴と鳴子(成子)の瓜を片手に、今はなき十二社の池で遊ぶというのが江戸の遊びのひとつですね~。
前術の谷は淀橋浄水場の建設工事の残土でほぼ埋め立てられ、平地となった後府立第五高女が設立、まさに乙女の花園です。余談ですが音無の母校。でその移転後の歌舞伎座誘致の名残が歌舞伎町という地名になったという顛末。
細々と生き続ける角筈の地名は、甲州街道沿い・文化女子大前にある歩道橋に書かれた『角筈』の文字とバス停、それから水道道路と十二社通りの交差点にある角筈区民センターと図書館くらいでしょうか。柏木も区民センターと幼稚園の名前に残っています。新宿区は新住居表示の北新宿があまり好きではないようで…。でも西新宿は好きみたいで母校は淀橋→西新宿へ改名されました。それに比べるとほぼ絶滅状態の淀橋ですが、カメラ量販店のほかには、淀橋第n小学校は4を残すのみとなりましたが、施設名として他に中央卸売場淀橋市場というのがあります。位置的には甲武鉄道の柏木駅があったあたりですね。柏木駅はカーブがきついところにあったためか神田川の対岸に移設されました。現在の東中野駅です。
淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
郡役所印は神田上水の向こう側、短命に終わった東多摩郡の役所ではないでしょうか?地図では淀橋の畔にありますね。その淀橋ですが、青梅街道の新宿バイパス建設のため架け替えとなっていましたがこのほど完成しました。欄干のデザインは先代の石造り時代を模したもので定礎も「大正13年9月」と復刻されています(…それっていいの?)。先代の淀橋は大正12年の関東地震で落橋したため急遽架けられたものでした。

[38307] sutekinaおじさん
「山手線」内では「板橋駅」が板橋区とほかの2つの区との間にあります。
あれ?
[38325]あんどれさん
正確に言いますと「赤羽線」の駅になります。(中略)「山手線板橋駅」だった時代もあります。(中略)「現在の山手線の一部区間」という記述はあっても「現在の埼京線の一部区間」という記述はありません。
あれあれ??
小学生のころ、池袋~大宮の通勤新線・埼京線ができたのはよく覚えています。それ以前は確かに赤羽線が池袋⇔赤羽間の往復輸送をしていたこともわずかな記憶があります。(黄色の電車でしたっけ??。)
黄緑色の山手線の電車が走っていなくても「現在の山手線の一部区間」であって、緑色の埼京線電車が走っていなくても「現在の埼京線の一部区間」ではないのですか??ごめんなさい。何をもって正確といっているのかよくわからないのいです。お手数ですが音無に教えてくださいナ。

[38346] 白桃さん
♪ただ、あなたの優しさが怖かった・・・
音無には、なんで女の子が長湯の男に待たされてるのか理解不能(逆なら判るんですが)です。数年前この歌の歌碑が淀橋から1kmほど下流に建てられました。でもこの付近の住宅地はちと高級すぎて歌の雰囲気とは乖離しています。高田馬場~早稲田あたりの雰囲気だと思いますね。

[38338]KMKZさん
ところで品川線以前の開業路線で路線が分岐している例は無いのでしょうか?
品川駅と赤羽駅は日本最初の分岐駅ってことになるのかな?
どうやらそのようですね。

[38314]Issieさん
甲州街道は境界として分かりやすいし,すぐ南を通過する玉川上水はおおよそ辺りの分水界を反映しているし…,
で,甲州街道以南の旧南豊島郡域をまとめて「渋谷区」,以北の同郡域をまとめて「淀橋区」。
べつに揚げ足取るのではなく、音無がこの新宿渋谷中野三角地帯に居を構えているが故の疑問です。南豊島郡幡ヶ谷村は甲州街道以北ですけれど「渋谷区」ですねぇ。そもそも何故幡ヶ谷村が東多摩郡ではなくて南豊島郡になったのか地形的に不思議なのです。現在の幡ヶ谷地区は、中野駅~渋谷駅間の京王バスが2系統(環六経由と中野通り経由)あるものの、渋谷区内でありながら京王線新宿行きバスの影響もあり圧倒的に新宿文化圏です。なぜ神田川のような明確な境界ではなくこの位置だけ(現渋谷中野区境)分水嶺というわけではない不明瞭大地の上に郡界が設定されたのかがさっぱりの謎なのです。複雑な区堺のせいで目の前に見えている他区の小学校に通えずわざわざ遠い居住区の学校に通った身としては不可解な線引きに見えるのです。甲州街道沿いの代々木村/幡ヶ谷村が郡界ではどうしてまずかったのかな??

[38299]Issieさん
「北新宿」かなり譲って,あそこは「大久保」系の地名で呼ばれるべきところだと思うのですが
私は大久保とも少々違う気がします。尾張徳川家下屋敷=陸軍戸山学校の谷が大久保ですから、JRの大久保駅自体大久保の西のはずれですしね~。やはり素直に柏木では如何でしょう?

[38294]N-Hさん,[38292]hmtさん
大江戸線の次の駅「東新宿」も首をかしげたくなる駅名です。
ずばり「歌舞伎町」じゃいけなかったんでしょうかね。
歌舞伎町からしたら外れも外れですね。
あれだけ全国区の地名なのだから駅名になったっていいんじゃないかと思うのですが。(N-Hさん)
音無は「歌舞伎町駅」にもっともふさわしいのは新宿駅への乗り入れを果たせなかった西武新宿線の暫定新宿駅たる西武新宿駅だと思います。

[38292] hmtさん
独立の駅ではなく、新宿駅構内にあった「もう一つの乗降場」です。
KMKZサンの記事[38281]を見た瞬間、「(北)新宿駅はhmtさんならご利用経験がありそうですな」とすぐ思ったのですが、当該記事に1906年とあるので早とちりデス。失礼しました。でも、駅インフレ状態の新宿の中でもおそらく、電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?>hmtさん


さて余談。ワカゲノイタリについて。
まかいのさん([38310])が5年と約1ヶ月ぶりのご訪問とか。 復帰おめでとうございます。で当該記事の[35]からざっと過去ログを漁っていたのですが。ここでスズカなるHNを発見。
で、音無は昨年ここへ登録のときに気になっていたのですが、過去にチリ系の掲示板にいきなり質問して返事(お礼)もしなかったことがあったことを思い出しました。当時確かに塾講師のバイトしていたしな~。数学教えるのかと思ったら社会科と国語教えるハメになって、挙句の果ては給料踏み倒されたんですがね(笑)。
[191],[194]がどうもそれっぽい。まかいのサンの記録を破ろうとかいう意図ではなくてふと気になったものですから。その節はお礼もせず不躾で失礼いたしました。改めましてオーナーグリグリ様に御礼申し上げる次第です。丁寧なご回答ありがとうございました。
[38388] 2005年 3月 7日(月)16:24:58【2】hmt さん
内藤新宿駅と「まあるい緑の山手線」
[38378] KMKZ さん
1886(明治19)年7月1日ダイヤ改正時の時刻表のコピーには「内藤新宿」ではなく「新宿」と書いてあり

駅名変遷事典(JTB1993年「旅」4月号別冊付録)の「改称・廃止した駅名一覧」にも、「内藤新宿」駅の記載がありませんでした。

[38354][36207]で そのように書いた根拠は、清水靖夫「地図が語る新宿駅周辺」(たしかJTBの本に収録されていたが書名を失念)に掲載されていた「5千分の1東京実測全図 2幀-2 明治21年発行」の説明文によるものです。
この地図では駅名が既に新宿(明治20年内藤新宿から改称)となっている。
【1】 日本図誌大系 関東I(朝倉書店1972)33頁にも次の記載がありました。
明治18年日本鉄道は…連絡線(現,山手線)を開通、同時に3月1日内藤新宿駅を開業、15日遅れて目白駅も開業、20年内藤新宿駅を新宿駅と改称

改めてWebを検索してみると、改名・非改名の両説あり、どちらかわかりません。
新宿駅 駅名改称歴 なし
1887年 日本鉄道品川線「内藤新宿」駅が「新宿」駅に改称。 開業(1885年)

この検索でたまたまヒットした「代々木」「千駄ヶ谷」等に関する過去ログ。[24670][24682][24685]

ついでに、
[38299]Issie さん
「まあるい緑の山手線」は,やっぱ,「やまて線」の方が,あたしにゃぁシックリ来ます。

最初に“刷り込まれた”影響が大きいですね。
hmtも、「この唄」に限定すれば「やまてせん」です。
“まあるい”運転系統(1周34.5km)、“緑の”電車、線路名称(現在は品川―田端間20.6km)。そのいずれについても、 「山手線 YAMATE LINE」 と書かれていた時代を含めて、ずっと「やまのてせん」派なのですが。

東京の言葉としては、当然に「やまのてせん」であり、戦前は特に迷うことはなかったと思います。
戰後、「進駐軍」がローマ字表記を求めた時に、 "Yamate Line" と書いてしまつたので問題が顕在化したようです。
「やまてせん」という呼び方は、鉄道内部の慣習読みに基くものかもしれません。
旧陸軍などは、このような内部用語の宝庫で、物干場が「ぶっかんじょう」だったという話は有名です。
脱線ですが「接続螺牝螺用螺桿」(せつぞくらひんらようらかん)という言葉があったそうです。正解は教えてもらっていないのですが、「スパナ」のことと推測されます。「螺桿=ねじまわし」の前に「ボルト・ナット用」が付いています。

それはさておき、電車の行先板に「山手線 YAMATE LINE」の文字が入れば、日本人にも「やまてせん」の呼び方が広まります。
その一方では、「あきはばら」の例[34120]のように、「やまてせん」と呼ぶ人を「この田舎者」と思う人もいます。
「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。」

このような混乱を解消するため、国鉄は1971年3月7日に読み方を「やまのてせん」に統一すると発表し、電車の行先表示は「山手線 YAMANOTE LINE」に改められたそうです。
日本鉄道の支線として出発した山手線の本籍が東北線から東海道線に移り、赤羽線が分離した1972年7月15日の前年のことです。

同じく『の』の字に関係することですが、関東大震災をはさんだ6年間(1919/3/1~1925/10/31)実施された中野~東京~品川~池袋~上野間の「『の』の字運転」とは無関係です。

現存の根岸線山手駅、神戸市営地下鉄山手線、過去帳に入った南海鉄道山手線、いずれも「やまて」ですね。
「やまのて」は、特に東京で好まれた言い方なのでしょうか。

蛇足ですが“緑の”山手線について一言。
103系登場(そう言えば、101系の頃は“黄色い”山手線だった)よりもずっと前、戦後間もない頃に、暗緑色のロクサン型山手線が走った時代があります。誤乗防止効果も小さかったのか、元の茶色に戻り、ドア上の「山手」「京浜・東北」(中黒があった)の表示で区別するようになりました。塗料の仕入れで色を間違えたという噂の真偽は不明。

【2】 ナットの「めねじ」を意味していた漢字は、発音「ひんら」の通り「牝螺」です。誤変換を修正。
ついでに
「山手線」の意味として、大崎から新宿・田端・東京経由で大崎への外回り、及びその逆の内回りで都内34.5kmを一周する環状の運転系統、その運転に使用されている緑色の電車列車、線路名称規定による東海道線の支線(品川~新宿~田端20.6km)の3つを挙げましたが、更に「運賃計算上の東京山手線内」というものがあり、中央線に属する四ツ谷などを含んでいます。以前は「東京電環」と呼んでいました。[28537]
[38397] 2005年 3月 8日(火)00:46:41【1】hmt さん
Re:まいたうん新宿
[38371]音無鈴鹿 さん
新宿ネタの皆様。角筈三丁目の音無です。
西側はもう少し広くて現在の山手通りに近いところもいちおう角筈です。今でも角筈三丁目町会は現役でゴザイマス。

これは恐れ入谷の鬼子母神、いや鬼と言えば角、角筈の十二社か(意味不明)。
町村制施行前の迅速測図ばかり見ていましたが、現在の地図と見比べれば、角筈村と幡ヶ谷村の境界線は、新宿区と渋谷区の境界線に引き継がれていたのでした。

いまの歌舞伎町一帯も角筈村。コマ劇場付近を水源とし戸山→早稲田を流れた蟹川の谷が境界線。

この境界線は明治42年測図の一万分の一にありました。大村邸(歌舞伎町一丁目)が淀橋町(旧角筈村)、大久保病院(現在の歌舞伎町二丁目)が大久保村(旧東大久保村)。この大村邸跡に府立第五高女ができ、更にその跡が現在のコマ劇場。その西、線路側には、戦後「歌舞伎町」という名になってから作られた新宿劇場に、戦前のムーランルージュを偲ぶ「赤い風車」のネオンサインが回っていたことを覚えています。

淀橋。明治13年には地名でなかった(“地名として記載されていなかった”というべきか)と書きましたが、明治42年測図には青梅街道の南に「淀橋」、北に「淀橋姿」の地名が見えます。もちろん行政区域の「淀橋町」も。

何をもって正確といっているのかよくわからないのいです。お手数ですが音無に教えてくださいナ。

「線路名称」赤羽線と「運転系統」埼京線とが混乱しているのではないかと思います。

「線路名称」とは線路の戸籍のようなもので、東海道線の中に本線、山手線、赤羽線、南武線…がありますが、信越本線が横川と篠ノ井の間で分断されている例からも判るように、現実の列車運転経路を反映しているとは限りません。

「運転系統」は現実に列車を運転する系統の呼び名で、埼京線の場合は線路名称上の山手線(旧山手貨物線を利用した快速線)、赤羽線、東北本線(赤羽~武蔵浦和~大宮・東北新幹線沿いの路線)を通して運転する大崎~大宮間です。実際には、更にりんかい線の新木場から川越線の川越へと直通運転されています。

「線路名称」を本籍、「運転系統」を現住所になぞらえると分りやすいでしょう。
新宿駅を通る運転系統は、各駅停車の山手線の他に、埼京線、新宿湘南ライン、中央線の快速と各停(中央総武緩行)と、長距離列車を別としてもたくさんあります。新宿駅の現住所は、本宅の山手線・中央線だけでなく、別宅の埼京線や新宿湘南ラインへと広がってきているといえるでしょう。

しかし、「駅の所属」は、本籍である「線路名称」によります。新宿のように複数の線路が関わる駅でもどれか一つの線路に属しています。
参考までに、新宿駅は山手線の駅です。先に開業した日本鉄道の駅に甲武鉄道が同居した歴史の反映でしょう。しかし、隣の代々木駅は中央線の駅で、山手線の方が同居人です。

少し離れますが、浜川崎駅には東海道本線の電車(旅客列車)は通りませんが、れっきとした東海道本線の駅です。1918年開業の名門貨物駅で、同居人(戦時買収私鉄出身の鶴見線や南武線支線)とは出自が違います。浜川崎では貨物の方が偉いのです。

“正確に教えて”に答えようとして「鉄分」の濃い説明になってしまいましたが、これで事情はおわかりでしょうか。
問題になっていたのが「板橋駅の所属」とすれば、本籍である「線路名称」に従い 「赤羽線の駅」 というのが正確です。
しかし、現住所(現在の運転系統)である 「埼京線の駅」という呼び方をしても許されると思います。
正確を求めてどれか一つにきめつける必要はないでしょう。

発端になった[38307]の“「山手線」内”という表現は、四ツ谷駅等を含む運賃計算上の使い方さえあります。[38388]の末尾に加えておきました。「山手線」にしても、少なくとも4つの使い方があるわけです。

電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?

正確に言うと、「新宿追分駅」時代(1915―1930)には生まれておりません。冗談はともかく、「四谷新宿駅」を経て「京王新宿駅」になってからの時代(1937―1945)にも残念ながら利用の機会がなく終りました。
たしか空襲で変電所をやられて、省線を越える坂を登れなくなり、急遽工兵隊が出動して、省線青梅口へと導き、路線を短縮したのですね。1945年7月24日開業とありますから、敗戦間際です。これが現在の京王線 新宿駅の第一歩になりましたが、こちらは当時、疎開児童。

京王線は、戦後の1954~56年にかけて通学に使いました。新宿駅は、西口にあったバラック建築(もちろん地上)で、発車してから急カーブで甲州街道に入り、少しですが路面区間がありました。
路面電車の面影のあるダブルルーフ車が、電装解除された中間車として使われていました。

スズカなるHNを発見。

大先輩! メンバー登録者としては、グリグリさん、かつさん、Issieさん、Firoさん、M.K.さん、まがみさん に次いで古参第7位ですか。
[44125] 2005年 8月 13日(土)16:17:38【2】hmt さん
新宿の東西を結ぶ道
さて、三光院花園神社の北を流れ、川沿いのどこかには「新田」があったかもしれない「蟹川」[38371] [44006] ですが、古い地図によっても、その流れは山手線付近までしか確認できません。しかし、地形的には、この谷筋は更に西に続き、新都心歩道橋下交差点に至っています。

大きな歩道橋があるこの場所は、「雷が窪」という地名で、早稲田へと流れる川の谷頭で、湧水の多いところでした。新宿エルタワーの西側に記念碑がある「策(むち)の井」も、そのような湧水の一つで、松平摂津守(美濃高須)の屋敷の井戸でした。晩年の徳川家康が評判を聞いて鷹狩の帰路に立ち寄り、名水を賞味して むち を洗ったとされます。

この交差点、西からの青梅街道が進んでいた本来の道は、現在の小田急ハルクの北裏の道でした。この道筋を東に延長すると、自然に現在の新宿通りになります。
明治になって鉄道が開通すると、この旧青梅街道と交差する場所には踏切が作られました。当初は1日3往復、貨物列車を入れても閑散とした状態で、問題はなかったでしょうが、甲武鉄道ができ、電車も走り、だんだんと「開かずの踏切」になってきました。跨線歩道橋はできたが、クルマは踏切待ち。

その解決策として、青梅街道は省線との立体交差化を実施することになり、そのルートとして選ばれたのが前記の川筋です。ここは低地だから、もともと鉄道が高くなっており、少し掘り下げれば立体交差になります。
かくて大ガードができたのが1921年(1968年北側に拡幅)。青梅街道(追分からの新宿通り)は踏切の手前で右に曲げられて坂を下りガードをくぐることになりました。この工事で西方寺(現・アルタの西)の敷地は削られ、後に杉並区梅里に移転しました。

1927年、新宿西口に小田急が開通すると、東口からの通路が必要ということになり、元の踏切の位置に歩行者用の地下道ができ、旧街道ルートが辛うじて復活しました。
1959年に新宿まで開通した地下鉄丸の内線の上に作られた現在のメトロプロムナードも、(西側が少し南に振れていますが)この旧街道ルートを引き継いでいます。


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