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日本の開港

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[1805] 2002年 6月 8日(土)20:53:10Issie さん
Re^2: 合衆国
日米和親条約の日本語での正式名称は「日本国米利堅合衆国和親条約」。つまり,少なくとも幕末の段階には「合衆国」という呼称が行われていたことになります。
たぶん,この当時は「連邦」という用語はできていなかったのではないかな。

だいたい19世紀いっぱいを通してヨーロッパの新しい概念が日本に紹介されて,それが日本語に翻訳されるわけだけど,当然いろいろな試行錯誤が行われているのですよね。
あるものは杉田玄白や前野良沢ら「ターヘルアナトミア」(←本当はこういうタイトルではなかったらしい)翻訳グループが考案した「神経」のように,日本の蘭学者や洋学者たちが創出したもの。あるものは日本よりも先にヨーロッパ諸国と接触のあった中国で作られた単語を輸入したもの(諸説あるけど「銀行」もそれっぽい)。あるものは中国古典(漢文テクスト)の中で以前から使われていた単語を借りて当てはめたもの(「憲法」がそう。まさか聖徳太子の「十七条憲法」を“最古の憲法”なんて言わないでね。同じ単語を使っていても,近代国家の constitution とは根本的に違う概念なんだから),などなど。
今の私たちが使っている用語の多くは,このときに叢生したたくさんの翻訳用語(案)の中からの数少ない生き残り。ちょうど,カンブリア紀に爆発的に誕生した多様な生物の中から,ほんの一握りの形態のグループだけが生き残って,現在の地球上の生物の形を決定したように。

ちなみに,ロシアについては明治の初めまでは「魯」という表記の方が一般的だったようです。今でも缶詰会社がこの表記を使っていますね。いつごろ「露」と入れ替わったのだろう。
ソ連時代をはさんで,連邦解体後の「新生ロシア」については漢字表記をせずカタカナで「ロ」と書くのが現在のマスコミでの用法のようですね。
[77717] 2011年 2月 25日(金)19:58:21【2】hmt さん
北から訪れた異国人との出会い (4)プチャーチンが来日して、日露和親条約を結ぶ
嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に黒塗りの外輪蒸気船を含む4隻の外国船が来航。いわゆる黒船です。
その正体は、マシュー・ペリーの指揮するアメリカ東インド艦隊で、相模国三浦郡の久里浜に上陸して、日本の開国を要求する国書を浦賀奉行に手渡しました。日本側は、将軍(12代家慶)の病気を理由に、1年間の返答猶予を求め、ペリーは翌年の再来航を約して、6月12日に浦賀を離れました。

ペリーが去った翌月、嘉永6年7月18日に長崎に入港したのが、これも4隻のロシア艦隊です。指揮官のロシア使節は、エフィム・プチャーチン。皇帝ニコライ1世からの国書に記された目的は、樺太・千島の日露国境を定め、日本との交易を開くことでした。

ここで、ちょっとお断りしておきますが、シリーズのタイトル“北から訪れた異国人との出会い”は、必ずしも正しくないのです。
シュパンベルク探検隊[77693]の根拠地は オホーツクですが、その後の外交使節の 出発地は首都のペテルブルクです。
もっともアダム・ラクスマンの経由地はシベリア経由オホーツク。レザノフは南米回り、カムチャツカ。
でも、今回のプチャーチンは、首都を 1852年に出て、喜望峰回り 小笠原経由で、南から日本を訪れたようです。

ペリーの時は将軍の病気を理由に返事を先送りしましたが、今度は 13代将軍家定に代替わりしています。
幕府は、応接掛として 筒井政憲・川路聖謨らを長崎に派遣して、12月から交渉させました。
翌年正月4日まで行なわれた協議で、択捉は日本領、樺太は実地調査の上、再協議するという日本の主張が通りました。
通商条約については、当面締結を拒絶するが、日本が他国と通商を結んだ場合は、ロシアにも同条件で許すということで合意が成立し、ロシア船は 一旦日本を去りました。

さて、対米交渉は1年間待たせたつもりでしたが、アメリカの軍艦は 嘉永7年正月早々から集結し始め、合計9隻もの大艦隊になりました。
ペリーが前年訪れた 浦賀や久里浜は 江戸湾の湾口より外側ですが、今回は 日本の領海深く 江戸湾内に侵入しました。
2月6日から 林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜[54351]の初舞台になりました。

アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。
力ずくで鎖国の扉を こじ開けた成果である、神奈川条約第2条の主文を写しておきます。
伊豆下田松前地箱館の両港は日本政府に於て亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本にて調候丈は給候為メ渡来之儀差免し候 尤下田港は約條書面調印之上即時にも相開き箱館は來年三月より相始候事

さてロシアですが、以前から続いていたトルコとの争いはエスカレートして、トルコの同盟国のイギリス・フランスから宣戦布告されてしまいました。クリミア戦争です。東洋でもイギリス・フランスの軍艦に攻撃されるおそれもあります。
プチャーチンは3隻を沿海州に残し、自らは新しい旗艦のディアナ号単独で再び来日します。最初はペリーが開港させた箱館に行ったものの、そこでの外交交渉は拒否され、結局は下田に回されて、江戸から来る川路聖謨らと交渉することになりました。

英仏とのトラブルも心配でしたが、災難は別のところからやってきました。日露協議が始まって間もなく、11月4日(1854/12/23)に突然の大地震と津波に襲われたのです。この災害については別稿に記します。

突発的な災害による一時中断はありましたが、プチャーチンは、地震の9日後には外交交渉を再開させ、安政元年12月21日(1855/2/7)には 日露和親条約 の締結に成功しています。フーチヤチン、筒井・川路の名を 画像 により確認することができます。

日米和親条約との最大の違いは、第2条で国境について取り決めていることです。
今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に屬す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし

先に[77647]で ニジェガロージェッツ さんが紹介してくれたロシアの教科書の記述はこれに基づいています。
1855年,初めての露日条約《通商と国境について》【中略】において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。

【中略】=(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功) について。
ニジェさんは、“日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの”と評しておられます。
これは、「下田条約を調印した 1855年の 時代背景の説明」と 単純に理解すれば よいのではないでしょうか。
「1855年は クリミア戦争中で、ロシアにとって 外交的に不利な時代であった。」
それだけのことで、日本との関係や、極東でのイギリスとの覇権争いにまで言及したものと、深読みする必要はないと思われます。

日付について。
ペリーとプチャーチンが再来日した嘉永7年(1854)は、異国との応接に慌ただしい年でしたが、4月には京都大火・内裏炎上、11月には巨大地震と津波に襲われ、災異が続いた年でもありました。そこで、嘉永7年を改めて安政元年と為す という宣下(11月27日)により、改元が実施されました。
日露和親条約は改元後ですから、もちろん安政元年12月ですが、日米和親条約や地震のような改元宣下よりも前の事象も、歴史記録としては嘉永7年でなく安政元年になります。だから安政東海地震。

ところが、日露和親条約が調印されたのは安政元年も押し迫った 12月21日なので、年初の決め方の異なる太陽暦では 1855年になってしまいます。政府が好んで使う「グレゴリオ暦換算」[49122]による表示では、1855年2月7日。
これが、「北方領土の日」[77647] を「2月7日」とする根拠です。
当時のロシアが使っていたのはユリウス暦で、グレゴリオ暦との差は12日ですから、1855年1月26日という勘定になります。ところが、条約の前書には「魯暦第一月廿七日」とあります。なぜ?
[61271] 2007年 9月 22日(土)18:43:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(6)北海道の鉄道 その1 幌内鉄道と北海道炭礦鉄道
鉄道国有化で1906-1907年に 買収された五大私鉄 は、半官半民の日本鉄道と、第1次私鉄ブームで出願された山陽鉄道・九州鉄道・関西鉄道、そして もう1社、北海道炭礦鉄道があります。

この通称「北炭」という会社による私鉄営業の開始は、山陽・九州・関西の3社と同じ頃(明治22年)なのですが、鉄道そのものは、官営幌内鉄道(明治13年開業)と、日本鉄道よりも古い独自の生い立ちがあります。
今回は、開拓事業の進展と共に、「官営鉄道」を民営化したものの、やがて開拓が既に進んだ地域では「私設鉄道」、フロンティア地域で「官設鉄道」と、両者が並存する時代になり、そして、北海道全土の鉄道が「国有鉄道」になるという変遷の歴史をたどります。

はじめに余談めいたお話から…
実は、明治5年の京浜間鉄道開業よりも3年前に、日本最初の「鉄道?」が北海道で誕生していました。

安政元年(1854)に幕府が結んだ日米和親条約では、下田と箱館(函館)を開港し、食料、石炭などの供給も約束しました。
第二ヶ条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。

燃料供給体制としては、茅沼(かやぬま)炭山を開発し、海岸まで約3kmの運炭鉄道工事も始めました(慶応3年、1867)。
その場所は、積丹半島の付け根、小樽の反対側です。
政権交代に伴ない、この事業が開拓使に引き継がれ、明治2年(1869)から稼動したものが日本最初の「鉄道?」です。

梅木通徳氏 によると、その設備は、木製の角材の上面に鉄の角棒を釘で固定したレール(軌間2ft6in)を ゆるやかな傾斜路に敷設し、運転者と石炭を乗せた制動付き4トン貨車を、自重により山麓から海岸まで下降させるというものでした。空貨車の返送は牛による牽引であり、機関車は使用されませんでした。
その他に、炭山坑口と山麓の間には1トン貨車を用い、釣瓶方式の索道で輸送しましたが、これも無動力です。

これが軌条を利用した日本初の事例のようですが、「無動力」なので、やはり「これが鉄道?」という感じです。
「貨物専用」であるのはともかくとして、企業内の「専用鉄道」であり、運賃を払えば誰でも利用できる「公共運送手段」ではありません。

それはさておき、本物の鉄道も、明治20年代になった四国や九州よりもずっと早い明治13年に実現しました。

発足したばかりの明治政府が設置した開拓使は、アメリカ農務局長ケプロンを招き、その報告により有望とされた幌内川上流の炭田開発計画を実施しました。
その一環として、クロフォード技師による幌内から積出港・小樽までの鉄道が1880年に着工され、年内には港側の手宮と札幌の間が開業しました。1882年に炭山のある幌内(三笠市)まで全通。幌内鉄道は、1882年の開拓使廃止後は工部省や北海道庁が管轄していました。

本州の官設鉄道はイギリスの技術で建設されました。しかし北海道では、官営ながら独自にアメリカ流の技術を採用しています。但し軌間については、西部開拓の3ftでなくて本州と同じ3ft6inに揃え、後に問題を残すことがなかったのは幸いでした。
西部開拓史に登場するようなスタイルの機関車が、小型ながらボギー式の客車を牽引しました。西部開拓鉄道は簡易線路なので、脱線しにくいボギー車を使ったのですね。最初から自動連結器を使ったこともアメリカ式です。

幌内鉄道で使われた 弁慶号機関車 と 大型の最上等客車・開拓使号 とは、神田の万世橋から近々(2007年10月14日)大宮にオープンする鉄道博物館に場所を変えて、再び公開展示されます。

「北海道炭礦鉄道」は、官営幌内鉄道(手宮-幌内など97km)と幌内炭鉱とを1889年に払い下げを受け、引き継いだ会社です。
鉄道路線は、その後 1891-92年にかけて岩見沢を機軸として歌志内、空知太、室蘭、夕張への路線を展開し、最終路線延長は合計334kmになっていました。

つまり、産業鉄道としての性格が著しい点は特異ですが、官営時代の2倍半近くの路線は、私設鉄道として作られたわけです。
1906年の鉄道国有化にあたり、北海道炭礦鉄道には、建設費の2.5倍にあたる約3000万円の買収価格が付きました。鉄道専業でない同社は、国有化を歓迎する姿勢で、買収第1号になっています。

鉄道以外の事業は「北海道炭礦汽船」として買収後も存続し、幌内・夕張・空知・真谷地・楓・万字・平和などの炭鉱を経営しました。石炭積出港として小樽の他に室蘭を整備し、室蘭では日本製鋼所、輪西製鐵場などの事業も展開しました。
# 日本製鋼所は、アームストロング砲 で知られるイギリスの武器メーカーとの合弁企業です。

このように、過去は栄光の時代があった会社ですが、近年は、石炭をめぐる環境が厳しくなった上に、1981年に起こした夕張新炭鉱での事故で大打撃を受け、遂には会社更生法の適用を受けるに至りました。
[51062] 2006年 4月 30日(日)00:56:23【1】Issie さん
5港
[51057] じゃごたろ さん
三府五港

「五港」とは,要するに幕末の「安政条約」(日米修好通商条約,ほか)で開港を約束させられた5つの港(神奈川,兵庫,長崎,新潟,箱館)のことなのですね。現実には 神奈川 が「横浜」,兵庫 が「神戸」の名で近代の都市となり,箱館 は「函館」と表記されることになるけれども,それぞれを引き継ぐ都市が「郡区町村編制法」でも「市制」でも別格に扱われたわけです。

けれども,明治最初期にこれらの開港場の支配機構を直接引き継いだのは「県」(最初は「府」)の方でしたから(たとえば,幕末の「神奈川奉行所」に系譜的に直接連なるのは「神奈川県」),廃藩置県後もそれらの県(神奈川県,兵庫県,長崎県,新潟県,函館県[1882~86年])もまた,他の県とは別格に扱われていました。
一番わかりやすいのが明治4年12月(太陽暦:1872年2月)の太政官布告による 府県の配列

 東京府,京都府,大阪府,神奈川県,兵庫県,長崎県,新潟県,…

というのが “公式の府県の配列順序” として定められていました。
1882年に 函館県 が設置されると 新潟県 と次の“関東地方筆頭”の 埼玉県 の間に挿入されました。北海道に同時に設置された 札幌県・根室県 が配列の最末尾(ただし,1879年に設置された 沖縄県 の前)に追加されたのに比べると,破格の扱いです。
この配列は公式には 1947年 の明治憲法失効まで生きつづけました。ずいぶん以前に言及したことがあるように,たとえば「国勢調査報告」が第1回の1920年分から現在と同じ府県配列となっている例があるにしても,やはりこの“明治4年の太政官布告”による配列の方が正式でした。

そして,それは単なる配列の問題だけでなく,たとえば内務省の地方官である 知事 の俸給も
 A:東京府・京都府・大阪府・神奈川県・兵庫県
 B:長崎県・新潟県・愛知県・宮城県・広島県・福岡県・熊本県
の2段階で,他の県知事のそれに加俸するような措置が取られたることもあったそうです。さらには,Aに含まれる両県を「一等県」,Bの7県を「二等県」,その他の県を「三等県」と呼ぶこともあったとか(もちろん,「一等県」の上位には「3府」がすわる)。このような区分は勅令その他,公式には存在しないはずなのですが,恐らくは内務省内のランク付けや昇進過程とも密接に関連したと思われます。

不平等条約の撤廃自体は明治の終わり頃までにほぼ成功するわけですが,実は“不平等条項”の1つである「外国人の居住と移動の制限」を撤廃することは「開港場」たる5港の“独占性”と“優位性”を失わせるものでもありました。
にもかかわらず,開港場を引き継いだ4県(函館県は「北海道庁」に統合されたので)を別格に扱うという「不平等条約の遺産」はこんな形で敗戦直後まで尾を引いていたりもしたのですね。
[54351] 2006年 10月 6日(金)18:36:27【1】hmt さん
神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった
兵庫開港と神戸との関係について[54297]「兵神市街之図」、[54322] [54339]兵庫開港の3編を記しました。
関連して、「神奈川」開港と横浜との関係について続けます。
[54340] ezekiel さんの
神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろうなあ~と思います。
の趣旨にも沿うものになるかどうかわかりませんが。

最初に、「神奈川」(実際は横浜)開港の日付から。
日米修好通商条約による「神奈川」の開港日は、条約締結の翌年・1859年の7月4日(米国独立記念日)となっていましたが、続いて締結されたロシア・イギリスとの間の修好通商条約において、切りのよい7月1日開港とされたので、最恵国条項により3日繰り上がりました。当時の暦では安政6年6月2日。
横浜開港記念日は、7月1日(西洋流の日付)だったものが、わざわざ6月2日(日本流の日付)に変更されたのですね。

「兵庫」(実際は神戸)開港は、[54322]で詳しく記したように8年半後の1868年1月1日。明治になる直前とも言える時期で、この間に、政局も治安の状態もも激変しています。

さて、地形条件に目を向けると、もちろん横浜と神戸とは大幅に異なります。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。

神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。
かつて砂洲の内側に入り込んでいた入り江は、江戸時代後期に干拓されて、横浜新田・太田屋新田・吉田新田などが開発されていましたが、本土との間には水路が残り(派大岡川)、ここに大岡川の分流の中村川が流れ込んでいました。現在の横浜市中区に、太田町1丁目~6丁目、吉田町という名を残しています。

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話書【誤記訂正】」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。
パークスの賛同[54339]を経て神戸に建設された「兵庫居留地」とは大きな違いです。

万延元年(1860)、幕府は中村川の川尻から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削。
これによって居留地は、北を海、西を内海(大岡川末端部)、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」になりました。
派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です。

[54297]で参照した講談社「日本の古地図7」(1976)には、横浜も収録されていますが、安政6年の「横浜御開地明細之図」では堀川が未開削の時代、また文久の頃と思われる「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」では、堀川開削後の島状になった横浜居留地が描かれています。

現代の地図 では、首都高速道路の石川町JCTから海岸までの間が堀川の上を覆い、石川町JCTから桜木町駅の少し南までが派大岡川の跡で、島状の横浜居留地の形がわかります。

【1】 N-H さんのご指摘[54352]により、“堀川の跡”を“堀川の上を覆い”と修正

Mapionの中心・神奈川県庁の位置には、絵図で「御運上屋舗」があり、その南側・横浜新田の中には、目立って大きく外国人向けの遊郭街(岩亀楼など)が描かれています。現在の横浜スタジアムの位置でした。開港神戸之図にも福原町遊郭がありました[54297]

そうそう、[54297]に、明治13年の地図で“兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字”と書いた部分がありました。実は印刷の解像度が低くてよく読めないものの、この年代には、もちろん「神戸市」ではあり得ません。「神戸区役所」と書くべきところを、誤記していました。

兵庫と神戸の間には、湊川や宇治川があるだけで、神奈川と横浜のように、複雑な地形条件によって隔てられるということはありません。
兵庫開港の時代には、「居留地」とは言っても、警備の厳重な「関内」を作る必要性も少なくなっていました。居留地造成工事の遅れが理由ですが、臨時の措置として「雑居地」が設定され、しかも居留地完成後も既得権として存続を望んだ外国側に応えて混住状態が維持されたくらいです。
「関内」という言葉に象徴される横浜と、特有の「雑居地」を生んだ神戸では、外国文化の流入に違いが生じたはずです。
[54322] 2006年 10月 3日(火)23:47:28hmt さん
兵庫・神戸(2)兵庫開港、そして開港場の地名「神戸」について
[18378] ニジェガロージェッツ さん
旧幕府は安政の条約で兵庫津の開港を諸外国と約束しましたが、(中略)
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。

兵庫開港の時期については、安政条約では「1863年1月1日(文久2年11月12日)」とされていました。
しかし、安政6年に神奈川などで貿易が始まってみると、物価高騰や攘夷運動が激化。この政情不安を沈静化させるため、兵庫・新潟の開港の延期を求めることになり、難交渉の末、5年間延期させることに成功しました。
一方、外国側もイギリス艦隊による鹿児島砲撃(1863)、4ヶ国連合艦隊による下関攻撃(1864)で開港反対派の薩長をたたいた後、1865年にはその連合艦隊が兵庫沖に現れ、早期開港を迫りました。

薩長には、幕府直轄領・兵庫での開港による貿易独占に対する警戒があったのでしょう。もちろん、公家たちが、都に近い兵庫の開港を嫌う気持ちもありました。孝明天皇は、異人に対する生理的な嫌悪感の持ち主だったようです。

期限の慶応3年12月7日(1868年1月1日)が近づいた3月、徳川慶喜は兵庫開港の勅許を奏請し、反対派の抵抗はあったものの、イギリスなどの外圧に耐えきれず開港に踏み切ることになり、5月24日ようやく勅許が得られました。

開港準備は勅許前から進められ、4月には(旧)生田川の川口西岸・神戸村に居留地が設置されることが決まりました。
[54297]で触れた慶応4年(1868)「開港神戸之図」には、生田川口右岸に「外国人居留地」や「御運上所」が見えます。現在も、まさに運上所の後身である「神戸税関」の存在する地ですが、ここは、文久3年から翌元治元年(1864)にかけて勝海舟の 「神戸海軍操練所」 が建設された所です。[54297]で触れた和田岬砲台と同じ時期です。

このようにして、ともかく予定通りの慶応3年12月7日に兵庫開港を迎えました。
時代背景を見ると、8月に名古屋付近から始まった「ええじゃないか」が京畿にも拡大してきた真っ最中であり、兵庫開港式にも乱舞する村人がなだれ込んだとか。

そして、2日後の12月9日に王政復古の大号令。年が改まった慶応4戊辰年、1月3日の鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府は江戸に引き揚げてしまい、兵庫・神戸は統治者不在状態になりました。
これより後は朝廷側の統治になり、閏4月の政体書 によって「県」の制度ができると、兵庫裁判所は「兵庫県」になりました。初代「知県事」に任命されたのは伊藤博文(慶応4年5月23日)。

本題に戻ると、外国人居留地の造成は、開港に間に合わず、明治政府に引き継がれた後の慶応4年6月に完成。
そのために、新政府は生田川と宇治川の間を指定した雑居地に、外国商人の居住を認めざるを得ないことになりました。

[54258] ezekiel さん
江戸期の幕末前夜までは“一集落の地名”でしかなかったが「神戸」という地名が、明治の区名に選ばれ、市名になり、日本の重要な港名になり、国鉄の停車場の名前に選ばれた理由。

「神戸」という地名が、世界的なブランドになったのは何故か?という問題を解くキーの一つとして、上記のように居留地になった場所に存在した「神戸海軍操練所」の存在にもご注目ください。
歴史のある「兵庫津」から少し離れたこの地「神戸」は、幕末前夜から開港までの10年余の間に“一集落の地名”を脱して、幕府時代に設置された公的機関の名に使われた地名になっていたのです。

隣接する「生田」であっても良かったわけです。

たしかに、この近くには「神戸」の名の由来でもある生田神社が存在しますが、そこの近世の村名は内陸の「生田宮村」(海岸の神戸村と共に八部郡)であり、「生田村」は生田川の東岸・菟原郡でした。従って、新しい開港場の名前とし、港に直結する村名「神戸」の方がより適切だったのではないかと考えます。

なお、生田川の流路は神戸開港後の明治4年に付け替えられ、明治13年(1880)「兵神市街之図」[54297]では既に東側に移っています。この1.9kmの付替工事の請負人・加納宗七の名は、新神戸駅から三ノ宮駅至る大通り(フラワーロード)に沿った町名(加納町)として残っています。ここが「神戸区」時代にも市街地の東端だった(旧)生田川の流路跡で、付替工事の後で彼に払い下げられたのですね。
[75459] 2010年 7月 8日(木)18:41:05【1】hmt さん
1868年頃の「府」 (2)慶応四年に9府、翌明治二年二月には一時的に10府になったが、七月には3府だけ
前回[75457]法令全書第3冊【149コマ】 慶応四年六月十七日 神奈川府までを記しました。
これに続いて七月に誕生した度会(わたらい)府は、伊勢神宮の神領と政府直轄地とから成り、これまでの7府とは性格の異なる 内向きの「府」 です。

そして、七月十七日には“自今江戸を称して東京とせん”という詔書【162コマ】が出され、江戸府は「東京府」と改称されました。
「東京」を漢音で「とうけい」と読むか、呉音で「とうきょう」と読むかを定めた文書はなく、現実に両方の読み方が行われたようです。

東京都公文書館の 明治東京異聞 に掲載された築地居留地地券の写真を見ると、明治4年発行のものには「TOKEI」と記され、明治20年発行は「TOKIO」になっています。同じ資料によると、旧幕時代をしのぶ人は「トウケイ」派が多かったが、いつしか「トウキョウ」が正式の読み方に位置付けられたとあります。明治30年代の国定教科書の振り仮名「トーキョー」が、この傾向を決定的にしたと思われます。

ついでに、東京都公文書館のロビー展 東京府の開庁 に掲載されている「東京府印」の「京」には、ナベブタと小の間が「口」でなく「日」になっている「亰」が使われており、漢字表記にもブレがあります。小木新造著「東亰時代」(NHKブックス)という本もあります。

「府」についての本論から少し外れましたが、慶応四年七月の奈良県改称により 奈良府 が登場した後、九月八日の改元を経て、明治元年九月二十一日には、神奈川府 から 神奈川県 へと、初の「府→県改称」があり、「府」の数は9から8に減少。五港と府との関係はまた薄くなりました。同日に 越後府 は 新潟府 と改称(延べ11)。

十月二十八日に3県を統合した 甲斐府 ができた後、翌明治二年二月に 越後府が再置されました。
法令全書第4冊 《174コマ》 には 分割とも分立とも書いてありませんが、新潟府も存続しているので、これにより最大数の 10府を記録しました。
新潟府に改名する前の(旧)越後府と区別するために、新潟が除外された再置越後府を「越後府2」と記しておきます。
また、江戸府・神奈川府・(旧)越後府があるので、「府」の数は延べ13になりました。

しかし、僅か半月後には五港の一つを管轄する新潟府が新潟県に変ります。度会府・奈良府・甲斐府・越後府2など内向きの府が増え、一方では開港場の神奈川・新潟が県になったことは、府の性格の変化を示しているようです。

前回、新潟開港に先行した「越後府」を奇妙な存在と書きましたが、この時期の越後は北越戦争の最中であり、越後府が最初に設置された地も、新潟ではなく高田だったようです。
慶応四年五月二十九日【139コマ】という越後府の設置日は、新政府軍が 武装中立を主張する長岡藩家老・河井継之助との小千谷談判を決裂させ、五月十九日に長岡を占領した直後という非常時ですから、この「府」は 普通の行政組織ではあり得ません。
この後、七月には列藩同盟軍が長岡奪回、すぐに新政府軍が再占領、そして新潟も占領と続き、八月には戦いの帰趨が決しました。

既に記したように、「越後府」は、明治改元後の九月二十一日に「新潟府」と改称。明治元年十一月九日(1869/1/1)、延期していた新潟開港。
この頃には会津戦争も終結し、「鎮将府」が廃止されています【215】。
いきなり、聞き慣れない「府」が登場しましたが、これは江戸を東京と改めた七月に、東国(駿河甲斐以東13国)平定のために設けられた臨時の組織で、普通の「府」とは違うようなので、ノーカウントにしておきます。

翌明治二年二月八日に「新潟府」から分離した「越後府2」により、「府」の数が最大の10になったことは、既に記しました。
越後府2は 水原に設けられ、こちらが下越の行政中心地になり、同月内には柏崎県も合併して中越・上越を含む越後のほとんどを管下にしました。
既報のように、開港場の新潟府は新潟県に改められ、兵庫・神奈川に続き、3開港場が「府」でなくなりましたが、更に六月になると長崎府が長崎県になり《第4冊152コマ》、七月には箱館府も廃止《176コマ》されて、府は五港と無縁になりました。

そして、七月十七日には「府」の呼称を京都府・東京府・大坂府に限定する 太政官布告 が出されました。京都府が東京府よりも上位にあることに注目。

実は、この明治二年という年は、日本の首都が事実上京都から東京へ移った時期なのです。
前年の七月に江戸が東京になったことは既に記しました。ここで一応は東西二京という形ができましたが、事実上の都はまだ京都で、明治改元後に行われた明治天皇の東京行幸も、世間からは一時的なものと受け止められていました。

明治二年になると、再度の東京行幸が行われます。今回は天子様の「顔見せ」出張ではなく、仕事をするための単身赴任でした。
法令全書第4冊 《86コマ》には次のように記されています。
東京 ご滞輦中太政官彼表へ御移に相成候に付諸願伺等来る四月朔日より東京へ可差出…

天皇の行幸中は太政官も東京に移り、京都には留守官を置く臨時の首都移転体制。京都の人々に対しては、戻ってくるから心配するなという告諭を京都府から出させたようです。
明治二年七月十七日時点では、都は京都という建前ですから、京都府・東京府・大坂府という順序は当然なのでした。
でも、十月には皇后も東京に呼び寄せ、天子様は東京に居着いてしまいました。

[7717] ken さん
「大阪、京都を一介の県にするなんて、とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
という記事のように、東西二京、それに既に消えていますが大坂を都にする大久保案もあった大坂を加えた三大都市は、まさに特別な存在なのでした。

明治二年七月の内に、奈良府・度会府・甲斐府は 奈良県・度会県・甲斐県に改称。
そして複雑な経過をたどった越後府2は、新潟県と統合して水原県へと変りました(この時に佐渡県を分離、翌月中越・上越5郡を柏崎県2として再分離)。

このようにして、京都府・東京府・大阪府の三府だけが残ったのでした。


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