[20399] かおらい さん
[20459] 太白 さん
少なくとも、戦前においては旧青梅街道沿いでない河辺は、相対的に発展していなかったのではないでしょうか。
1923年修正測図の地図によれば,「相対的に発展していなかった」どころか,現在の河辺駅周辺は一面の桑畑だったようです。河辺の本来の集落は現在の住居表示で言えば,「ハケ下」の河辺町1~3丁目。ハケの湧き水を当てにした,このあたりではごく普通の農村集落であったように思われます。
青梅線が通っているのは,ハケの上,多摩川に並行して発達する河岸段丘上で,こちらは水の便が極めて悪いために集落は形成されず,明治以降は一面の桑畑となったものです。養蚕・生糸産業が衰退した戦後は「普通の畑」になりますが,それであったために(土地があり余っていたから)ここ30年ほどの市街化の舞台となって,さまざまな公共施設が開設された,ということでしょう。
(なお,武蔵野台地西半は,確かにかつては青梅を“要(かなめ)”として多摩川が形成した扇状地でありました。しかし,その後の地殻運動でこのあたりは隆起をしてしまい,多摩川の水面からは一段高い台地になってしまいました。もはや多摩川による新しい土砂の堆積を受けることはありません。“かつての扇状地”が台地化したものを「隆起扇状地」と呼びます。広い分類による「洪積台地」に含まれます。)
ちなみに,当時の青梅鉄道に「河辺駅」も「東青梅駅」もありません。「小作駅」の次がもう「青梅駅」。
青梅は,少なくとも江戸時代後期以降はこの地域の要衝でありました。
「青梅街道」はもちろん青梅で終点なわけではなく,多摩川をさらにさかのぼり,遠く甲州の塩山方面に通じていて,甲州街道のバイパスとしての性格を持っていました。また,ここからは東京(江戸)だけでなく,豊岡(入間市)や飯能方面への街道も分岐していました。
青梅は奥多摩渓谷から平野への出口に位置し,多摩川上流域の山村で生産された物資の集散地として発展しました。「谷口集落」と呼ばれるものの1つです。基本的には商業集落であり,ハケ下の農業集落である河辺などとは性格を異にします。
1923年ごろの市街地は青梅街道に沿って,現在都バスの車庫のある辺り(金剛寺というお寺があります)から都立農林高校への入り口あるあたり(青梅街道と奥多摩街道の分岐点)まで。
現在でも“小さな地名”をよく保存しているバス停の名前を参考にすれば,青梅駅入口交差点の西側に「上町」「仲町」という停留所があります。おそらくはこのあたりが青梅の中心であったと思われます。
青梅駅は,当時の青梅の市街地中心に最も近い(けれども密集地の北縁よりも外)位置に設置されたものと考えてよいと思います。
付け加えるならば,青梅町は「西多摩郡」の設置以来,郡役所が置かれていました。1923年当時,郡役所は隣接する町役場ともども青梅駅の北側,現在の市立中央図書館のあたりにありました。