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落書き帳

星野仙蔵

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[19388]2003年8月28日
hmt
[22395]2003年11月30日
hmt
[39241]2005年4月1日
hmt

[19388] 2003年 8月 28日(木)23:51:26hmt さん
上福岡
はじめまして。
隣接する「上福岡」と同様に、市名に昇格?する予定の駅名を持つ「ふじみ野」(この地名は10年前の駅開設時から)の住人です。
[18247]
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
前身の福岡村は5村の合併で生れましたが、その中に「上福岡村」の名はありません。
歴史的には、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された福岡村(本村)が、約2km下流の自然堤防地帯(下シモ)にも進出。17世紀に支流の福岡江川北側に開発した福岡新田が成立。18世紀に3集落の間に更に中福岡村が成立。
明治14年測図の迅速測図を見ると、福岡新田と中福岡村(両者逆位置に記入)の北東、下福岡地区に福岡村と記され、本村には地名が記されていません。しかし、ハケ地区と滝地区とから成る本村こそが「福岡」の名にふさわしい台地であり、下福岡、中福岡、福岡新田は沖積地です。福岡村成立後の明治39年測図5万分の1地形図も、大正3年鉄道補入で「かみふくをか」駅はあるものの、「上福岡」の地名はありません。地形図に「上福岡」の地名が登場するのは大正13年測図 昭和元年12月25日(昭和の初日!)発行の2万5千分の1地形図で、滝地区の北側に見えます。
このような経過から考えると、「上」は中福岡、下福岡との対比から、上流側にある本来の「福岡(本村)」に付加された言葉のようです。では、どの時代から? 明治の村名や地図に使用されず、大正3年の駅名に使われていることから、明治後半かと推察しながら、上福岡市立歴史民俗資料館 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_4.htm で尋ねてみました。その結果、僅かながら江戸時代から「上福岡村」の使用例があるとの教示を受けました。長宮氷川神社文書H5-1「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」。
この「上福岡」が1914年に駅名に採用されるにあたっては、東上鉄道を推進した星野仙蔵代議士の意向が働いていると思われます。星野家はもともと福岡河岸の回漕問屋福田屋を営んでいましたが、河川改修と鉄道の出現で新河岸川舟運を見限りました。福田屋の建物は福岡河岸記念館として公開されています。 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_1.htm
「東武鉄道・駅長さんが書いた駅名由来(平成4)」という本があるようですが、見ていません。
更に1972年に市名に採用されたわけですが、これについては、上福岡市教育委員会市史調査報告書第19集「20世紀を語る古写真―上福岡and新河岸川舟運+東上線」188頁に「市の名称選定風景(昭和46.10.3)」の写真があり、次の説明文がありました。
市の名称を募集し、上位5種の「上福岡」「武蔵福岡」「東福岡」「新福岡」「上岡」の市名の中から市制審議会で総合的に判断して現在の「上福岡」に決定する。
32年前にも同じことをやってたんだなあ。
[22395] 2003年 11月 30日(日)18:57:11【1】hmt さん
お久しぶりの上福岡です
この落書き帳に出会ったきっかけは、ふじみ野2市2町合併が議論されていた頃の検索からで、嵌り込んで書き込みを始めたのは3ヶ月前の「上福岡」地名論議でした。上福岡市の名も、目出度く?残ることになったので、少し新資料を交えてまとめておきます。

[19388] では「市の名称選定風景」の写真説明を紹介しましたが、より公式の資料である、福岡町公報113号(上福岡市史資料編第4巻140頁)に、新市名の公募結果と決定手順が載っていました。
応募総数734通、市の名称206種、上位5点は、上福岡市215通、武蔵福岡市93通、東福岡市52通、新福岡市13通、上岡市12通。
これを市制審議会で検討し、市名に対する郷土愛、象徴性、知名度、読み具合、書き易さ等を総合的に判断し、他を圧倒して上福岡市(かみふくおかし)と決定し、町長に答申した とあります。この後、町議会の議決を得て決定し、知事の認可を得ることになっている由。

この記事には現れていませんが、福岡県福岡市との同名回避は当然の要件であり、私鉄駅名由来であることも公式には書けないので、「象徴性、知名度」という言葉で置き換えたものと推測します。

その駅名ですが、「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」は、「大正3年5月開設。駅名は公募によって付けたものである。九州の福岡に対し武蔵福岡をという案もあったという。」と記しています。星野仙蔵氏は停車場開設にあたり 1,600円(停車場敷地代1,920円80銭の時代です)というダントツの額を寄付していますが、ボスが決めるのでなく、公募駅名だったことには感心しました。

ついでに、上福岡市史資料編第3巻で「既定線ヲ本村内ヘ変更ニ要セシ諸費」1,100円が計上されているのを見つけました。東上鉄道の予定路線を川越街道沿いから、少し新河岸川寄りに変更したものと思われます。侵食谷に邪魔されずに台地上を通りたい鉄道側との間の妥協の結果が現在の路線なのでしょう。

停車場は亀窪道が鉄道と交差する場所に作らました。ここは「ハケ」[19232] の下に位置する福岡河岸と川越街道亀久保とのほぼ中間点で、それまで集落のなかった地域です。「上福岡」は明治大合併の前にも後にも、正式の村名になったことはありませんが、[19388]で挙げた文書から、少なくとも18世紀には通称として使われていたことがわかります。福岡河岸付近の福岡本村は、中福岡村や下福岡地区に対して新河岸川の上流に位置します。

これで、福岡地区では上流に位置する通称地名としての「上福岡」>駅名>市名という連鎖が一応でき上がったと思います。福岡県との同名回避だけからすると「武蔵福岡」も対抗馬でしたが、いかにも新出来の複合地名よりも、通称ながら地元で長く用いられてきた「上福岡」の方がすんなりと受け入れられたということではないでしょうか。

前記「別冊マンスリーとーぶ」ふじみ野駅の項には、「市名の冠をいただき、他社線にも同名駅がなく、明るくなじみやすいということから駅名になった。」とありました。やはり鉄道会社としては、中央本線富士見駅などを意識したようです。これは [22008] の補足です。


【1】 追記
「別冊マンスリーとーぶ」の「九州の福岡に対し武蔵福岡」との記載は、同一駅名回避論というより、実務上の混乱回避でしょう。九州の福岡市は博多駅ですから。もっとも、駅名としては北陸本線福岡駅(富山県)の存在も問題になります。また、市名公募の件と混乱している可能性もあります。
[39241] 2005年 4月 1日(金)12:41:07【1】hmt さん
東上鉄道「上福岡駅」の由来
[39176] kenさん
日本鉄道と、官営鉄道に、九州の福岡以外の場所に、堂々と「福岡駅」が2つ並立してあったのなら、新出来の東上鉄道なる郊外電車が、3つめの「福岡駅」を作っても、場所も離れていることだし、格段もめることもなかったような気もしますね。
そもそも東上鉄道の過剰防衛の産物だったのか?

日露戦争後に行なわれた幹線鉄道17社の国有化の結果、日本鉄道の「福岡」(1891年、岩手県)と官設鉄道の「福岡」(1898年、富山県)のように、同じ企業体である鉄道院(1908~1920)の内部に同名の駅が50組以上できてしまいました。
東北本線の駅は1909年に「北福岡」に改名というように、一応は同名駅解消への努力をしていたようですが、なかなか折り合いがつかず、「大久保」(山陽本線、中央本線、奥羽本線)のように3つの同名駅が現在まで共存したままという駅もあります。
#近鉄京都線の大久保駅は除外。

そんな状況の中で、1914年(大正3年)の東上鉄道開業。
この鉄道が、kenさんの言われるように、本当に “郊外電車” だったのなら、岩手県や富山県の「福岡駅」との同名を気にすることはなかったのかもしれません。

しかし、そうでもないようです。
この東上鉄道、第一期の免許区間は東京の大塚辻町から川越・高崎を経由して上州の渋川までと、名前の通り東京と上州とを結ぶものでしたが、第二期として越後の長岡まで全長237kmを計画する幹線鉄道でした。
実際には、第一期区間でさえ完成させることができず、現在では、東上線の「上」の字が浮いてしまっていますが。
池袋付近の一部を除いて、軽便鉄道法でなく、私設鉄道法に基いて建設されたことも、本格派をめざしていた証拠です。

東上鉄道は、鉄道国有法の例外である“一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道”ぎりぎりの大計画をふまえた幹線鉄道であり、全国的な連絡運輸(特に貨物が重要)もありますから、鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。
なお、電化は1929年ですから、上福岡駅開業当時はもちろん“郊外電車”ではなく、蒸気機関車が客車(並等運賃は1マイル2銭、特等3銭)や貨車を牽引する「汽車」でした。

そこで院線に2つあった「福岡」[39170] (ゆうさん)との同名回避は必要だったとして、なぜ「上福岡」なのか?

本題に入る前の予備知識として、「上福岡」と同時に開業した東上鉄道「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
「板橋」駅[18020]は、それより僅かに下流側(巣鴨村・板橋町・滝野川町の境界)ですが、これは北品川より北の高輪に「品川」駅がある[38442]ようなものです。
#当時の下板橋駅は、0キロポストある留置線の場所で、大戦末期に移設した現在の下板橋駅は板橋区でなく、豊島区です。

鉄道開通前の明治14年迅速測図を見ると、駅になった場所は雑樹林で、その周囲は畑や松林。最も近い集落は川越街道沿いで、宿場町だった大井村に属する鶴ヶ岡や亀久保です。「大井」駅にしても中央本線(現・恵那、岐阜県)に同名駅があります。
#同じ頃、東京に「大井町」駅が誕生。
それよりもなによりも、この東上鉄道の誘致に尽力し、用地取得にも尽力した福岡河岸の星野仙蔵[19388]としては、駅所在地でもある福岡村の名を使いたいところです。

川越鉄道(現・西武鉄道)川越駅との同名を回避する「川越町」駅と同じ流儀で、「福岡村」駅も一つの案だったのではないかと想像しますが、江戸時代から通用していた「上福岡」が採用されました。

「上福岡」とは、本来は、新河岸川沿いの下福岡や中福岡村に対応して、上流にある福岡河岸付近の福岡本村(「ハケ」[19232]と滝の2地区あり)のことでしょう。非公式ながら「上福岡村」という使用例(長宮氷川神社文書[19388])もあります。
「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」

その「上福岡」が、福岡本村の勢力圏にある亀窪道沿いの台地(ここに駅ができた)に拡張して使用されることは、自然のなりゆきと思われます。

このようにして、大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。駅付近に現れた僅かな家屋記号は、東上線の重要な役割だった貨物輸送に関係する運送店や倉庫かと思われます。
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。平成になっても、しばらくの間、昭和64年と印刷された特許公報が発行されていたことを思い出しました。

この地形図では、滝地区の北側に「上福岡」の地名も現れ、「中福岡」、水田を隔てて「下福岡」とのトリオが 新河岸川の南側に並びました。参考までに、江戸時代の“三福岡”とは、福岡村・中福岡村・福岡新田の3村でした。
たまたま西から東へと上中下が並んでいますが、もちろん“この川をたどれば京都”というわけではありませんから、支配者の内裏・都を基準にする上下(「お上」の感覚で名付けた官製地名[19527])とは、無関係です。念のため。

TOBULANDや「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」[22395]には、駅名公募説や武蔵福岡案が記されていますが、新市名の公募(福岡町公報113号[22395])と混同している可能性があり、鵜呑みにするのは危いと思います。“九州にあるため断念”とあるのが、駅名でなく市名選びである何よりの証拠。
より信頼できそうな「東武鉄道百年史」(1998)269頁には、駅名が行政上の名称に先行したことは記されていますが、駅名公募などという現代的な行事?があったことについては、全く触れておりません。

「上福岡」の由来となると、ついつい長文を書いてしまう準地元住民 hmtからのレポートでした。


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